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| 日本語を織りつむぐ幻燈の祠 |

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| 「浸食の雨」(中) |
鼓膜が焼けるかと思うレベルの轟音だった。
人々は一斉に空を見上げた。鼻っ面に雨粒を浴びる。その目の前を、赤紫色に腐食した銀色の巨大な機体が滑り落ちてくる。姿を見つけてから、その終焉までに一刻の猶予も存在しなかった。
飛行機が空を切り裂き急降下し、瞬く間に、高層ビルの脇腹に左翼を激突させた。そして、そのままビルの内部を突き破り、下の広い駐車場に墜落した。真っ赤な炎と黒煙が噴き上がる。爆発の衝撃で地面が震動を起こした。それは、まだ記憶に新しいあの驚愕を髣髴とさせる光景だった。
暁也は茫然と立ち尽くし、そこから目を離すことができなかった。その隣りで未緒は呼吸を忘れたかのように顔を凍らせていた。
上空ではビルに削ぎ取られた左翼がたちまち爆発炎上し、大量の粉塵とガラスの破片が人々の頭上に舞い落ちてきた。激突した高層ビルと広場はかなり近い。まるで隣家の二階の火事のように鼻先で燃え上がる火が広場を赤々と照らし出す。そして、この惨劇を目撃した人々を阿鼻叫喚の渦へと飲みこんだ。
雨だ――。
この雨があらゆる物の機能を失わせるのだ。鳥たちと同じく、飛行機もまた雨に浸蝕され、飛べなくなって地上に落ちてきたのだ。
広場にいて、あの老人の叫びを耳にした多くの者たちがその言葉を受け容れた。これ以上雨を浴び続ければ何もかも――自分たちの機能すら停止するに違いない。今や、誰もがそれを自己の終焉だと直感できる。
一分一秒と過ぎる毎に、ビルの火災は激しさを増した。鉄やガラスやコンクリートの破片が止め処もなく崩れ落ち、夜空に濛々と吹き荒れる。人々は手で目や口を覆って逃げ惑い、何とか雨や破片の防げる場所はないかと必死の形相で駆け回った。
消防車も救急車は一向に来る気配がない。車はみな走る機能を失っているのだ。暁也は雨に浸蝕された物体の無力さに、底知れぬ無念を覚えた。
「暁也……こわいよ……」
未緒の声が赤い闇に浮かぶ。
「俺だって怖い」
頭の上で黒い空が割れ、銀色の機体が落ちてきたのだ。灰色の噴煙と燃え崩れるガラスの楼閣。地には荒れ狂う黒山の波。刻々と赤紫色に染まってゆく人々の額と頬と、手と足と。
暁也は絵を担ぐ肩の痛みのために、すっと目を曇らせた。
「なぁ、未緒……。もう本当に――逃げ道なんてないのかもな」
それは何の虚勢を張らずに出てきた本心だった。
「やめてよ! そんなのやめてよ!」
「分かってる。分かってるけど」
「ねぇ……、だから何だって言うの? ちょっと。ここで僕らも死のうとか言うわけ?」
「違うよ。そうじゃない!」
暁也は声を張り上げた。
だが、違うのだろうか。心がちりっと疼く。怖い。この先の事態を知るのが強烈に怖いのだ。雨によって失われること。胸に包みこんでいた大切なものが目の前で――暁也はそれ以上未緒の瞳を直視できず、逃げるように辺りを見渡した。
煌々と燃える頭上の赤い光の下で、人が次々に倒れていく。
女の子。男の子。老人。男の子。老人。女の子。女の子。……老人。
体が小さいほど臨界点が近いとでも言うのか。雨の浸蝕度が高いと言うのか。だが、それについて答えてくれる者はどこにもない。ただ目の前の事実を告げる光景として、一人、また一人と、小さな体が人間である感覚を喪失していくのだ。
脱け殻のように成り果てた犠牲者たち。家族が体を揺すっても二度と意識は戻ってこない。……何が、どこへ行ってしまったのだろうか。本当に消し流されてしまったのだろうか。
目玉まで赤紫に染まった犠牲者たちは、茫然と天を仰ぎ、雨を一身に受けている。ただそればかりだ。もう表情には苦悶や悲嘆の欠片もない。だがそれは、残された家族たちに引き継がれるだけのこと。
闇夜を突き破る赤い光が、寄り添う人々の黒い影をいっそう濃く結びつけた。
未緒。
暁也は胸にその名を刻む。ずっと一緒にいると約束をしたはずだ。
小さくて温かいその背中。何があっても未緒を失うわけにはいかない。しかし、強く願えば願うほど、強い不安が襲ってくるのは心の弱さなのだろうか。
悲しくて涙がこぼれてくる。
未緒。
振り向いてくれ。もう逃げ道がないなんて言わない。
だから、どうか振り向いてくれ。今の気持ちであれば、次の一歩を踏み出せる。
「暁也、さっきの聞こえた?」
「――えっ」
「みんな地下に下り始めたみたいよ」
未緒が神妙な面持ちで、少し離れた場所を指差した。
見れば、広場にあるマンホールの蓋がすべて開いていた。蓋の機能を失ったのだろう。暁也が家で見たドアやシャッターの現象と似ていた。
そして、そこから地下へと梯子を下りていく人々の姿があった。先に下りた人が穴の中から大声で叫んでいる。地下道はどうやら雨が降っていないようだ。一瞬、みんなの表情が明るくなる。地上にいる人が周囲に向かって何度もそのことを叫ぶと、雨の届かない聖域目指して大勢が一気に押し寄せてきた。
暁也たちも乗り遅れないようそれに続いた。順番待ちの列を作れる状況ではない。誰もが我先にと人を押し退け下りていく。暁也たちは幸い一時しのぎの画板があったが、いよいよ梯子を下りる時には邪魔になり、結局置いていくことにした。
絵を地面に置いた時、元の静物画が不可解な模様にまるきり変容しているのを見て、言い知れぬ驚きに打たれた。一瞬、母親たちの安否を想ったが、通信不能の状況ではただ無事を祈る他なかった。絵が暗示にように思えると怖さが余計に募り、暁也は目を逸らした。
下りる時は銘々が携帯電話のライトで穴の内壁を照らした。暁也は、未緒を先に行かせて、自分も続いて鉄の梯子を握った。鉄錆の匂いと黴臭さと人いきれと梯子を踏む金属音が穴の中を埋め尽くしている。いざ頭まで穴に入るや否や、次の者の靴が鼻先に迫った。靴の泥が跳ねて、まるで雨の邪気のように暁也の顔に飛び散った。
未緒は黙々と梯子を下りていく。ここに来て弱音をもらさなくなっていた。
梯子を最後まで降りると、未緒らしき生温かい腕が寄り添ってきた。地下道の照明もやはりすべて落ちている。停電なのか、あるいは別の原因か知れないが、すぐに復旧できるものではないだろう。あるいは――もう永遠に復旧しないかもしれない。
未緒の顔を照らすと、まだ染みはさほどひどくなかった。それでも首筋や鼻の頭にそれらしきものがある。暁也は自分の顔がどうなっているか想像するのは止めた。
「ねぇ……、ここからどこへ行くの?」
未緒は小さな溜め息をついた。
梯子から次々に人が下りてくる。暗くて誰の顔も分からない。すでに赤紫色の浸蝕が激しい人もいるだろうし、何とか雨をしのいできた人もいるだろう。だが、行く当ての見えない地下の迷宮に辿り着いて、不安に打ちひしがれている気配が切々と漂っていた。
やがて、人波に押されるように、暁也たちは列をなして一方向に歩き出した。先頭が誰なのか、どこへ向かっているか、皆目見当もつかない。
手に持ったライトを掲げ道先を確かめると、幅の狭い通路がまっすぐ続いているようだった。横には水路が流れていて、一歩踏み外せば足を落としそうだ。暁也は未緒を庇うようにして水路に近い側を歩いた。真っ暗だが、水の流れる音がしている。この水もおそらくは――
「いやっ、押さないでよ! きゃあっ!!」
「うそっ、やめて! 離してぇ!」
突然、行列の後方で若い女性たちの悲鳴が起こった。
激しい水飛沫の音。甲高い怒鳴り声。大きな水音が二度三度と続く。さらにもっと続くかと背筋が寒くなった。人の声は煩雑に入り乱れたが、水音のほうはぴたりと止まった。――落ちた人が水から上がる音はないのか。耳を澄ましていると、暁也の肩に他人の手が乗った。みんな息を詰め、事の成り行きを窺っている。
水音が響いた周囲で、携帯電話のライトが無数に蠢いた。そして、たちまち水路に落ちた三人の女性の姿が照らし出された。全身を赤紫の水に浸して尻餅をついている。表情は見えない。だが、いずれにせよ、もはや微動だにしない。水が冷たい、あるいは気持ち悪いという感覚自体が失われてしまったのだろうか。
あちこちから憐れむ声が細波のように巻き起こり、しぼんで消えた。もう誰も彼女たちを照らそうとはしなかった。未緒に袖を引っ張られ、暁也は前を向いた。
「暁也、お願い、絶対に落ちないでよ。落ちたら終わりなのよ」
「ああ……」
「もし何かあった時、頑張るけど――でも、助けられる自信がないの」
「分かってる」
「暁也ぁ……」
未緒の眼差しに陰が差した。反応が弱かったことに腹を立てたのだろうか。暁也は内側を蝕む焦りを認めるかのように未緒の手をきつく握り締め、一歩また一歩と進んだ。
ふと前のほうで、小さな子供が「お腹がすいた」と泣き声を上げた。すぐに親が叱りつけたものの、周りの子供たちにもその訴えは伝播した。暁也は虚しさを募らせる。
地下道には暗闇以外何もない。引き返そうにも、後続の人々の足は止まらない。この先どこへ行けば良いのかも確かでない。一度地下に下りてしまったら、もうここに食料も布団も燃料もない。必死で辿り着いた「雨のない聖域」とは、生活力を奪われた無力感の吹き溜まりなのだ。地下道は無限の回廊のようにうねり、冷やかな水流の音が心をいっそう深みへと押し沈めた。
それより少し前、暁也たちが広場に向かっていた頃に、山間部ではダムが臨界点を迎えていた。破滅の雨水は貯水池へと流れこみ、ダムの外壁を濡らし、その硬度を刻一刻と奪い取っていった。
やがてタービンは回転を止め、水流を制御する弁のすべてが機能を失い、何倍もの水圧がダムの壁に圧しかかった。そのとき壁はもはや本来の壁ではなかった。
凄まじい轟音が山間に響き渡り、水流が壁を次々に突き破って溢れ出した。水は一変して浸蝕と破壊の手となった。渓谷の岩壁を殴るように押し流し、猛然と土砂を飲みこみながら、細い谷川を激流に塗り変えて行く。
川の中腹に設けられた堰は、すでに浸蝕の雨にたっぷりと濡れて、上流から襲って来る氾濫を食い止める力は失われていた。水流が、岩石が、流木が、まさに積み木崩しのごとく堰や水門を壊滅させていく。遮る物体は何もない。すべて雨の思うがままに、巨大な濁流となって水辺にあるものを洗い流していく。
そして、すべての水門を瞬く間に通過し、数知れない水路に大量の水を運びこんだ。
静まり返った地下道で、先頭を歩いていた者がその音をついに耳にした。
地鳴り――まさに地面が我慢に耐えかねて鳴り響くような音だった。この先に水流差でもあるのだろうかと周りに話しかけたが、それに答える者はなかった。
目の前には鉄の檻が薄明かりに霞んで見えている。別の誰かが「行き止まりかもしれないな……」とつぶやき、周りの者たちを少しの間沈黙させた。
地下道を揺さぶる地響きは止まないどころか、いっそう重みを増していく。地上で大きなビルが倒壊でもしたのだろうかと囁き合った。それが――先頭集団が最後に交わした会話である。
鉄格子の向こうの闇に、躍る濁流の影が迫った。
それは一秒の間に実体を持ち、逃げ出す暇すらない十数人を一挙に巻きこんだ。押し流された体は後続の集団に激突し、防ぎようのない連鎖を生み出した。第一波、第二波と、濁水の塊はうず高く盛り上がり、立つもの動くもの光るもの何から何まで押し流していく。
その後には、脱け殻となった人々の肉体が残された。全身を赤紫に染め上げられ、逃げ惑う格好のままで体を弛緩させている。糸の切れた人形の群れ。その切れた糸は二度と繋がることはない――。
間もなく、地下水路を走る水柱のひとつがついに暁也たちのいる一団にも迫った。先頭のほうで悲鳴が起こり、あぶくのように膨れ上がる。ジャバッジャバッと洗濯機を思わせるかという重い水音が響き渡った。
「なになになにっ?」未緒が早口に叫ぶ。
暁也は咄嗟に立ち止まった。前方に異変が起きたのは間違いない。果たして前方だけで終わるものか――水音の共振の速さが暁也の体を突き動かした。
「来る! 水だ! 逆流してる!」
急いで未緒を引き寄せ、壁面に梯子を探した。弱々しいライトだったが、幸いすぐそばに梯子の影を捉えた。前方の悲鳴と水音が心臓を駆け上がるように増幅する。すぐ先まで迫っているのは間違いない。
暁也は未緒の体を押して梯子に昇らせ、自らも急いで後に続いた。その後ろにも何人か血相変えて梯子を掴んだ。ところが、昇りかけの何人かは下にいる者に足や腰を掴まれ、強引に引き摺り下ろされてしまった。そして、何とか我こそが逃げ延びようという意志たちを――次の瞬間、荒れ狂う濁流が駆け抜けて、みんな虚無の器へと変えてしまった。
地下道にかすかに灯った希望と安息が完全に奪われた瞬間だった。
暁也と未緒は梯子の途中で下を向き、水流の中を昏々と流されていく無数の人影を直視した。目を凝らさずにはいられなかった。脱け殻になった人々が流れ着く先の光景を想像すると、深い眩暈に襲われて魂を砕かれるようだ。中には小さな子供の姿もあった。しばらくして、未緒が嗚咽を漏らすのが聞こえた。
水音の変化から、流れが少し落ち着いてきたと分かった。しかし、当然水位が上がり、もはや歩ける場所はないだろう。いつまでも梯子にしがみついているわけにもいかない。暁也は、再び雨の降る地上に戻らねばならないと考えると、苛立ちが胸に募った。すでに画板は手離してしまった。思案に疲れて見上げると、未緒が思いつめたような顔をして暁也の言葉を待っていた。暁也は首を横に振る。
「未緒、このまま上がろう。下はもうダメだ」
「でも、上に行ったら……」
「分かってる。だから一秒でも早く、雨を防げる道具を探すんだ」
未緒の足を優しく叩いて合図すると、ようやく未緒は昇り始めた。だが、それもすぐに止まってしまった。何かあったのだろうか。暁也は首を伸ばして上の様子を窺う。
「おいっ。お前らは何だ?! 何で上がって来るんだ!」
未緒の上から野太い男の声がした。この穴を下りてきた人間と鉢合わせたようだ。男の上からさらにいくつか声が続く。一団だと分かった。
すると、未緒は先頭の男に対し、地下道が増水した事情を説明し始めた。暁也は静かに成り行きを見守った。もし未緒の説得が難航すれば、今度は自分が前に立つつもりでいた。
ところが次の瞬間、梯子の上から思いも寄らぬ黒い影が降ってきた。女性が腕に抱いていた赤ん坊が滑り落ちたのだ。さらに、それを追って慌てた母親も梯子から手を離してしまった。
未緒の悲鳴が、暁也を咄嗟に身構えさせる。反射的に未緒がバランスを崩したものと思って腕を伸ばした。その腕に赤ん坊がちょうど収まった。
一方で、母親は穴の壁面をずり落ちてきた。気が動転するあまり梯子を掴むことすらできない。そして、必死の思いで伸ばした手が未緒のスカートの裾を掴んだ。未緒は母親の重みに引っ張られる。暗い奈落の水の底が視界を捉えた。
暁也は突如目の前を横切った母親の足に面食らい、未緒の叫びに気づくのが一瞬遅れた。そればかりか赤ん坊を腕に抱いた状態で、手を伸ばすことすらできなかった。赤ん坊の猛烈な泣き声に紛れ――未緒が壁に爪を立てながら滑り落ちる姿が下へ、下へと小さく消えていく。
未緒の名を叫ぶ。
大きな水音が穴の中に響いた。暁也の頭は芯を撃ち抜かれたように痺れた。
だが、奇跡的に一点の冷静さが残っていた。赤ん坊を先頭の男に渡すと、ほとんど飛び降りるような勢いで一気に梯子を駆け下りた。水の流れる音が暁也の心を絶望の渦にたぐり寄せる。
そして、明かりの一切ない深淵の闇に手を伸ばした。何に触れるか分からない。いや、もう何にも触れられないかもしれない。ひたすらに奇跡を信じて、
未緒の名を叫ぶ。
バシャッと水の跳ねる音がして、濡れた手が暁也の手を掴んだ。冷感が全身を貫くように這い上がる。未緒の手なのか。しかし、姿はまったく見えない。携帯電話は未緒に渡したままだ。
「明かりを! 頼む、照らしてくれ!」
暁也は上にいる一団に向かって力の限り叫んだ。早速反応した何人かが携帯電話のライトを差し向ける。暁也の目に、赤紫色に染まった女の腕が映った。
「ああっ!!」
思わず叫び声を上げる。これが未緒なのか。本当に未緒なのか。
「未緒!」
「――暁也!」
別の場所から未緒の声が答えた。状況を飲みこめずにいると、暁也の手を掴んでいた女の腕が、するり、と解けて闇の中に溶けた。左薬指にはめた銀色の指輪がほんの一瞬だけ光る。続いて、水の跳ね上がる音が耳に届いた。梯子の上では赤ん坊が激しく泣いている。その母親はたった今、水没した。暁也や空っぽになった手のひらを堅く握り締めた。
「未緒、どこだ?!」
「暁也!」
目と鼻の先に未緒の声がする。だが、水の中ではない。暗闇に目を凝らすと、壁面に取り付けられた照明器具らしきものに、歯を食いしばってしがみつく未緒の姿を見つけた。暁也は腕を伸ばして未緒の体を抱き止めて、梯子まで引き寄せた。未緒の肩は恐ろしいほど震えていた。
「大丈夫か?」
「うん……少し、足に水が掛かっただけ……」
水飛沫――母親が水中に落下した時だ。未緒は一緒に落下した母親について何も話さなかった。もう精神的にも体力的にも限界に達している。暁也は未緒の髪を力強く撫でた。
「梯子、昇れるか?」
未緒は頷いた。
「でも……お願い、ちゃんと支えててね」
暁也の腕の中で未緒は小さな笑顔を見せた。だが、それが暁也に一瞬の油断を招いた。
水飛沫のかかった未緒の足はすでに力を失っていたのだろう。未緒は梯子を踏み外し、体を滑らすように半身を水流に没した。それは暁也がひとつ深呼吸をしたわずかな間の出来事だった。
「げほっ!」
跳ね上がった水を、未緒は飲んでしまったようだ。「くそっ!」暁也は渾身の力で未緒の体を引き上げて、急いで梯子をよじ昇った。完全に脱力した未緒の体が背中に重く圧しかかる。
何度も繰り返し名前を呼ぶと、未緒はかすかに応答をした。首筋に弱々しい息が当たる。早く水を吐き出させなければ。この忌まわしい雨水を――。
梯子の上では、穴を下りてきた一行が行く手を塞いでいた。先頭の男が叫ぶ。
「おいっ! 下で何があったんだ?」
「退いてくれ! この子、死にかかってんだよ!」
「ちょっと待て、その子だけか? さっきの母親は?」
暁也は首を横に振る。
「頼む、道を開けてくれ! この子を一刻も早く助けたいんだ!」
すると、暁也の訴えが届いたのか、先頭の男は事態を飲みこみ、後ろの人々に対して声をかけた。全員が梯子の片側に寄って、暁也の登る道を作ってくれた。励ましや慰めの言葉は誰もない。いや、あったかもしれないが、暁也の耳には何も届かなかった。全身に噴き出す脂汗と、未緒の薄れゆく吐息が頭の中を支配していた。
一段上がる度に、夜空の輪郭がくっきりと見えてくる。そこに舞うのは変わらぬ雨だった。大量の雨水が巡り巡って、二人を再び地上に連れ戻したのだ。逃れる術はない――年老いた詩人の言葉が幾度となく蘇える。
地上に出て、ほんの少し熱いものを噛み締めた。だが、暁也には落ち着く暇もなかった。ひとまず未緒を寝かせられる場所を探さなけばならない。そこは広場や飛行機の墜落場所から少し離れていて、人影もまばらだった。しかし路上には、飛行機が激突した高層ビルの炎の明かりによって、うずくまる雨の犠牲者が姿がそこら中に映し出されていた。
暁也は大きく息を吐く。そして大粒の雨の中を、未緒を背負って走り出した。
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