青梅市の城館

市内の城館については「青梅市史」「資料中世青梅の城館跡」「多摩のあゆみ」「多摩郷土史研究」

「青梅市文化財保護指導員連絡協議会活動報告書」「今井歴史物語」「多摩丘陵の古城址」を参考にしております

               桝形山城   
攻城日 天候 評価 遺構
    A 堀切、虎口など
攻城のコメント  
大きな城ではありませんが良好に遺構を残す山城です。
素晴らしい遺構が残るものの城に関する史料や伝承がなく
北西の辛垣城との位置関係から様々な推察がされております。

桝形山城は青梅丘陵ハイキングコースの整備された尾根から
南に派生する尾根を利用して築かれており
二俣尾の仙蔵院の裏山になります。
登り口は南東の尾根先端から登るのがわかりやすいでしょう。
距離はありますが登りが楽なのでオススメです。
本来の登り口と思われる殿入と呼ばれる場所からも
登れますが民家脇を通過するのでわかりづらいです。

青梅丘陵は休日ともなるとたくさんのハイカーで賑わう
人気のハイキングコースですがさすがにここを訪れる人は稀で
小鳥のさえずりやリスをみながら弁当食べてノンビリと遺構を
見学できる私の憩いのスポットであります。
桝形山城のガイド&写真集
  備考 辛垣城から見た桝形山城
桝形山城は詳細不明、謎の山城です。
調査をされた方々が遺構や立地、史料などから
築城された時期について考察を発表しています
●三田氏が上杉謙信の指示で築いた城
●三田氏の辛垣城を攻めるために後北条氏が築いた向城
●後北条氏が武田氏に備えて築いた城などなど
いろいろ考えられているようですが私にはどれも
当てはまるような気がしてしまいます(笑)
城の麓に殿入という地名がありますが、
ここには古屋敷といわれる旧・三田家臣で後北条氏に
仕えた神田氏の屋敷があったともいわれます。
枡形山城に深く関わっているような気もします。
古屋敷とは古い屋敷?三田氏の居館?とも考えられそうです。

参考 青梅市史、 資料青梅の中世城館跡
 
          辛垣城   
攻城日 天候 評価 遺構
2011,1,3 晴れ C 郭、堀切  
攻城のコメント  
何度目の登城になるのでしようか
今回は前々から気になっていた城跡の遺溝と江戸時代から
大正まで行われていた石灰採掘に関連する遺溝を
見極めようと思い訪れました。
辛垣城には採掘により城郭遺溝にも見える平場や
堅堀状の溝などがたくさん残されています。
採掘は長期間、広範囲かつ大規模に行われていたようです。
主郭である山頂などはかなり掘り下げられています。
山頂から伸びる大きな溝も採掘に関連するものだとわかります。

主郭南尾根の郭には大きな二つの桝形区画がありますが
これも採掘関連の遺溝で低部に積まれた石積みも
近代に積まれたものでしょう。

一方城の遺溝はといいますと主郭から延びる尾根に小郭と
がいくつか設けられています。
主郭には腰郭状の地形ががいくつか見られます。

城域にある怪しい地形を自分なり採掘関連の遺溝か城に
関連するものか判断して採掘に関わる遺溝に自分の頭の中で
フィルターをかけてみると主郭を中心としいくつかの小郭と
尾根を分断する堀切で構成された単純な山城形態が
思い浮びます。
南北朝期から室町初期にかけて築かれた城のようです。
辛垣城の写真集&ガイド
備考 山頂
辛垣城は「からかい」と読みます。
標高457mの辛垣山の山頂を中心に築かれた山城で
室町初期頃から青梅に住みついたと思われる三田氏が
築きました。
しかしいつ頃築かれた城なのかは不明です。
城の縄張りから考えると戦国期以前と思われます。

永禄6年(1563)に北条氏照率いる軍勢が攻め寄せた際に
三田綱秀は本拠地勝沼城を捨てて辛垣城に籠城します。
激戦の末、城は落城し三田綱秀は岩槻城に落ちのび
自害し三田氏は滅びます。

参考  青梅市史、 資料青梅市の中世城館跡 
     青梅市文化財保護指導員連絡協議会活動報告書
     「二俣尾の石灰鉱業」「辛垣城と桝形山城」
 
           西城(古屋敷)
攻城日 天候 評価 遺構
2007,3,3 晴れ E なし  
攻城コメント 西城地区(現地案内地図より)

JR二俣尾駅周辺は西城という地名が残ります。          西城とは三田氏の居館や詰城の辛垣城や渓谷沿いの道に  設けられた木戸、多摩川の渡し場の監視所などを含めた    広範囲を指したもので三田氏の本拠地である勝沼城の西に  位置することからついた名称と思われます。             楯の城や青梅丘陵に所在する矢倉台、物見山、要害山なども 西城の範囲に含まれたものかもしれません。

三田氏滅亡後には後北条氏に仕えた三田氏家臣の神田氏が この地に領しました「殿の入」、「古屋敷」と呼ばれる地は    神田氏の居館といわれます。

 
         北条氏照陣屋
攻城日 天候 評価 遺構
2013,10,27 晴れ なし  
攻城コメント 陣屋付近から見る辛垣城と桝形山城
皇国地誌(西多摩郡村誌)柚木村の史蹟として
紹介される「陣屋跡」は北条氏照が三田氏の拠る
辛垣城攻めの際に陣を置いた場所と伝わります
中世においては秩父往還道沿いで多摩川の渡し場が
存在しました
※渡し場は後に軍畑の渡しと称されます
段丘上の平場に位置し北側は切岸状の地形となります
攻撃拠点としては申し分ない場所であります

この場所は後に後北条家臣の野村豊後が屋敷を構えます
陣屋跡はこの屋敷の傍らと伝わります
野村氏は近江出身で六角満経の末裔を称します
はじめ山角氏に従っていたとも伝わります

現在、野村氏の末裔が屋敷を構える地は近世の豪農を
思わせます
その傍ら、つまり陣屋跡は耕作地となります
辛垣城と桝形山城は目前となり遠景の撮影スポットでもあります

参考 皇国地誌・西多摩郡村誌(ニ)/青梅市史史料集第21号
 
   楯の城  
攻城日 天候 評価 遺構
2008,3,8 晴れ 堀、土塁、土橋  
攻城コメント 土塁
JR宮ノ平駅のすぐ東側の台地に所在する楯の城は
折のついた土塁と堀が残ります。
ヤブで見学しにくくなってはいますが良好に残されています。
楯の城に関する伝承がいくつか残れております。

城の北西、青梅丘陵上の標高390mには矢倉台といわれる
物見が置かれていました。

青梅街道の西に進むと明白院(めいばくいん)という
枝垂れ梅が有名な寺がありますがその山門は
楯の城に居住した田辺氏の屋敷門と伝わります。

明白院から和田橋方面に下ると浜矢場と名のついた
公園がありますがここはかつて楯の城を守る兵が
弓を射った場所と伝わります。

江戸初期に青梅宿に森下陣屋が設けられましたが
それ以前にこの地方を統治するために日向和田に
陣屋が置かれていたと考えらていますが
楯の城跡地に陣屋を置いたのではないか?
という考察もあります。
 
備考 土塁と堀
楯の城は文明年間(1469〜1487)に辛垣城を中心とした
二俣尾西城地区の大手口に築かれた館にはじまるとのことです
三田氏が西城を守る為の防御施設の一つとして
機能していたのでしょう
戦国末期には旧武田家臣の田辺清右衛門尉惟良が
後北条氏に仕え居住します
後北条氏滅亡後は惟良の孫・宇太夫は水戸徳川氏に仕え
楯の城は宇太夫屋敷と称されていたようです。

明治9年の地租改正まで城の周辺には上ノ屋敷、木戸前、
たて下、タテノ沢、西ノ坂などの小名があったとのことです

参考  青梅市史、 資料青梅市の中世城館
     青梅市文化財保護指導員連絡協議会活動報告書
     「日向和田地区の地理歴史」
 
土橋
      
明白院の山門 楯の城伝承が残る「浜矢場公園」
        
                  要害山と宮ノ平塁
攻城日 天候 評価 遺構
2006.12.29 晴れ なし  
攻城コメント 要害山跡
宮ノ平駅すぐ近くの和田乃神社が『多摩の古城址』で
小幡晋さんが宮ノ平にも城館があったと推定されています。
どの史料にそのような記述があったのか不明です
『新編武蔵風土記』『武蔵名勝図会『武蔵野歴史地理』には
記述がありませんでした。
しかし、和田之神社西側には要害山といわれる山がありました。
現在は石灰岩の採掘により山ごと削られ消滅しました。
JR日向和田駅と宮ノ平駅の間、青梅線が
南に蛇行する内側になります。
小幡さんが推定した場所は要害山の尾根の先端になり
城館を設けるのに適した大きな平場があるので宮ノ平塁と
名付けられた城館の存在をまったく無視することもできません。

参考  多摩の古城址
     青梅市文化財保護指導員連絡協議会活動報告書
     「日向和田地区の地理歴史」
 
                   矢倉台 
攻城日 天候 評価 遺構
2006,12,29 晴れ なし  
攻城コメント 矢倉台の平場と眺め
矢倉台は物見台ともいわれ「辛垣城」「楯の城」の
物見が置かれた場所といわれています。
JR宮ノ平駅の北側からハイキングコースを30分ほど登ります


武蔵名勝図会には『柵跡、ここは二俣尾の城より峰続き、
三田氏居城の頃、この山に砦を構え遠見なりしゆえ
この地をまた櫓台ともいう』とかかれています。
三田氏の本拠といわれる勝沼城と辛垣城は
永山丘陵(青梅丘陵)の尾根で行き来が容易でその丘陵には
矢倉台、物見山、要害山と呼ばれる山があります。
物見として利用されていたのでしょうがいずれも
明確な遺構は見られません。
矢倉台に関しては北側に堀切があるとのことでしたが
確認できませんでした。

物見というだけあってここからの眺めは素晴らしいです。
埼玉方面から都心の高層ビルまで見渡せます。
ここからハイキングコースをそのまま雷電山方面に向かえば
40分ほどで辛垣城に行けます。

参考  資料青梅市の中世城館、武蔵名勝図会、青梅市史
  

 

               裏宿遺跡
攻城日 天候 評価 遺構
2011,1,10 晴れ E なし
攻城のコメント 裏宿遺跡内に建つ七兵衛公園
裏宿町の青梅第一中学校辺りから森下地区にかけて縄文から
平安期の集落跡が発掘によって存在が明らかにされましたが
縄文時代の遺跡上層から中世末期の掘立柱の建造物群も
確認されたようです。
古銭100枚や板碑も発掘されました。
立地的には多摩川の段丘上になります。
文禄年間以前にこの地に居を構えていた地侍
「田辺土佐某」の屋敷跡か、来迎寺(寺跡?)にかかわる
屋敷地と考えられているようです。

現地を訪れましたが宅地や公共施設の建ち並ぶ地区で
表面上にそれらしい地形は確認できません
撮影するようなものがなかったので遺跡内に建つ
裏宿七兵衛ゆかりの七兵衛公園を撮影してきました。

参考  多摩のあゆみ 特集 室町・戦国期の多摩
〜多摩川上流域の中世景観・青梅市を中心として/伊藤博司〜
 
          森下陣屋   
攻城日 天候 評価 遺構
    E なし  
攻城コメント 陣屋跡に建つ熊野神社
森下陣屋は青梅宿の西、青梅街道がクランク状に
道が曲がるところに祀られる熊野神社の建つ地とその周辺に
構えられていました。
天正18年(1590)徳川家臣・大久保長安が
江戸の西・北部の天領を支配しその地域の
防衛を固める為に八王子に陣屋を設置しますが
支配地域が広いので数箇所に支所を設けました。
森下陣屋はその支所の一つになります。
当初は現在の位置ではなく日向和田の「楯の城」に陣屋が
置かれていたと伝わるようです。
後に森下に陣屋が移され延享元年(1740)に廃されるまで
青梅支配の中心でありました。
陣屋跡地は民間に払い下げられ耕作地となります。

参考   青梅市文化財保護指導員連絡協議会活動報告書
   〜青梅街道の森下陣屋と近隣の陣屋・関所・番所〜
 
              阿部屋敷
攻城日 天候 評価 遺構
2011,4,16 晴れ E なし
攻城のコメント 阿部屋敷跡の遠景
旧・青梅町が昭和16年に発行した「青梅郷土誌」という本の
名所・古跡の項目で徳川家康・秀忠・家光三代に仕えた武士、
阿部久五郎重貞という人物の居館が現・滝之上町に
所在したと紹介しています。
気になったので訪れてみましたがとくに館に
結びつきそうな遺構や地形は見られませんでした。
多摩川の河岸段丘上に位置し市内でも早くから開けていた
場所で西側の常保寺は室町期に建てられたと伝わります。
阿部重貞の墓石が館跡に残るとのことで古い町並みと
独特の曲がりくねった路地を徒歩で散策してみますが墓石は
見つけられませんでした。
郷土誌に書かれた墓石に刻まれた銘によると阿部氏は
三河出身で榊原氏、石川氏とも縁戚であったようです。

参考 青梅郷土誌/青梅小学校発行 復刻版(限定600部)
 
御岳山
攻城日 天候 評価 遺構
2008,10,18 晴れ D 堀切、堅堀、郭?
攻城のコメント
西多摩地区でもっとも有名な観光名所の一つ御岳山です。
山頂には道に迷った日本武尊をたすけたオオカミを奉る神社が所在します。
古くから信仰されていた山で鎌倉初期には畠山重忠が奉納したと伝わる大鎧をはじめ
たくさんの奉納物が宝物殿に納められております。

さて、御岳山は城郭であるということは30年ほど前に確認され、
堀切や堅堀が所在するとのことで私も今回その遺溝を見学してきました。
比高差700mほどの山岳信仰の山に城が存在したのか?という疑問がありました。
ですから今回は青梅の中世城館に掲載されている縄張り図を参考にしました。

ビジターセンターから富士峰に登る途中には明確な堀切があります。
幅4m程の堅堀付きの見事な遺溝です。
しかも堀切前後には土塁状の盛り上がりもあります。
堀切からビジターセンター側に降ると切岸と平場、土塁状の地形が確認できます。
次に山頂の神社周辺ですが本殿背後の細い尾根にも堀切です。
こちらも堅堀がしっかり残り土橋が架けられております。
その先に平場と土壇(物見?)があります。
山頂は切り立った険しい斜面をもち神社の施設が建てられておりますが何段かの
平場が設けてあります。
次に名前が気になった山頂南側の尾根・長尾平ですがちらは大きな平場が
細長く50mほど南に延びています。
その他は民家や宿などが立ち並び確認困難でした。
以上の場所を見てきましたが全体像を掴みづらくあまり城という感じがしませんでした。

私個人(素人)の考えでは堀切などの遺構は神社や集落防衛の為に設けられた防御施設ではないかと思いました。
  備考 御岳神社本殿
御岳神社は僧・行基が東国鎮護の為に天平8年(763)に
蔵王権現を勧請したことにはじまるといわれます。

畠山重忠が源頼朝より多摩川上流部に所領を与えられ
武蔵をはじめ三国警備のために城を築いたという伝承が
あります。

戦国期には三田氏の砦が置かれていたのではという考察も
あるようです。

後北条氏による甲州境目からの烽火台があったのでは?
とも考えられております。
様々な推定がなされておりますが現状の遺構のみでは
上記した伝承や推定の城と断定することは難しいと思われます。
 
ビジターセンター裏の堀切 同じく堀切(別角度から)
        
本殿裏の尾根に設けられた堀切 堅堀
        
本殿北尾根の郭より見た本殿 長尾平から見た本殿(山頂)
        
               浜竹柵    
攻城日 天候 評価 遺構
2007,3,3 晴れ 堀?
攻城のコメント 熊野神社
奥多摩町・尾崎柵の多摩川を挟んだ対岸にあるのが
浜竹の柵です。
こちらも平将門の従者・浜竹五郎が柵を築いたと伝えられます。
実際に現場に行くとわかるのですがかなりの要害です。
柵は多摩川に突き出た台地上にあり、台地の付け根辺りは
深い堀状になっており独立した島のようになっております。
「多摩の古城址」で小幡晋さんがが大絶賛した地形です。

ダンプの通りが激しい吉野街道沿いですが熊野神社は       とても静かで雰囲気の良い場所です。
備考 土塁?
資料青梅市の中世城館跡には熊野神社のある半島状の地形を   曲輪1としてその東側・大沢川までの地域を曲輪2として       複郭の城としていますが曲輪2には遺構らしいものは
確認することができません。
曲輪1と〜曲輪2の間には巨大な堀状の地形があります。
熊野神社境内には土塁状の地形が見られます。

この地形については遺構かどうかは判断できません。
堀状の地形はかつての多摩川の流路とも考えられます。

自然地形をたくみに利用した砦であったのではないでしょうか。

                                  杉平塁
攻城日 天候 評価 遺構
    なし
攻城のコメント 小公園の名前として残るかつての字名
全国的に有名な梅林、吉野梅郷の梅の里公園の東側に
かつて土塁に囲まれた館があったそうです。
「武蔵名勝図会」の三田領下村(下山村)の項目で
杉平というところに四方を土塁で囲まれた柵跡があったと
記されています。
残念ながら現在は畑と宅地となり遺構は確認できません。
住宅地に建てられた小公園にかつての字名である
杉平が残されているのみです。
とくに伝承などは残らないようで誰がいつ頃に
構えたものなのかも不明です。

参考  武蔵名勝図会、 多摩の古城址
 
                  下村堀ノ内 
攻城日 天候 評価 遺構
    なし  
攻城コメント 推定地の一つ青梅五小の台地端 
吉野地区、青梅第五小学校の建つ台地は後北条氏に
仕えた旧三田家臣の野口氏が住んだ館が所在したと
推定されています。
近くには堀ノ内、的場という地名があり館と関連がありそうです。

「多摩の古城址」の著者・小幡晋さんは
小学校と谷を挟んだ南東の台地に館が所在したと
推定されております。
こちらは堀ノ内というかつての堀ノ内地区にあたるそうです。

とはいうもののどちらも遺構があるわけではないので
何ともいえません。
この地は小田原から秩父に抜ける古道が通っており
町屋という地名が残ることからも戦国期にはそれなりに
栄えていたことが想像できます。

参考  武蔵野地理歴史  多摩の古城址
     資料青梅市の中世城館
            日影和田要害山
攻城日 天候 評価 遺構
2010,3,14 晴れ E なし
攻城のコメント 要害山の標示と山頂平場
青梅市の図書館で資料を漁っていたら多摩川南側の丘陵にも
要害山呼ばれる山があることを知りました。
山梨県甲府市の要害山など各地の要害山には山城としての
遺構が残ることから期待に胸を膨らませて登りました。
梅ヶ谷峠と馬引沢峠の中間にあたり鎌倉古道もこの辺りを
通っていたようで物見砦があったのでは?
「いやあったんだ」、「きっとあったに違いない」と
登っている途中から興奮してしまいました(笑)
しかし、目的の要害山山頂に到着すると???
山城らしい山頂の地形ではありません。
もちろん周辺にも遺構らしい地形は一切見受けられません。
でもここは確かに要害山なのです(標示あり)
しばらく放心状態に・・・・
気を取り直して派生する尾根の調査に向かいます。
北側、南側・・・・・自然地形でした。
残念ながら山城の遺構は確認できませんでした。

多摩川を挟んで対岸の永山丘陵にも要害山、物見山と
呼ばれる山がありますが辛垣城の物見砦と考えられているので
日影和田の要害山も物見が置かれたと考えることにしました。

三田氏を攻めた北条氏照は梅ヶ谷峠を越えて青梅に
侵入したといわれることからこの地は日の出町方面への
物見として重要視されたのではないでしょうか。

参考 青梅市文化財保護指導員連絡協議会活動報告書
     「和田町の地理歴史」

   

          長淵館    
攻城日 天候 評価 遺構
    D 土塁?  
攻城コメント 土塁状の地形その1
多摩川右岸、長淵地区にも三田一族が構えたと考えられる
館跡地があります。
古文書や板碑から三田氏の館がこの地に所在したことは
確実なようですが明確な遺構に乏しくその規模や
形態まではわかりません。
吉野街道の鳶巣橋(須高川)から東側の四谷橋(沢)までの
500mほどの範囲が館の敷地を考えられています。
敷地内には現在も三田姓の方が住まれており、板碑も残ります。
宮所、万場坂などの地名も伝わり、館の遺構と思われる
土塁状の地形も数箇所で確認できます。
この土塁状の地形ですが1m弱の高さですが川原石を
敷き詰めたようにも見える場所もありますが個人敷地内であり
道路から簡単に見学しただけなので何とも言えません。

集落内は道が狭うえに車を駐車する場所がないので徒歩で
訪れることをオススメします
 
             備考 土塁状の地形その2
長淵館は中世青梅の領主であった三田氏一族が住んだ館と
考えられています。
本拠地とされる勝沼城は多摩川を挟んで2kmほど
北西になります。
館が構えられた地は多摩川渡し場の監視と管理する役割を
担っていたのでしょう。
室町中期から三田氏滅亡まで使用されていたのでしょう。

館跡の西側100mには堀ノ内という地名が残ります。
長渕三田氏から枝分かれした一族が屋敷を構えた
場所なのかもしれません。

参考  青梅市史
 
土塁状の地形その3
 
           勝沼城     
攻城日 天候 評価 遺構
    A 土塁、堀、虎口など  
攻城コメント  
勝沼城は遺溝状態の良い中世城館で遺溝、規模において
都内指折りの城だと私は思っています。
一部、墓地や私有地となり遺溝が損なわれた個所もありますが
それでも戦国城郭の縄張りを楽しむことができます。

比高差30mほどで登りも楽なうえ、JR東青梅駅から
徒歩10分ほどとアクセスも良いのでたくさんの人に訪れて欲しい
城跡であります。

※城跡は笹藪に覆われている箇所もあり撮影には不向きです
勝沼城の写真集
             備考 横堀と土塁
勝沼城は鎌倉期から戦国中期にかけて多摩川上流部を
支配した三田氏の居城といわれます。
発掘調査の結果、14世紀後半から16世紀前半の
遺物が検出されています。
とくに15世紀後半から16世紀前半の遺物が多いことから
山内上杉氏の家臣氏として力を振るったとみられる
戦国初期に城は最盛期を迎えていたのでしょう。
しかし、現在確認できる遺構が三田氏によるものかは不明です
三田氏滅亡後に勝沼城の城主となった師岡氏が
後北条氏指導のもと城を改修した可能性もありそうです。
戦国中期遺構の遺物が検出されていないのは師岡氏が
麓に居館を設けていたからではないでしょうか。

参考 青梅市史
 
               葦ヶ沢城        
攻城日 天候 評価 遺構
    なし
攻城のコメント 藤橋城から見た葦ヶ沢城方面



芦ヶ沢城は何十年も前に
開発によって消滅しました        特調査等がされずに失われた為に縄張りなども不明であります   
今井歴史物語」という小冊子に記載されていたのを       偶然発見しましたが衝撃がはしりました。              私が城があってもおかしくないと考えていた場所に        城があったのです。
場所は藤橋城の北側の笹仁田峠の西側になります。


地元の伝承では
大手口といわれる場所があるそうです。
そこには石造物が奉られています。
この城は
藤橋城の出城か物見であったと思われます。
すぐ脇を通る笹仁田峠の監視もかねていたのでしょう。
大手と称する場所が藤橋城とは反対の北側にあります。


昭和40年代までは芦ヶ沢城といわれる城が存在した思うと   遺構有無や縄張りが残されなかったことが残念であります。

今後機会があればこの城があった場所の周辺を登り       調査して見たいと思います。

                                 今井城   
攻城日 天候 評価 遺構
    堀、土塁
攻城のコメント  
この城はとてもよく保存されています。
小さな城ではありますがとても工夫された構造で
遺構状態とともに訪れた人を驚かせることでしょう。
近年は2郭の西側まで住宅が建ち周辺の景観がガラリと
変わってしまいました。
都内随一といっても過言ではない中世の城跡なので
いつまでもこの状態で保存してもらいたいと思います。

2010、12,21
私事ではありますが某通信社の記者さんからこの城で
取材撮影を行いました。
何度も訪れている大好きな今井城でお城についての取材を
受けるなんて・・・一生の思い出となりました。
今井城の写真集
    備考 主郭〜3郭間の堀
今井城がいつ頃築かれたのかは不明であります。
伝承や資料が残っていないようです。
しかし1967年に発掘調査が行われた結果、城は2期にわたり
使用されていたと推定されました。
前期の城主は鎌倉期の後半から室町中期まで城を
使用していたと考えられています。
出土した遺物の板碑には朱や金箔が用いられていたことから
経済力のある武士が住んでいたと考えられています。
その後何らかの理由で前期の城主は今井城から姿を消し
後期の領主が戦国期に現在見られる城の形態に
改修を施したようです。
前期の領主は児玉党に属する今井氏と考えられ、
後期の領主は後北条氏に関連する武士と考えられています。

参考  今井歴史物語(中篇)角田清美 著
     青梅市史、 資料青梅市の中世城館跡
 
今井堀ノ内
攻城日 天候 評価 遺構
2007,2,25 晴れ なし  
攻城コメント 正福寺・今井氏の墓
「資料青梅市の中世城館跡」を参考に訪れました         実は字名の『堀ノ内』以外に手懸りがありません。
場所は今井城の南西約600mほどの台地上になります。
ここは七日市場が開かれていた場所で瑞穂・箱根ヶ崎から
秩父に抜ける街道が通っていたようです。
今井城主といわれる今井氏の菩提寺・正福寺があり、      今井一族の墓もあります。

※今井氏は鎌倉期から室町中期までこの地を支配した土豪で  児玉党に属した今井氏と同族と考えられています

堀ノ内という地名から城館のあった可能性の高い場所としての
紹介にとどめたいと思います。

          倭林遺跡
攻城日 天候 評価 遺構
2011,1,10 晴れ E なし  
攻城コメント 現状
倭林遺跡は今井城の北東の丘陵に所在した遺跡で
老人ホーム建設に先立ち行われた発掘調査の結果、
旧石器時代遺物から平安期の住居跡まで発見された他に
中世初期の城館遺構と考えらる方形区画の溝や
巨大な陥とし穴が確認されています。
台地稜線部を段切り状に掘削した方形区画のほかに
その裾部の区画など計4つの方形区画が確認されています。
弘安年号の板碑や青磁、白磁、瀬戸天目椀、刀などの
出土遺物から鎌倉期の館跡と考えられています。
神奈川県海老名市の上浜田遺跡と近い時期に設けられ、
似た構造であったと推定されています。

立地条件から今井城や金子氏との関連も考えられそうです

参考   多摩のあゆみ 特集 室町・戦国期の多摩
〜多摩川上流域の中世景観・青梅市を中心として/伊藤博司〜

       今井歴史物語(中編)/角田清美
 

                                          報恩寺

攻城日 天候 評価 遺構
    D  土塁?、腰郭? 
攻城のコメント 虎口でしょうか
「資料青梅市の中世城館跡」では中世城館の可能性が
高いとして紹介されております。
霞川の右岸丘陵上に建てられた報恩寺が
館跡と考えられています。
この辺りにはかつて「竹之下」「竹之内」など城館の所在を
匂わせる小字があったそうです。
寺の西側から北側には城郭遺構と思われる地形がみられます。
現在は木々が伐採され虎口2ヶ所、土塁、堀と思われる地形が
見ることができます。
報恩寺の歴史は古く東に所在する藤橋城の城主・平山氏に
よって再興されたそうです。
墓地には平山氏家臣の中村次郎左衛門の墓がありますが
報恩寺が城館だとすると関連がありそうに思えます。

※2011年1月見学に訪れたところ城郭遺構と思われる地形に
ツツジが植えられてました
数年後には地形の確認が難しくなるでしょう

(資料青梅市の中世城館跡 参考)
 
    近景 腰郭でしょうか
                
                 藤橋城    
攻城日 天候 評価 遺構
    C 土塁、堀
攻城のコメント 土塁
素晴らしい中世城館が多く残された青梅市において
藤橋城は遺構の残り具合からそれほど注目されていない城です
現在は城址公園として整備され遺構が保存されていますが
公園化により遺構が損なわれた部分もあります。

小さな城ではありますが土塁がしっかり残り、
櫓台と思われる箇所も確認できます。

私は北側の霞川低地から見る藤橋城が気に入っております。

市内の城を訪れる人のほとんどが勝沼城、今井城と一緒に
見学されているようですが距離や時間、労力などを考慮しても
無理なくまわれるので私としてもオススメしたいです。
 
備考 土塁その2
藤橋城の歴史について詳しいことはわかっておりません。
三田氏が滅んだ後、後北条氏に仕えた藤橋小三郎が城主で
あったようです。
藤橋氏は平山氏の末裔で藤橋姓を名乗ったようです。
他に平山越前守重吉の名前が城主として伝わります。

七日市場西側が藤橋地区の集落であったようで。
城が集落と離れていることから土豪の城ではなく
勝沼城の出城、勝沼城攻めの前線基地として築かれたと
考えられていることから戦国中期頃には所在したのでしょう。

参考  青梅市史、 今井歴史物語(中篇)
 
低地から見る藤橋城
 

            高山氏屋敷・成木堀ノ内  

攻城日 天候 評価 遺構
2007,2,4  晴れ  共にE なし
攻城のコメント 中里橋から見る高山氏屋敷
成木2丁目、都道下畑・軍畑線に架かる中里橋の北から東の
成木川左岸段丘上に2箇所の堀ノ内という地名がありました

「資料青梅市の中世城館跡」では
光照院成木教会のある辺りを高山氏館と紹介して、
その東南の台地を成木堀ノ内または宮寺堀ノ内としています。
どちらも明確な遺構が確認できません。

成木堀ノ内は清戸三番衆にも名前が記載される
宮寺氏の館ではないかと考えられています。
堀ノ内の南には馬場と呼ばれていたそうです。

高山氏屋敷といわれる地は明治まで「下成木村下分の堀ノ内」
といい立地条件からも小豪族の館を構えるに適した
場所と思われます。
村の過去帳に記載された高山六郎左衛門尉重之という武士が
住んでいたと考えられています
平安末期に飯能市まで進出してきた秩父平氏・高山氏の
一族と考えられそうです。

(資料青梅市の中世城館跡 参考)
 
                                    久下氏館   
攻城日 天候 評価 遺構
2007,2,4 晴れ D 堀、櫓台?
攻城のコメント  
清戸三番衆に名前の見える久下氏の屋敷といわれる地です
青梅と飯能の境(県境)、成木川の段丘上にありました。
現在は個人宅とその敷地となっています。
川の流路跡とも思える堀と物見台と推定される地形が残ります。
ただしあくまでも久下氏館跡の推定地の一つであります。
上記は「資料青梅市の中世城館」に掲載されている場所です
「青梅市史」では常秀院の跡地(現在地とは違う)は
久下氏の館跡にあったといわれ成木川と黒沢川合流点の
西側丘陵上が館があったとしています。

どちらに館があったのか?2箇所とも久下氏の館なのか?
いずれも明確な遺構がなく決め手に欠けますが
久下氏はこの地に館を構えて三田氏や後北条氏に
仕えていたのです。

参考 資料青梅市の中世城館跡  青梅市史
すみません画像はありません
          新町陣屋
攻城日 天候 評価 遺構
2011,1,10 晴れ E なし  
攻城コメント 蔵屋敷公園
江戸初期に開拓され開かれた新町村に設置された陣屋です。
代官陣屋、蔵屋敷とも呼ばれています。
開拓者の中心人物・吉野織部之助が書き残した
『仁君開村記』には「千二百坪の場所を陣屋敷とする」
と記されており、大きな陣屋であったようです。            しかし、蔵屋敷という字名からも推察できますが一般的な陣屋、
代官所と違い開拓拠点または食料の貯蔵した場所ではないか
と推測されています。

新町陣屋には森下陣屋の代官・高室金兵衛の
手代・小菅宇右衛門が常駐していたといわれます。

参考  武蔵野地理歴史
     青梅市文化財保護指導員連絡協議会活動報告書
   〜青梅街道の森下陣屋と近隣の陣屋・関所・番所〜
 

 

     木崎氏屋敷(上屋敷・中屋敷・下屋敷)
攻城日 天候 評価 遺構
2015,11,23 くもり E なし  
攻城コメント 上屋敷近くの板碑と木崎集落
成木3丁目、大倉野から天ヶ指地区にかけて木崎氏の屋敷が
点在していました
成木川上流から天ヶ指に上屋敷、大蔵野の中屋敷、
下屋敷となります

同家は篠崎伊賀守の末裔で上州より移住したと伝えます
中世末期にこの地に移住したとも伝わりますが
木崎氏は三田七騎に数えられた家柄ともいわれ
清戸三番衆状に木崎又兵衛の名が記されています
同地区の板碑や寺院の存在からもそれ以前から
居住していたと考えられています

ちなみに下屋敷は成木神社の麓に木崎美作守の屋敷
天ヶ指の上屋敷には美作守の弟・肥後守が居住しました
中屋敷については不明です

参考 青梅市の板碑/青梅市教育委員会
    清戸三番衆の武士たち/野島厚之(多摩郷土研究)

 

           伝・成木大夫館
攻城日 天候 評価 遺構
2015,11,23 くもり D 土塁
攻城のコメント 土塁
成木2丁目、長善寺の東、熊野神社の東南麓の水田と民家の
間に石塁にも見えるL字の土塁が残ります
なかなか見事な土塁で表面には石が敷き詰めてあります
前々から気になっていましたが詳細が不明ということで
放置していました

「青梅の板碑/斎藤慎一 著」を読んでいたら僅かですが
この場所についての記述がありました
成木大夫の居館跡という伝承地ということです
土塁は県道193号線沿いからでも目立つの十分見られます
高さ2mほどで長さ20mほどでL字の延長線に同じく20mほど、
2カ所で見ることができます
現地の地形と地図を重ね合わせると東西70m、南北50mの
方形区画が浮かび上がります
地形の制限で南が正面ではなく区画の南東に傾いています
 
 備考 土塁その2
武蔵七党と称される同族地侍集団の一つ私市党の成木氏の
居館跡と伝わります
武蔵中部、荒川中流域を拠点とした私市党がなぜ
武蔵の西外れの山間部に拠点を設けたのか謎であります
成木地区に接する富岡地区には同じく私市党を祖とすると
思われる久下氏が居館を構えていました
成木大夫とは私市郡部使、私市黒長の孫、家信のことで
平安期の人物になります
大夫と称されるに相応しい出自だったのでしょう

これとは別に私市党、源平合戦の一の谷で討ち死にした
河原有直の孫・守直も成木氏を名乗ります
もしこの地に私市党・成木氏が存在したとすればこの系統と
考えるべきでしょう
鎌倉期に恩賞で成木川沿いに領地を得たとも考えられます
先祖の故地を賜り名前を継承したなど想像は尽きませんが
何一つ確証はありません

参考  青梅市の板碑/青梅市教育委員会
     武蔵武士/渡辺世祐・八代国治
 

 

           小枕堀之内
攻城日 天候 評価 遺構
2015,11,23 くもり E なし
攻城のコメント 現状
黒沢1丁目、地区の東端に位置する小枕集落にも
堀之内地名が残ります
現在は工場や宅地となり城館なのか確認することは
出来ませんが室町末期の五輪塔や南北朝中期の板碑の
存在が確認されています

小枕とは駒鞍の転訛でこの堀之内は牧場跡か?
現地の地形を見て思いました
馬を囲うにはちょうど良い地形に見えます
一方で堀之内の西隣は谷津が北に深く入りと耕作地に適して
いるので開発領主の屋敷跡とも考えられます
※印個人的な考えです

参考 青梅市の板碑/青梅市教育委員会
 

      荒田堀之内(並木氏・荒田氏屋敷)
攻城日 天候 評価 遺構
2015,11,23 曇り E なし
攻城のコメント 現状
清戸三番衆状(1564年)に記載される荒田氏、並木氏、新氏の
屋敷地が小曽木の荒田地区にありました
現在の第七小学校の敷地が屋敷地でありました
小字・堀之内があり学校敷地がそれにあたるようです

並木氏には6通の北条氏照朱印状が存していました
「上方衆との打合があるゆえ漆を持参せよ」といった内容です

堀之内(学校敷地)の面積から考えると上記の諸氏は屋敷地が
隣接していたのでしょう
姓は違いますが同族だったのでしょう
並木氏は旧・三田家臣といわれています

参考  青梅市の板碑/青梅市教育委員会
     清戸三番衆の武士たち/野島厚之(多摩郷土研究)
 

           蜆沢内出
攻城日 天候 評価 遺構
2015,11,23 曇り E なし  
攻城のコメント 蜆沢集落
成木8丁目、北小曽木川左岸の南向きに開けた集落に
ウチデの屋号を持つ家が存在します
隣接してナカガイト(中垣戸)という称された場所がありました
辛垣城の搦手より成木〜飯能方面に抜けるルートと途中で
集落内に立つ蜆沢院にある板碑の存在から
中世の土豪屋敷である可能性が高い場所と考えられています
現地には城館跡を思わせる地形は見られませんが
集落は長い歴史を感じさせる場所でした

屋号を持つ家は成木の領主ともいえる存在である木崎姓で
中世土豪屋敷という考えを肯定的考える要因の一つになります

参考 青梅市の板碑/青梅市教育委員会
 

 

                               

黒沢氏屋敷
攻城日 天候 評価 遺構
2015,11,23 くもり E なし  
攻城コメント 屋敷地付近か?
清戸三番衆状に記載される黒沢孫次郎の屋敷は
黒沢3丁目、聞修院辺りに所在したと思われます
特に伝承や史料がないので場所は特定されていません
しかし、三番衆状には2騎の衆に交名されています
小さな谷の集落で番衆として6〜7名を率いるほどの領主でした

聞修院の建つ地は小川が交わり背後が山になる立地で屋敷を
構えるのに理想的といえますが屋敷跡とは断言できません^^

参考 青梅市の板碑/青梅市教育委員会
    清戸三番衆の武士たち/野島厚之(多摩郷土研究)
 

           豊泉氏屋敷
攻城日 天候 評価 遺構
2015,11,23 くもり E なし
攻城のコメント 現状
清戸三番衆状に6名も名前が記載される豊泉一族の屋敷地が
二俣尾の平溝地区のありました
ヒカガイトという屋号を伝える豊泉家の宅地に隣接する
「もとやしき」が屋敷地と推察されています

辛垣城の西、秩父往還道が通ります
平溝川の右岸台地上になります

小さな清流が流れる山間の小さな集落ですが三田氏の家臣が
集住していた可能性のある魅力的な場所です

参考 青梅市の板碑/青梅市教育委員会
    清戸三番衆の武士たち/野島厚之(多摩郷土研究)
 

           和田左京亮屋敷
攻城日 天候 評価 遺構
2015,11,23 くもり D 土塁?
攻城のコメント 屋敷地
和田町2丁目の和田家は清戸三番衆状を所蔵し
同書状に2騎を割り当てられ交名されています
梅ヶ谷峠の入口、町屋川右岸、町屋集落に面しています

土塁状の地形も道沿いから見られますが確信はありません^^
和田家は上州・高崎城の和田氏と関わりのある家柄で
三田氏滅亡後に北条家臣として同地に所領を得て
居住したと推察されています

参考 青梅市の板碑/青梅市教育委員会
    清戸三番衆の武士たち/野島厚之(多摩郷土研究)
 

          道心屋敷
攻城日 天候 評価 遺構
2015,11,23 くもり E なし
攻城のコメント 屋敷と思われる場所
和田町2丁目に道心屋敷と称される場所があり
「青梅市の板碑」の著者である齋藤慎一氏は板碑や地形、
寺院の存在から中世武士の屋敷地ではないかとしています

南北は多摩川の段丘を利用し東西に沢が流れに区画される
場所で魅力的な地形で齋藤氏でなくても武士の居館跡と
考えたくなります
ただし、道心屋敷の意味は不明で
 

 

 二俣尾物見山
攻城日 天候 評価 遺構
2015,11,21 晴れ D 段郭、土橋  
攻城コメント 郭と土橋
桝形山城の尾根から辛垣城のある永山丘陵の尾根に
向かう途中に物見山と称されるピークがあります
その名の通りで物見砦があったと考えられます
平場に桝形山に向かい腰郭が2段、尾根を切り落とした
土橋が見られます
桝形山城の物見と考えられますが縄張りの向きが桝形山に
備えたものと感じます

ここで思い出すのは桝形山城は後北条氏が辛垣城の
付城として使用したという説です
私はこれに関して否定的な考えでしたが物見山の遺構を
見て考えが傾きつつあります^^

この物見山は遠方を指すのではなく桝形山を見張る場所とも
考えられなくもないですね

参考  青梅市史/通史編

 

           伝・後北条氏陣所
攻城日 天候 評価 遺構
2015,12,29 晴れ D なし  
攻城コメント 安楽寺
成木1丁目、成木川に望む段丘、北側に丘陵を背負う平地に
安楽寺という寺院があります
伝承では成木大夫の居館があったといわれます
戦国期には北条氏直の軍が陣を敷き西600mほどの合戦坂と
称される場所で戦があったとも伝わります
さらに寺は戦火で焼失とも伝わります
小幡晋さんの著書「多摩の古城址」では下成木館として
紹介される場所であります

裏付けはありませんが上記の伝承と現地の地形から考えて
戦国期に寺が陣所として利用された可能性は否定できません
北条氏直の軍は誤伝で北条氏綱、または氏照の軍とすると
私的にはあり得る話となり妄想が膨らむのですが^^

寺の建つ台地下の地名は堀ノ内で地侍が屋敷があったと
考えられています

参考  青梅市郷土博物館・企画展「青梅の峠と坂」解説シート
     多摩の古城址/小幡晋、 安楽寺の解説板
 

           若林氏屋敷
攻城日 天候 評価 遺構
2015,12,29 晴れ E なし
攻城のコメント 屋敷の前を流れる厚沢川と堤
小曽木2丁目、厚沢地区に三田氏の一族と伝わる
若林氏の屋敷がありました
同家に伝わる系図には三田政定の後胤・若林政親を
初代とします
同地は三田氏との関係が深い天寧寺の北側を源流とする
厚沢川沿いに発展した谷津田に面した集落であります
地図上で位置を確認すると三田氏関連の屋敷があっても
不自然ではないように思えます

現在は資料に掲載される名主造りの屋敷は建て替えられて
なくなりましたが御岳神社や谷津田、厚沢川沿いの堤といった
古さを感じさせるものがあって楽しめました


参考  多摩苗字風土記/桜沢孝平(武蔵野郷土史刊行会)
     青梅市の板碑/青梅市教育委員会