日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……



テントロック ――星部長と朝子とツキムシ
photo by LCB.BLAND


(作)青砥 十 (sleepdog)


 星さんが次長から部長に昇格して二週間。みんなは部長、部長と当たり前のように呼ぶけれど、朝子の気持ちの中では絶対に「ほしぶちょう(星部長)」なのだ。ちょっとイントネーションを変えると「干しぶどう(ほしぶちょー)」みたいで、部長の右目の下にあるホクロがちょうどいい感じに干しぶどうっぽくて、すっかりファンになってしまった。
 こんな朝子は狂ってますか?
「霜降さん」
「はいっ!(星)部長!」
 朝子は新人らしく元気のいい返事をして、捺印をもらった書類を受け取りに行く。慌てたせいで、机に膝頭をちょっと打った。でも、星部長だからそれもOK。
 星部長は俵型の温和な顔で、トム=ハンクスにもし日本人のお兄さんがいたらちょうどこんな感じだと朝子は思う。性格は几帳面で、机の上の整理整頓は欠かさない。けれども、朝子は隙あればいつもチャンスをうかがっているのだ。今度こそ、机の上に干しぶどうの袋を置いておいてやる。そしたら、もしかして星部長がうっかり間違って書類に干しぶどうで捺印したりしないだろうか。ぐにゅっと。
「それと、在庫の確認なんだけど――」
 ああ、ダメッ、そんな純朴な目で普通に仕事の話をしないでください。星部長、あなたの目の中にはすでに干しぶどうが二個並んでいるのです。ぶよぶよの粒が。
「霜降さんて、明日は直行だったっけ?」
「はいっ。(そうであります! 星)部長!」

 翌朝、電車のホームでリポDをぎゅうっと一本空けて、久しぶりに銭湯立ちをしてみた。腰に両手を置くあれ。背筋が伸びて胸がぴんと張った感じになる。つかの間の高揚感。
 朝子はIP電話を法人に販売する代理店に勤めている。内定が出たのはここだけで、こんな浮ついた自分でも拾ってもらえたことに心から感謝している。細かい機械が好きな人が会社に多いなか、ビデオの配線さえも死ぬ気で挑む朝子は、親譲りの明るさに助けられながら毎日を何とか乗り切っていた。
 会社に入って初めて一人暮らしの身になったが、半年経った今でも時々無性に寂しい夜がやって来る。何度か危なくなった夜もあった。けれども、この前サンダルとジャージで近所をうろうろしていた時に、四台並んだ自販機に隠れながら、いかにも粘っこい感じで営業している小さな銭湯を発見したのだ。朝子は思わず小躍りした。
 例の無性に寂しい夜は週に二度やって来るので、その夜は迷わず銭湯の厄介になる。新入社員の薄給では予算の関係上、それが限界。(右手を上げ――だって、他にもいろいろ買うものありますから! 何であたしのときバブルじゃないのよぉっ、斬りぃ!!)
 ただ、無性に寂しい夜のほうもそういうフトコロ事情を分かってくれて、二度までにしてくれる。しかも、銭湯の定休日は外してくれるし。そのへんは何ともありがたい。
 駅構内に音楽が流れ、アナウンスが入る。朝子が乗る電車がホームに近づいてきた。リポDの空きビンをゴミ箱に入れ、「うしっ」と胸の中でつぶやいた。今日行く一件目はまだ二度目の訪問だ。顔も覚えられてないかもしれない。あたしの背が小さいってかぁ! えっ、地味な顔ですか?! 一年目のうちは髪の色を抑えてるんです!……という空しい毒吐きはリポDの力で封じ込め、アコムの子にだって負けない笑顔をつくる。さあ、行こう。
 朝子が並んだ乗降口の列には、中年のサラリーマンと、黒い詰襟の制服を着た男子中学生と、それから大学生っぽい仲良し五人組がいた。男三、女二でオレンジデイズの割合だ。旅行雑誌を見て楽しげにしゃべっている。くだらないと分かっていても、それとこれがくっつくとか、あいつは片思いで終わりそうとか、五人の関係性を妙に勘ぐりたくなる。あいのり視聴者の気分。ほら、みんな、ラブトレインが来たよ。ルールは分かってる? 告白する時はあの白い手袋した運転手(JR)に言うんだよ。
 電車が滑り込んでくると、前に並んでいた中学生が急に不審な動きをした。それは本当に唐突だった。何の因縁もなく、目の前にいる中年サラリーマンの背中を――
「危ない!」
 とっさに叫んだのは、五人の中にいた一人の男の子だった。中学生を押しのけて手を伸ばし、ホームから落下寸前でよろめいていたサラリーマンの腕を掴んだ。二人の鼻先を電車の先頭車両が大きな音を立てて通過していく。サラリーマンは無事だった。助けた大学生の腕の中に抱き止められ、ずるずると腰から砕けていく。友人たちも慌てて駆け寄り、口々に声をかけた。
 ちょっと、犯人は放っておいていいの――朝子は中学生の姿を追う。もう駆け出していた。というか、後ろ姿をよく見ると、中学生かと思っていたら、そいつはゴミムシを直立させて人間並みの大きさにした感じの黒い生き物だった。
「ツキムシだぁっ!!」
 ホームにいた別の男の人が叫んだ。みんな振り向くその中を、ツキムシ(突き虫?)と呼ばれた生き物は二本の足で器用に走った。そして、反対側のホームに向かって行ったかと思うと、階段を下りて逃げるわけでなく、背中の黒い殻を開き、羽を広げてビィィィィ!!と空に飛んで行った。
 ……朝からすごい光景を目撃してしまった。虫の羽音が長く鼓膜に残った。
 その後の訪問は何にも頭が回らず、朝子は結局、星部長から捺印をもらった見積もりを相手に出し忘れて社に帰った。だって――だって……。

 帰社すると早速、星部長から「どうだった?」と先方の反応を聞かれた。見積もりを出しに行ったのだから、出し忘れたと答えるのも無理がある。いえ、ツキムシが――って何なのさ、その答え。相手は部長だよ。とにかく、何をどう説明しらいいのか朝子は困り果てて、星部長の横でしばらく突っ立っていた。
「あれ、感触良くなかったんだ? この前はあんなに乗り気だったのになぁ」
 机の上を見ると、星部長はヤクルトを二本も飲んでいた。きっと連続だ。次長の頃から大好きなのだ。ああ、何億という乳酸菌が星部長の胃腸の中をあくせく駆け回っている。がんばれ、乳酸菌。戦え、選手会長。
「……見積もり、出してこなかったんです」
「え、どうして?」
 朝子はとっさに言い訳を考えた。
「アポ取った時間を伝え間違っていて、いらっしゃらなくて……」
 星部長は、ふうと溜め息をついた。今ので納得してくれたのだろうか。さすがに怒られている時は真顔に見えている。シンキングタイムに入ったので、一秒に一個ずつ団子鼻に干しぶどうを並べてみようか、などと考えたりはしない。
 それにしても――ツキムシめ。くそぉ、あいつめ。星部長を見習えよ。乳酸菌で毎日お腹をきれいにしてるんだぞ。あの腹黒虫め。お前がみんな悪いんだよぉ!
 星部長は短いお説教をした後、足元のゴミ箱に空のヤクルトを捨てた。朝子もツキムシへの恨みをがばっと握って、投げ捨てたい気持ちだった。
「よそも出してるかもしれないから、二三日中に必ずもう一度持ってくんだぞ」
「はい、すいません。(星)部長」
 席へ戻ると、すかさずまわりの先輩たちが声をかけてくれた。ああ、何ともありがたい。心がほんわりとあったかくなる。そうだ、きっとツキムシは孤独なんだ。だからそんなに心がすさむんだよぉ!
 ……いや、群れていても困るな。群れは怖い。
 厳しい表情で押し黙っている朝子に、星部長が遠くから「霜降さん、ドンマイドンマイ! さあ、一日張り切って行こう!」と丸山茂樹みたいな声をかけてくれた。朝子は照れ臭くて、へこへこと何度も頭を下げた。

 仕事の合間に、誰にも見られぬようこっそりと「ツキムシ」をネットで検索してみると、驚いたことにかなりの数がヒットした。書き方はやはり「突き虫」だ。ツキムシ被害対策サイトまである。被害で一番多いのは階段か。これは範囲が広いなぁ。二番目は電車のホーム。三番目は行列。うわぁ、最悪。四番目は駐輪場。もっと最悪。あの理不尽なドミノ倒し被害はやつ(やつら?)の仕業だったのか。くっそぉ。
 ツキムシは神出鬼没で、まだ一匹も捕獲されていないみたいだ。目撃写真のコーナーがあったが、全部ゴキブリみたいで吐き気がし、朝子は即バックした。とにかく、どこにも一匹とは書いてない。本気で群れなのかもしれない。当然と言えば当然のごとく、宇宙人説、生物実験失敗説、突然変異説、ロボット実験説など憶測が飛び交っている。
 発生源はどうでもいいが、やつはやることがせこい。せこすぎる。あまりのせこさに、朝子は腹が立ってきた。何であんなやつのせいで、星部長からお小言をもらわなきゃならないのだ。予定が変わって、昨日に続き今夜もおさびし銭湯ナイトになりそうじゃないか。連続で銭湯行くなんて風呂が壊れた時だけなんだよぉ!
 ――怒り震えながらサイトを見続けていると、朝子の目に「特別対策チーム名簿」という字が留まった。大学教授や、聞いたこともない研究所やNPO、そして民間ボランティアまでずらっと名前が並んでいる。総勢三十人を超す立派な大人たちがツキムシ捕獲に本気で取り組んでるのだ。確かに捕まえて欲しいが、これはすごい。専用のグループメールまで作ってある。「目撃情報や被害報告をお送りください」と。まじだ。うわぁ……。ちなみに今朝のやつは誰か報告しただろうか。確認しようがないが、朝子が報告する必要もないだろう。
 ざっと名前を眺めていると、民間ボランティアの最後のほうに「星一得」という名前を見つけた。朝子はスタンガンにやられたみたいに激しくのけぞった。変な声が出そうになった。嘘だ。嘘でしょ?
 朝子の知っている星一得の様子をちらっと確かめる。受注を決めて帰ってきた先輩となごやかに談笑している。干しぶどうの国の王様。
 星一得。
 最初これを知ったとき、ちょっとした衝撃があった。あのちゃぶ台親父と一字違いだが、中身は決定的に違う。ロマン輝く「星行っとく?」なのだ。何かすごい名前だと感心してしまう。
 それにしても、この名前、同姓同名の人間が果たしてこの世にいるだろうか。ちなみに「霜降朝子」はいた。ネットで調べたら、女子レスリングインターハイ準優勝の子がいた。強いんだなぁ。弱いよりはいいけれど、少し複雑な検索結果だった。
 そして、試しに「星一得」を検索すると、ツキムシ被害対策サイトだけにヒットした。これ一件のみ。うわぁ……。嘘であってほしい。捕獲だよ――捕獲。仕事が終わったら、でかい虫取りアミを持ってどっかへ行ってるの、星部長? 干しぶどうをエサにしたって寄ってくるのは蟻くらいだよ。あのでかいやつは来ないよ。
「霜降さん」
「はいっ?!」
「悪いけど、ちょっと受付にお客さんが来てるから、応接室の三番にお通ししてくれる? あと、お茶も」
「はい。(星対策)部長」
 朝子は急いでサイトを閉じ、立ち上がった。机にまた膝頭をぶつけたが、それどころではなかった。まさかお客さんて、ツキムシ対策本部関係者の人だったら――? 「もう少し人員が必要だから、あなたの部下をぜひ強制的にでも参加させてください」とかいう打診だったら? 星部長、あなたの部下になって楽しかった日々はもうこれで終わりなのですか? あなたはやっぱりツキムシ捕獲に人生を捧げるのですか?
 朝子は肩を落とし、残り半日まったく仕事に身が入らなかった。

 星部長への忠誠心(というか要はファンなんだけど)が揺らいでから一週間が過ぎた。
 例の出し忘れた見積もりは翌日持って行き、社内の稟議にかけますという返答をもらって帰った。星部長はいつもの笑顔で「いい返事が来るといいなぁ。一応、三日待って何も言って来なかったら、こっちから連絡入れるんだぞ」と言ってくれた。そう言う星部長は、ツキムシ捕獲に挑んでからどれほどの日数、結果を待ち続けているんだろうか。
 あれ以来、ツキムシは一度も目撃していない。ただ、駅のホームや歩道橋や駐輪場に一人うろついている中学生の姿を見ると、ツキムシじゃないかとつい疑ってしまうのだが、汚いニキビ顔を見届けると、妙に安心する。
 そしてまた、この一週間、朝子が銭湯へ行く回数は減った。というか、まったく行っていない。星部長とツキムシの長い戦いを想像すると、夜が何も寂しくないのだ。心の隙間をツキムシなんかに埋められたのは癪に障るが、星部長が銭形警部でツキムシがルパンだったり、星部長がラムちゃん(無理を承知で)、ツキムシが諸星あたるだったりする。基本的にマンガ頭なので仕方ない。
 朝子は次の日から星部長の言動を観察してみたが、さすがは部長職、なかなか尻尾を見せない。年季が違う。ツキムシ対策本部の会員証(サイトによると発行しているらしい)でもあればいいが、財布をあさるのは不可能に近い。
 気になるのは例のグループメールだ。自宅じゃ緊急対応できないだろうから、絶対に会社のメールアドレスを入れてるに違いない。朝子はそう読んだ。たまに先輩たちが出払って部長と二人きりになる時がある。そのチャンスに一度、星部長が席を外した隙にメールボックスを見ようと狙った。だが、その作戦は北島康介のガッツポーズのスクリーンセーバーに阻まれてしまった。何という厳重なガード。朝子は悔しさに足を踏んだ。そして、家に帰ってまた夜通し一人作戦会議だ。こんなこと自分の同期にだって相談できない。
 そうして、ツキムシの正体はおろか星部長の裏の顔も暴けないまま、無為に一週間が過ぎ、薄曇りの朝が来た。とても風の強い日だった。台風が近づいているのだ。朝子の気持ちも荒れ模様だった。いま、あのツキムシより心がすさんでいるかもしれない。噛まれればきっと相手を噛み返すだろう――何だか、そんな心境だった。
 もう、すべて諦めるべきか。むう、このまま霜降朝子は探求力も解明力もない一介のしょぼいOLになってしまうのか。やはり「星一得」はこの世に二人いたんだ。そういうことだよ。朝子、もうそんなに思い詰めるなよ。
 空しく自問しながら会社のビルの前まで来ると、ひゅおおおっと強い風が吹き、せっかくセットしてきた髪をむちゃくちゃに舞い上げた。もうっ!
 前髪をいじったとき、視界の端に何かがキラリと映った。そして、
 キィィィィン――!!
「えっ、なに?」
 朝子は肩をすくめた。すぐそばで甲高い金属音が鳴り響いた。歩道の上に銀色の金属片が派手な音を立てて踊っている。ネジみたいだが、それよりもっと大きい。幸い誰にも当たらなかったが、当たったら結構痛いだろう。
 朝子はビルを見上げた。窓ガラス掃除の人が何か工具を落としたのかもしれない――が、誰もいない。どこも窓は開いてない。
 え、どっから?
 朝子は道に転がる金属片を拾った。棒の先端に丸い輪っかが付いている形の金具だった。何だろう……すぐには見当が付かないが、朝子は一度拾ってしまったので、自分が道に捨てるわけにも行かず、ビルの管理室に落し物(守衛のおじいさんにどう説明すればいいのか謎だが)として届けようと、かばんに入れた。出社時間の直前で、管理室には昼休みに行くことにして、エレベーターのドアに小さな体を素早く滑り込ませた。

 金具には小さく英単語が刻まれてあった。読めない。朝会が終わり、こっそりネットで調べてみる。また多数ヒットした。なんと、キャンプ用品のメーカーの名前だった。
 キャンプ用品?
 なんでビルの上からそんなものが落ちてくるの。どうも金属製の杭みたいに見えるけど……朝子は唇をとがらせる。まぁ、守衛のおじいさんに渡しちゃえばいいか。
「霜降さん。遅くなって悪いね」
 浮かない顔をしていたところ、星部長に呼ばれた。他の先輩たちの用件が終わったみたいだ。朝子は、一週間前に出した見積もりに対しお客さんから値引き要請を受け、星部長に相談をしていたのだ。用事はやはりその話だったが、今朝は星部長の様子がおかしい。妙にそわそわしている。カルシウムや鉄分の不足には、干しぶどうがいいと多分みのもんたも堺正章も言うと思う。やっぱり一袋要ります? ヤクルトとの相性も案外悪くないと思いますよ(試してないですが)。いかがでしょう、星部長。
「じゃ、よろしくね」
 いつの間にか話は終わっていた。というか、しゃべっている星部長本人が上の空だ。窓の外をしきりに気にしている。洗濯物干しっぱなし? えっ、まさか自宅の庭でぶどうを干しっぱなし? ああ、ダメッ、そんな収穫を心待ちにするような満面の笑顔で額の汗を拭かないでください。冗談です、すいません、星部長。
 朝子は頭の中の太陽を振り払い、席に戻って仕事を再開した。先輩の取ってきた注文書のファイリングや、仕入れ管理表の更新、新人の仕事は先輩たちの手柄をまとめる仕事が多い。自分でなかなか思うように注文が取れないのがちょっと寂しい。最近、星部長とツキムシのネタもそろそろ限界が来ていて、また今夜あたり銭湯の厄介になるんだろうかと溜め息をこぼした。
 仕事が一段落し、時計を見ると十一時半。ああ、お昼休みになったら、ビル管理室に行かなくちゃいけない。拾ったはいいが、もしいろいろ聞かれたら結構面倒臭いな、と朝子は思う。あんたそれ、いったい何なのさ。杭なんて要らねえよ、秋。……と返されたら困る。朝子は金具をひとまず財布に入れた。
 そのとき、突然誰かの携帯が鳴った。うわ、はなわの「佐賀県」の着メロだ。もう今は「ガッツ伝説」なのにぃ。朝子は先輩たちの顔色をこそっと確かめたが、誰も動く気配がない。――あ。
 星部長が携帯を取り出して、大真面目な顔で画面を確かめていた。メールみたいだ。いや、おかしい。星部長の着メロはカーペンターズの曲のはず。――え、指定着信音? まさかツキムシ対策本部のグループメールなの?!
「すぐ近くだな……」
 星部長は渋い声でそうつぶやいた。他の先輩たちは聞いていないが、朝子の視線はすさまじいほど釘付けだった。やっぱりツキムシが出たんだ!
「ちょっと席外すよ」
 星部長は部下たちにそう告げて立ち上がった。机の引き出しから鍵を取り出しポケットに入れる。えっ、まじだ! 今度こそ本当に出陣なんだ。ああ、サンダーバードのテーマソングが頭の中に鳴り響く。
 颯爽とオフィスを出て行く星部長の後ろ姿を盗み見ながら、朝子もたまらず立ち上がった。後を追う。理由なんてない。だって、霜降朝子はあなたの部下、いいえ、ファンですから! ツキムシ退治、心の底から応援してますからっ!

 廊下に出ると朝子は柱に隠れ、星部長がエレベーターに乗るのを見届けた。下へ向かうと思いきや、どんどん上へ昇っていく。やがて屋上で止まった。あの鍵は屋上の? まさか屋上に装備があるんですか?! 特製超合金スーツとか。朝子も隣のエレベーターで必死に追う。屋上へ着くまでの時間がじれったくて仕方なかった。
 エレベーターを下り、屋上へ出るドアを開いた。普段は鍵がかかってるのに、やっぱり開いた。屋上に出ると、分厚い突風が朝子の顔をはたいた。台風が近づいているだけに、本当にすさまじい。その狂風の中、星部長のライトグレーのスーツ姿が鉄柵のそばに仁王立ちしていた。
 ――いや、それだけじゃない。もうひとつ人影がある。一瞬ツキムシかと疑ったが、よく見れば全然違う。紺色のスーツを着た男の人だ。その人は、鉄柵の向こう側に立っている。そして、こっちに背を向け、悲しみの吹きすさぶ街を見下ろしているのだ。
 えっ、どういうことなの? なにこれ――。
 胸がきゅっと冷たく縮こまる。出陣とかファンとか勝手に騒いでいた生半端な気持ちが一気に吹き飛ばされた。
 そして、もうひとつ予想外のものがあった。星部長の立つすぐそばに、小さい緑のテントが張ってある。何で屋上にテントが? 何で星部長は鍵を持ってるの? というか、あの人、自殺しかかってるんじゃないの?! 星部長は何でずっと黙ってるの?!
「部長!」
 朝子は思わずその背中に向かって叫んだ。風に煽られ声がよく通らない。けれども、星部長は驚いたように振り返った。
「えっ、誰っ?!」
「霜降です!」
「あっ、どうして来たの?」
 ファンだから――その一言をぐっと胸に飲み込んで、朝子はとっさに首を横に振った。自分なんかより目の前の男の人に集中して欲しかったのだ。しかし、星部長は紺色のスーツの人には目もくれず、どんどん朝子のほうに歩いてくる。だから、何でなの? あの人助けろよ! もし飛んじゃったら、あたしが余計な邪魔に入ったみたいじゃないかぁっ!!
 朝子は顔を紅潮させ、ほとんど泣き出しそうだった。
「部長、戻ってください!」
「いや、用事があってな」
 声がはっきり聞こえるようになってきた。足、止めろよぉ。用事って、あの人を説得するんじゃないのかよっ! 戻れって、オフィスじゃないですから。
「早く戻らないと、自殺しちゃいます!」
「はっ? 君がっ?」
 あたしが飛ぶわけねぇだろぉっ!! このうすら干しぶどう!
 朝子は半狂乱の寸前だった。星部長が悠々と戻ってくるのが理解できない。鉄柵に見えている男の人は、もしかしたら自分だけの幻覚なんじゃないかと不安に思ったくらいだ。
「違う、あの男の人ですっ!」
 そう絶叫すると、ようやく星部長は合点が行ったようだった。
「ああ! あれ、人形だから」
「はぁっ?」
 朝子は口を馬鹿みたいに開けた。湿った風が舌の根まで吹き込んでくる。 「どういうことですか?」
 すると、星部長はバツの悪い顔を見せた。目の中に干しぶどうが二個戻ってきた。
「話せば長いけど。まぁ、あれか、見られちゃったしなぁ」
 朝子は、星部長が照れ臭そうにしている顔を初めて見たような気がした。

>>>後半へつづく

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