No Nukes One Love
homeそれは、一九八八年の八月八日を中心にして、通算八千人余りの人々が、子供たち共々、壮大なパノラマを見せる八ヶ岳を望む南アルプスの麓に、十日間生活を共にしながら、脱原発や環境問題を問い、そこから自己と社会の自己創出の行方を探ろうとする集まりだった。
この年の二月、四国の伊方原子力発電所で、チェルノブイリ原発の事故を引き起こしたとされる低出力調整実験を強行するという、差し迫った危機の高まりの中で、脱原発への大きなうねりが日本のみならず、世界中に広がりをみせた。甘薯珠恵子さんの『まだ間にあうのなら』や広瀬隆さんの『危険な話し』が爆発的に読み継がれていった。そうした中で、「核や原発はいらない、いのちが大事」と、「いのちの祭り」が提起されてきたのだった。
林の中や草原の上に、いくつもの小さな村々が作られ、薪を集め、かまどを築き、渓流に水を汲む。夜ともなるとローソクの灯る林の小道が浮かび上がり、ここかしこに小さな焚き火の輪ができ、渓流には脱原発の象徴として作られた手作りの水車小屋が水しぶきを上げ、ミニ水力発電機が明かりを灯す。林の中に縄文村やクラフト村、草原にアジア村、渓流沿いにオアシス村、丘の中腹にモミの木茶屋、そしてアメリカ平原インディアンのティーピーテントの並ぶ辺りには、こどもの村が点在していた。丘を下った草原の「風の広場」には、モンゴルのパオや工夫をこらしたテントが軒を並べて活気溢れるバザールをなし、有機・無農薬野菜やマクロビオティック・レストラン、インディアン・カレーに、手打ちの蕎麦屋さんといった屋台が並び、中央の広場には大きなステージが設けられていた。
毎日いくつもの、心身を癒し、かつ解き開いて、霊性的自覚の場を立ち現そうとするセラピーやワークショップ、脱原発社会をつくり出してゆくための数々の分科会、そして夜には喜多郎や上々颱風、喜納昌吉やサムルノリ、ハムザ・エルディーンといったレゲーからロック、民族音楽からアース・ミュージックまでの、様々なジャンルのコンサートが開かれた。そして期間中には、FM自由ラジオ放送に、日刊新聞「デイリー・ガイア」まで発行され、また毎日毎日の大量のゴミ・ワークショップ(分別や処理)作業をこなした。
それらの風景には、NO NUKES(脱原発)への願い以上に、見失ってしまったスピリット(霊性的自覚)を花咲かせ、地球を生命の踊り場としたいという、激しい内的な衝動に支えられているものがあった。――霊性的自覚(スピリット、精神)を見失ってしまったために、わたしたちは今日のこの状況をつくり出してしまったのだから。
〔プロセス〕
わたしは開催地の八ヶ岳に住んでいたということもあって、実行委員長を引き受けていたが、このギャザリングをつくり上げていった一年間のプロセスは、それ自体がガイア的な自己実現をひしひしと自らに問うものであったように思う。
一つの目的の下に集まりながらも、既成の枠にはまり切らないユニークで多様な価値観の人たちが、一緒に祭りをやる。それだけでも大変なのに、新しい参加者が次々と企画を持ち込んでくる。一人ひとりが互いの主体性を百%発揮しながら、一つの統合的な祭りをやる?!
それらの個と全体が妨げなくつながり合い、個が己を発揮すればするほど、全体はより創造的、より統合的となるような、じじむげ事事無礙とかえんにゅう円融(えんにゅう) とよばれる存在の在り方の模索。円融とは、個と個、そして個と全体が互いに他を含み合って融合し合うことで、そのことによって、よりダイナミックな秩序を持った世界を自己創出してゆこうというわけである。
スタッフの一人は、
「毎月の満月前後の週末に設定した委員会だったせいか、みんなエネルギーが高まっていて、祭りを祝って歌い、踊る。話し合わなければならない議題は山積みしたが、言葉だけの会議では生まれない一体感には魅了された。ひとつのリズムに体ごといっしょに乗り、自分の出す音と他の人たちが出す音のハーモニーを聴きながら、次第に大きな渦のなかに溶けいってしまうエクスタシーの体験は、さまざまのことを教えてくれる。
音楽と踊りのメディテーション。<いまここ>の意識がひらかれていく。自他が消えさったところに降りてくる透明な光。こうして言葉を超えて共有したものが、おおかたの議題についての答えを与えてくれたようにも思う」
と、当時の会合の様子を振り返って書いている。
言葉を超えてひとつになる祈りにも似た音楽と踊りのメディテーション、そして激しいブレーンストーミングが夜明けまでつづく。いのちの深みへ潜り込むようにして統合が成し遂げられて、議題の回答が、おのずからそうあるように、しかりと現れ出てくるまでだ。
生命は、フラクタル理論や散逸構造理論において見られるように、渾沌から、よりダイナミックな秩序を持った世界へと、自分たち自身を再秩序化してゆくシステムを、その内に宿し持っているものなのである。そうした、わたしたちの宇宙的な英知ともいうべき自己有機体化が働き出すとき、わたしたちはそこに、一つの奇跡的な、統合の神話の実現を見ることができるのではなかろうか。
「世界に<NO NUKES>と激しく叫ぶその心に、そのまま<ONE LOVE>が返ってくる。どこまでもどこまでも深く、無条件に包みこむ愛の質が、祭りの心として備わっていった。対立をそのままに、個としての多様性をどれも殺すことなく、なんとか包みこみ、そして超え、おたがいに輝きあう世界に至ったということだろう。・・・そして、いのちの祭りのテクノロジーは、いのちの内側から輝きでてきて、花開いていった。
こうして、「いのちの祭り '88――NO NUKES ONE LOVE Celebration」は本当に起こっていった」(星川まり――事務局スタッフ)
参加パネラーの一人は次のように語っている。
「原発反対運動の一つの特徴は、問題の深刻さとは裏腹に、皆が驚くほどイキイキと楽しみながらやっていることだ。その理由はいくつもあるのだが、最も大きなことは、皆が『ひとつ』になれるということだろう。
・・・事実『いのちの祭り』では、実に多種多様な人たちが出会い、そしてつながった。この祭りが、はた目ではゴッタ煮の訳の分からないものに見え、まさしく五目飯の様相であったというゆえんであろう。
しかしこのゴッタ煮は、単にものめずらしかったばかりではなく、だからこそかってないほどに素晴らしい運動の成果をもまた創り上げたと思う。『ゴッタ煮』は、文字通り「いのちの祭り」にはなくてはならない姿だったのであり、この渾然一体のエネルギーこそ、今回の祭りのすべてのパワーの根源であったと思う。
『核』そして『原発』の問題は、単なる科学的なテクノロジーの問題ではない。コトの本質は私たち現代人の意識の問題であり、その解決法は、いかに私たちがこの文明的価値観を転換させ得るかにかかっている。
モノから生命へ、そしてココロへ。今、文明の転換期にあたり、私たちが解決しなければならない問題は山積している。生命を主役とした、より良い生活環境をもう一度呼び戻すために、組み直し、提案しなければならないことも山ほど抱えている。
敵対意識では、決して私たちはこの原発問題を解決できはしないだろう。『生命はすべてのものとの絡み合いの中にあり、そしてただひとつのものである』
私たちは、最も大切な生命を取り戻し、生き残らせるため、もっとおおらかに、そして高らかに、生命の歌を歌いつづけなければならないだろう。そしてきっと、この喜びあふれたエネルギーでしか、原発を根こそぎ消滅させることはできえないことだろう」(橋本宙八・マクロビオティック研究家)
またギャザリングには、鷲の羽の付いたネイティブ・アメリカン独自のパスポートで初めて日本に入国を勝ち得たホピ族(ホピは「平和」を意味する)のメッセンジャー、トーマス・バンヤッカ、のちに映画『ダンス・ウイズ・ウルブス』の長老役で活躍したフロイド・ウエスターマンをはじめとして、アイヌの人々や沖縄の「ニライカナイの海」の人々など、多くの人々が平和の祈りを、深いスピリットの温もりを持って駆けつけてくれたのであった。「祈りは生であり、生は祈りだ」という姿がそこに見られたのだった。
ホピの人たちが「もし誰ももはやホピ(平和)の道を歩きつづける者がいなくなるようなことにでもなれば、そのような時代を望んだところでなんの意味もない」と言うように、ベトナムの戦火の中で平和運動を主導してきた詩人で仏教僧であるティク・ナット・ハンもまた次のように語っている。
「平和を生きなければ、平和のために何一つとしてすることができない」と。
そして、そして、多くの人々との交わり、ひとつとなって舞い踊ったコンサートがつづいた。
「7日の昼からは『NO NUKES ONE LOVE オールナイト・コンサート』。八日の朝までぶっとおしで盛り上がって、八時八分八秒を迎えた会場は、朝もやの優しい白い光に包まれ、参加者全員による<宇宙へのいのり>、『地球一周太鼓ピースランニング』の時間となった。手に手に小さな鈴をふり、手持ちの太鼓が鳴り響いた。ステージでは、喜多郎からスタッフや参加者へとバチがわたって、特大の和太鼓がいくつも打ち鳴らされていった。子供たちがステージの上で踊り、祈りの波は一時間以上つづいていた。このあとつづいて、鎌倉からいらした霊鷲太母さんのスピリチュアル・メッセージ。そして昼からは、アメリカ・インディアンのスピリチュアル・メッセージ、縄文祭とステージはつづく・・・」(星川まり)
花は花として 笑いもできる
人は人として 涙も流す
それが自然のうたなのさ
心の中に 心の中に
花を咲かそうよ ――喜納昌吉
と、最後のステージで喜納昌吉が歌いつづけていた。
参加者の一人は、いのちの祭り体験を次ぎのように語っている。
「まつりに行ったきっかけは『宝島』の記事だった。・・・まつりがどんなものだったかは省くとして、私にとってその体験がターニング・ポイントだったことは今振り返ってみるとますますはっきりしている。何故だか知らないが自分の歩いてきた道が、すべて必然的なものだった、たくさんの過ちや悔いの残る経験さえも、私がある成長をするために通らなければならないことだった、のだと思えるようになった。そうでなければ、まつりの場に自分が引き寄せられたことは説明がつかなかった。
まつりのあとからは、自分が感じている生命力やリズムや色彩をためらうことなく絵に表現していけるようになった。またそれこそが天が非力な自分にかすかに与えた仕事なのだと思うようにもなった。
すべてがハプニングだったからこそ、新しいページが開かれた。あのときのハプニングの力こそ宇宙の力なのだろう。
再現しようとか、思い出そうとか、そんなことに興味はない。毎日毎日新しいページをめくりつづけ、いつか次ぎのステップにきたことを感じるだろう。そのステップももうじき訪れるような気がしている」(木津川園子)
いのちの祭りは終わってはいない、それは始まったばかりなのだ。わたしたちの生は、いのちのものであり、そのいのちが十全に花咲きうる霊性的自覚のフィールドを立ち現してゆくことが『いのちの祭り』なのではなかろうか。
−−『宇宙の見る夢』おおえまさのり著 雲母(きらら)書房刊より転載