昭和20年3月10日 東京大空襲の夜は学徒勤労動員先の相模原造兵廠の宿舎から真っ赤に染まった東京の空を見ておりました。
それから2週間後、一面焼野原の東京を後に上野から東北本線で盛岡の学校に向かいました。
ここまでは前回の自分史に書いてあります。

初めて明かす自画像〜約60年〜50年前(2006年)

 
昭和17年         昭和20年(1945)盛岡   昭和22年(東京)        昭和24年

 
昭和20年(終戦の年)の出来事
 
1月 ・東海地方に大地震(三河地震)死者 1,961人、全半壊1万7千戸(13日)
    ・最高戦争指導者会議、本土決戦を決定(18日)
2月 ・米軍、硫黄島に上陸(19日)
3月 ・東京大空襲(無差別夜間絨毯爆撃)B29約300機、22万戸焼失、
    死傷12万人、罹災者100余万人(9日夜〜10日)
   ・学童集団疎開強化要綱決定(15日)
   ・硫黄島の日本軍全滅(17日)
   ・国民学校初等科を除き、学校授業を1年間停止を決定(18日)
4月 ・旧制官立農林専門学校の入学式
    速成教育を受けて再び食品工場に勤労動員
   ・米軍、沖縄本島に上陸(1日)
   ・小磯内閣総辞職(5日)
   ・戦艦大和轟沈(7日)
   ・鈴木内閣成立(7日)
5月 ・東京山の手大空襲(24日)
6月 ・沖縄南部で「ひめゆり部隊」自決
   ・沖縄の日本軍全滅(23日)
   ・主食の配給1割削減(2合1勺)
7月 ・仙台空襲 被災戸数12,000戸 死者1,066人(10日)
   ・釜石艦砲射撃 釜石製鉄所全滅 一般被災戸数4,100戸 死者1、050人(14日)
   ・青森空襲 被災戸数15,000戸 死者 994人(28日) 
   ・米機動部隊関東各地を空襲(26日)
8月 ・広島に原子爆弾投下(6日)
   ・長崎に原子爆弾投下(9日)・秋田土崎港空襲 日石秋田製油全滅 死傷者292人
 (14日午後10時頃から15日午前2時頃)
  
 ・ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏。天皇が戦争終結の詔書放送(15)

   ・鈴木内閣総辞職(15日)
   ・灯火管制解除(20日)
   ・米軍先遣隊、厚木に到着(28日)
   ・学校授業再開を通達(28日)
   ・連合国最高司令官マッカーサー元帥、厚木に到着(30日)
9月 ・降伏文書調印(2日)
   ・シラミが媒介する発疹チフス予防のため、立川基地上空からDDTを
    空中散布(10日)
   ・GHQが東條ら39名の戦犯容疑者逮捕を指令(11日)
   ・「日米会話手帖」発刊、20万部を売る(15日)
   ・枕崎台風、死者行方不明3,756名17日)
   ・文部省、戦時教材等の省略削除を通達(墨ぬり)(20日)
   ・GHQ、治安維持法廃止・政治犯釈放・特高警察廃止を指令(20日)
   ・復員第1船、メレヨン島から到着 (25日)
   ・天皇、マッカーサー元帥を訪問(27)
   ・ラジオの「街頭録音」放送始まる(29)
   ・漫画「黄金バット」発売、20万部を売る。
10月・東久邇宮内閣総辞職(5日)
   ・初の戦後企画映画「そよ風」封切り主題歌「りんごの歌」大流行(11日)
   ・第1回宝くじ発売、1等10万円(29日)
   ・松竹歌劇団、戦後第1回公演(29日)
11月・全国人口調査、7,199万8,104人 (1日)
   ・日本社会党結成(2日)
   ・財閥解体を指令(6日)
   ・ズルチン完成、砂糖の代用品としてもてはやされる(9日)
   ・戦後初の大相撲が両国国技館で観戦料30円(16日)
   ・神宮球場で全早慶野球試合(18日)
   ・プロ野球東西対抗試合(23日)
12月・「りんごの歌」が初めてラジオから流れる(10日)
   ・衆議院議員選挙法改正、婦人参政権成る(15日)
   ・新選挙法公布(17日)
 
GHQにより「ラジオ体操から航空機開発」まで禁
  
修身・国史・日本地理の授業 停止、教科書回収を指令
・大東亜共栄圏、大東亜戦争の呼び名禁止
・演劇322作品・映画236作品 軍国主義、国家主義等テーマの上映制作禁止。56名追放
・歌舞伎、文楽の上演禁止。忠臣蔵、仇討ち関係
・ラジオ放送全面管理、ニュースは東京放送局に限定
・原子力及び関連事項の研究の禁止、ウラニューム没収
・航空機の生産・研究・運航、開発、ロケット、ダービン、ジェットその他動力源研究禁止破壊
・サイクロトン、京大、阪大、理研の設備破壊、海中投棄
・探知機関係使用禁止
・NHKのトランジスターの研究発表禁止。
・ラジオ体操の禁止
・剣道、弓道、相撲(興業は除く)禁止
・軍事恩給の停止
・米兵と日本人の結婚禁止
・隣組、神道、の支援、後援、禁止
・国旗掲揚禁止。
・その他


明けて昭和21〜22年 1946年の出来事
この年1947年 私は再び東京に戻る
当時の世相
 
 ▼新円生活が始まり、手持ちの衣類や家財道具を米穀に換える“タケノコ生活”続く。
  列車は人であふれ窓から出入り。  
 ▼愛飲家たちはカストリ焼酎や粗悪なメチルアルコ−ルを飲み始める。
 ▼映画にキスシ−ン登場。
 ▼4月10日、民主政治下初の総選挙が行われ、全国で39人の女性代議士が誕生した。
【世 相】
 ▼流行語・・アッそう、隠匿物資、愛される共産党
 ▼文 芸・・森正蔵「旋風二十年」、永井荷風「腕くらべ」
 ▼映 画・・大曽根家の朝、カサブランカ
 ▼流行歌・・リンゴの唄、かえり船
 
昭和二十二年 邦画〜1「安城家の舞とうかい踏台」「戦争と平和」 洋竿「荒野の決闘」「心の旅路」「ガス燈」
昭和二十三年 邦画−−「酔いどれ天使」「わが生涯の輝ける目」「破戒」「王将」洋画T−−「ヘンリー五世」
「我等の生涯の最良の年」「旅路の果て」「美女と野獣」


朝日新聞、毎日新聞 昭和史より昭和58年版
薗部 澄氏の「忘れ得ぬ戦後の日本」・昭和63年版より写真、その他インターネットを参考

●この写真は千葉県内の買い出し列車と、渋谷に繰り出すカストリ屋台



●都会と農村の典型的な姿
釣り糸を垂れて黙然と当たりを待つ人
食料を背に黙然と帰路を急ぐ人
「農村と都会」の現実 昭和21年(1946年)

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戦時中は長期戦を覚悟し政府や国民は物資の貯蔵に努めたが、都会地は全国中都市に至るまで一面焼野原となり、一般小市民は農村に食料を求める為に多大の犠牲を払った。物々交換で都会の貴重な財産は「穀物や野菜」に変わった。
農地解放、小作人制度の廃止、農民の人権回復、労働組合の復興、そして穀物、特に「米」の価格暴騰と猛烈なインフレと配給物資の遅配欠配で小市民は迷い彷徨った。

 「禁制品」の米や野菜、繊維製品が法外な「ヤミ値」で取り引きされた。密造酒の「カストリ焼酎」を飲んで「メチル中毒」死す
る者も出た。戦災で家や家族を失った「戦災孤児」の「浮浪児」や「浮浪者」、白いマフラーを首に巻いた飛行服の「特攻隊くず
れ」や「復員兵」、進駐軍の兵隊に体を売る「パンパン」「夜の女」が群がり、かっ払い、ケンカが日常の無法地帯になって、しば
しば警察の「狩り込み」が行われた。
 五〇〇万人を超える海外からの「引き揚げ者」復員兵が加わって、食糧事情は飢餓的状態であった。一目二合一勺(約三〇
〇グラム)の主食の配給ではどうにもならなかったし、それも「遅配」「欠配」続きで、東京上野では多いときには一日六人の餓
死者が出ていた。「米よこせデモ」「食糧メーデー」が行われた。学校は休校、都市近郊の国鉄、私鉄は「買い出し列車」になっ
た。疎開で戦災を免れた衣類をリュックにつめて、農家に頭を下げて米や野菜と交換する「たけのこ生活」で飢えをのいだ。食べ
物の恨みから歌舞伎俳優二一代目片岡仁左衛門一家五人が殺され、買い出し女性が殺人魔小平義雄の毒牙にかかった。ヤミ
を拒否して栄養失調死した判事もいた。


新宿駅付近・「聚楽」左後方「武蔵野館(昭和23年頃)
新宿駅の東口・西口の大規模な暴力団闇市が出現
昭和24年GHQの命令で闇市撤去。

占領軍相手の商売、隠匿物資〜闇市の隆盛。正直者は生きる事さえ難しかった。
この農地解放は数千年来の制度を全面的に改革する事にあり、与えられたアメリカ的民主主義の第一歩でもあり旧地主や旧資本家
の壊滅であった。
刻々と占領政策が浸透し弱肉強食、間違った利己的個人主義、大多数の方々は益々苦しい生活となり、成金と闇やの繁栄となった。

又、GHQ統治下の奇怪な未解決の大事件も発生した。
帝銀事件、昭電疑獄・下山事件、三鷹事件・松川事件等々相次いだ。

●帝銀事件
昭和23年(1948年)帝國銀行椎名町支店に東京都防疫班と称する男が予防薬と云い、青酸化合物を職員16名に飲ませ12名
が死亡4名が重傷となる事件があった。犯人は毒薬に精通し、旧陸軍の生物兵器を研究していた731部隊か特殊工作教育を受
けた関係者に目を向けた。確実な決めてはなかったが、犯人は逮捕され、最高裁で死刑が確定したが、無実を訴え17次に及ぶ
再審請求も全て却下、昭和62年に95歳で死亡するまで刑は執行されなかった。
犯人逮捕で旧陸軍関係者の捜査は不徹底に終わった理由として、旧陸軍の技術情報を得ようと
GHQが捜査に圧力をかけたとも
いわれ、犯人と称する男の刑も執行されなかった。

●昭和電工疑獄事件
巨額の不正融‡が発覚
昭和二十三年四月、国会で野党・民主自由党の高橋英昔が、当時の首相だった芦田均と国務大臣・経済安定本部総務長官だった
来栖剋夫らについて、復興金融公庫から昭和電工への不当な融資が行われたことに関与している疑いを追及した。これに端を発し、
五月には東京地検が昭和電工本社の家宅捜索に着手、六月二十三日に社長の日野原仙即三を贈賄容疑で逮捕するに至った。
 昭和電工は戦後復興のため優先して融資を受けることができた化学肥料メーカーで、復興金融公庫から化学肥料業界への融資総
額の半分にあたる巨額の融資を受けていた。
日野原は義兄にあたる政界の大物、菅原通済の斡旋で昭和電工の社長に就任し、肥料製造を主体に切り替えるなど計画的に不正融
資を受ける準備工作を進め、有力政治家や官僚に賄賂を送り、不足していた食料品を毎日のように有力者に届けるなどしていた。 家
宅捜索によって昭和電工本社から押収された社長秘書の手帳から賄賂の送り先や金額、日時までが明るみに出て、政界からは芦田、
来栖長官、官僚からは大蔵省主計局長・福田剋夫など六四名が摘発を受け、そのうち四四名が起訴されている。十月七日に至り、芦
田内閣が絵辞職して事件は一応の決着を見た。

一件の背後にGHQ, 起訴された四四名の裁判は、その後一〇年の長きに及んだ。だが、動かぬ証拠がありながら、芦田をはじめとする
大物政治家は、経済安定本部総務長官で前蔵相の栗栖剋夫を除いてすべて無罪となり、官僚だった福田も同様に無罪判決を得た。社
長の日野原は執行猶予つきの有罪となたものの、政界を大きく揺るがしたにしては竜頭蛇尾とも思える結末を迎えている。 政治家や官
僚に対する無罪の理由は「金銭を受け取ったことは事実だが、便宜を図るための賄賂と認知していなかった」こととされている。
 実のところ、収賄の疑いはGHQ民政局(GS)次長のケーディスにも向けられていた。しかし、その
真にはGHQ内部の対立があり、占領方
針の転換を図った参謀第二部(G2)が民政局の力を削ぐために贈収賄の情報をリークさせたともいわれ、それが事実とすれば民政局は強
く支持してきた芦田内閣を庇いきれなかった

●国鉄下山総裁轢死体で発見
自殺説は、下山が大l解雇に悩んで神経衰弱に陥っていたことが動機だったとしている。
 GHQは復興の途上で急激なインフレに見舞われた日本の産業を立て直すため緊縮財政策を打ち出し、企業に対する融資を制限した。
この制限によって各産業あわせて一〇〇万人の人員整理が必要となるとする試算が行われ、公務員にも二八万人の削減が求められた。
 これは企業体力を強化することを名目としながらも、強くなりすぎた労働団体の力を削ぐことをも意図した占領政策で、レッドパージとも呼
ばれる首切り強行策だった。そんな中で労働団体により警察署が占拠された平事件が発生するなど、労働運動は過熱していった。
 九万五〇〇〇人の人員削減が求められた国鉄でも、赤旗を振りながら電車を走行させる事件が起きた。また、列車の往来を妨害する小
事件が頻発するなど不穏な動きもあったしかし、労働運動に水を差すためGHQが何者かに下山を謀殺させたのではないかとする説は、いま
も囁かれている。

●三鷹事件



昭和24年7月15日午後9時23分頃(当時の夏時間。現在の午後8時23分)、中央線三鷹駅構内の電車引込み線から7両編成の無
人電車が暴走し時速60キロを越す猛スピードでホームの車止めを突破した。この時、一番線ホームには午後9時18分に到着した同駅
止まりの電車と、その後定刻から3分遅れで到着した立川行き下り電車の乗降客で溢れておりホームから改札口に向かって歩いていた
人たちが電車に跳ね飛ばされ6人が下敷きになった。無人電車は更に駅前交番を破壊、道路を横切って商店街に突っ込んだ。この暴走
で死者6人、負傷者20人をだす大惨事となった
−謎−
昭和25年8月11日、第一審判決公判は「共同謀議は空中楼閣」と談じ、《事件は竹内の単独と認定》し竹内を無期懲役、その他の9人は
無罪を言い渡した。続く第二審では竹内に死刑判決。昭和30年6月22日最高裁は竹内の上告を棄却し竹内の死刑が確定した。無実を
訴える竹内は再審請求中の昭和42年2月に東京拘置所で脳腫瘍のため死亡した。

事件前の竹内は、国鉄人員整理で解雇を宣告され次の就職活動を開始していた。知人の紹介で消防署の面接を受ける(合格していたが
逮捕後に不採用通知)。竹内自身は解雇通知に納得は出来なかったものの現実を受け止めて威圧的態度の様子は見られなかった。事
故発生時も風呂に出かけており、複数の人が目撃しているのにかかわらず警察では一切取り上げなかったという。また竹内の犯行とする
物的証拠は皆無であった。無実の竹内が犠牲となったのか、事故の真相は何だったのか、今だに謎が残されたままである。

●松川事件
 
昭和24年8月17日午前3時9分、福島駅を定刻に発車した上り412号旅客列車が東北本線金谷川−松川間のカーブにさしかかった際、先頭
の機関車が脱線転覆し続く数車輌も脱線した。この脱線転覆事故で、機関士ら3人が死亡した。

現場はレールの継目板が外され、枕木の犬釘が抜かれ、長さ25メートル、重さ925キロもある1本のレールは線路から13メートルも離れたとこ
ろに、何の損傷も無く真っ直ぐに置かれていた。

国警福島県本部捜査課の玉川正警視は朝5時頃、国鉄福島管理部から事件の連絡を受けた。現場に着くと直ちに線路を取り外した工具が現場
に落ちてないか部下に指示する。やがて現場付近の田んぼからバールと自在スパナを発見した。
警察は、「国鉄の人員整理に対する労組の計画的犯行」とみて国鉄の労組及び人員整理で解雇された人間を対象に捜査を開始した。9月10日
最初に逮捕されたのが、労組幹部でも共産党員でもない、最近人員整理で解雇された赤間勝美(当時19歳)元線路工手であった。赤間は玉川
警視の厳しい尋問を連日受けた。

赤間は犯行を否認するが、玉川警視は「同僚の菊地が犯人はお前だと自供したぞ」などと虚偽の情報を赤間に伝えて誘導尋問を行った。裏切ら
れた思いの赤間は激怒し警察が誘導する通りの内容で次々と国鉄、東芝労組の関係者名を挙げていく。こうして9月18日から10月21日にかけ
て赤間を含め20人が逮捕され「列車転覆致死罪」で起訴された
三鷹事件・松川事件と引き続き起こった事件が、米国の対日占領政策の一貫である「国鉄労働者の削減政策」によるものではと薄々感じていた
世論を背景に昭和28年12月22日、第二審で部分的無罪を、昭和38年9月12日に最高裁で「赤間自白」の信憑性が無く実行者とされる被告の
アリバイが認められ全員無罪となった。
この事件では唯一目撃者がいた。地元の斉藤金作だ。
斉藤金作は、米兵とみられるグループ12人がボルトを抜いているところを目撃してしまった。斉藤は、そのグループから「口外するな。口外したら軍
法会議だ」と脅された。5日後、斉藤の元に男が訪ねて来て福島市にあるCIC(米国防諜部)に出頭するよう告げられた。

斎藤は怖くなり弟が住んでいる横浜に引越したが、昭和25年1月12日に行方不明となり40日後に水死体で発見された。数々の謎が今だに明らか
になっていない。真犯人は誰だったのか?事件は謎のまま闇に葬られた。

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国鉄京浜電車(省線)有楽町〜新橋間  (旧帝國ホテルと土橋方向)


昭和26年 新宿三光町 新宿 伊勢丹と三越
 

文学座 「武蔵野夫人」


上演の舞台稽古 左から脚色の福田恒在、大岡昇平、三津田 健
            杉村春子、芥川比呂志(昭和26年)

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東北の膿漁民(昭和30年頃)

岩手山麓に入った開拓民                           岩手県岩手町(沼宮内)のキャベツ出荷

 

宮城県 作並温泉                                宮城県 万石浦の塩田
 

この項は終わり。戦前に戻ります。