BLUE-RING
「随筆?のよーな」

In Hospital
     どーも私は、人畜無害、どーでもいいよーな人に見えるらしい。
認めたくはないのだが、否定する材料がないので、認めざるおえない
ところがあるのがくやしいところだ。
    Hospitalで、あのコ、かーいいなぁなんて、いつもの調子で見ていたら、
何気に、看護帽に手をやり、くっと胸をそらして、ニカッと笑う。
    こちらは、目が点になってしまっているよーで、彼女はお腹をかかえて
大笑いしている。まぁ、あきれたもので、ニヤニヤしてるしかないのだが、
    大サービスってところかな。
これを読んでしまった女性の方は「アホッ」とでも言って次の話にどーぞ。

 

皆さん の中には、生まれる前、お腹の中に居たときの記憶をお持ち
の方もいるでしょう。 私は生まれるときのことを憶えているようだ。
薄明るい、居心地のいい世界。どこからか、「さぁ出てきなさい」と聞こえる。
母も出なさいという。いやだなぁ、このままのほうがいいのにと思う。
しかたないかぁと思う。くるしいっ。記憶が途切れる。ふーっと
思っていたとき、バン バン と衝撃が走る。なんだ、どーしたんだ。
今で言う、「最悪!!」って感じ。
哺乳瓶で飲むミルク、お腹がすいてるから、飲むけど「マズーッ」ていう
感じ。
ベットで寝ていると。横を女の人がそっと通り過ぎていく。こっちに来て
もらいたくて、一生けんめい、呼びかけて話しかけているのに、その人はまた、そーっと歩いて行ってしまう。きっと、大人には理解できない言葉でしゃべっていたからだろう。
初めて歩いたときのこと
立って歩いてごらん。と言う。できそうだなっと思う。立って走ってあげよう。やってみると、できる。周りは、何か大騒ぎをしている。
私はこんなんで喜ぶんだと得意になっている。
だから、お腹の中にいる子は、けっこう あなたの言うことを聞いて
いるのだと思う。ただ、忘れてしまう。思い出さない。
そんなことが、あるはずがないという、思い込み。
それで、記憶に封をしてしまう。そーいうこと、ないでしょーか。

 

−ちょっと反省−
ネコは不思議なところがある。
私には、ごくたまにお参りするお宮さんがある。
主に、厄除けが目的なのだが、そこのお宮さんは、 行くと
不思議と気持ちが軽くなるのだ。
季節の花々も咲いている。今は、紫陽花の季節だ。
そこに、いかにも日本のネコ。白と茶のぶちのやつがいる。
かなりでかいネコ。そのネコとしばらく目があってしまったことがある。
そのとき、私は・・・かわいそうなくらい、ぶっさいくな顔してるなぁ・・・
と思いながら、見たのだった。
その後行くと、そいつは後姿を見せている。
又、こちらが動いてから見ると、方向をずらして後姿を見せている。
つまり、こちらには顔を見せないようにしているのだ。
ちょっと、かわいそうなことをしたのかなとは思うが、
目は口ほどに物を言うとは、ネコにもどうやら通じるらしい。

 


☆ 暑いねぇ、毎日 ☆
ページ更新はかなり、ご無沙汰してしまいました。
まぁそれで、この話しもこの際書こうかと、めんどくさがっている自分に発破をかけることにした。
これは、けっこう昔の話しだ。
 ある女性のアパートに遊びに行ったときのこと。
アパートは、階段を上がった一番手前の角部屋。この部屋には、窓辺に小さな手すりのようなサッシがついている。夕食かなんか食べ終わった頃だろう。なにかがサッシに飛び移ってきて、窓の外で相当じたばたしている。サッシと窓の間で、何かがもがいているのだ。何事かわからないが、何かとんでもない事件でもおきたようだ。
女は窓に行き、ガラス戸をあける。でかいネコが、そこにへばりついている。もちあげるとでれーと身体をのばしている。
丸い目は何を言いたいのか分からない。
どうやら外階段から、窓のサッシに向って飛び移ったようだ。ところが足場らしい足場がないので、もがくハメにおちいったようなのだ。
首輪はしていたが、野良のネコらしい。一度ミルクを玄関であげたことがあるようだ。
 これは、好きな人間のところに誰か来ているので、その様子が気になって窓に向ってジャーンプていうところじゃないかと、思うんだ。
ネコにはやはり奇妙なところがある。あれで結構人間のことが好きなのかもしれない。

 

☆ テレパシー☆

私ってきれい?

どこからか頭の中に
聞えてくる

きみのどこがきれいなんだ
どこもかしこも
まっくろじゃないか
まったく
きれいなとこなんかない

そう答える

あまり考えたことはないけれど
テレパシーってほんとに
あるかもしれない。

    *

気になつたので
送ってみる

テレパシーできるの?
できるみたい
なんで?
秘密。おしえない。

プチッというように
閉ざされる。

テレパシーが証明されたなどという科学的な話しは聞いたことがない。
ただ人間が持つ、微弱な電気をつかえばできないことはないのかもしれない。

 視線を感じることはよくあることだ。強い視線。
弱い視線。悪意のある視線。好意を感じる視線。
観察する視線。殺気。気配。気。そういうのは、感じる
ことはできる。うしろからでもわかるときがある。
けっこう皆、それは感じているようだ。
教科書では教えてくれない、ちがう能力が人間や動物にあるのかもしれない。

 聞く、見る、読むはもちろん大切なことだが、感じることをもっと大切にするのがいいと思う。
感情を踏まえた上での理論ってのかな。ただ、そういう私も鈍くて鈍感なところが多々あるようだ。反省して、もうすこし感度をあげていきたいな。         2001.9

 

テレパシーに関連して

私は母に、救われたことがある。
この話は、今まで誰にも話したことがない。しかし忘れることは出来ない。
まだ、中学に入って間のない頃だったと思う。
庭にいて、父は片付けごとをしている。
父はなにげに、「そこの、ヨキを取ってくれ」という。
私はヨキがわからず、「ヨキって何」と聞く。
父は、私の傍にあった、木を割るときに使うナタをとりあげ、
私の頭上にかざした。
私はどうしていいのか、わからなかった。偶然、近くに母はいた。
ただ、母は目が悪くほとんど見えない。耳もほとんど聞えない。
この状態は、母にはわからない。
「母さん、たすけて」と頭の中で、叫んでいた。
母は、ハッと父と私の間に入り、「父さん、何してるだ」
母は私を押して逃がしてくれた。
父とは、それから2ヵ月ぐらいは、口を聞かなかった。
口をきいたとき、父がほっとしたような表情をみせたことを覚えている。
ちなみに、父は行儀が悪いといって娘の頭に箸をつきたてるような、
そんな男だった。
                          2001.10.21

 

受けとるもの

私が母から受取っていたもの、
郷里に帰っても、さして言葉を
交わす訳でもない。
むしろ、わずらわしく
うるさく、感じたものだ。
晩年、母はよく私の手をとっていた。
今から思うに
ただそこに居るだけで
良かったのだろう。
姿をみるだけで良かったのだろう。
きっと私は癒されていたのだ。
・・郷里への思いは、薄らいでいくばかりだ。

                                   2002.1.27

 

 自戒をこめて

あなたにとって、「しあわせ」とは何ですか。
あなたは今「しあわせ」ですか。
私は今「しあわせ」だと思う。
お金もない。愛情もたぶんないけれど。
 
「しあわせ」も「愛情」も定義はない。人によって尺度も感じ方も違うのだから、むづかしいが、感覚的にはないようだ。
 いつかのある日、私はあるプログラムを作ろうと頭をひねくりまわす。問題点が浮上する。考えるうちに解決案が浮かび上がる。問題点が解決する。次のプログラム作りにとりかかる。この繰り返しで少しずつ目的のプログラムが形をなしていく。
 男と女のことよりも、プログラムを自分の思うように作るのに「しあわせ」を感じている。
 そのとき、自分のおかれた、その状態により「しあわせ」の対象は変わっていくのかもしれないけれども、ただ、問題はプログラムを作るのに「しあわせ」を感じてしまう者は、本来の人間性をねじまげたものでしかないのかもしれない、ということだ。あまり、動物の本能に近い人間が増えるのもうっとうしいが、プログラム作りに「しあわせ」を感じてしまう人間も、こんなんでいいのかしらと思ってしまう。
 何か作り出す喜びは、「しあわせ」に通じるものがあると思う。しかし、日常の人とのコミュニケーションや自然とのふれあいでの喜びを大切にしていかないと、わずかに残っているかもしれない「愛情」や「気持ち」を消し去ってしまうかもしれないと、自戒をこめてふりかえるのだ。
                                   2002.3.6

 

「物は捨てても」

「愛情」とは、やっかいなしろものだ。理屈ではかたづかない、捨て去ろうにも、物は捨て去り、失うことは出来ても残像のように残り、フラッシュバックとばかりに、甦ってみたりと、皆、その取り扱いには四苦八苦する代物だ。歌ではないが、現在過去未来きっと永劫に続く人間のサガなのだろう。人間のおもしろいところでもあり、つらいところでもある。

                                 2002.3.8

 

 「老 害」

このテーマはむずかしいが、書いておきたい


 ある程度の年齢までくると、人の能力は衰える。あたりまえの

ことだが、それを自覚していない人は多いようだ。

自覚していくことは、大切なことであり必要なことだ。


 ある程度、役職がついた者、まして、社長などとなると、

面と向って能力の衰えを指摘されることはまれだ。

ただし、現実を見てみると

第一に記憶力の面で衰える。または、記憶力がなくなる。

第二に思考の柔軟性がなくなる。

  ようするに、頑固になるということだ。

  そして、人の意見を聞かなくなる。

第三に体力がなくなる。持久力・思考の柔軟性もなくなる。

  それとともに、聴力・視力がおとろえる。

  聴力・視力の衰えは猜疑心を強くする。


 このような者とは、仕事にならない。

信用・信頼どちらも持てないからだ。

人はある歳を境に老いてゆく。老いてゆく歳は、人それぞれだ。

その老いを自覚していくことは大切なことだ。

自覚した上で、社会とかかわっていかなければならない。

 老いを自覚できた者は、人に仕事を任せ、退くことを考えるべきだ。

仕事というものは、実際にはほとんど「自分がいないとできない」のではなく、

「自分がいなくてもできる」ものなのだ。

 信用・信頼されない者は、ビジネスの社会では通用しない。

やがて「老害」と言われ、排他されていくだろう。

2002.5.7


        お金の話    2002.9.15

夕暮れ時、とある駅前の横断歩道で信号待ちをしていた。
急に私の左側の、道の向こうの歩道に面した自動ドアが開いた。
シルバーの反射ガラスで、普段は中が見えないようになっている。
中は薄暗いが、多くの黒い頭がうごめいている。背広を着た中年の男があふれていた。ぎらつく目。ATMが薄白くその奥に見える。
どこにでもある消費者ローンであった。人の多さに戸惑う。
あれほど利用者が多いのかと。その光景は脳裏に焼きつく
 お金を借りるとは、どういうことなのか。今は、大人一人がお金を借りたいとき、消費者ローン数社をまわれば
100万円程度ならすぐに借りることができる。しかし、はじめからそんな借方をする人はまずいないだろう。
 はじめは皆、数万円の借り入れから始める。そして給料日に返済することを考える。それを繰り返すと、借りることに抵抗がなくなる。

10数万円の借り入れをしても、ボーナスで返せばいいと考えるようになる。だが返済したとしても、翌月にはまた借りてしまう。そうなると、借りることが生活のパターンとしてすりこまれてしまう。
 人は、本人が思っているよりも、はるかに弱い動物だ。
収入が少ない状態は変らない。そして、返すことができなくなる。
借りることが日常化したときに、はじめて金利の怖さが出てくる。
年利
30パーセントがあたりまえの世界だ。100万円のローン残高があって一年経過したときには、金利は30万。合計130万円。「収入がたりないから、借りる生活」は変らないのに、借入金の返済日は当然やってくる。返済金を用意するために借り、借り癖のついた生活パターンは変らない。そして、借入金は雪ダルマ式にふくれあがっていく。TVでのコマーシャルはかわいい女性が借り入れを呼びかける。まるで借りることがファッションであるかのように。消費者ローンで働いているであろう人は、そうとう多いと思う。この業界や、そのシステムが悪いということではない。ただ、お金を借りるということは、その時点で自分の実力を超えたものに手を出しているということなんだ。それは、住宅ローンや教育費のローンにしても、実は同じことなんだ。もちろん金利の差は大きく、その支払うコストの差は莫大な違いはあるのだけれども。
自分の実力に見合った生活をしてもらいたいものだ。「無いなら・無いなりの」見得など捨てて、工夫した生活をすれば、かなり少ない収入でも生きていくことは可能であると思っている。
 あの夕暮れの光景から、もう半年がたとうとしている。

「毎月2万円5年間借り続けたらどうなるか。シミュレーション」


 

    争いについて思うこと


戦いは憎しみを生み、略奪は略奪を呼ぶ。

戦争によりその国を従えることは、過去

多くの例があろう。長くは続かず、破綻を

迎える。

従えるのではなく、生かすことが共存を

生み、繁栄をもたらす。

自国が一番であり、正義と思うのは

おごりである。過去の日本がそうであったろう。

わからないもの、理解できないもの、それが

あるのが人間であり、人の世界なのさ。

               
            2002.9.15

 

ある日の夕方

カウンターで
ぐっと一息
栄養ドリンクを
飲む
カツン と空き瓶を置いて
さっそうと 背筋をのばして
出て行く 女性 ひとり
これから 一勝負なんだな
と 思う

                                        2003.9.22

 

こんなことってあるのかな

でも、これは夢ではない

決して、面白くはない話だ

一回目は、紫陽花を撮りに行った時、

二回目は、花火大会に行った時

としのころは、30歳前後のご夫婦が前からやってくる。

そして、女の子は自転車の子供用のかごにすわっている。

かわいい花柄のワンピース。とても女の子らしい顔立ちで、容姿はととのっている。

二回目は、ご主人に抱かれていた。やはり、整った顔立ちの

美しい顔をしている。普通であれば、可愛い子だねと、ほほえんですれちがえるところである。

その娘の目を見たときである。きれいな形の目。澄んで、冷静で、ひとつも笑っていない。

冷たく、観察する目。この娘は、なりと様子は、3歳ぐらいだが、大人の目をしている。

大人の観察眼で、冷たく評価し切り捨てる目だ。私の眼も冷たく凍り付いてしまった。

こんなばかなことが、あっていいのだろうか。わたしが変質したのだろうか。

だが・・あってもおかしくはないことだ。3歳児でも大人の思考力と頭脳をもっていても

そんなに不思議なことではないはずだ。しかし、いままで目の当たりにすることは、

なかったように思うが、気がつかなかっただけなのだろうか。

あるいは、なりは3歳児だが、そのまま成長がとまってしまったためとか・・

ありえないことではないが、可能性は低い。

普通に考えれば、ちいさな幼児でも大人と同じ思考をする子供が増えてきつつ

あるということではないのか。

 小さな幼児だからといって、幼い思考力しかないとは、限らない。

年齢は関係なく、その思考や知識・感情・怒り、決して浅いものではないのではと思う。

それにしても、私は幼児は幼児なりの微笑をもたらしてくれる子供のほうが好きだな。

どうしようもないこととはいえ、なんか、殺伐とした世界を突きつけられたような、

そんなふうに感じるのだ。                 2004/8/3

 

基盤について
 私は、以前から人が生きていくためには、ある程度の基盤が必要であると考えている。
あたりまえだと思う人は多いに違いないが、あえて書いておこう。
基盤についての解釈はさまざまだ。人により、同じ人でも、時により、この基盤への解釈は
変わってくる。
 私の言う基盤とは生きていくために基本となるものを意味するのだが、「環境」という言葉
にも近いだろう。
基盤は、親であることもあるだろう。家や土地など、住む場所であることもあるだろう。
友人であることも、親戚であることもあるだろう。他に国家資格だったり、その他生きていく
ために必要な資格であることもあるだろう。その人が、生きていくために、どうしても必要な
もの、それが基盤だ。
基盤となるものが、揺らいでいるときには、その人間はきちんと立っていられなくなる。
 それにしても、親は子にどれだけの基盤を与えたらよいのだろう。子がきちんと生きて行け
るよう、自立できるよう、その子の基盤が出来るよう見続ける。子が大学への進学を望めば、
それに答えようとする。それは子にとっては、意識するしないにかかわらず大きな基盤となっ
ている。子の望みをかなえようとすることは、子にはささえとなり、それが基盤となっている
からだ。そして大学を出し、学費などの負債を負わさないようにする。自立時に、ある程度の
資産を分け与えられるようにするのは、親としては理想である。
 それでは、親自身の基盤とは、なんだろうか。
生きていくために最低限必要なもの。収入であろう。
仕事があり、収入があること。居住の場所が確保できていること。
ここに揺らぎがあるときに、さまざまな問題が発生してくるのだ。
 今現在の、私自身の基盤、それを大きさにおきかえたら、どれくらいのものだろう。
感覚的に、自分自身の肩幅を円形にした大きさだろう。それしかない。立っていられるだけ
のおおきさだ。かなり、あやうい大きさの元に、私は生きている。

                                        2004.10.19

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