木曽三社神社
木曽三社神社
 渋川市北橘町下箱田に木曽三社神社という古社がある。深い渓流沿いの窪地にあり、県道160号下箱田・岩上線から鳥居をくぐると長い下り階段になっている。下り階段の神社は珍しいが、確か富岡市の上野国一之宮貫前神社が下り階段だった思う。境内地は自然湧水地として知られ、小さな滝や湧玉の清泉、セキショウ群落を中心とした全域が群馬県環境保全地域に指定されている。
境内の清泉
 元暦元年(1184)、木曽義仲が滋賀県の粟津で敗死の後、今井・高梨・町田・小野沢ら七人の遺臣が義仲が崇敬した信濃国筑摩郡の岡田・沙田・阿礼の三社の神霊を奉じ、神託によってこの地に移し祀ったと伝えられる。古くは滝之宮・滝明神といった。
 「箱田伝説」ともいわれる別の所伝では、遺臣が背負って来たのは木曽義仲の首であるといい、あるいは義仲の信奉した南宮神社の神霊であったとする。七人の遺臣は義仲の首、あるいは神霊を箱に収め背負って東国に向かう。和田、碓氷の峠を越えて利根川の辺りまで来て数日留まると、村人が「その箱は何か」と問うので、「ただの箱だ」と答えた。そこでその地を箱田と呼ぶようになった。現在の前橋市箱田町である。
御腰掛石
 さらに神のお告げによって利根川を渡り勢多郡深田村の清い泉の辺りで一休みした。すると、箱が重くなって動かなくなり、神慮を畏れでそこに社を建てて祀った。箱を乗せた石を腰掛石といい、里人が怪しんで問うた時、「ただの箱田」と答えたことから、箱田の村名が起こったという。
 下り階段を下りきると右手に小さな滝と湧玉の清泉がある。水を渡ると拝殿までわずかな登り階段になるが、石段の右脇に箱を乗せたという「御腰掛石」がある。左脇には箱を背負って来た高梨某の石像といわれる「木曽遺臣之像」がある。拝殿に「瀧之宮」と「木曽三社太神」の二つの額が掲げられていた。  
木曽遺臣之像
 この伝説はいつ頃成立したのだろう。木曽三社神社は古くは滝之宮・滝明神といった。腰掛石は神の依代であった思う。もともとは清泉のほとりの腰掛石あるいは滝を御神体として祀ったものではなかったろうか。
 一方、木曽義仲の遺臣かどうかは別としても木曽の人たちがこの地に移り住んだようだ。現在でも北橘地内に遺臣の末を称する家や木曽から来たという伝承を持った家が見られる。その人たちが滝之宮に故郷の信濃国の岡田・沙田・阿礼の三社を勧請したのだろう。
「瀧之宮」の額
 滝之宮神社がいつ頃から木曽神社と呼ばれるようになったかもはっきりしない。寛文十三年(1673)の裁許状には「滝明神」とあるが、貞享元年(1684)の『前橋風土記』には「箱田神社勢多郡箱田村ニ在リ」とある。享保八年(1723)の裁許状には「上野国勢多郡下箱田村正一位木曾明神」とあることから、享保の頃には木曽明神と呼ばれていたようだ。伝説の成立も江戸期に入ってからのような気がする
 よく似た話が館林市に伝わる。湊川の戦いで敗れた楠正茂は自刃して果てたが、正茂の家臣たちは正茂の首を持って逃げた。上野国邑楽郡赤羽村にたどり着いた一行は大樹の根元で休息したが、いざ出発しようとすると、首を入れた笈が重くて持ち上がらない。止むを得ず、正茂の首をこの地に埋葬して、小さな祠を建てた。この祠が現在、群馬県館林市楠町に鎮座する楠木神社の始まりだと伝えられる。
 「箱田伝説」は孤立した独自の伝承ではないようだ。史実と説話がオーバーラップしているように見える。

木曽三柱神社
木曽三社神社
 木曽三社神社のある渋川市北橘町下箱田の東、北橘町箱田に木曽三柱神社という神社がある。木曽三社~社から1キロメートルも離れていないこと、社名が微妙に異なることから、何かいわくがありそうそうに思える。
 木曽三柱神社は県道34号渋川・大胡線から少し東に入ったところにある。社殿は将軍塚という古墳の上にあるという。拝殿の裏は小高くなっていて、本殿はその上にある。社宝に将軍塚出土品や縄文晩期のものと思われる石剣(県指定重要文化財)がある。石剣は現在、渋川市北橘歴史資料館に展示されている。旧村社である。
木曽三社神社本殿
 木曽三柱神社の創設には複雑な経緯があるようだ。安政二年(1855)、滝之宮(現木曽三社神社)の神主になった高梨宮之亮(養子)は養祖父高梨八千穂と合わず、この争いが箱田・下箱田両村の争いに発展。宮之亮は実家に帰り、八千穂は箱田村の将軍塚上に一社を創設、拝殿と称して箱田村民はここで神拝を始めた。後に箱田村は新宮を建立、滝之宮より分立、木曽三柱神社と称した(平凡社刊「群馬県の地名」)。
 ただ、社伝は木曽三社神社と同様の創建の由来を伝える。
 社殿は桜樹に囲まれ、春には桜の花に包まれることから、花の明神ともいったという。
山王廃寺