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日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……
「心の準備はいつも出来てない」


 十一月
 ある日、朝起きると枕元に生の大根がゴロンと一本あって、まっすぐな土臭さを放っていた。虚ろさが一段と増す、一人きりの部屋。
 こんなもの枕元に置いて寝たはずはなく、不気味に思いつつキッチンに運んだ。洗面所で顔を洗っていると、おぼろげに夢の中で大根が一本躍り出てきたのを思い出した。軽快なリズムで何か歌っていた気もする。前後の流れはわからない。
 キッチンに戻り、不遜な大根としばらく無言で対峙した。だが、結局どこを触っても間違いなく野菜の大根で、捨てるのも忍びなく洗って冷蔵庫にしまった。
 その日から寝ると必ず大根の夢を見るようになった。
 大根だらけになった冷蔵庫を開け、隙間に新しい大根をぐいぐい突っこむと、冷蔵庫が呆れたように生ぬるい吐息をよこす。こっちだって言いたいことは山ほどある。毎晩、いや毎朝この大根はどこから来るのか。
 最近は一本一本にマジックで日付を書いていた。しなび具合を見れば古いものは見分けられるが、こうなると少し意地も混じってくる。
 大根を減らすには食べる以外ない。勿論、この不審な大根をいきなり鍋に入れたわけではない。最初は少し切ってみて味を見た。とりあえず何の変哲もない普通の大根だった。祖母の実家が農家で、畑仕事を手伝ったことのある身としては食材を無為に捨てるわけにはいかない。
 だが、大根まるまる一本は予想以上に手強かった。妻は妊娠中で、先週から実家に帰っていた。
 大根を使った料理をほとんど知らず、かといって妻の料理の本を開くのも面倒で、居酒屋メニューの知識で思いつく限りを精一杯やってみた。おでんを作ったり、八丁味噌を買って田楽にしてみたり、豚汁というより大根汁と呼ぶべきものを作ったり――今が冬であることが唯一の救いで、冷蔵庫から何とか二本は消した。
 だが、一日一本の供給量には全然追いつかなかった。
 妻とは毎晩電話をしている。妻は、田舎生活の退屈さと妊婦生活の不便さをこぼしつつ、電話ではずっと甘えていた。普段はさっぱりした性格で甘えることもなかったが、この一週間の電話越しではまるで別人のようだった。妻は自分の携帯だから気兼ねもなく、まだ話し足りない、他には何かなかった? とよく言ってきて、こちらの日々の小さな出来事を面白そうに聞いている。
 しかし、大根の話はしていない。仕事や一人暮らしのどんな雑事より、これが一番大きな問題で、一人で溜めこむのはもう限界に達していたが、それでも離れて暮らす妻を得体の知れない憂いに巻きこみたくはなかった。
 妻は宵っ張りで、帰りがどんなに遅くなっても必ず起きていてくれた。遅いことでスネたり、ケンカの原因になったりすることもなかった。勝手な言い方だが、彼女をとても深く愛するにようになったのは、一緒に暮らそうと思った頃よりも、長く一緒に暮らして、彼女の安定したテンションに本当に支えられていると実感したときだった。今夜もたぶん体に負担があるのに、こんな時間でも彼女は電話の向こうでちゃんと待っていて、声を弾ませている。
 携帯を持ったまま、次の缶ビールを取りに行く。冷蔵庫はもはや大根の巣窟と化している。マネキン一体ばらして冷やしているかのごとく、不気味さは極みに達している。この後どうなるものか考えると、ただ溜め息が出てしまう。
 電話の先で、ふいに彼女が不安げに声を落とす。
「……疲れちゃった?」
 含みのある響きだった。まだ一週間とは言え、久しぶりの一人暮らしに対し気に揉んでいるのだろう。小さな溜め息を聞き漏らさず、こんな言葉をかけてくれる人は、自分にとっては世界に彼女しかいない。これまで多少の不甲斐なさはあったとしても、潔癖であることが彼女への誓いであり、それはこれから彼女を不幸にしない答えのひとつだと信じている。
「いや、二本目飲むか考えてた」
「うーん……飲んでもいいよ」
 許しを与えるその言い方がいかにも彼女らしかった。大根に侵食されていない横のラックから缶ビールを取ると、冷蔵庫はまた大根を冷やすためにグウンと鳴って気合いを入れ直した。
 電話の奥では、夜更かしする彼女を心配する親の声が聞こえてきたが、彼女は子供みたいに口答えをしている。確かに体には良くないだろう。だが、彼女が満足するまで――きっと胸にある今日の分の不安が消えるまで話をしないと、彼女は寝つけないに違いない。もっと話し続けるつもりだったが、リビングに寝転び、彼女の許しなく三本目を空けた後、少しうとうとしてしまった。油断をつき、ぼんやりと大根の跳ねる絵が脳裏をかすめる。かすかに大根の歌も届いた。
「そろそろ寝るね」
 それだけはっきり聞こえて、慌てて身を起こした。彼女は満足した声だったので安心して電話を終えたが、姿勢を直したとき冷たいものが手に触れて、驚き振り返った。そこには半分サイズの大根がゴロリと床に転がっていた。



 三月
 ある日、朝起きると自分の影がしゃべりだし、少しの間だけどうしても体を離れたいと頼んできた。離れる理由というのは、実は出産したいのだと言う。初めて聞く自分の影の声は女だった。
 自分は男だが、影が女だったことにも相当驚いたが、大体そんなことができるのか、何を産むつもりなのか、産んだ後どうするのか、と畳みかけると、影はあっけらかんと笑って答えた。産むのはちゃんとした赤ちゃんで、それは相手に預けることになっているから心配ない、と。
 ますます混乱した。さらに事情を聞くと、相手は影でなく人だという。人が、自分の影を孕ませたというのか。いや、影が影を孕ますのかもわからないが、とにかく本当だとすると一体どんな男が自分の影といつそんな接触を持ったのか。当然そのとき自分は影のそばにいたわけで、では自分は何をしていたのか。なぜ今こんな事態になっているのか。
 黙りこむ間をつき、影が改めて離脱の許しを求めてくる。理性的な問答はもう意味がないと気づいた。自分の影が、人との子供を産みたがっているのは確かだ。問題は彼女の産みたいという願いを許すかどうかなのだ。そんなもの……断ることができるものか。だが、影が離れたとき自分はどうなるのだろうか。まさか死んだりしないだろうか――。

 数日後の夜、影の案内で落ち着いたダイニングカフェに行き、そこで影から相手の男を紹介された。まったく面識のない真面目そうな中年男だった。渡された名刺を見ると、業種すら想像できないカタカナの社名で、さらに住所は月面だった。
 月面に会社があるというのか。この名刺からして悪い冗談なのかもしれない。
 落ち着いて話を聞こうとすると、影はいきなり陣痛を訴えはじめ、影は足元からぷつっと離れ、ずずっと床を動いてトイレに飛びこんだ。相手の男は血相を変えて立ち上がり、影を追ってトイレの前に行き、なすすべもなくそわそわしていた。
 呆気にとられ、時間が無為に過ぎていく。ただ、自分の体に何も異変がないのは確かだ。影が離れた瞬間、痛みも刺激もなかった。それはほっとしたが、影が影の意思で離れられるのは予想外だった。だがこれが初めてなのだろうか。もしかすると寝ているときに、影はときどき勝手に離れていたのかもしれない。
 まだ何も注文していないので、店員がこちらの様子を窺っていたが、せめて男が席に戻ってくるまで待とうと思った。五分後、トイレから影がこの体に戻ってきた。すると、男は意を決したようにトイレに入っていき、すぐに安堵した顔でテーブルに戻ってきた。
 開口一番、「ありがとうございました、無事に産まれました」と頭を下げられた。
 今ので分娩が終わったのか。トイレで産んだのか。だが、どう見ても男は手ぶらだった。産声らしきものも聞こえない。
「あの、赤ちゃんは……?」
 と男に聞く。
「はい、おかげさまで」
 違う、答えになっていない。男は何も抱いていない。もしかしてこの男の影に何か変化があったのかと思い、足元を覗こうとすると、男は急に変な頼みごとをしてきた。影の持ち主として赤ん坊の名前をぜひつけて欲しいと言うのだ。そんなもの自分たちでつけてくれ、と返したが、じゃあ候補だけでもいいから、と強くせがまれた。影の意思を聞くと、彼女も男に同意だった。そのほうが影としても縁起がいいのだという。
 内心面倒臭いと思いつつ、だんだん緊張感も解け、のどが渇きを訴えてきた。何はともあれ、子供が産まれたことはめでたいはずだ。
「じゃあ、ひとまず乾杯……にしませんか?」
 男はきょとんとした目になった。
「え? あっ、ああ、ちょっと待って!」
 男はいそいそと手帳を取り出し何かを書きはじめたので、こちらで店員を呼んだ。
「ビールでいいですか?」
 聞いても、男は指を折り熱心に何か数えている。 「よし、それに決めました!」  大げさに息巻く男を気持ち悪く感じながら、生ビールを二杯頼んだ。男と二人で食事もしたが、男が赤ん坊の名前の話をしないので、あえて蒸し返さなかった。それ以外で話が噛み合うはずもなく、この店にはもう来ないだろうと腐りつつ、嬉々とする男の調子に合わせて酒を飲んだ。
 その後、影との会話も自然に減ったが、ひとつ影が報告してきたことがある。子供の名前は『ひとまず乾杯』になったらしい。画数も月面では最高だそうで、影はすごく喜んでいた。そして、影は単なる影になった。



 九月
 ある日、朝起きるとテレビの天気予報で、昨夜、台風十三号が可愛らしい双子の赤ちゃんを産んだ、という報道をしていた。それは気象庁が待ちに待った赤ちゃんで、三ヶ月大切に育てられ、その後、日中友好の印として一匹が中国の大きな動物園に贈られる予定になっているという。何かの聞き違いかと思ったが、頭は寝ぼけていない。
 ニュースが終わる頃に、妻が起きてきたが、湿気のせいで髪のハネ具合がひどく、眠たげな顔で洗面所に入っていった。

(おわり)




<あとがき>
 本作品は、『第14回Short Story FIGHT CLUB』(以下FC14)に投稿した作品です。読んでくださった皆さま、投票してくださった皆さま、並びにFC編集部の皆さまには深くお礼申し上げます。
 テーマは「覚」だったので、明確に説明できないものを表現しようと、比喩的な作品を書きました。おそらく、タイトルが一番それを表していると思います。独立した三部作として読んでもらうほうが読みやすいかもしれませんが、不連続につながった三パート構成です。
 FC14では、これはテーマは「産」じゃないか?という感想もいただきましたが、「産む意義・生まれる意義」といったものでなく、父親になる男性の漠然とした期待や戸惑いや穏やかならざる心地を書くことが主眼だったので、そこはぶれてないつもりです。
 文章も構成も、読む人にいろいろと刺激を与える作品になれば、と思います。そんな感じで、楽しんでいただけたら幸いです。



お読みくださいまして、誠にありがとうございました。
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