日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……


「二人だけの夜」


 春色に装う女の子がずらっと並ぶと、見慣れた顔でもちょっとした眺めで、男連中のはしゃぎようを見ても、やはりこの季節の飲み会は特別だった。降矢修二は部屋の隅から全体を見渡すのが好きで、いつもそこに陣取り、あちこち話題を振って場を盛り上げる役だった。
 だが、同じ学科にこれほど無口な女の子がいたとは知らなかった。五十人程度の学科で三年生にもなればだいたい顔を覚えるが、彼女は間違いなく初対面だ。最初のドリンク注文で「あ、それ、私も」と小声で言ったきり全然喋らない。機嫌が悪いのか、それとも体調が悪いのだろうか。修二の向かい、つまりテーブルの端に座りながら、彼女は明らかに自ら存在感を消しているように思えた。
 すると幹事が立ち上がり、ごめん、紹介し忘れたぁ、とみんなの耳目を集めた。そして修二たちのいる隅を指し、「編入生の奥住恵梨さんです。えーと、何学科からだっけ?」などと言って、それから本人に挨拶をさせた。恵梨は困惑ぎみに立ち、小声で名前だけを言い、そそくさと座った。まわりはもう少し何か言えばいいのに、といった顔で彼女を見ていたが、居酒屋の店員が次の料理を持ってくるとすぐ関心の外になってしまった。
 お酒が進み、みんな自由に席を動きはじめると、部屋の隅は自然と二人きりになった。恵梨は何も食べず、赤ワインで時々喉を潤すだけ。だが、表情に暗さはない。長い睫毛の奥に穏やかな瞳を宿し、そばにあったストローの包み紙をクルクルと弄んでいた。胸元に可愛いリボンを結んだきれいな琥珀色のニットが桜色の透き通る肌によく似合っている。
「……喋られなくてごめんなさい」
「え? いや、いいんじゃない」
 修二は恵梨からいきなり謝られて驚いた。舌足らずで聞き取りにくいが、落ち着いた声だった。
「奥住さん、どっか具合が悪い? 全然食べてないよね」
「食べるのはいい……」
 と言ってまた黙った。これほど取っ付きにくい相手も初めてだが、決して人を拒絶しているわけではなく、そこがまた妙に気になるのだ。修二はいつもなら適当に席を動いている頃だが、今日はまだ恵梨の様子を見ていたい気分だった。恵梨がメニューにすっと手を伸ばす。修二が店員を大声で呼び止めると、恵梨の口許に少し明るさが差した。
「カルピスサワーを……氷抜きでお願いできますか?」
 チュウハイを氷抜きで頼む人は少ない。店員は「氷抜きですね?」と不思議そうに聞き返したが、恵梨は念を押すように強く頷いた。
 店員が行った後、修二は顔を覗き込むようにして尋ねた。
「あの、もしかして知覚過敏――?」
「え、ううん」
「口内炎?」
 すると、恵梨はふんわりと笑顔を見せながら、首を横に振った。
「ううん、そういうのと違うけど、氷はダメなんです」

 修二がビールで口を潤しながら、編入生の恵梨のため学科のことをいろいろ話していると、先程頼んだチュウハイがやってきた。だが、それにはびっしり氷が入っている。憂鬱な目で受け取る恵梨に代わり、修二が文句を言いかけると、店員はすぐ別のお客に呼ばれ、足早に去っていった。
 修二が舌打ちすると、恵梨は一口もつけず横に置き、小さく溜め息をついた。
「ストローもらってくるよ」
「ごめん……それもダメなの」
 氷もダメでストローもダメとはかなり意外だった。だが、恵梨はそれをわがままで言っている人間にも見えず、実際寂しそうに気を落としていたので、修二はそばにあったアイストングを持ち、空いたグラスへ氷を全部移し、三分の一ほどの量になったものを恵梨の前に置いた。
「これなら大丈夫?」
 恵梨はさすがに驚いた顔で、修二の酔った眼光を少し怯えたふうに見返した。
「……ありがと」
 すると、氷のなくなったチュウハイを恵梨はぐっと傾けた。予想外に勢いよく飲んだその後には、さっきまでの硬さが少しほぐれたような雰囲気があった。
「今日は頑張って喋る」
 恵梨は不思議なことを言って笑った。
「えっ――頑張って喋る? おう、そうだね!」

 とにかく恵梨の声が小さいこともあり、修二もそれに合わせつつ、部屋の隅で二人だけのひそひそ話がずっと続いた。恵梨は凍えた唇が解けたかのように喋り出し、前に学科の授業が退屈で不満だったことや、喋らずに済むデータ入力のバイトをしてるとか、電話も嫌だけどメールは好きだとか――その間、チュウハイが届くと修二が氷を全部取り出し、三分の一にして恵梨に渡すのを繰り返し、その度に二人だけの笑いが静かに重なった。
「こんなに飲んだの初めてだよ。やっぱり楽しいね」
「でもさ、何で喋るの嫌なの? こんなに喋れるのに」
「だって今日は特別頑張ってるから」
「特別ねぇ……」
「そ、特別なの」
 恵梨が嬉しそうに氷のないグラスをちゃぷちゃぷ揺らす。修二はその音にくすぐられるように頬杖をつき、得意げな笑みを恵梨に向けた。
「よし。じゃ、俺も君だけに特別なものをこっそり見せよう」
「え、なに?」
「いい、怖がらないでね。絶対悲鳴とか上げないでね。約束できる?」
「なに?」「約束できる?」
「――する」「よし」
 確認が済むと、修二は人差し指を恵梨の目に前に見せた。そしてポケットから小さな十得ナイフを取り出し、刃を指の肌に立て、スッと横に引いた。電撃のような痺れる痛みを伴い、うっと自分の声が漏れ、切れた傷口から血が滲み出す。恵梨は恐々とした顔で血の流れ出す一点をじっと凝視している。修二はふうと息をつくと、切った人差し指を口に含み、ぺろりと舐めた。
 そして、指先をもう一度恵梨に見せる。
「えっ? えっ?!」
 驚くのも無理はない。切ったはずの修二の指先には傷ひとつ付いていなかった。
「特別なのは指じゃなくてね、唾液なんだ」
「唾液……?」
「おまじないでさ、『唾つけときゃ治る』とか言うだろ。よく分からないけど、俺の唾液だと瞬間的に傷が治るんだよ」
「うそ――!」
「嘘じゃない。自分の傷だけじゃなく、人の傷だって治せる。でも病気は無理だけどね」
「何で治せるの?」
「理由は全然分からない。小さい時からそうだった。――こういうの滅多に人に見せないんだけど、今日は特別だしね」
 痛みは当然消えていて、また酔い心地に戻りながら、修二はナイフの血を拭きポケットにしまった。
「すごい……一瞬で、傷が……」
 かなり衝撃を受けたと見え、その後も恵梨はすごい、嘘みたいと繰り返した。

 やがて飲み会もお開きになり、二次会に行く組と帰る組で分かれはじめた。修二もジャケットを着て立とうとしたが、恵梨は座ったまま思い詰めた様子で修二の顔を見つめている。飲みすぎたわけでもないだろう。修二はまた座り直し、出口の混雑が収まるのを待った。恵梨は修二の前で縮こまり、唇を結んでいた。
 そのうち店員がテーブルを片付けに来たので、修二は恵梨の背を叩き、ひとまず店を出た。外にはまだ人だかりがあり騒いでいたが、最後に出た二人のことなど誰も見ていなかった。恵梨は修二のジャケットの裾をきゅっと引く。なにか中学生にでも戻ったような初々しさを感じた。
「ねぇ、変なお願いしてもいい?」
「どうしたの?」
「キスってどういうものか教えて……」
 修二は息を止め、返す言葉を探した。いくら話が盛り上がったとは言え、初対面でそんな誘いを受けるとは思わなかったのだ。これは素直に受け止めるべきか。修二は迷ったが、恵梨の真剣な眼差しを見て、表通りを避けながら暗い路地へと引き寄せた。唇を重ねる。
 恵梨は少女のように体を震わせ、修二にしがみつき心を預けてきた。身長差はさほどないが、精神的な余裕の差は明らかにあり、修二の気持ちを急速に高ぶらせた。やわらかいうぶな唇を開き、奥にある舌を求めていく。
 だが次の瞬間、舌先に焼かれるような衝撃と痛みが走った。慌てて唇を離すと、舌先が切れた感覚とともに血の味が口の中にわっと広がった。何が起きたのか、酔った頭が激しく錯乱する。幸い唾液まみれの舌の傷はすぐ修復し、ショックだけが胸に残った。  恵梨は沈んだ瞳で、修二の顔に血の気が戻る様子を見つめていた。
「大丈夫……だよね」
 その口振りは今のを分かっていてやってように聞こえた。
「ごめんね……びっくりしたよね。でも、やっと見つけたの――」
 恵梨の声が嗚咽を帯びる。だが、とにかくなぜ舌先が切れたのか。教えてとつぶやくと、恵梨は舌を覗かせた。外灯の照らす下で見ると、恵梨の舌先は硬く薄く尖って、まるで鋭い刃物のようだった。
「私も小さい時からこうだった。理由は全然分からない。何度も自分の口の中を切った。恐ろしくて喋れなかった。でも、今日はほんとに頑張ったの。そしたら修二君に逢えた。修二君は奇跡の人だった……!」
 胸の内の秘密をすべて吐き出すように告げると、長い沈黙があった。恵梨は必死で開いた唇を再び閉じ、うつむいて大粒の涙を浮かべていた。舌先が刃物だなんて想像を超えて悲劇としか言いようがない。だが、修二は恵梨の言葉を疑う気持ちは少しも起きなかった。
「ずっと憧れてたの――」
 それはキスのことかもしれないし、もっと違うことかもしれない。  修二はこれほど深く潤んだ女の瞳を見たことがなかった。木こりが泉から現れた女神を見たとき、金や銀の斧に目が行っただろうか。いや、女神の姿に心を奪われたことだろう。これまで何者も踏み入らず、何者も水面を乱さなかった泉の――。
 そしていま、彼女にとって、いくら舌を切りつけても瞬間的に治る特別な人間は、本当の奇跡に違いない。
 意を決し、恵梨の体をもう一度しっかり引き寄せる。
「血の味は平気か?」
「……そのなのもう、気にならないよ」
 彼女が瞳を閉じると大きな一粒が流れ落ちた。再び温かく迎え入れられた舌は、あどけない吐息と濡れた刃によって切り裂かれ、脳髄を掻き乱す波状の痛みと血の匂いが体中を狂おしいほど貫いた。

(おわり)




<あとがき>
 本作品は、『第13回Short Story FIGHT CLUB』(以下FC13)に投稿した作品です。読んでくださった皆さま、投票してくださった皆さま、並びにFC編集部の皆さまには深くお礼申し上げます。本サロン掲載にあたって、タイトルを変更しました(原題がかなり不評だったので……)
 テーマは「刻」だったので、思う存分、切り刻みました(笑)。FC13では、ラストが読んでて痛い(痛覚的な意味で)とか、修二はマゾなのか?という感想もいただきましたが、それも含めて私らしく、普通じゃないラブ・ストーリーとして完成させたつもりです。(「恋するあかなめ」とか読んだ人はわかりますよね?)
 そんな感じで、楽しんでいただけたら幸いです。



お読みくださいまして、誠にありがとうございました。
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