祝詞 〜おすすめ祝詞〜 
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「祝詞」はいわゆる「しゅくし(祝詞)」といわれるもので、神様への信奉心を表す手段であり、 そして自然の恵みへ対する感謝の心から、その収穫の「喜び」を「祝詞」という言霊に形を成し、 全身全霊で神様へ伝えるものであります。
「神への信奉心を誓い、自然の恵みをいただきながら生きていける事の感謝を神様へお伝えする」ことが、 祝詞の正しい真であり、祝詞奏上の際の考え方であります。 一方、「祓詞(はらへことば)」はイザナギ・イザナミの神話に由来します。 神代の頃、イザナギノ大神が黄泉の国から帰った後、阿波岐原にて汚れた体を洗い清めたところ、 そこから数多くの神様がお生まれになりました。
同様の効果が得られると考えられています。
ですから、祓詞は、祝詞を唱える前に詠み上げられます。 多くの悪物、罪、穢れを祓い清め、清浄な息吹になるように、祈願申し上げるものです。
祝詞は「言霊の持つ力が重要である」と言われる方がおられます。 一言一句を大事にしながら、丁寧に読みあげることは大切なことです。 また、発音や奏上のリズムも重要な項目であります。
少し「言霊」について考えてみることにしましょう。 いったい、「言霊」とは何であるでしょうか。 古来より「言葉には霊的な力が宿る」とされ、 声に出した言葉そのものが、現実の物事に何らかの影響を与えるとされました。
良い言葉を発すると良い事が起りますが、反対に不吉な言葉を発すると、凶事が起るとされます。 今日では結婚式などのお祝いの席で使用してはいけないとされる「忌み言葉」など この思想が形を変えて後世に伝わったものです。 また己の意志を言葉に発する事を「事挙げ」と言いますが、その言葉が己の「慢心」で 塗り固められていた場合は、悪い結果を及ぼすとされます。
「言挙げ」は古事記において次の神話で伝えられています。 神代の頃、日本武尊が伊吹山へ登頂の折、山神の化身である猪に出会ったところ 「これは山神の使者であろうが、今ではなく、下山の際に退治してくれようぞ」 とわざわざ口に出し叫びました。 これが「言挙げ」であります。 しかしそれは尊の「慢心」による言葉であり、神の使者とした猪も実は山の神の化身であったがため、 日本武尊は神の怒りをかい、結果、命を落とすこととなりました。
「慢心」による「言挙げ」は神代の頃から「タブー」とされ、現代においては 「口は災いの元」とされます。
そのことから、自分の意志を述べ立てる「言挙げ」は古来より忌み嫌われ、ゆえに日本は 世界でも例を見ない「奥ゆかしき国」と成るにいたります。 そういった日本人の心(文化)は国内外でなにかと論議されるところでありますが 日本は言魂の力により幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされており、 神代の霊体を継ぐ、独自の思想をもった、すばらしく秀でた民族「日のいずる国の霊族」なのです。 ですから、言葉に魂が宿るとされる「言霊」は、言葉を発する者の心構えによって、 「善」ともなるが、「邪」ともなるわけです。 祝詞や祓詞も、全く同じことが言えます。
祝詞により、正しく喜びの魂を宿し神様へお伝えするために必要なことは、 まずは己の心を整えることです。
日頃から神様や自然に感謝して、他人様をねぎらい、あらゆるものを大切に思う心こそが 大切なことであります。 慈愛の心を持つ方が詠む祝詞は、必ず正しい言霊へ通じるものです。 祝詞は、言霊の持つ力であり言霊の集大成ともいえるものですが、 心がきちんと整いませんと、一生懸命一言一句を整え読みましても、 本来の、「神様へ伝える喜びの祝詞」の意味を成しません。 いくら言葉がきれいでも、それは見せ掛けだけのもので 正しく神様へ通じることはありません。 神様は、何時とも私達を見守ってくださっております。 日頃の生活の中で、まずは「生かされていること」への感謝の心が喜びの心となって、 喜びの心が自然に己の体からオーラとなってにじみ出、 喜びのオーラは「神気」となって、ゆっくりと神様へ結ばれるものです。 喜びのオーラは、身のまわりの者までも包み込みますから、 いつも和やかで、争いやいがみ合いがありません。 絶えず人と人との紛争が絶えない方は、「お詫びのお参り」を徹底してなさいますと 次第に穏やかな心へ変化いたします。 身に覚えのある方は、是非お試しください。 しかるに「祝詞」とは、 それに確かな力を持たせるために成すべき事は 一、心を和やかに穏やかに喜び楽しむ心 二、あらゆるものへの感謝の心 三、生かされていることへの感謝の心 四、正しい言葉 五、神気を振るわす音調 以上が、祝詞を奏上する際の考え方であると確信いたします。
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