追奏リリカ

序、

 沈と乳。
 いちごとはこべの葉っぱ。さいかちとむくげの葉っぱ。
 畳が一枚。特別なお薬を一瓶。糸と針を一揃え。
 汲み上げたばかりの清冽な湧き水。
 ――それが彼に再会するための、すべて。


一、

 いらっしゃいませーって声はいつもと変わらずやる気がなくて、わたしはほっとしながらコンビニに入った。店内はぽわりとあたたかくて、コートをはおった体から自然と力が抜ける。
 わざと雑誌コーナーを迂回しながら、店内をぐるりと一周した。
 すぐ彼の元へすっ飛んで行けばいいのかもしれないけど。なんだか照れくさいし、キャラじゃないしで、わたしはわざと先延ばしにするみたいに、新商品のチョコに手を伸ばしたりして。買う気はないんだけど。なんだか、この感じをもうちょっとだけ味わいたくて、それで。
 ……うっとおしい女ですともよ。
 似合わないのも知ってます。
 だからせめて顔だけはうっとおしくならないように、きり、と引き締めながら、ようやくわたしは、分厚い漫画雑誌を開いてる背中を叩いた。
「や」
「香緒里!」
 片手を上げると、陸はぱっと明るい表情になって、雑誌をラックに戻そうとする。
「キリのいいとこまで読んだら?」
「だいじょうぶ、二回目だから」
 ……よっぽど好きなんだ、と思ったら、即座に陸は照れ笑いを浮かべた。
「時間潰してただけ。さ、行こっか」
 雑誌を戻すと、陸は散歩を待ちわびた犬みたいに、わたしを出口まで引っ張っていく。コンビニの白熱灯の中、陸はちょっと痩せすぎじゃないかってくらい細い輪郭を浮かび上がらせて、陰りの一切ないぴかぴかの笑顔をわたしに向けてくれる。
 ……これ以上の幸せはない、って思う。ぎゅっ、って横隔膜が震える。鼻が痛んだのは、……寒さのせいにしておこう。
「寒いよ、外」
「じゃあ、もうちょっと時間潰す? ファミレス行く? ……それとも香緒里の家?」
「……父に殺されるよ」
「冗談だって」
「ちょっとだけ待ってて。飲み物買ってく」
 わたしの言葉に、陸はにこっと笑って頷く。わたしは足早にレジに駆け寄ると、レジ横のホットウォーマーからほっとレモンを二つ取り出す。
 会計を済ます間、陸は外に出て、格好つけた、空を仰ぐみたいな姿勢で立っていた。
 腰を痛めそうだと思いながら、買い物を済ませたわたしは、その横に立つ。
「どしたの」
「見てよ、香緒里。満月。きれい」
「……はあ」
 あんまり天文関係に興味のないわたしは、若干低めのテンションで相槌を打つ。
 けど、陸があんまり熱心に、食い入るような目で見ているので、つられて夜空を見上げた。
 たしかにきれいな満月だし、模様もくっきり見えて……詩心がなくてアレだけど、レモン色というか、すっきり爽やかな色だ。
 冬だから空気も澄んでて、星だって見える。寒いけど。
 無防備な頬にあったかいペットボトルを押し付けた。陸はちょっと我に返ったように笑い、サンキュ、と言った。
「満足ですか」
「ん。いいよね、満月。特に今日のはきれい。見てて、落ち着く」
「……ロマンチストですこと」
「そーでもない、けど」
 陸は小さく呟く。その声の温度も、横顔も、見慣れたもののはずだったけれど、低音の響きが妙にきれいで、……どちらかというと嫌な感じのきれいさだったので、
「行こうよ」
 わたしは強引に陸の手を引いて、歩き出した。
 あんまり土地勘のある街じゃない。
 でも、何度か通った後なので、特に迷うこともなかった。駅からすぐのコンビニ、そこからさびれた商店街に入れば、お店はほとんどシャッターが下りてて、通行人も少ない。手をつないで歩いても、知り合いに見られることがないから、あんまりどきどきしなくて済んだ。
 精肉店を目印に左に折れ、小路をずっと行けば、いつもの公園だ。ブランコと砂場といくつかのベンチがあるだけの、ちいさな公園。高めの生垣に囲まれてて、通行人と目が合わないっていうのも、重要ポイントのひとつだ。
 勝手知ったるなんとかで、わたしがさっさとブランコに腰を下ろすと、陸はのんびりと近づいてくる。
 わたしの前まで来ると、陸はブランコの鎖に手をかけて、ほんの少し揺らした。小さく軋むような音がして、わたしは結構ショックなんだけど、陸は気にも留めずに鼻歌を歌っていたりする。
 知ってる曲だ。
 もっとちゃんと歌えばいいのに、と思う間、いつの間にか聴き惚れてる自分を見つけてしまう。小さな囁きを、何とか拾おうとして。
 陸の歌は、素人離れしてうまかった。身内びいきを承知で、でもわたしは、死ぬほどすきだったりする。響く低音、ブレスの抜き加減、声のかすれ――技術的にどうかは知らない。もっと上手いひとは、いくらでもいるんだろう。でもわたしにとって、これ以上すきな声なんてこの世にない。
 この瞬間だけは、繕おうとしても繕いきれなかった。陸のことは、性格は犬みたいだし、意外と抜けてるし、忘れ物と好き嫌いが多いし、顔はすごい美形ってほどでもないって知ってる、あんまり惚れ込んでるって自覚はないけど、歌声だけは違う。わたしはこのひとに虜にされている、そう、感じる。付き合う前からそうだ。
 わたしがぼんやりしているように見えたのか、陸はそっと覗き込んできて「すきだよ」なんて言う。
「ああそう」とわたしは答える。
 話し声は少し高い。わたしを金縛りになんてしない。でもその、どこまでも沈みこんでいきそうな柔らかい声を聞いていると、不安になる。このひとはいつまでわたしと一緒にいてくれるんだろう。
 不安を縛るように、歌い続けていてほしかった。聴きしれていたい。いつまでも。
 わたしはほっとレモンをひとくち飲んで、陸の目を見ながら、震える声帯を使ってひとつ音を出した。
 陸は理解したように、わたしの声に声を重ねる。
 一つきりの男声と女声。それでも二人して、聴こえていたのはもっとたくさんの声だったと思う。
 蝉の声が聞こえる。錯覚がする。
 汗が背中を伝う。これも錯覚。
 なぞるのは思い出。帰らない夏。ありふれた出来事。そうしてわたし達は、そっと未来から目を逸らす。


二、

 臨採のマスダ先生は、チョークの使い方が下手だ。すぐ折る。嫌な音を立てる。黒板消しを使えば白い跡が残って、上に書かれた文字がたいへん読みにくい。けれどいちいち挙手して物申す気力はないので、ニュアンスで読み取る。日本史だからできることだ。
 最前列、教卓前の席のイマイ君は、堂々と数学の問題集を解いている。意外や意外、あの場所は教卓の影になるため、内職がバレにくい死角ポジションなのだ。でもわたしだったら、いくら見えづらいと言っても、あんなことしれっとできないだろうなと思う。どきどきして計算どころじゃない、きっと。
 わたしの右隣の席のカナちゃんは、悪い子じゃないのだけれど、所属グループが違いすぎて、ちょっと気安くない。お化粧上手で羨ましい、けど、できれば香水を勢いよく振りかけるのはご遠慮願いたい、です、と言いたいけど言えない。彼女の首筋にうまく着陸できなかった飛沫は、わたしのノートやペンケースにぱらぱら降ってきて、授業の間中なんだか落ち着かない気分にさせられる。
 ほんと、皆、個性的だ。没個性とか大人は言うけど、教室中見渡してみても、同じことしてるひとがあんまりいないって、実はすごいことじゃないだろうか。居眠りするにしても、突っ伏して寝てる子、舟をこいでいる子、体勢はまちまちだし……一応、同じ場所で、同じように集団生活をしようって目的で集まってるはずなのに、見事にバラバラ。
 そういう個性を発揮すべき場所でわたしが何をしてるかって言うと……うつらうつらしつつ、一応真面目にノート取り。とってもプレーンで健康的で、なんだかちょっと悲しくなってしまう。定期考査はまだまだ先で、あんまりノートまとめにも力が入らないし……それなら今のうちに遊べばいいとは思いつつ……
 日本史の授業って、当てられることもないし……
 やがて、睡魔が、じわじわと這い上がってくる。簡単にわたしは引きずられてしまう。プレーンな女子高生らしく。ノートにみみずを描きながら。本当は寝る気なんてないんです、くらいの体勢で。
 そりゃ、寝ちゃうでしょう。昨日は結局終電だったし。廊下側の窓際、ヒーターの当たりも良好で、体中がぽかぽかして。
 ……だけど、さすがにそこまで寝る気なんて、誓ってなかった。
「香緒ちゃーん。いい加減、起きなよー」
「……………」
「先生来るよー?」
「……んー」
「おうちで寝るー?」
「……や、そこまでじゃ……」
「でももう終礼……」
「うそ!」
 わたしはがばと勢いよく跳ね起きる。同時に周囲で笑い声がさざめいた。
「よく寝たねえ」
 ななめ前の席のエバラくんが、振り返ってからかうように言う。わたしの机に頬杖をつくようにしていたエミが、間延びした声で言った。
「もー。うそ、じゃないよー。今日ずっと寝てたでしょ。先生、心配してたよー、高見は最近どうしたんだ、って」
「別に、どうもしないけど……」
「あたし何度も起こしたけどさー、そのたびに無理とか眠いとか、かわいそうで起こせなかった。どしたの、夜更かし? 珍しいよねー」
「……ん? まあ……」
 夜更かし……と言えば、夜更かしはしたんだけど……これは、失態もいいとこだ。
 ……ちなみに、日本史の授業は三限だ。昼休憩はどこへ消えちゃったんだろう? 机の横のフックには、手付かずのお弁当袋がひっかかったままだ。
 多分、それぞれの授業の始まりと終わりは、寝ぼけながらも意識はあったはずなんだけど……起立礼の号令もかかるし……その後が、ひとつながりの夢を見てたみたいに、ふわふわしてる。
 窓のそばだからかもしれない。埃がキラキラして、夕方の空気が気だるくのしかかって、夢の続きみたいに、酸素が薄くって。ほんの少し息苦しい、放課後への期待に満ちた、この雰囲気はわりとすきだった。
 きっとそのうちに溢れ出す、吹奏楽部の演奏とか、運動部の掛け声、灰色の校舎から吐き出される女の子たち――そんなものが、今は、たとえばおもちゃ箱から飛び出す前みたいに待ち構えてる、そんな気配がする。
 それを厭味な感情じゃなく受け止められるわたしは、放課後が楽しみな、普通の女の子のひとりということ。
「あ、ハマちゃん来ちゃった。じゃあねえ、香緒ちゃん、いい加減起きなよ」
「ん……」
 廊下に面した窓ガラス越し、担任のハマダ先生を目ざとく見つけ、エミは自分の席へと戻っていく。いいこだ。教室はまだ喧騒の最中、先生が教室に入って来ても、誰も気に留めない。わいわいがやがや、おい部活前に学食でうどん食おうぜーはははは。まるでお風呂の中みたいだ。
 なんだか、こんなふうに、すべてが遠くに感じる瞬間がある。すうっと体から意識が遠ざかって、ただ、見てるだけの、感覚。水の塊に包まれているみたいな。周りがしんと冷たくて、ちゃぷちゃぷ揺れてて、刺激や音がまっすぐ届かない。声もきちんと聞こえない。視界も澄んでるのに歪んでる。上の方から、鱗みたいにひかりがこぼれてきて――
 いけない。また寝ていたかもしれない。
 気付いたら先生は教卓に立って、終礼の真っ最中だ。って言うか、終わりかけてるかも。
 自転車の二人乗りはしないように。
 コンビニの前に座り込んでカップラーメンを食べない。
 電車の中で携帯電話を使わない。お年寄りが近くにいたら席を譲る。
 妙な事件が多いから、くれぐれも気をつけて帰ること……などなど、ほとんどお約束のようになった注意事項を読み上げた後、先生は生徒名簿の角で教卓を叩いた。
 「以上」
 その声を合図に、週番が間延びした号令をかける。
 きりーつ。きをつけ。れい。
 途端にがちゃがちゃといろんな色が教室中に溢れ出す。
 ゆっくり、机の中の教科書を鞄にしまっていると、色とりどりの波を泳ぐようにかきわけて、再びエミが現れた。
「ねえ香緒ちゃん、今日は部活どうするー?」
「……んー。やめとくわ」
 苦笑混じりに言うと、陸とのことを知っているエミは、それ以上突っ込んでこない。出来た友人に、ありがたくも申し訳なくも思いながら、わたしの気持ちは既に、あっちの方面に向かっていた。
「わかったー、部長には言っとくね。でも、気をつけるんだよ、香緒ちゃん。変なひとがいてもついてっちゃだめよう」
「……何の話?」
「やだ、やっぱりハマちゃんの話聞いてない」
 きょとんとしてしまったわたしに、エミは仕方ないなーと教えてくれる。
「ニュースでもやってたのにー。知らないの? 隣の市で殺人事件があったんだよ?」
「知らない」
「それが、あのねえ、普通じゃないんだって。……バラバラ。てか、ぐっちゃんぐっちゃん。だから、最初は動物のしわざだって思われてたみたい。でも、どーやら、猟奇殺人、らしいよ」
「うわー。怖い世の中だねえ」
「でしょー!? だから、ね、気をつけてよ」
「はいはい。気持ち悪いねえ。何が楽しんだろね、そういうの」
「ね。信じらんない。早く犯人捕まるといいのにー。んじゃ、あたしは部活に行きます」
「うぃ。行ってらっしゃい」
 軽く手を振ると、エミはぴょこぴょこ跳ねるように教室を出て行く。気がつけば、教室に残っているのはほとんど帰宅部の女の子たちばかりだった。甘い果物のような香りが広がって、嫌いではもちろんないけど、居場所をなくしたわたしもコートをはおって教室を出る。
 ひやりとした空気が、眠気を引きずる体を引き締めた。
 風になぶられながら、そうだ今日は海に行こうか、とふいに思いつく。
 少し寒いけど。でもこれ以上寒くなってしまったら、行けなくなる。別に深い理由はないけど、それではさびしいから。だから、行こう。
 陸はきっと文句一つ言わず頷いてくれるだろうから。


三、 

 陸に会えるのは日が落ちてからだ。本当は部活に出ても、時間的には問題ないのだけど、あの時間自体に意味を感じなくて、それよりはまだ意味があると思える古本屋に立ち寄って、時間を潰す。
 ――だって。悪いけど、今音楽室にあるのは嘘ばかりだ。薄い世界。
 音程を保った声を重ね合わせて、まるで出来の悪いパッチワークみたいな、バザーのだしものみたいな、安っぽい自己満足の合唱。……嫌いなわけじゃ、ない。次に歌う曲を考えて、練習して……そんな放課後も、ずっとずっと続いていく変化に乏しい学校生活の一部だと思えば、笑って過ごせる程度のものだ。
 だけど。わたしは「本物」を知ってしまった。
 陸の声。混ざりもののない本物の「歌」。それが何にも変えられないものだと知ってしまったあの時から、他のものなんてどうでもいいと、思ってしまってる。いけない考えだと、ためらいもせず。
 あれ以外、何にも聴けなくなったって、構いはしない。
 思考に沈みながら、漫画のページをめくっているわたしに、その時誰かが軽くぶつかった。
 あんまり気にならない衝撃だったけど、顔を上げると、やたらと長身のお兄さんが、すごく「あちゃー」って顔でわたしを見下ろしている。あちゃー加減を頭の中で推しはかっている間に、珈琲の香りが立ち上った。
 お兄さんの手元には、茶色のペットボトル。ああ、そういえば、ちいさく水音が聞こえた。
 ……あちゃー、だ。
「こんなところで……」
 まさかの常識のないふるまいに、うろたえ半分声を出すと、お兄さんはみなまで言わせず、
「わ、ごめん、ほんとごめん、ちょ……来て!」 
 狭い通路からわたしを連れ出すようにして、自分のコートからきちんとプレスされたハンカチを出した。背中に回って拭い始めるので、わたしはされるがままにしていたけれど、やっぱり居心地がいいものじゃないから、ある程度のところで声をかけた。
「あのー、もう、いいですから……」
 振り返りつつ言って、思わずハンカチに目が行ってしまう。あー……結構、こぼしましたね? ちょっと汚れたって感じじゃない。紺のコートとかなら目立たなかったんだろうけど、あいにくうちの校則は甘くて、わたしは淡いグレーのPコートを着ていた。気に入ってたんだけどな……。思わず言葉を失ってしまったわたしに、お兄さんは更に慌てた顔になった。
「……近くにクリーニングあるかな。すぐに出せば落ちるかもしれない」
「え、やです寒い」
 ……自分で言うのもなんだけど、即答してしまった。小市民なんだけどな、クレームひとつつけられない子のはずなんだけど。言い訳すると、わたしの中では既に海に行きたいっていうのがあって、それを考えるとブレザーだけではあまりに心許なくて、でも一旦家に帰るというのはできれば避けたい事態で、それで。
 コート、ないと困る。
 困ります、って言いたかったけど、恐縮している風のお兄さんに追い討ちをかけるのはちょっと、とも思う。もう反省してるみたいだし。もう二度とこんなことしてほしくはないけど。だって本にかかってたらどうするんだろう。
 お兄さんの目には、困った顔のわたしが映っている。
 よく見ると、ちょっと変わった、ふしぎな色の瞳だった。黒は黒だから外国人ってことはないと思うけど、なんだか、ほんの少し……赤が混ざってるような? 気のせいか。
 お兄さんは突然、神妙な顔つきで頷いた。
 そしてわたしの腕を取ってお店から連れ出す。……え?
 一応店主の目も考えて、お店を出るまでおとなしく従ったけれど、さすがに店の外でわたしは掴まれた手を振り払う。
 先を急ぐようにコートを翻したお兄さんは、きょとんとした顔で振り返った。
 ゆっくり口を開きかけるので、わたしは慌てて言った。これ以上ペースに巻き込まれたくない。
「ど、どこ……行くんですか」
「だって、コート」
 コートはあなたが汚して、と言いかけた瞬間、お兄さんは聞く耳持たない表情で言った。当たり前のこと、みたいに。
「買いに行かなきゃ。気に入ったのあるといいけど」
「はい? え、いえ結構です」
「ないと困るんだろう?」
「困るけど……」
 お金あんまり持ってないし。でも、話の流れからして、お兄さんが買ってくれるつもりなんだろう、と気付く。ますます困る。知らないひとに何かを買ってもらうのをよしとする教育は受けてない。
「いえ、だいじょうぶです。何とかします。気持ちだけで結構なので、今度から気をつけてください」
「待って」
「や、約束があるので……」
「すぐ?」
「す――すぐでもないけど」
 ……三秒後に後悔する。正直な口が恨めしい。お兄さんのペースに巻き込まれて……正直苦手だとは思う。けど、気をつけなきゃ、とは不思議と思わなかった。隣の市の殺人事件。うん、エミ、覚えてるよ。でも、人間は見た目が九割。整った顔立ちはこの際差し引くとしても、このひとに猟奇殺人、はないわ。優しそうなのは演技だとしても、頭が抜群にいい感じは生来のものだろう、いつだって冷静にリスクとリターンを計算してる顔だ。リスクとリターン。ふいに頭の中で別の警戒信号がともる。
 結構すぐ顔に出るタチだって、言われる。
 でも、
「……警戒してる? だいじょうぶだよ、僕、彼女いるから」
 即座に左手のシルバーリングを示されると、何だかものすごくいたたまれない。
 ……そうですよね、自意識過剰ですよね、すみません、わたしも一応、彼氏持ちなんですけどね、垢抜けない高校生に手を出すほど困ってはいないですよね、ほんとにすみません。
 穴に埋まりたいくらいの恥ずかしさを抑えて、わたしは何とか口を開く。
「……いえ、ほんとに、悪いので!」
 踵を返す決心をしながらの言葉に、お兄さんはふいに真面目な顔になった。
「悪いのは僕だ。間違えちゃいけない。損なった対価を支払うのは義務だし、しかもあなたは学生でしょう。同じものを返せないのに偉そうなことを言うのも筋違いだけど、できる限りのことをさせてもらいたい。これは僕からのお願いだ」
 ……あああ何だか筋が通っているように聞こえるし、これ以上、わたしには断り文句が思いつかなかった。負けた。胃が痛い。涙目になりそうになりながら、わたしは渋々、ちいさく頷きを返した。
 ……知らないひとに借りをつくるなんて。


四、

 ……誰かに見られたらどうしよう。
 思いながら、わたしはふわふわのカフェラテの泡を舐めてる。
 できることなら今すぐ帰りたい。でも淹れたてのカフェラテは熱くて、もう少し冷めないととても飲めそうになかった。
「変わった飲み方するよね」
 お兄さんの方は、多分慣れてるんだろう、リラックスした様子でテーブルに頬杖ついて、周りに知り合いがいないかなんて確認もしないで。女の子扱いしてるんだかそうでもないんだか、微妙なラインの優しい笑顔を浮かべている。変なひとだ。
「そうですか?」
 こっちは本当に……落ち着かない。
 連れて行かれたお店で一番安いコートを買ってもらって、それでも普段の買物と桁がひとつ違って気が咎めるのに、お茶なんかしちゃったりして。
 そういえば、こんなちゃんとしたカフェで、陸とお茶したことなんてなかった。学食でお茶を飲んだり、帰り道に自販機でジュースを買ったり、後はファーストフードとか、そんなので本当に充分だった。カフェインは喉に悪いから、陸にはまず勧めなかったし。
 表面にまんべんなくパウダーシュガーを振りかけて、泡だけを甘くして飲むやり方、笑われたこともないから、可笑しいかどうかもわからない。
 ふわふわの泡を唇につけながら、少し冷めたコーヒーで喉を濡らして、震えそうになる指をコーヒーカップであたためて。
 そうしながら、わたしはこっそり時計を見る。五時半。急ぐほどでもないけど、そろそろ向かいたかった。でも、物を買わせるだけ買わせてバイバイっていうのもありえない気がして、席がなかなか立てない。お兄さんの中の筋はこれで通ったんだろうか。いつ解放してくれるんだろう。こっそり伺った瞬間、目が合った。
「約束は?」
 考えを読んだみたいに訊いてくれるお兄さん。いいひとだ。ほっとしたわたしの心の緩みに、スッと捻じ込まれる疑問符。
「彼氏?」
 ……頷くしかできないタイミングで訊かれて、わたしは素直に従うのみ。
「遠くかな。近くに車置いてるから、送ろうか?」
「だいじょうぶです、電車ありますから」
「車の方が速くない?」
「駅二つだから全然だいじょうぶです」
 慌てて答えたわたしを見て、頬杖ついたままお兄さんはフフッと笑う。からかわれてるのかな。遊び人なのかな。でも車ってどうなの。密室だよ?
 彼女は怒ったりしないんだろうか――だってたとえば、こんな場面見られたら修羅場は避けられないんじゃないかと思うのに。わたしだったら許せないと思う。考えられない。
「彼氏、どんな子? 格好良い?」
「……普通です」
「学校終わってから待ち合わせ? 駅二つっていうとあそこかな、西高――」
「……そうですね」
「奇遇だね、僕の友人も行ってたんだよ。知ってる? あそこの体育館って……出るんだって」
「…………」
 表情筋を固まらせたわたしを見ながら、お兄さんは楽しそうに笑い声を立てる。悪趣味だ。
「怖い話苦手?」
「はい」
「かわいいなあ」
「…………」
 シカトしたのに、お兄さんは懲りない。空気を読まずにくすくす笑い続けて、もう本当にいたたまれなかった。
「ごめんごめん。……そろそろ出ようか」
 良かった、やっと解放される。わたしは、伝票を手に立ち上がったお兄さんに、心底ほっとしてしまった。
 半分くらい中身の残ったカップをソーサーに戻して席を立ち、少し離れたところで会計を見守る。
 カフェを出てから財布を出したけど、当然ながら固辞された。
 逆にお兄さんから差し出されたものに、目が釘付けになる。これは、噂の。
「申し遅れました。笹内秦と申します」
 名刺を差し出し、にっこり笑顔のお兄さ――笹内さんの着てる服が、一瞬スーツに見えた。錯覚だったけど。
 やっぱりこれは、ナンパ、だったのかな。でもナンパで会社の名刺は出さないような気もする。
 名刺にはロゴマークと一緒に、CMで見かける警備会社の名前が入っていた。主任、笹内秦。警備員っていうのはすごくミスマッチなお仕事だ。よくわからないカタカナの役職、オフィスで英語を喋ったりしてる方が似合いそう。
「名前を訊いても?」
「あ、ああ――高見です。高見香緒里」
「やっぱり、かわいい子は名前もかわいい」
 戯言をぬかして――あっさり笹内さんは背を向けた。軽く、手を振って。
「あ、あの……」
「あげる。よかったら連絡してきて」
 会社の電話番号に? そう思って裏返したら、携帯電話の番号が書いてある。意外ときれいな字だ。さすが。じゃなくて。
 わたしには必要ない、そう言って付き返そうと思った時には、笹内さんの後ろ姿は雑踏にまぎれて見えなくなってしまいそうだった。冷たい風が、長いコートの裾を巻き上げる。
 ――変なの。
 諦めて、わたしは溜息をつく。
 連絡する機会なんてないんだけどな。そう思って、でも道路にゴミを捨てるのはいやだから、まだ体になじんでないコートのポケットに放り込む。それだけだった。わたしは、陸しかいらない。

 変わり者の彼との出会いは、だから、数日とは言わなくても、数週間のうちに忘れてしまえるような、ちいさな出来事だった。
 ワンシーズンで着潰してしまう安物のコートのように、二度と思い返すことのない代物として、記憶の深いところにしまわれるべき存在だったのだ。――本当は。


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