日本語を織りつむぐ幻燈の祠
知らぬ間に押し寄せる異界の鼓動……


「一ヶ月の恋」


 梅雨明けの荒川の土手は、生活が形骸化した僕をたしなめるほど強い快晴だった。来週ここで花火大会がある。僕は久しぶりにデートの下見をしていた。
 東京を洗った雨で潤う川に架かった巨大な鉄橋。夏草が風でごわごわ音を立てるほど生き生き茂り、心地よい汗がにじむ。グラウンドでは小学生が野球の試合をやっている。テントから声援を送る親たち。土手の道で、ランニングする赤い顔の中学生たちとすれ違う。
 これだけでも僕には十分な刺激だった。職場と家を往復し、たまに飲んで帰る程度の毎日。仕事も人間関係もさほど不満はないし、自己啓発のためにビジネススクールにも通っている。そこで知り合った女性と仲良くなり、三回目のデートで花火に誘った。浴衣を買ったよ、とメールが返ってきて心が躍る。こんな人間いくらでもいるだろう。しかし、なぜこの僕が選ばれたのか。
「岡本さん」
 土手を降り、住宅地に差し掛かったとき、ひと気のない高架下で呼び止められた。初めて来た町だ。知り合いに会うのは想像できない。振り向くと見覚えのある男が立っていた。彼が歩み寄ってくる間に、ビジネススクールで話したことがある商社マンの天野という男だったと思い出した。

「一ヶ月か……」
 駅前の喫茶店に入り、天野の持ちかけた話を聞いてそうつぶやいた。
「正直、短いと思うか? どうだ?」
 僕はうまく答えられなかった。
 自分の好きな過去に一度だけ一ヶ月間戻れるなら、行きたいか――天野は近況報告もそこそこに神妙な顔で切り出した。過去に戻り、ただ時間を過ごすだけ。過去は書き換わらない。だが、思い出を確かめることはできる。危険はないと天野は念を押す。
 突拍子ない話のくせに迫ってくる横柄さがあり、僕は少々苛立った。だが信用できない人物でもなく、それよりも次々浮かんでくる過去への未練が心を煽りはじめた。
 こういうとき自分が輝いていた頃に戻るか、無駄に過ごした頃に戻るか、人によって違うだろうな……と他人事のように分析する。小学校はいい思い出が多い。運動は得意でなかったが、勉強はできて読書感想文や写生大会でもよく賞をもらっていた。賞状をもらい親に褒められることが楽しみだった。中学ではバレーをやったが、三年間ずっと補欠で運動神経のなさを痛感し、高校受験に集中した。高校ではさらに勉強に打ち込み、有名大学に合格した。だが、僕を待っていたのは就職氷河期だった。採用は暗い話題ばかりで臆病になり、就職活動の出足が遅れ、今の会社に何とか内定をもらえたのだ。初めてもらった給料の少なさに落胆したのは悔やんでも仕方ない。
 長い溜め息が漏れる。
「半生を振り返るよね」
 天野は皮肉っぽいことを言ってコーヒーを啜った。
「一ヶ月は短いとも思うし、長いとも思う」
「煮え切らない言い方だなぁ。楽しんでくればいいんだよ」
 真剣に悩む僕を、天野は少し茶化した。
 窓辺のカウンター席で、高校生らしいカップルが二人並び、二の腕の肌をピッタリくっつけておしゃべりしている。そうだ、たった一ヶ月なら――もうできない恋がしたい、と僕は目を閉じた。中高時代は運動不足で肥満気味でもあった。あれはもういい。戻るなら前か後かだ。大学で痩せて初めて彼女ができた。初恋は小学四年生。どちらにも未練はあったが、決断するのが怖かった。
「一晩考えるのは無理か?」
「ダメだ。いま決めてくれ。決まらないなら次に行く」
 天野はピシャリと言い、チョコレートマフィンを頬張った。僕はそれを見て意を固めた。
「わかった。決めたよ」
「よし。じゃあ、さっき携帯に送ったメールに日付と場所を書いて送信してくれ。すぐ過去に行くから心の準備をしろよ」
 僕は小学四年生の年を慎重に計算し、二月十三日、実家の住所を指定した。送った後、自分がシャツとサンダル姿であることに気づく。
「あっ――服はこのままでいいのか?」
 天野はきょとんとした。
「そんな心配をしたやつは初めてだ。お前は過去に戻るんだからな?」
 メールが返って来た瞬間、視界から天野と喫茶店が消え、僕は実家の布団に寝ていた。見覚えのあるパジャマ。足許にはぬるい湯たんぽ。ガサ、と窓の外で雪が木から落ちる音が聞こえた。

 すべてがあの当時の通りだった。父の勤める事業所はまだ閉鎖されておらず、母はまだ専業主婦だった。兄は高校に通っていた。当然、祖父は生きていた。祖母もしゃきしゃきと動いていた。猫もまだ家にいた。
 二十年ぶりにランドセルを背負うと、むずむずして変に気恥ずかしい。雪一色の通学路には冬でも元気な小学生が大勢いた。そして――教室には、彼女がちゃんといた。
 教室に入った途端、僕の足は止まった。自分の席がわからない。記憶を辿ろうとも何が思い出せるわけもない。仕方なく教室の後ろに突っ立っていると、懐かしい顔が次々声をかけてくる。うろうろしながら、みんな早く座れ早く座れと念じた。結局、担任の先生が来て最後に残った席は、彼女の斜め後ろだった。
 転送日をあの出来事の前日にしたのは単に臆病心からだったが、結果的に正解だった。小学生に慣れるのに一日費やした。こういうのは転送前に言ってくれ、と天野を恨んだ。

 篠崎由梨。今も字だって正確に覚えている。苗字の響きが硬いからユリちゃんとよく呼ばれていたと思うが、僕はずっと篠崎さんと呼んでいた。髪の毛が長くて、いつも肌が白くて、僕の落書き帳をよく覗きに来た。そばかすが少しあって、体操着の字が大きくて、たまにグーでぶってくる。それが篠崎さんだった。
 僕は四年生のとき彼女が大好きだった。だが彼女はみんなに明るくて、彼女が誰を好きかなど考えたこともなかった。
 昼前に雪空が割れて教室に明るい陽が差し込んだ。彼女の斜め後ろに座り、素直な黒髪からはみ出す白い耳たぶを何度か見て、幸せのうちに一日目が終わった。
 そして、問題の日が訪れた。四年生にもなればバレンタインデーは大きなイベントになる。学校に飲食物を持ってくるのは禁止だが、校内でこっそり渡す女の子も多かっただろうと思う。その日、篠崎さんが学校にチョコを持ってきたことを、今の僕は朝から知っていた。
 それは他でもない僕へのチョコだ。本音を言えば直接もらいたかったが、天野の言葉通りなら過去は書き換わらないのだ。残念がりながら放課後の校内放送を待った。予想通り僕の名が呼ばれた。
 職員室には担任の久保先生が待っていた。どことなく目が優しい。先生は引き出しから赤い箱を取り出し、僕に手渡す。おぼろげだった一部始終を、僕も段々思い出していく。
「これ、落し物で職員室に届いたの。学校にお菓子持ってきたらダメなんだけどね」
 裏返すと、赤い包装紙にすごく小さくペンで『ゆり』と書いてあった。強張った筆圧と字の小ささは今になって初めて気づいた。
「休み時間に篠崎さんに聞いてみたら、篠崎さんが落としたものだったの。それで、先生が放課後まで預かることになりました」
 先生は淡々と説明する。僕は黙って聞いていた。あの当時は恥ずかしくてパニックになったのだが、今はまだ冷静だった。だが、先生の次の一言でそれは見事に崩れた。
「岡本くんに渡そうと思ってたんだって」
 僕は一瞬で胸が熱くなった。僕は馬鹿だ。彼女がもし落とさず普通にもらっていたら、こんなに強烈な思いにはならなかっただろう。昨日までそんな素振りも見せなかった彼女が――いつ落としたことに気づいたのか、どれくらいこれを探そうとしたのか、どれくらい僕のことを考えたのか、それを思うと体が震え出しそうだった。
「学校で食べたらダメよ」
 僕は赤い箱を握り締め、逃げるように職員室を出た。背中に先生が声をかける。
「ちゃんとお礼言いなさいね」
 真っ赤な顔でどうしようもなく廊下を走った。

 まっすぐ家に帰って、母親にそれを話し、受話器を持った。直接会いに行きたかったが、今の意志は過去の体にまったく通じず、過去のレールをなぞり無念を噛み締めるだけ。コールすると、まるでそこで待っていたかのように彼女がすぐ出た。そうだったのか、と僕は驚き、同時にひどく悲しくなった。
 彼女は最初から泣いていた。僕は短くお礼を言った。彼女の言葉を待った。
「ごめんね……」
「……ごめん……」
 二人ともそれを繰り返した。受話器の先で、彼女の涙はずっと止まらず、僕は幼い自分を呪いながら、ただ突っ立ったままだった。

 チョコは二週間後にようやく開けた。その間、学校で彼女とろくに話をすることができなかった。今頃チョコを食べたことも彼女に当然言えず、ひたすら無駄に日が過ぎた。
 三週間目の日、彼女から放課後に引き止められ、教室で二人きりになり、彼女の口から四月から隣の県へ転校することを告げられた。陽が傾きはじめた広い教室で、僕たちは少し長い思い出話をした。彼女が僕のことを好きになった理由もそのとき教えてくれた。昔、落書き帳に彼女の絵を描いて見せたことなど自分でも忘れていたが、彼女はそれをはっきりと覚えていた。
 終業式の二日後に彼女は引っ越した。僕は少し早いお返しを持って彼女と会った。最後に、握手をするのが精一杯だった。それがちょうど僕が過去に滞在できる最後の日だった。


 帰り道、夕焼けの中に天野が迎えに現れた。
「思いは遂げられたのか?」
 小学生の僕は丁寧に頭を下げる。お礼のつもりだったが、気落ちした顔ではそう見えなかっただろう。
「ずっと思い出せなかったことが、この耳で聞けたよ」
「何だったんだ?」
 無遠慮に尋ねてくる。
「……それは言えない」
「そうか。まあ、お疲れさま」
 そう言って天野はどこかへ消えた。
 布団に入ればきっと夏景色に戻るのだろう。掌を見ると、もうそこに彼女の存在感は消えていた。だが、この一ヶ月を選んで間違いはなかった。道端の小石を蹴りながら、こだます音を身に刻み、家路をゆっくり踏みしめた。

(おわり)




<あとがき>
 本作品は、『Short Story FIGHT CLUB RT(Reborn Trial)』(以下FC-RT)に投稿した作品です。と言っても、実は投稿〆切日を間違っており、本選の横に置いてもらったのですが。
 テーマは「再」だったので、タイムトラベルという思い切り真正面から書いたものです。FC-RT会場では、「先生、女の子に返してあげてよ!ヒドイ!」という感想もいただいたのですが、普通ではないから、心に強く焼きつく思い出になったんだとも思うのです。そんな感じで、楽しんでいただけたら幸いです。



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