安中市の城館

 

          後閑城  
攻城日 天候 評価 遺構
2009,1,3 晴れ A 堀切、郭など  
攻城コメント  
全国に数多ある復原された城址公園でも屈指の美しさを
持つ後閑城であります。
車で城の中腹まで訪れることができ見学道も整備されて
見学しやすい城であります。
妙義の山々を望む主郭からの景色は雄大であります。
城は各郭間に設けられた大きな堀切が特徴で主郭北の
二重堀切は圧巻であります。
西側、東側斜面にはひな壇状の郭が設けられており
大規模な城であります。

春には城址に植えられたサクラが咲き乱れサクラ祭りも
行われていますのでこの時期の訪問もお薦めです。

余談でありますが後閑城東の北野寺には
彦根藩二代目藩主・井伊直孝が10年間育てられました。
やんちゃではありますがなかなかの器量であったようで
たくさんの逸話が伝わります。
城を訪れることがありましたらついでに如何でしょうか。
後閑城の写真集
              備考 西郭から見上げる主郭
後閑城は嘉吉元年(1441)に信濃国・御岳城主の
依田内匠頭が7年の歳月をかけて築いた城と伝わります。
この依田氏がなぜ後閑の地に城を築き城主となったかは
不明ですが内匠頭の孫、依田光慶は長野業政の11女を娶り、
長野氏に求められ板鼻鷹巣城に移りました。

その後、北条四郎政時という人物が後閑城に移り住みましたが
丹生の新田景純に滅ぼされ新田氏が城に移り住みます。
永禄6年(1563)に新田氏は武田氏に従い姓を後閑と改めます。
武田氏滅亡後に後閑氏は関東管領として赴任した滝川一益の
家臣・津田小平次に討たれ滅び、城も廃城となったのでしょう。
(参考 上州の城/上毛新聞)
 
           松井田城 
攻城日 天候 評価 遺構
2008,1,3 晴れ A 連続堀切、畝状の堀など  
攻城コメント 写真
後北条氏の上・信国境の重要な支城であります。
碓氷峠を通過して関東に攻め込む迎え撃ち食い止める事を
目的とした城で対西国勢を強く意識したのか
過剰なほどの縄張りで連続空堀、連続堅堀などは
強烈でかなりインパクトのある城です。
この城は大きくて、見学するのに最低半日は必要です。
城の北側斜面の遺溝は日照時間が短いために下草もなく
薮にも入りやすくて助かります。
個人的にオススメなのは西郭の下にある連続空堀です。
しかし西郭から崖降りとなり危険な箇所であります。
危険といえば馬出郭の南側は崩落しており、こちらも危険です。

城へは大手口まで車で行けて5台程度の駐車場もあります。
大道寺政繁の墓のある補陀寺裏から2郭に行くルートもありますが前者のルートが安全かと思います。
松井田城の写真集
備考 S字状の堀と土塁
松井田城は鎌倉期に北条時頼の指示により築かれたのが
はじまりとも伝えられています。
本格的に城が築かれたのは戦国期にこの地を領した安中氏に
よるものであります。
武田信玄が西上野に侵攻した際に松井田城も攻められましたが
城主の安中忠政はよく防戦して武田勢を相当苦しめた末に
開城しました。

その後、後北条氏の支城となり重臣の大道寺氏により改修され
現在残る遺構の形態になったようです。
後北条氏が信州と上州の境目のこの城を
いかに重要視していたかがわかります。
 
                松井田西城  
攻城日 天候 評価 遺構
2009,1,3 晴れ D 土塁?
攻城のコメント 金剛寺の土塁状の地形
文字通り松井田城の西側、金剛寺の地が松井田西城と
いわれております。
安中氏が松井田城を築く前に居城としていた場所と伝わり
金剛寺の寺域とその周辺、背後の山まで含めた
城域であったと考えられます。
(実際にに背後の山には登っていないので次回訪問時に
確認してみたいと思います)
金剛寺には入り口脇には土塁状の大きな土盛が
確認できますが遺構なんでしょうか?
資料不足でなんともいえませんが背後の山を確認すると共に
現地で資料も探し何かわかりましたら加筆修正したいと思います
 
                愛宕山城  
攻城日 天候 評価 遺構
2009,1,3 晴れ C 横堀、馬出、土塁
攻城のコメント 遠景
横川で峠の釜飯(おぎのや)を食べた後についでで
寄ってみました(笑)
横川駅から国道18号線に入り10分ほどで愛宕山城麓に着きます
派手なバス停のすぐ横に駐車スペースがありその裏を
登ると10分ほどで主郭に登れます。
城は旧中仙道を見下ろす比高差70mほどの山城です。
立地条件から天文16年(1550)に佐久で
山内上杉氏を撃破した武田氏が碓井峠を越え
信濃側からの橋頭堡として築いたと考えられております。
その後、他勢力によって改修された可能性はあります。

主郭西側に角馬出が残されており確認しやすい遺構です。
割と大きな主郭はほぼ全域横堀で囲まれております。
問題は主郭です。
城の周りは山林なのですが何故か主郭は荒れております。
ヤブ、枯れた竹の倒木などに阻まれ侵入困難であります。

この辺りはクマ、サルが出没する上に山ヒルも
生息しているようなので訪れる際はくれぐれも
気をつけて登ってください。
 
    登り口 角馬出
          
主郭南側の横堀と土塁 主郭から見る土塁
        
主郭土塁 旧中仙道
        
                 磯部城  
攻城日 天候 評価 遺構
2008,1,3 晴れ A 堀、虎口、土塁など
攻城のコメント  
ほぼ完全に遺構が残された城で小さくても見応え充分で
とても勉強になる中世城郭のモデル城であります。
現在は公園となっていますがよく整備されており各遺構の
表示がされて理解しやすいです。
ですから腰郭、土塁、虎口、横堀などなどが一目でわかります。
これだけでなく眺望が良く駐車場、トイレ付きの優良物件です。
なかなかありませんね、ここまで揃った城は。
小さな城ですがゆっくりじっくり見学してもらいたい城であります。
磯部城の写真集
   備考 2郭の虎口
磯部城は正治2年(1201)に源平合戦で有名な佐々木盛綱が
拠る旧跡といわれますがあくまでも伝承であります。

実際に城は永禄5年(1562)頃に西上州に進出してきた
武田氏によって築かれたか改修されたと考えられています。
松井田城と安中城の間に位置し武田軍による安中氏攻めの
際の拠点の一つかもしれません。

また、東500mほどのところには烽火台といわれる文殊寺砦が
あります。
 
           人見城  
攻城日 天候 評価 遺構
2008,1,3 晴れ C 堀、土塁、物見台、井戸  
攻城コメント 縄張り図(現地案内板より)
地元に住んでいる方々の好意で城跡を
気軽に散策出来るお城であります。
ただし城全体が竹薮で覆われており遺構が理解しづらいです。
所々で案内表示が建ちますが一部で遺構が見学出来ません。
しかし,好意で見学出来るようになっているので
入れるだけでも幸せですね。
遺溝は堀、井戸(涌き水)、土塁などが残りそれなりに
楽しめるお城であります。
見学路入口にあたる大宮神社には案内板があります。
(新ふる里づくり実行委員会の方々ありがとうございます)
 
備考
南北朝期に足利方に従っていた人見四郎恩和の館があったと
伝えられていることから鎌倉末期には城の原型になる館が
あったのでしょう。
館主の人見四郎は鎌倉幕府軍として楠木正成の籠もる
河内赤坂城を攻めた際に討死を遂げているのでここの館主の
人見四郎は一族の別人ではないでしょうか。

城の遺構形態から考えて戦国期の城であることは
疑いようがありませんが城主などの詳しいことは
わかっていないようです。
(参考 現地案内板)
 
           簗瀬城  
攻城日 天候 評価 遺構
2008,1,3 晴れ C 堀、土塁  
攻城のコメント 土塁
碓氷川左岸段丘上に所在する安中氏の城であります。
現在は神社となっていますが遺溝は一部良好に
残されております。
境内裏の土塁は高く一部で二重になり残っています。

近くの八幡平陣城、榎下城、菅沼城、磯部城などと一緒に
見学するのが良いでしょう。
きっとご満足いただけますよ。
 
備考
簗瀬城のすぐ南を流れる碓井川の渡河地点の抑えるために
築かれた城のようで安中氏によって築かれたと思われます。
というのはこの城についての史料や言い伝えがない為に
正確なことがわかりません。
 
                 榎下城  
攻城日 天候 評価 遺構
2008,1,3 晴れ C 堀、土塁
攻城のコメント 写真
榎下城(えげ)は国道18号線の原市場交差点を北に曲がり
500mほどのところにある久昌寺が建つ場所にありました。
別名・鶴巻城といわれます。
この城には大榎があり毎年のように丹頂鶴が巣をつくることに
ちなんでついた城名だそうです。

遺構としては境内の裏に二重の土塁と堀を見ることができます。
しかし、藪となり見学にはちょっと向かないかもしれません。
一応、寺の入口には城の表示が出されております。
 
備考 土塁
榎下城は安中忠清が大永5年(1525)に築きそれまでの
居城であった松井田西城から移りました。
基本的に方形の城であったようですね。

安中忠政が永禄2年(1559)安中城を築いて移るまでの
35年間安中氏の本拠地として機能していました。
その後は廃城になったとわれますが安中氏の支城に
なったとも考えられます。
 
           八幡平陣城  
攻城日 天候 評価 遺構
2008,1,3 晴れ D なし  
攻城コメント 首塚
永禄年間に上州に侵攻した武田信玄の陣城と
考えられている
のが八幡平陣城です。
ここには首塚があり中世日本人の頭骨が埋葬されており
近くの簗瀬城か榎下城が攻められたときに討ち取られた武士の
ものではないかとのことです。
そして、城の形態が一時的な築城と見られることや戦略上などを
考え信玄の陣城と考えられているようです。

実際に現地には首塚が祀られております。
遺構は首塚の西側にあったといわれますが残念ながら
確認できませんでした。
(参考 群馬の古城)
 
                 菅沼城  
攻城日 天候 評価 遺構
2008,1,3 晴れ C 堀、土塁
攻城のコメント
碓氷川左岸段丘上に築かれた城で現在は
海蔵寺になっております。
寺の敷地の外側には一部堀がめぐらされています。
寺の周囲の道路も堀であったようです。
また寺の裏門にあたる西側の門脇の段丘中腹(階段下)には
当時から使用されていたかは不明ですが井戸があります。
 
   備考 堀2
菅沼城は文禄年間(1593)に三河の菅沼氏の一族である
菅沼定清によって築かれた
といいます。
しかし、碓井川の崖上で築かれ渡河地点の監視には絶好の
場所であり戦国期には安中氏の出城があったかもしれません。
 
          板鼻城
攻城日 天候 評価 遺構
2011,10,22 D 堀、郭  
攻城コメント 主郭?と2郭横堀状の地形
4回目の訪問でようやく納得できる成果をあげる事ができた
板鼻城です。
初めて訪れてから10年、鷹ノ巣出郭、小丸田郭は
初期の段階で攻略できたのですが主要部分の
遺構だけはさっぱりわかりませんでした??

今回は私にしては珍しく縄張り図を持参しての攻城です
落ち着いて図面を見ながらゆっくりと城域を歩くとそこには
しっかり遺構が残されております。
でも状態はかなり悪いです・・・
巨大な堀はなかばヤブに埋もれているし各郭や
横堀状の地形なども確認できました
しかし、はっきり言って物足りないです
城跡の主要部分が住宅地になっているのですがその奥には
耕作地もありそちらにはもっと明確な遺構が
残されているのではないか思っておりますが
行きかたがわかりません・・・
雨も降っていたので無理せずそのまま退散しました

  

備考 主郭西側の堀(ヤブ)
板鼻城は伝承では鎌倉期に里見氏の一族が
築いた館にはじまるともいわれます
しかし武田信玄が西上州支配の拠点として築いたのが
はじまりでしょう。
城域も大きくそれに相応しい縄張りといえます。

武田氏滅亡後は後北条氏が地域支配の拠点として
使用したようです
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際には
信州から進軍してきた上杉景勝の軍勢により攻め落とされ
廃城となります

参考 安中市史、 上州の城(下)
    箕郷町史
 
               板鼻古城
攻城日 天候 評価 遺構
2010,11,22 D 腰郭
攻城のコメント 腰郭(2段確認できます)
板鼻城とは谷を挟んで北西に位置する板鼻古城は
古城館、徳定屋敷の伝承地といわれます
住宅造成に伴う発掘調査によって板鼻城よりも
古い時代の遺物や堀、井戸、土塁跡、土橋跡などが
見つかりました。
城の構造ですが単郭で東から南側にかけて腰郭を
四段備え、北側には折のついた堀が設けられていました。

過去、私は板鼻城の遺構を探して古城の辺りを何度か
ぶらついていますが結構目立つにもかかわらず腰郭の
存在には気づかず通り過ぎていました(笑)

戦国初期、山内上杉顕定の仮居館となった依田徳昌軒の
屋敷か依田光幸の宿所と推定されています
この地が交通の要衝であることと城の規模
東西150m、南北120mから考えると単なる土豪の城とは
考えにくいです。

板鼻城は長野業政が築き、婿の依田光慶を後閑城より移して
守らせたと伝わります。
その城はこの古城なのかもしれません。

参考  安中市史、 上州の城(下)
 
          安中城
攻城日 天候 評価 遺構
2011,11,22 D  
攻城コメント 坂下門跡
安中城は県内でも有名な城なのですね。
九十九川の段丘上に築かれた城ですが現在は
公共施設が建ち並び僅かな遺構を残すのみとなりました。
今回は訪れる予定はなかったのですが雨に降られてしまい
雨宿りを兼ねて城内にある図書館で資料収集を目的に
訪れました。
1時間ほど資料を漁った後に雨が小降りになったので
安中城の撮影をします。
初めて訪れた頃から較べてもこの辺りの宅地はずいぶん
増えたように思います。
今回も主郭跡の東側で宅地造成工事が行われていました。
遺構が少ない城跡といえこのような光景を見るのは
忍びないものです。
予定外の訪問であった為、訪れたいと思っていた台地東の
熊野神社付近にあるといわれる石積み遺構の確認を
コロッと忘れていました(笑)
こちらは次回訪問のお楽しみということで
 
備考 堀跡と櫓台跡
安中城は永禄2年(1559)に安中忠政がそれまでこの地を
領していた土豪の窪庭図書を退けて築いた居城です。
その前身は土豪・窪庭氏が設けた居館ということになります。
この城は松井田城に較べて要害面で数段劣る立地条件なので
安中氏の領内統治に適していたということでしょう。
永禄6年(1563)に武田氏に攻められあっさり開城します。
城を守る安中忠政の子・忠成は武田氏に仕えます。
後に忠成は長篠の合戦で討死し安中城は廃城となります。
江戸初期に井伊直勝が居城として安中城を陣屋構えに
改修します。
以後は城主を代えながら明治まで使用されました。

参考  上州の城(下)、 群馬の古城、 安中市史
 
安中城の遠景 城下の武家屋敷
         
              伝・佐々木盛綱館
攻城日 天候 評価 遺構
2008,1,3 晴れ E なし
攻城のコメント 松岸寺の伝・佐々木盛綱夫婦墓所
磯部町の松岸寺には佐々木盛綱夫婦の墓と伝わる
県指定史跡の五輪塔が所在します。
源平合戦にて華々しい活躍をした盛綱は
近江源氏・佐々木秀義の三男で盛綱自身も頼朝の挙兵や
備前・藤戸合戦などで手柄をたてました

頼朝没後、入道し西念と名乗り所領の磯部郷に
居館しておりました
「越後・城資盛の反乱」の際には幕府からの城氏討伐の
御教書を館の門前で受け傍らにいた馬に乗り
そのまま越後に向かい勇士の志を示した
エピソードは有名ですね

以前から佐々木盛綱の館跡を探していましたが手がかりがなく
松岸寺の墓所だけでもと撮影していました。
先日、群馬県史に松岸寺が館跡と伝わるとの記述を
見つけましたので更新してみました
しかし、あくまでも伝・佐々木盛綱館であります(笑)

参考 群馬県史(通史3中世)、 松岸寺五輪塔の解説板
 
              伊勢三郎義盛屋敷 
攻城日 天候 評価 遺構
2005,7,31 晴れ E なし
攻城のコメント 案内板
ある夏のアツ〜イ日に安中市の鷹巣城に出かけました。
皆さんご存知のとおりにこの城は遺構らしいものがまったく
残っておりません。
そこで周辺を調べてみようと車でグルグルとまわっていたら
『鏡ヶ池と片葉の葦』という板鼻七不思議の案内板を
発見しました。
そこにはあの源義経の四天王の一人である伊勢三郎義盛の
屋敷の記述があるではありませんか。
この池は義盛の妻が毎朝身嗜みを整える為に水面に姿を
映していたという伝説を残しております。
ということで探してみましたよ〜翌日訪れて屋敷跡を。
 
備考 屋敷跡付近といわれる取勝社
伊勢義盛はもともと源義朝の家来で伊勢義連の子であった。
父義連は伊勢神宮の神主をしていたがある時に罪を犯し
上州に流されて板鼻に住みついた。
その後京から奥州に向かう元服した義経が上州を通り、
運命の出会いをするのであります。
鏡ヶ池は屋敷の中にあったようです。
屋敷は池の後方の高台と考えられますが
実際、義盛の後裔が今も板鼻に住んでいるそうで
その家の付近が屋敷跡の有力地なのでしょう。
個人宅なので場所は明記いたしません。

また、碓井川対岸の常楽寺には義盛の墓もあります。
  (参考 上州路 義経伝説上州紀行)