諏訪大明神のもともとの姿が龍神であるという伝説は古くからいわれており、

中世の日本において、この諏訪を中心にして龍神信仰(諏訪信仰)が大きな勢力を

誇っていたのは間違いないようです。

 

狛桙 こまぼこ   高麗・右方四人舞

龍伝説

「信濃には神無月はない」

龍・龍神にまつわる  伝説・昔話・民話

信濃の民話から −その2−

 

 

毎年十月になると神様が出雲国へ集まって国造りの相談をすることになっておりました。

そこで十月はどこの国の神さまもお留守になり、神さまがいない月というので神無月というようになりました。

ところがある年のこと、信濃国の諏訪の龍神様の姿だけがどうしてもみえません。

そのうちに見えるであろうと待っていましたが、しまいには待ちくたびれてしまい、

「信濃の神さまはどうした、病気か、それとも遅刻か、いつまで待たせる気だ。」

と、神々たちがさわぎ出しました。

すると天井からでかい声がしました。

「わしはここだ。」

「紅葉と龍」

 

 

神様たちはどこだどこだと天井をふりあおいで真蒼になりました。

天井の梁に樽(たる)ほどもある龍がきりきりと巻きつき

真っ赤なへら(舌)をぺろぺろ出しているではありませんか。

「信濃国は遠いので、こういう姿でやってきたのだ。

わしの体はこの家を7巻き半しても、まだ尾は信濃の尾掛の松にかかっている。

部屋に入って座らずと思ったが、神々がたを驚かしても悪いと思って天上にはりついとった。

何なら今からそこへ降りていこう。」

というなり龍神様はずるずると天井からおりはじめました。

神様たちは蒼くなって、

「いやいやそれには及ばん、なるほど信濃は遠いで大変であろ、これからはどうかお国にいて下され。

会議の模様や相談はこちらから出向いてしらせにいく。」

と、あわてふためいて手をふりました。

 

龍神様はからからと笑って、

「そうか、それは有り難い。」

とみるみる黒雲に乗って信濃国の諏訪湖へおかえりになり、湖のそこ深く姿をけしました。

それだから、信濃国には神無月はないといいます。

 

「信濃の民話」より  

― 信濃の民話編集委員会編 ―

 

なんと、家を7巻き半し、更に出雲から信濃までの距離をもってしても尚、まだ尾は信濃の尾掛の松にかかっていると言うのですから、その大きさと言ったら想像を絶するものがありますね。

それでは、諏訪大明神が龍であるお話しを続けたいと思います。

 

諏訪大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)南北朝期(1356年)に製作された諏訪社最古の縁起書(縁起5巻、諏訪祭7巻からなっている。残念ながら図書館、本屋、古本屋と当ってみたが見つかりませんでしたので、黒田日出男さん著「龍の住む日本」から引用させていただくと、諏訪大明神は軍神・戦神であると紹介しています。

それは二度に渡る蒙古襲来のときに、諏訪大明神は龍体となって現れ、なんと日本軍と一緒になって闘ったというのです。

 

後宇多院の御宇、弘安2年(1295年)の夏のことであった。

諏訪社で神事が行われていた時、日中に異変が起こった。

 

大龍が雲に乗って西へ向ったのである。

参詣の人々が目を凝らしてみると、雲間に檜皮(ひわだ)の色がひらひらと見えた。

一頭の龍であろうか、それとも数頭の龍であろうか。首尾は見えなかった。

これは、諏訪大明神が「大身」つまり龍体を現して、本朝に※贔屓(ひいき)しようとする姿である。

この出現がどのようなしるしであるのかははっきりしない。

「龍雲」

 

実はこの後宇多院の御代のはじめ、文永11年(1274年)10月の蒙古襲来の時には、諏訪大明神が発向したので、蒙古の軍船が漂倒したことがあったのだけど、これほどのことではなかった。

そこでこの度はいかなることが起こるであろうかと疑っていたところ、やはり大元の将軍夏貴らに率いられた大軍が襲来してきた。

六百万艘の船を和漢の中間の洋上につらねて、先陣が数万艘来朝し後陣の続くのを待っていると聞こえてくる。

しかるに同年6月25日、悪風がにわかに吹いてきて、蒙古軍の兵船は、あるいは転覆し、あるいは破裂してしまい、軍兵はみな沈没して、日本侵略は失敗に終わった。

 

・・・この尊神化現の大龍の姿は、博多の津で同時に出現されたので、石築地の工事のために発向していた軍卒らも、それに力を得て蒙古軍を責めたのだとは、後から聞いたことである。・・・という。

 

中世時代、蒙古の勢力が強くて、日本は大変脅威に感じていたのは事実で、蒙古襲来絵詞によると、二度の元寇のうち、二度目の蒙古軍の規模は相当大きかったようです。かたや鉄砲を使う蒙古軍に対し日本軍は刀や長刀しかなかったので、諏訪の明神さま初め神々様たちの加勢がなかったら歴史は変わっていたかも知れません。

まさに「神国日本」といわれる所以と言えそうです。

 

―参考資料として―

*文永の役 

元軍の規模 高麗軍約12.300 元・宋軍約20.000 計約32.000人 船隻900

 

戦況と経過 

1274年10月に博多湾岸の今津に上陸。日本軍の方が劣勢だった。

その晩、日本軍の夜襲を恐れて船に戻った元軍のところへ暴風雨が来る。

元軍の船の多くが沈没した。日本はその後、石塁を築くなどして博多湾岸の防備に努める。

蒙古襲来の絵

 

○弘安の役 

     元軍の規模 高麗軍約42.000 元・宋軍約100.000 計約142.000人 船隻4.400

 

○戦況と経過 

     先発の高麗軍は1281年6月、博多湾の志賀島まで迫るが、肥後の御家人(竹崎季長)の奮戦に上陸をはばまれる。

元・宋軍とは平戸で合流後、7月に鷹島(たかのしま)に集結して一挙に博多湾を襲うとしていた。所が台風に見舞われ壊滅的な被害を受ける。

この時元軍の多くが沈没。兵員の4分の3を失った所に、日本軍が巻き返しを図った。

 

○武器と戦法

     元軍武器−てつはう(火薬を詰めた鉄の球に火をつけて飛ばす)爆音で驚かす。

 

○毒矢・長槍等

     戦法−集団戦法(指揮者は高所にいて指令を出し、太鼓や銅鑼などの合図を基に一斉に攻撃をする)

 

○日本軍武器−刀・矢・薙鎌・縄付きの熊手(乗船の為)等

     戦法−一騎打ち(先祖の立てた手柄と自分の家系、戦いの正当性を名乗り、よき敵を選び一人対一人で戦う)

以上のことからも、日本軍の戦力より元軍の戦力が上だったことが窺がえる。

 

まさに2回に渡る台風は神業と言えそうですね。

 

 

※贔屓(ひいき)

ここで贔屓という言葉が出てきましたので、龍の九匹の子どもについて面白いお話しがありますのでご紹介します。

  池上正治著「龍の百科」によりますと、明代、文人の楊慎の編纂した「升庵外集」に

「俗説では、龍は九つの子を生む。それは龍の形をなさないが、それぞれに好むところ(役割)がある」として以下のように解説しているそうです。

 

     一番目は贔屓(ひいき)といい、形はカメに似て、重いものを負うことを好む。

               いまは碑の下のてつとなる。

     二番目はり吻(りふん)といい、形はケモノに似て、遠くを望むことを好む。

               いまは屋上の獣頭となる。

     三番目は蒲牢(ほろう)といい、形は龍に似て、吼えることを好む。

               いまは鐘の上の紐(ちゅう)となる。

     四番目は(へいかん)といい、 形はトラに似て、きわめて威圧的である。

               それゆえ常に獄門に立てる。

     五番目は(とうてつ)といい、 形は獣に似て、いたく飲食を好む。

               そのため鼎(かなえ)のふたに立てる。

     六番目は(はちか)といい、  形は怪魚に似ておりはなはだしく水を好む。

               それゆえ橋の柱に立てる。

     七番目は(がいさい)といい、 形は龍に似ており、殺すことを好む。

               それゆえ刀の環(たまき)に立てる。

     八番目は(しゅんげい)といい、形は獅子に似ており、きわめて煙や火を好む。

               それゆえ香炉に立てる。

     九番目は(しょう図)といい、 形は大カエルないしタニシに似て、閉じることを好む。

               それゆえ門の舗(ドア・ノブ)に立てる。

 

これらの龍の九つの子は、いずれも高貴な存在で、瑞祥を意味し、しかも、親の威光というわけでもないが、邪を退けて、安全を保つ役目をすると書いておられます。

江島神社の奥津宮にある手水舎に、贔屓とみられる亀が柱の台座になっていたので、写真を載せます。

また普段何気なく使っている「贔屓(ひいき)」という言葉は、ここから来ているのだそうです。

九番目のしょう図は、金属製の獅子みたいな顔のもので、それの輪っかをコンコンと鳴らすドアノブのことです。

ひいき

ドアノブ

参考文献 「信濃の民話」:信濃の民話編集委員会編

挿絵 「諏訪大明神画詞」

「龍の住む日本」:黒田日出男著

「蒙古襲来絵詞」 「龍の百科」池上正治著