鈴木勝司編 / 武蔵学園記念室
最新更新:2010.11.07


  
2 更 新 橋 〜 上井草駅 3 上井草駅 〜 富士見台駅 4 富士見台駅 〜 桜 台 駅
5 武蔵学園 〜 要町通り 6 要町通り 〜 巣 鴨 千 川 上 水 展




千川上水(1) 境 橋 〜 三 郡 橋 





 

川のある風景 60年前の千川上水(昭和14、15年)と現在の姿


千川上水 武蔵高等学校報国団民族文化部門編 昭和16年発行の写真アルバムから当時の写真約100枚(モノクロ)と解説を収録し、平成8年に武蔵大学の学芸員課程の3名の学生と共に調査し、千川上水開削300年を記念して写真展を開催した。その後、これらの写真を見たいと記念室を訪ねてくださる人もあり、また、千川の新しい資料が見つかったと親切に届けてくださる研究家の方もある。
当記念室では、これらの方々のご厚意に報いるために、また多くの人達に千川に関心を持っていただくために、当時の旧制高校の生徒や先生が残された上記の昭和14,15年の写真(モノクロ)を有効に活用したいと考え、約60年後にあたる現代の姿(平成8〜14年のカラー写真)を対比させつつ、ここに千川上水の歴史や現状をレポートした。 千川上水の歴史については本編の「千川上水展示」の年表等を参照していただきたい。ここでは千川を、千川上水(親しみをこめて)、千川用水(古文書では千川養水と記されているものもある)等とその都度表記している。そして、写真をもとに、千川上水と周辺の人達の生活、その変遷、時代の移り変わりの中で残されてきたもの、そして、国木田独歩の武蔵野をひもとくような、どことなく懐かしさと安らぎを感じさせてくれる川と周辺の風景など・・・。これらを通じて、今日的な都市の生活環境における河川の役割を考える一つのきっかけになれば幸である。
 また、実際に現地を探訪、散策してみたいと希望する人達のために簡単なガイドを付けておいた。その内容は、単に千川の景観の鑑賞や案内だけにとどまらず、千川上水は300年以上も前に、当初は江戸市中の水道として、後には灌漑用水として、今日の武蔵野市の境橋で玉川上水から取水し、豊島区巣鴨(これ以降の江戸市中は水樋)まで約22キロメートルにわたって、干害にみまわれることの多かった武蔵野台地の背(開削した河川は必然的に高所を通す)に掘られた人工の川であることを念頭において、周辺の地形や河川開削の技術的な工夫、さらに千川用水を利用した農業や産業(水田、畑や水車による製粉から近代産業)、そして、時代時代の人々の暮らしと川とのかかわりあいといった生活と文化の視点からふれてみた。このように千川上水の歴史に思いを馳せて歩いていただくと、例えば、千川の暗渠化された道端に、数百年をへて、今も残されている石造物(行方不明になっているものや道路拡張等のため近隣の寺社等に移転されたものも多いが)にも、時代を通して人々の郷土愛や篤い信仰心を共感することができ、一層味わい深い探訪になると思います。
 このレポート作成にあたり、以下の参考文献や、この他にも数多くの千川関係文献を参考にさせていただきました。個々に名を記せませんが、これらの関係している方々にお礼を申し上げます。調査や準備不足で不十分な点などがあると思いますが、今後一層充実させていきたいと考えていますので、千川上水に関心を持たれている先輩諸兄姉のご指摘、ご協力をお願いする次第です。

(また、武蔵学園記念室が所蔵する収録写真等の使用を希望する場合は武蔵学園記念室へ連絡してください。

主な参考文献
文献1:千川上水 武蔵高等学校報国団民族文化部門編刊 昭和16 25p. 図版14枚
文献2:千川上水  千川の会編 クリオ 1982 69p.(文献1の復刻を含む)
文献3:千川上水の今と昔  練馬古文書研究会編/刊 平成3 58,19p.
文献4:近代(千川上水路図)編 豊島区立郷土資料館 1993(豊島区地域地図 第6集)
文献5:千川上水探訪マップ 豊島区郷土資料館 1996 20p.
文献6:練馬の水系   石神井図書館郷土資料室編 練馬区教育委員会 昭和51 145p.
文献7:新編武蔵風土記稿 文化7〜文政11(1810〜28)
文献8:江戸名所図絵  斎藤長秋著、長谷川雪旦画 天保5〜7刊 20冊
文献9:写真集 練馬区の昭和史 千秋社 1990 194Pp.
文献10:ねりま50年の移り変わり 練馬区 平成9 277p.
文献11:千川上水・用水と江戸・武蔵野  ー管理体制と流域社会ー 東京学芸大学近世史研究会編 名著出版
         2006 532,71p.


モノクロ写真と太字の解説は前記の昭和16年刊の文献1や、この関係の残されている資料からの引用で、六十年以上前の様子がしのばれる。文献1の文中に出てくる板橋区は今日では練馬区(昭和22年8月1日に板橋区の一部が独立して練馬区となった)となっている。

カラー写真の解説と探訪ガイドは、このレポートの筆者による現代のもの。第2版で、新たに練馬区(文献9、10)から写真使用の許可をいただき、昭和38年頃の写真を中心に加えることができた。合わせて記念室所蔵の写真を若干追加した。文中の左岸、右岸の表現は上流から下流に向かって見たものである。

「千川上水 写真と探訪 上・下」では写真資料が増え、利用上負荷が大きくなったため、この第3版では、流路を6分割し、タイトルも変え、利用上の便宜をはかるとともに、内容の増補改訂を容易にしたいと考えたものである。



参考:国土地理院発行の1万分の1地形図、小金井、石神井、練馬、池袋に記載されている標高(m単位)による。上記の地域付近の地表の標高で、実際は川を深く掘り下げて流れを調節している箇所が見られる。



千 川 流 路 図(縮尺約7万分の1 玉川上水・境橋〜巣鴨 青:開渠 赤:暗渠)



マップ1 (境橋〜三郡橋)縮尺約2万分の1



千川上水探訪ガイド(1)

1.千川上水は元禄9年(1696)徳川綱吉の時代に老中松平甲斐守、加藤越中守の名で道奉行伊奈平八郎掛かりで開発が行われ、土木家河村瑞軒の手により、新座郡上保谷新田地内より玉川上水を分水し豊嶋郡巣鴨村の堀溜まで5里24丁30間にわたり、 徳兵衛、太兵衛の協力のもと新規上水路を堀立てた。工事は幕府の見積もった費用では足りず、両人が私財を投じて完成させた。両人はその功により名字帯刀を許され、千川の姓を賜り、 千川上水路取締役を仰せけられた。
また千川の名称については、千川家の明和5年(1678)の書上には、多摩郡仙川村の名称から両人に与えられ、それが上水の名称になったと記されているが、その根拠は明確なものではない。千川の詳しい歴史等については、前編の千川上水展に所収の歴史・年表等を参照されたい。

2.千川上水は玉川上水より3尺5寸四方の水門をもって分水し、江戸の小石川御殿、湯島聖堂、上野東叡山、浅草寺に水を引き、更に余水を神田上水以東の小石川、本郷、湯島、外神田、下谷、浅草までの大名、小名、旗本、寺々町家にいたるまで飲料水として掛渡した。 江戸市街地の3分の1にあたる地域を潤した。

3.宝永4年(1707)干害に苦しんでいた流域村々の農民の嘆願により、上水の余り水を田の灌漑用に利用することが許され、関、井草、中村、中新井、長崎、滝野川、巣鴨村等7個所の分水を設けた。千川用水の供給は20ヵ村(時代により変遷あり)におよんだ。これらは利用組合をつくり、田1反につき玄米3升を水料として納める取決であった。寛政2年(1790)千川から水を引いた水田はおおよそ百町歩におよんだ。

4.享保7年(1722)儒学者室鳩巣の地下水道の発達によって地脈が断たれ火災が頻発(江戸では大火が絶えなかった)するとの説を取り入れ、玉川上水、神田上水だけを残して、 千川上水、青山上水、三田上水、本所上水(亀有上水)の4上水を廃止した。これにより、千川上水は不用、差し止めとなり、巣鴨村にて締め切りとなる。これは江戸市中の水樋(木製の水道管)の修繕に莫大な金がかかったことも一因と考えられる。これ以後、何度か一時的に上水として復活するが、主として、村々の潅漑用水となった。
 

5.千川上水の散策コースとしては、まず、開渠されている武蔵野市の境橋(1−1)から青梅街道を横切る練馬区関町1丁目、通称水道端までの区間が考えられる(上記地図の青線区間)。この区間は親水公園として復元された千川と周囲の景観が美しい箇所も多く、また、交通混雑から離れて安全に歩けるところもあるので、半日コースとしては最もよい。記した時間(休憩時間は含まず)を参考にしていただき体力に見合ったコースを設定したい。

6.歴史探訪コースとしては全流域が対象となるが、特に下流部の板橋区や巣鴨(豊島区)の一部は早くから暗渠化されたこともあり、更に高架高速道路の建設による都市化が一段と進んでいるので、千川の形跡を追うことは困難な個所もあり、事前の下調べ(前掲の参考文献等も参照されるとなおよい)をしておかないと、途中で千川の形跡を見失ってしまう。

7.全流域にわたって比較的交通の便に恵まれているので、地図を参考にして、探訪時間に見合ったコースを設定できる。


8.本流の玉川上水は三代徳川家光の時代に多摩川の羽村の取水堰から四谷大木戸(新宿)までの43キロにわたる素堀の水路で、昭和40年新宿の淀橋浄水場が廃止され、小平監視所から下流は水路として使命を終えていたが、川の潤いがほしい、水流を復活してほしいとの地域の多くの人達の希望がかない、はじめに、昭和61年9月から杉並区の久我山まで水流が復活した。これは昭島の多摩川上流処理場の二次処理水を使ったものであるが、日量2.32トンの水が流れ、玉川上水が22年ぶりに生き返ったのである。当初、長年の空堀状態で、流れはほとんど地中に浸透してしまい遅々として先へ進まず、今日は水流の先頭が何処まで到達したと、テレビや新聞で連日のように話題になっていたのを記憶されている方もおられると思う。そして平成2年3月には18年ぶりに千川にも水流が戻ってきたのである。


9.境橋(1−1)へは、中央線武蔵境駅下車。徒歩で15〜20分ほどのところ。本来は玉川上水(2)にかかる橋だが、現在では広い交差点の一部になっている。この付近の標高は64mで、千川の取水口(1−4)は橋の下流側にある。この裏の道路沿いに石碑史跡玉川上水の碑と平成3年の清流の復活した時の千川の案内板があり、気軽に散策したい人には所々にあるこのようなガイド(写真)が参考になる。

10.玉川上水の桜(山桜)は江戸時代から有名で、桜の木が堤をまもり、また花は水を浄化し、人々が桜の花を愛でることが出来るということで、小金井桜 の案内板は境橋の上流側にある。このことは後でふれるが、千川上水にも桜(染井吉野)が植えられることにもなった。


11.千川に沿って遊歩道がつくられてる。コースにはガイド(案内板や地図板)が設置されているので道に迷うことはない。

12.森の中を千川は細流となって直線的(人工的)に流れているが、復活からだいぶ時が経過して自然に崩れたところもあり、雨後などには水流も増して水音も聞かれる。所々清流の面影もうかがえ、魚の姿もみかける。川に沿った遊歩道をゆっくり散策できる。春の新緑と晩秋の紅葉の頃はしばし都会にいることを忘れさせてくれる。



千川の清掃(昭和51)「練馬区の昭和史」より

  
1−1 境 橋 1−2 玉川上水境橋付近(昭和15年)
道路の白線の下に玉川上水が流れている。橋桁の左岸少し先に現在の千川分水堰(4)がある。ここから千川は道路をくぐり中央の森になっているところで開渠し、ここが千川上水のスタート地点。この森の中に遊歩道がつくられている。
 
玉川上水は承応2〜3年(1653〜54)に作られた。江戸の用水路。羽村から四谷大木戸まで、武蔵野を堀り割って江戸城や下町に多摩川の水を供給した。一部は野火止用水や千川上水に分水された。
1−3 境橋上流の千川分水口(昭和15年) 1−4 現在の千川分水堰
東京府北多摩郡保谷村(現・西東京市新町)小金井境橋上流。玉川上水との分岐点、 水門は玉川上水左岸に設けられ、幅1メートル半、鉄製の引上戸の装置がある。千川はここから 暗渠となって五日市街道の下を通過する。現在の分水口は明治5年に変更拡大されたもの。上記の千川が多摩上水より分かれる水門。境橋より上流200メートル程の所にあり、水門の巾は1メートル半ほど。 現在の玉川上水から千川上水(復元)に落ちる分水堰。境橋の先に設けられている。ここで1日1万トンの水が千川に入る。
左の写真の旧分水門は、現在でも境橋から5、6分上流の曙橋のところに残されているが、最近確認した時には周囲に雑木が繁茂していて、よく注意して見ないと気付かない状態であった。
1−5 境 橋 の 下 流(昭和15年7月) 1−6 北多摩郡武蔵野町樋口(昭和15年7月)
境橋より100メートル程下流、道路は五日市街道。左側を千川はながれる(写真は右)、木に囲まれて川はよく見えない。川幅は約1メートル、深さ約1メートル。現在の広くなった五日市街道にも、この写真の面影が感じられるのが不思議。
北多摩郡武蔵野町樋口(現・武蔵野市関前樋口)付近。境橋と柳橋の中間。自然のまま道路に沿って流れ、 水面は殆ど両岸におおわれる。この図は夏木立の下を行く川を上流に向かって写した。川幅2メートルぐらいで、浅く岸は低く流れは急である。
1−7 現在の千川と遊歩道 1−8 境橋と柳橋の中間付近(昭和15年7月)
復元された千川の様子、ところどころで流れの水音に耳をすませたり、放流された鯉などの姿を楽しめる。千川に沿って森の中には遊歩道がつくられ、多くの小橋が設けられて、これらの橋は一つ一つ名付けられており、これを辿って行くのも味わい深い。
村山方面より来たと思われる水管と千川との交叉点。千川は写真の手前にて一時横断道路を通る。水管の直径約一米。
1−9 柳橋より上流(昭和15年7月) 1−10 柳橋付近の風景(昭和15年7月)
柳橋より20メートル上流の千川。この辺は非常に広く約3メートル。水量多くして流ゆるやか。 岸は非常に低い。写真の左側は五日市街道故左岸はコンクリート壁。文献4によると、柳橋手前の左岸に500メートルに及ぶ堀をもうけて平井水車があり、針金を製造し、後に伸銅工場となった。
 
左側の路は五日市街道、右に通じる橋を渡っている路は武蔵境駅に至る。この写真は下流に向かって写したもので、この付近の千川は非常に深く、底 より道路面まで約2メートル近くある。両岸より木が茂り、木立のトンネル状をなしている。
1−11 北多摩郡上保谷新田(昭和15年7月) 1−12 関 前 橋

 
北多摩郡上保谷新田(現・西東京市新町)。武蔵野女子学院付近、道路は五日市街道。向側の木立に沿って千川が流れている。これも上流に向って写した。高さ約2メートルの庚申塔が道のそばに立ち、これのみが昔の面影を僅かに存している。 この文字庚申塔は天明4年(1784)に建てられたもので、今でも武蔵野大学正門前に残されている。 関前橋と千川橋の中間付近の左岸、現・西東京市柳沢3丁目に坂上水車があった。平井水車(境橋下流80メートルで、千川を水車に使用目的にて道路下を通し、左側に一部通ぜしめた跡あり。こわれた木製の水門の写真あり)の経営で、針金製造をおこなっていた。これは昭和12年測量の地図にも載っている。


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