厚木市の城

 

          七沢見城山
攻城日 天候 評価 遺構
2010,2,6 晴れ C 堀切、郭  
攻城コメント 主郭
七沢見城山「夏場の訪問にご用心」
↑史進探検隊の冒険記録ご覧ください

七沢城の一部とも考えられる高旗山の遺構も収録しています

 
備考 主郭南の虎口
七沢見城山は七沢城の物見として利用されたと
考えられているようです(厚木市史)
城を見学した私の感想としては単なる物見ではなく
尾根に設けられた郭の配置や堀切などを見ると
詰城的な役割も担っていたのではないかと思いました。

もちろんこの場所は眺望が良く相模の平野部が一望でき、
当時は糟屋から津久井〜甲斐へ抜ける街道が
通っていたことから監視所としての機能は備えていたでしょう。

 
                  七沢城  
攻城日 天候 評価 遺構
2008,6,13 晴れ E なし
攻城のコメント 写真
七沢城は扇谷上杉氏の重要拠点の一つで大山の東麓丘陵に
築かれた城でありました。
現在は巨大なリハビリセンターが建ち遺構は確認できませんが
その施設の規模から城は大きかったのではないかと思われます。
久しぶりに訪れましたが石碑だけ撮影したかったので
午後八時という真っ暗な中、車のライトを石碑にあてて撮影です。

城の南西の尾根続きであったと思われる高旗といわれる
比高200mほどの山は物見があったと考えられますので
そのうち登ってみたいと思います。
北側には上杉定正の墓と伝わる小さな塔があります。
 
 備考 実蒔原の古戦場から見た七沢城 
宝徳2年(1450)に鎌倉公方・足利成氏と山内上杉憲忠が
争った際に七沢城に立て籠もった記録があります。
城はその頃に築かれたのでしょう。
後に悪名高い扇谷上杉定正の城となり本拠地・伊勢原北の
守りを固めました。
長享2年(1488)には山内上杉氏が七沢に攻め寄せてきますが
扇谷上杉定正は僅かな兵で南実蒔原に布陣する
山内上杉勢を打ち破りました。
しかし、後北条氏の台頭とともに扇谷上杉氏の勢力も衰退し
永禄5年(1562)の松山城陥落の頃には七沢城は後北条氏の
勢力下になり廃城となっていたのでしょう。
(参考 現地案内板)
               岡津古久城    
攻城日 天候 評価 遺構
2008,11,1 晴れ C 堀切、土塁
攻城のコメント 遠景
厚木市岡津古久の谷間の集落に所在する城です。
谷間の中央を北に延びる低い丘陵の先端部で東に折れる
部分に築かれ完全な形で遺溝が残る城であります。
堀切と土塁で区切られた城域には明確な平場が二カ所、
それに腰郭状の平場が設けられております。
東麓の民家は根古屋だったと思われ殿ヶ谷型式です。
城の歴史や城主などについては不明でありますが
西に扇谷上杉氏の拠点の一つ七沢城があり、
こちらと関係のある在地土豪の城と考えたいです。

城は民家の裏山で私有地であり敷地内を
通行させてもらい登ります。
必ず、一声かけ許可を得てから見学してください。
 
                              イメージ図
 
堀切 平場
            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           源義隆屋敷(推定地)
攻城日 天候 評価 遺構
2015,1,15 晴れ E なし?  
攻城コメント 屋敷跡とされる荻野神社
荻野地区の荻野小学校、荻野神社の建つ地が
源義隆屋敷跡と考えられています
源義家の六男でこの地に所領を持つことから森六郎と称します
屋敷地とされる場所は「六郎屋」という地名が残っています
六郎屋敷ではなく六郎屋というのが微妙ですが屋敷を
構えるに適した場所なのでしょう
同地には戦国末期、後北条家臣・松田直長が屋敷を構えました

森六郎は源義朝に従い平治の乱に参戦し敗走途中に
山城国の竜華超で落ち武者狩りの手にかかり討死しました
その子孫は織田家臣の森氏となります

参考 厚木中世史話/厚木市史編纂委員会
    毛利一族の源流/露木國寛
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           荻野山中陣屋 
攻城日 天候 評価 遺構
2008,6,13 晴れ E なし  
攻城のコメント 写真
この陣屋は私が神奈川西部や静岡に出陣する際に立ち寄る
休憩所になっております。
公園整備され駐車場、トイレが設置されております。
もちろん石碑や案内板なども設置されております。
しかし残念ながら遺構は残されておりません。

ここは荻野山中藩1万6千石の陣屋で小田原藩・大久保忠朝の
次男教寛が藩祖です。
後の時代天明3年(1783)頃に時の藩主・教翅が本格的に
陣屋を構え明治まで藩はつづきました。
(参考 現地案内板)
 
          厚木館  
攻城日 天候 評価 遺構
2009,7,4 晴れ E 堀?  
攻城コメント 那須与一墓と伝わる五輪塔
厚木市旭町に所在する智恩寺が厚木館跡と伝わります。
遺構はないといわれてます。
しかし、ちょっと待ってください。
以前から境内敷地内で畑になっている部分(二辺)が
堀跡に見えてしょうがないのです。
というか堀でしょう?
幅といい窪み方といいどこをどう見ても堀跡に見えます。

そういえばこのお寺には那須与一の墓と伝わる五輪塔が
保存されております。
なぜ?ここに与一の墓なんでしょうか?
近くに烏山藩の陣屋があったから?
そんな単純なことではないのでしょうね。
(室町期の塔で厚木氏に関係あるのか?)

室町期、嘉吉元年(1440)結城合戦で結城方に味方し
討死した厚木掃部介という武将が住んだのではないかと
伝わります。
厚木氏は戦国末期には後北条氏に従い厚木に住んだとも
いわれます。
厚木氏は下野・芳賀氏の出と伝わるようです。
(参考  厚木中世史話 )
 
堀跡にみえませんか〜、画像だとわかりづらいですね(汗)
 
                 本間氏館  
攻城日 天候 評価 遺構
2005,12,12 晴れ D 土塁
攻城のコメント 土塁?
国道246号線金田陸橋のすぐ南にある妙純寺が本間氏館です。
本間氏は平安末期頃に館を築いたと思われます。
文永6年(1271)に執権北条氏に捕われ佐渡に
配流される途中の日蓮上人が宿泊したといわれる館です。
しかし、厚木市内には本間氏館といわれる場所が3ヶ所あり
それぞれ日蓮伝説を伝えております。
残りの2箇所もいずれ紹介しますがおそらく本間氏の庶子の
館で本拠地は妙純寺のあるこの地ではないかととも思えます。
3箇所の中で唯一、土塁?があり、境内には日蓮を丁重に迎えた
本間重連の墓もあります。

本間氏は戦国期くらいまでこの地に健在していたようですが
この館に拠っていたかは不明です。
 
 土塁?その2 本間重連の墓
                 
             中依知本間氏館  
攻城日 天候 評価 遺構
2009,7,4 晴れ E なし
攻城のコメント 小幡一族の墓
中依知・蓮生寺も本間氏館と伝わる場所であります。
相模川段丘端に所在し景色の良い場所でもあります。
この寺は江戸初期に甲陽軍艦編者として知られる
小幡勘兵衛景憲の墓があることでも知られます。

遺構は確認できませんが立地的には館跡に
相応しいように思います。
(参考 厚木中世史話  蓮生寺石碑の由来書き )
 
        上依知本間氏館  
攻城日 天候 評価 遺構
2009,7,4 晴れ E なし  
攻城コメント 館跡遠景
上依知の本間氏館跡と伝わる妙伝寺ですが以前から
どうも館の所在地に相応しくないと感じてました。
しかし今回、改めて周辺からじっくりと見学し、
遠目から寺を眺めて見るとなかなか良い眺めではありませんか。
周辺の畑、水田よりも微高地になってますね。
境内には遺構があるんじゃないかと疑いたくなるほどの
良い眺めです、実際はありませんけど(笑)

鎌倉期に本間氏関連の館があったのは確かではないでしょうか。
しかし、例の日蓮さん云々という館はどこなのか?
正直わかりませんし、そのことを突き詰めようとも思いません。
厚木市内伝わる三箇所の本間氏館のどこかで
良いと思ってます。
(参考   厚木中世史話 )
 
          上依知城山  
攻城日 天候 評価 遺構
2009,7,4 晴れ E なし  
攻城コメント 城山遠景
上依知、中津川の段丘を利用して築かれた城でしょうか。
開発により遺構はすでに確認できないようです。
車で昭和橋からR129に合流する道沿いにありますので
過去に何十回通りかかってますが今だ城跡地と推定される
場所には足を踏み入れてません。
坂の上から何もなさそうなのが確認できてしまうので(笑)

私は当初、この地が上依知の本間氏館なのではないかと
考えておりましたが今回、妙伝寺や周辺を見学して
考えが変わりました。
ここは相模川の対岸への眺望がよく磯部城や原当麻の城山も
臨むことができる場所であり戦国期辺りに物見的な砦が
あったのではないではないかと思いました。
 
          烏山藩陣屋  
攻城日 天候 評価 遺構
2009,7,4 晴れ E なし  
攻城コメント 石碑と標柱
ここは享保13年(1728)に下野烏山藩・大久保常春の
飛地支配のために設けられた役所です。
相模川左岸に位置し厚木の宿場・商家町の発展に
大きな役割を果たしたといわれます。
明治維新までの約100年間機能したそうです。

現在は相模大橋の南側に石碑が建つだけです。

(参考 現地石碑の文)
 

                 越智弾正忠館 

攻城日 天候 評価 遺構
2008,6,28 晴れ E なし
攻城のコメント 清道院
伊勢宗瑞に従い岡崎城攻めで功をあげ三田に領地を得た
越智弾正忠の館であります。
清道院辺りが館跡といわれてます。
相模川の段丘上になります。
寺には遺溝と思われるものはありません。
私が考えるに館は寺の北側の畑地辺りではと思いました。
三田八幡神社の南に大山道が通っていて当時は
切通し状の道があったのではないでしょうか。
この道に隣接した地に館をと思いましたが大山道の
往来が盛んになるのは江戸時代になってからで
戦国期にどれほど重要視されていたかは不明であります。
 
            安達氏屋敷 
攻城日 天候 評価 遺構
2008,6,28 晴れ E なし  
攻城のコメント 聖眼寺の伝・安達盛長墓
中津川の右岸段丘上、才戸橋の南東側の三田地区に源頼朝の
寵臣・安達藤九郎盛長の屋敷があったといわれます。
中津川の段丘上と段丘下の聖眼寺を
散策してみましたが宅地と竹薮で痕跡は見つかりませんが
聖眼寺には安達藤九郎の墓といわれる塔があります。
屋敷はこの聖眼寺かその周辺だったのではないでしょうか。
寺の周りの竹薮には何らかの遺構が存在する可能性もあります。

他の御家人と違い目だった戦働きはありませんが
源頼朝が挙兵の際に各地の源氏に使いとなり頼朝に
味方するよう説いてまわりました。

この地は和田合戦後に安達氏が手に入れた領地では
ないでしょうか。
安達景盛以降の屋敷となるのではないかと考えてます。
 
                 跡部屋敷  
攻城日 天候 評価 遺構
2008,6,28 晴れ E なし
攻城のコメント 跡部氏が勧請したとい考えられる諏訪社
武田家臣・跡部氏が主家滅亡後に徳川家の旗本となり
愛名地区に所領を得て江戸初期に構えた屋敷であります。
屋敷主は跡部正次とも宗左衛門ともいわれております。
県道63号沿いの丘陵端か中腹に構えられていたと推定され
諏訪神社から妙昌寺にかけてが屋敷地ではないでしょうか。
過去何十回も通った道でありますが屋敷推定地を訪れるのは
二回目であります。
跡部氏というと私の中では良いイメージがなくて・・・
 
          松田直長屋敷 
攻城日 天候 評価 遺構
2008,6,28 晴れ E なし  
攻城コメント 屋敷推定地の画像
後北条氏の重臣である松田氏の館で山中城を守り豊臣軍を
相手に壮絶な討ち死にを遂げた松田康長の子・直長が
徳川氏旗本として愛甲群荻野に領地を得て住んだ
屋敷といわれますがおそらく父の代からこの地に
屋敷を構えていたのではないでしょうか。
ちなみに松田康長はあの松田憲秀の弟・康光の子供です。

現在の荻野中学校から小学校にかけての舌状台地にも
見える地形上に館は所在したのでしょう。
この付近ではこの場所が屋敷を構えるのに適していると
思われますがあくまでも推定地であります。
 
           飯山手城
      天候 評価 遺構
2015,1,4 晴れ E なし  
攻城コメント 現状
飯山観音の南東500mほどに手城という地名がありました
北側に延びる半島状台地の先端部分になるようです
とくに城跡だという伝承はないようです
残念ながら運動場の造成にともなう土取りで地形が
改変され形状や遺構の有無は不明であります
飯山観音、金剛寺、西福寺の存在から中世に発展した
場所であることは想像できます
それに加え手城という地名なので城があったと思いたいです

飯山は古くは毛利季光の所領でした
高師冬と上杉氏の戦い、霜月騒動での安達氏残党が
金剛寺に篭ったという話もあります

手城とは出城の転訛と考えられます
扇谷上杉氏の拠点である七沢城からこの辺りには
甲斐、武蔵方面へ向かう間道があったと考えられます
したがって七沢城の出城ではないかと思っています

参考  城郭大系、  中世武士の城/斎藤慎一
     厚木市史、 厚木中世史話
     毛利一族の源流/露木國寛

 

 

           飯山地区の館
攻城日 天候 評価 遺構
2015,1,15 晴れ E 確認できず
攻城のコメント 金剛寺の安達盛長墓、光福寺の隆寛律師墓
飯山地区には武士の館跡とされる場所は確認されていません
鎌倉期には毛利氏、安達氏の館跡が存在したと考えられます
その場所を探して2週にわたり飯山地区を訪れました
現地調査、手持ちの資料、地名からもその場所は
割り出せませんでした
手城、橋場という地名が確認できますが
直接結びつくものではないでしょう
毛利季光が帰依した隆寛律詩の墓所である光福寺周辺や
飯山観音の西麓に建つ金剛寺周辺が怪しいと思っています

霜月騒動の際に安達時景が鎌倉から金剛寺に逃れたこと
同寺境内に安達盛長の墓とされる五輪塔があることから
門前あたりに屋敷があってもおかしくないとも考えましたが
北向き開けた場所なので鎌倉期の屋敷地としては
相応しくないでしょう

西勝寺周辺は小鮎川に面した南向きの立地となります
屋敷を構えるに適した場所です

飯山観音は坂東三十三札所の一つとして知られます
関東各地にある札所の寺院周辺には武士の館跡の存在が
多数確認されています
このことも飯山に館があったと館がる根拠の一つでもあります

参考 毛利一族の源流/露木國寛、 中世武士の城/斎藤慎一
    安達泰盛と霜月騒動/福島金治

 

 

               板倉新次郎屋敷
攻城日 天候 評価 遺構
2008,7,5 晴れ E なし
攻城のコメント 屋敷推定地辺りの画像

後北条氏の家臣・板倉新次郎の屋敷といわれる場所が
厚木市の下古沢地区にあったと伝わりますが残念ながら
屋敷地の特定はできません。
下古沢地区は鎌倉初期には集落があったようで屋敷推定地と
小さな谷を挟んで向かいの三島神社には
毛利季光の屋敷があったといいます。
板倉氏が土豪なのか他から移って来たのかは不明ですが
戦国期にはこの集落を領していまし

 

 

 

た。

 
          永島藤六屋敷
攻城日 天候 評価 遺構
2008,7,5 晴れ E なし  
攻城コメント 上古沢のお地蔵さん
板倉氏の屋敷地の西側の丘陵を越えた辺りにかつて
堀ノ内という地名があったそうです。
屋敷の伝承はないそうですが後北条氏家臣の永島藤六と
が屋敷を構えていたのではといわれる場所です。
永島氏は永禄(1558年?)の頃に古沢地区を
領していたようです。
上古沢地区のなだらかな斜面を利用して屋敷を建て
居館したと考えられなくもありませんがあくまでも推定です。
画像ですが特にそれらしいものがなかったので上古沢地区の
お地蔵さんを掲載しました。
 

           愛甲季隆館  

攻城日 天候 評価 遺構
2008,7,5 晴れ D なし  
攻城コメント 石碑
厚木市愛甲地区にある愛甲氏の館跡伝承地です。
遺溝と特定できるものはありませんが愛甲公民館敷地内で
神社の祠前に愛甲三郎館の石碑が建ちます。
旧玉川(玉川)の段丘上になり公民館裏の畑も
館の敷地であったのでしょう。
弓の名手であった愛甲三郎季隆は二俣川の合戦で北条氏に
味方し畠山重忠を射止めたました。
和田合戦の際に愛甲氏の宗家・横山党とともに
和田義盛に加勢して滅びてしまいます。
厚木市内にはもう一カ所愛甲氏館と伝わる場所があり       愛甲石田駅近くの円光寺辺りといわれます。
 
                戸田堀ノ内
攻城日 天候 評価 遺構
2011,5,7 E なし
攻城のコメント 中戸田バス停脇の祠
戸田地区の延命寺南側一帯がかつて堀ノ内とよばれて
城郭大系では室町期頃に成立した領主の館ではなか
と考えているようです。
地名以外にカガ屋敷と伝えられる場所が堀ノ内に存在しました
直接城館に結びつくような伝承がなく現地も若干地形に
起伏が認められるもののかつて城館が存在したのかまで
想像できるものではありません。
画像は堀ノ内の鬼門にあたる位置だと思いますが
小さな祠を撮影したものですが堀ノ内に関係があるものかは
不明です。