岐阜市の城館

 

                     岐阜城 

攻城日 天候 評価 遺構
2005,3,21 晴れ 石垣  
攻城コメント 模擬天守
私が歴史を好きになり最初に行ってみたいと思った城です。
子供の頃の夢が実現しました。
しかし、すでに夕暮れ時、見学時間はわずか40分のみです
本当は歩いて山頂まで行く計画だったのですが、         ロープウェイにて攻城開始です(時間との勝負です)
山頂の駅からは小走りで天守まで行き、息を切らしながらも   一気に天守最上階まで駆けあがり眼下にひろがる素晴らしい 景色を眺めた瞬間とても感動しました。
現在、町並みは変わりましたがここからは戦国史上有名な   武将達が眺めたであろう景色なのです。
短い時間でしたが心に残る城の一つになりました。


2010、6,24 再訪                           今回はゆっくり見学してきました                   山頂のレストランで昼食を食べ終えてから見学開始です     ちなみに今回もロープウェイで山頂まで登りました         前回は遺構を確認する余裕もなかったので新鮮な気持ちで  見学できました                              井戸、石垣、堀切など遺構が残されていることに驚きました

                       

 
備考  
日本史上でもっとも有名な城の一つですね             今更城の歴史等について書いても仕方ないので省略します  私は美濃守護代であった斉藤妙椿について興味があったので 岐阜城と妙椿についての資料を収集したかったのですが    残念ながら入手することができませんでした  岐阜城の写真集
               加納城
攻城日 天候 評価 遺構
2005,3,21 晴れ B→A 石垣、土塁
攻城のコメント  
関ヶ原の合戦後に家康が縄張りを指示して築かれたといわれる
加納城であります。
現在公園になっていますが夕方に訪れた為でしょうか?
内部は見学できませんでした。(2005年当時)

2010年6月24日、久しぶりに加納城を訪れました。
城址公園の入り口には立派な案内板が建てられ
昭和63年度から行われた22年間に及ぶ発掘の成果が
まとめられた小冊子が置かれています
前回見られなかった主郭内部を見学して周辺も歩いてみました
以前はたいしたことないと思っていた石垣ですがじっくり見ると
スゴイじゃないですか〜迫力ありますね
6年前私は何も見ていたんだろう?
今回、再訪に乗り気ではありませんでしたが訪れてよかったと
心の底から思いました。
加納城の写真集
  備考 主郭の石垣 
加納城は文安2年(1445)に美濃守護代・斎藤利永によって
築かれたといわれます。
荒田川対岸の南西部には美濃守護土岐氏の
革手城がありました。
明応4年(1495)土岐氏の後継争いにはじまる「船田合戦」は
革手城とその周辺が舞台であります。
このとき加納城は合戦に際して改修されたそうです。
戦後、16世紀初めに土岐氏は守護所を革手城から
市内の福光へ移転します。
美濃の中心が移転したことにより加納城の重要性も徐々になくなり
天文7年(1538)頃に廃城になったといわれます

戦国期がおわり再び加納城が徳川家康によって
取り立てられます。
大阪城の豊臣氏に備えて築かれました。
このとき石垣が設けられますが岐阜城から運ばれたそうです。
初代城主は家康の婿・奥平信昌でありました。
明治時代まで譜代大名の城として機能しました。

参考  加納城跡の発掘(現地配布パンフ)  現地案内板
 
革手城(川手城)
攻城日 天候 評価 遺構
2010,6,24 晴れ E なし
攻城のコメント 石碑
済美高校の一角の児童公園内に城址碑が建てられている
革手城は一説によると城の中心はもっと南で石碑の建つ地は
城の北端とのことです。

平日の朝8時過ぎ、学生の登校し終わって授業が
始まるタイミングで石碑を撮影に行った私はとてつもない
恐怖を味わいました(笑)
静かな公園に響くシャッター音、ふと視線を感じて振り返り
学校に目を向けると・・・
窓際の生徒が一斉に私を見ています・・・
何も悪いことはしてませんけど・・・
足早に撤退です(笑)

私がここをはじめて訪れた際は女子高で訪れにくいイメージが
ありましたが現在は男女共学ではありますが曜日や時間を
考慮して見学に訪れることをオススメします
 
 備考 石碑の建つ公園
革手城は南北朝期に美濃守護・土岐頼康によって築かれ
戦国初期まで美濃の中心として繁栄します。
度重なる戦乱で荒廃した京から公家、文化人が移住し
能楽、蹴鞠、詩歌が盛んに行われ『革手府』とよばれ
大内氏の山口と並び称されるほど華やかな都市でありました

その繁栄も明応3年(1494)に起こった美濃国内の内乱
『船田合戦』戦火で三日三晩にわたり燃え続け灰燼となります。
その後、加納城の際に戦国中期には廃城となっていた
革手城の土砂が使われ跡形もなくなったといわれます。

参考  現地案内板
 
          船田城
攻城日 天候 評価 遺構
2011,6,24 晴れ E なし  
攻城コメント 城があったと思われる微高地端
革手城とは新荒田川を挟んだ西側に所在した城です。
2度目の訪問なのですが前回は革手城の石碑の建つ位置から
西側を見学しましたが実際はもっと南側ではないか思い
再訪してみました。
もちろん遺構はありませんが推定地は微高地になっています
周辺の水田や畑はかつての低湿地と考えれば城跡らしい
微高地に見えてしまいます(笑)

船田城は斎藤利国の重臣・石丸利光の居城といわれます
明応3年(1494)『船田合戦』で主人の守護代・斎藤利国と
争った石丸利光はここを本陣としました。
合戦は斎藤氏の勝利に終わり城は廃城になったと思われます

参考 週刊「日本の合戦」斎藤道三・義龍と長良川の戦い
    岐阜の山城ベスト50
 
               上茜部城
攻城日 天候 評価 遺構
2010,6,24 晴れ E なし
攻城のコメント 石碑と案内板
実は偶然見つけたんですよ〜♪
国道157号線で加納城に向かう途中で朝の通勤ラッシュで
道が混雑していましてふと左前方に視線を移すと
なんか石碑と案内板があるな〜と思い注意深く見るとなんと
「上茜部城 堀秀政 出生地」と書いてあります。
すかさず車を路肩に寄せてカメラを持って下車(笑)
堀久太郎君は美濃出身だったのです、近江かと思っていました
遺構ですが???確認していません(笑)
石碑背後の住宅地が城域なんでしょうが案内板にも
遺構が云々とは書いていなかったので・・・反省してます
偶然見つけた城跡、しかも好きな武将の生誕地で完全に
興奮状態で遺構の有無や城域の探索を忘れていました(汗)
  
  備考 石碑
現地案内板によると戦国時代に堀資重によって築かれ
天正の頃には堀秀政が城主であったと書かれています。
堀資重とは秀政治の祖父に当たる人物なのでしょうか?
近江出身とのことですが美濃の中心地でもある川手城、
加納城のすぐ近くに城を構えるのですから相当な
人物だったのでしょう(齋藤氏の家臣だったのかな?)

参考   現地案内板
 
          鷺山城
攻城日 天候 評価 遺構
2010,6,24 晴れ D 土塁  
攻城のコメント 麓(居館)からみる鷺山
斎藤道三の隠居城として有名な城ですね。
濃姫はここから尾張に嫁いで行ったそうです。

残念ながら遺溝はほとんど残りません。
山城だと思っていましたが鷺山(標高68m)の南から東の麓に
築かれた居館(現在の北野神社)が城なのです。
もちろん鷺山自体も城に含まれていますが・・・
遺溝は期待できないと思いながらもとりあえず登ってみました
山頂までハイキングコースが設けられていますので
10分ほどで登れますが案内板と石碑が設置されているのみで
やっぱり明確な遺溝は見られません。
麓には雛段が数段見られますが当時の遺溝なのでしょうか?
また神社隣の団地には土塁が残されております。
 
備考 山頂
鷺山城は鎌倉期に常陸の佐竹秀義が築いたと伝わりますが
どのような経緯で築いたのかは不明です
平野部の丘で比高差はなくとも目立つので要害として
取り立てるのに絶好の場所であります。

室町期に美濃守護土岐氏が本格的に城として整備しました
岐阜城の出城(要害)というよりも土岐氏の別館あるいは
一族の館が南から東麓に設けられました。
齋藤道三も鷺山城に隠居して息子・義龍との争乱の際には
ここを拠点に活動しましたが激しい戦闘に耐えられるほどの
縄張りではなかったようです。

参考  現地案内板
 
          黒野城
攻城日 天候 評価 遺構
2010,6,24 晴れ B 堀、土塁  
攻城コメント 城址碑
2010年6月岐阜へ出陣する際に初めてその存在を知りました
方形の郭が良好に残されているとのことで訪れます。
加納城〜岐阜城〜鷺山城と訪れてから黒野城まで
足を伸ばしましたが岐阜市は適度な距離で面白い城が
存在するのが嬉しいです。

現在は城址公園となり郭内はグランドとして利用されています
幅広いの大きな土塁と水堀に囲まれていて雰囲気も良いです
郭内は物足りなさもありますが堀と土塁は迫力ありましたよ。

方形単郭の城と思っていましたが外郭も存在していたようです
周辺にはその遺構が確認できます。
 
備考 土塁
黒野城は加藤貞泰によって文禄4年(1595)に築城されました
貞泰は豊臣秀吉に仕え甲斐24万石の大名に登りつめた
加藤光泰でしたが父が「文禄の役」出征中に没した際に
貞泰が幼いとの理由で所領を大きく減らされ美濃国の
黒野に4万石で移封され居城として築いたのが黒野城である。
その後、慶長15年(1610)まで貞泰の居城であった。
貞泰が大阪の陣での戦功により伊予国大洲に6万石で移封に
なると黒野城は16年の短い歴史が終わり廃城となりました。

参考  現地案内板、 岐阜の山城ベスト50
 
 
堀その2 堀その3
      
              枝広館
攻城日 天候 評価 遺構
2010,6,24 晴れ E 未確認
攻城のコメント 岐阜城から見る城ノ内(画像右側です)
長良高校と長良公園一帯が「城ノ内」いう地名で戦国期に
美濃守護「枝広館」の所在地と推定されています。

岐阜市で行った発掘調査では幅15m、深さ4mの巨大な堀が
検出されました。
古い地籍図から一辺180mほどの方形館と推定されます。
岐阜市の埋蔵文化財ニュース2には「城ノ内遺跡」と題され
発掘時の堀が表紙に掲載されていますが驚くべき大きさです

現地は調査後に埋め戻られ公園となりました。
前を通りかかっただけで公園内には入っていません(汗)
妻に「そんなんでサイトに更新するの?」と突っ込まれましたが
更新してしまいました(笑)
 
  備考 とても参考になった埋蔵文化財ニュース
枝広館は美濃守護土岐氏の居館として設けられ文献上に
記述が見られるものの場所が特定されていませんでした。

館は天文元年(1532)から天文4年までの僅かな期間に
使用された後に廃され大桑城に守護所を移します。
理由としては長良川の洪水によって守護所としての機能を
失ったことによるものといわれます。
斎藤氏に滅ぼされる土岐氏の居館、短期間の使用、
大洪水による施設の破壊などの理由から枝広館の所在地が
伝わらなかったのでしょう。

参考 岐阜市の埋蔵文化財ニュース2
    (城ノ内遺跡の発掘調査)
    岐阜市の埋蔵文化財ニュース3
    (堀田城ノ内遺跡の発掘調査)
    岐阜の山城ベスト50を歩く
 
       蝉土手城館 蝉西屋敷
攻城日 天候 評価 遺構
2011,6,24 晴れ E なし?  
蝉土手城館 蝉西屋敷
蝉土手館は「福光御溝」といわれる美濃国守護・土岐氏の
居館といわれかつては土塁の一部が残っていたそうです。
岐阜市による発掘調査の成果などから土塁を復元すると
底部の幅8m、高さ2mほど大きなものだったようです。
他にも堀が検出されています。
また周辺には蝉西の屋敷区画以外にも戦国期の城館と
考えられる箇所が複数見つかっているそうです。

現在も城館の区画が残りますが遺構は見られないようです。
私が訪れた時はこの区画で道路工事が行われており
何となく見学しにくかったので短時間の滞在で鷺山城へ
向かいました。

参考 岐阜市の埋蔵文化財ニュース13
    岐阜市の埋蔵文化財ニュース15
    岐阜の山城ベスト50を歩く
蝉西屋敷とは私が勝手につけた仮称です
蝉土手城館の西側で確認された堀で区画された
場所であり蝉土手城館に付随する屋敷が
あった可能性が高い場所と
「岐阜の山城ベスト50を歩く」の福光・枝広の項に
記述があります。

残念ながら発掘調査後に埋め戻られ現在は
蝉西公園という小さな公園になっておりますが
公園の周囲には水路があって堀跡を思わせます。
蝉土手城館と屋敷の区画(蝉西公園の土地区画整理事業施行区域図より)