山縣有朋 やまがた−ありとも
1838-1922
 長州藩(山口県)の下級武士の子として生まれる。山縣狂介。宝蔵院流の槍術を学び、松下村塾に通う(しかし吉田松陰の思想にかぶれたわけではなさそうである)。高杉晋作の奇兵隊に入隊し、そのマネージメント能力によって諸隊をよくまとめ、下関戦争、長州征伐、その後の藩内クーデタなどで高杉を支え、軍監となる。維新回天では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀として実際の兵権を握るが、北越戦争では家老河井継之助に乗ぜられ、苦杯を舐める。一般に山縣は用兵能力に関しては疑義を呈されており、その得意分野は軍政などの事務・監査的なものであったように思われる。
 維新成就後、軍制視察のために渡欧し、帰国後には暗殺された兵部大輔
大村益次郎の衣鉢を継ぐ形で徴兵制を推進する。その後、兵部大輔、陸軍大輔、陸軍卿を務めるが、一時軍の御用商人からの収賄で失脚している。西南戦争では征討総督(有栖川宮)を補佐する参軍となり、戦後に起った竹橋事件後は軍の規律に関する軍人勅諭の起草を西周とともに行って軍部の精神的基礎をも築いた。また、桂太郎の建言によって軍令・軍政の分離が行われると、初代の参謀本部長となった。また、元帥府設立に当っては、小松宮、大山巌などと並んで初めての元帥に列せられた。
 その後、彼は内務卿を務めたほか、二度にわたって内閣を組織。第一次内閣は丁度第一帝国議会の開催に当っていたため、彼は議会内の民党と激しく渡り合った。以前より彼は大の政党嫌いとして有名であり、それはその後もほぼ一貫して変わらない彼の政治姿勢であった。その後に初の政党内閣である憲政党内閣が成立したときに、「明治政府の落城」と嘆息を禁じ得ず、また伊藤博文の政友会組織に対してもっとも強硬に反対したのが彼であった事実からも容易に察せられる(とはいえ、のちには政党と結びつかない政局運営は不可能であることをついに知る)。
 その一方で、『一介の武弁』と自己を表現していた山縣は、内務省、陸軍、そしてのちには枢密院、宮中にまでその人脈を伸ばしていった。内務省では
大浦兼武、軍部では桂太郎寺内正毅などがその代表的なところであり、さらには内務省などから貴族院議員になった人々も含めれば、かなりの程度山縣閥の影響力は政界に浸透していたと言っていい。これは派閥をつくることに恬淡としていた伊藤博文と対蹠的と言われ、ために彼はしばしば、権力主義者などとして評価される。実際、次期首班推薦のための元老会議においてもっとも発言権を持っていたのは、間違いなく山縣であったし、彼の差し金で倒壊した内閣も少なくはない。
 山縣がとうとう政党首領の推薦にまで追いつめられたのは、寺内内閣総辞職の際であった。その当時には彼の持ちうる政界における手駒はどんどん少なくなっていた。一の子分と目されていた
桂太郎が政党組織に踏み切り、少数とはいえそれに便乗した山縣子飼いも少なくなかった。寺内正毅も組閣の際に「なんでもかんでも閣下の言うことを聞くわけには参りません」として、山縣の影響力をシャットアウトすることにつとめた。また、官僚たちも原敬の政友会によって切り崩されつつあった。彼の影響力は後退していたのである。彼は政友会総裁原敬の推薦に踏み切り、その原の政治力に惚れ込み、寄り添う。ところが彼を襲ったのは皇太子妃選定に関する宮中重大事件であった。彼は右翼から逆賊のレッテルを貼られて栄爵の拝辞をおこなった。その後、原敬暗殺事件のあと、大隈重信と前後して逝去。死後、国葬が営まれた。

 彼の趣味は多岐にわたり、前述の槍術の他、造園術は玄人はだしで、小田原の古稀庵(現在あいおいニッセイ同和損害保険の所有)、都内の椿山荘(現在、ホテル・フォーシーズンズ東京や結婚式場となっている)は山縣の別邸で、彼がみずから手がけた名園である。

 

山本権兵衛 やまもと−ごんべえ
1852-1933
 薩摩藩士の三男として、鹿児島城下加治屋町に嘉永五年(1852)に生まれる。

 青春を幕末風雲の中で過ごし戊辰戦役までを生き抜く。維新後藩から上京留学を命じられ、開成所に学んだがその後海軍兵学寮(前身は勝海舟が創設した海軍操練所)に転じた。この学生時代、征韓論争に敗れた
西郷隆盛が参議近衛キ督の職をなげうって下野した際、これを追ったが、西郷自身から諭され東京に戻ったといわれる。
 明治7(1874)年海軍兵学寮卒業。10(1877)年少尉任官。その後は海上勤務を主にしてキャリアを積んでいっている。明治24(1891)年、海軍大臣官房主事として
樺山資紀仁禮景範西郷従道の三代の海相に仕えた。
 彼は
司馬遼太郎には、「坂の上の雲」のなかでこのように評されている。

「権兵衛は海軍建設者としては、世界の海軍史上最大の男の一人であることはまぎれもない。かれは、ほとんど無にちかいところから新海軍を設計し、建設し、いわば海軍オーナーとして日清戦争の『海戦』の設計まで仕遂げた。」(坂の上の雲「権兵衛のこと」より)

 山本権兵衛が「薩の海軍」を葬り、日本海軍をしあげていくのは、西郷従道海相の下でであった。
 第一に、山本は従来参謀本部の下にあった海軍の軍令機関(海軍参謀部)を明治26(1893)年、陸軍からの反対を押し切り、参謀本部から独立した海軍軍令部として独立させて陸軍に対する海軍の位置づけを向上させた(これまでは完全に「陸主海従」であった)。
 第二に、人事の刷新である。山本は薩摩人でありながら、それまで「薩の海軍」といわれて藩閥の巣窟であった海軍高官の大量首切りを行う。将官8名、佐官尉官90名近くに及ぶ大リストラであった。山本は大佐の身でありながら、西郷海相の抵抗をも排して自らリストラの宣告を進めた、といわれる。
 しかしながら、この大リストラには批判もあった。当座の業務すら滞るおそれも指摘されたし、海軍の弱体化も懸念された。マスコミは「権兵衛大臣」と、山本の独断専行と西郷の無為を揶揄した。しかし山本はやり遂げた。
 この後日清戦争勃発。陸軍でこの作戦を主導した参謀次長
川上操六と連携し、「海上権(制海権)」の概念によって作戦上、海軍の地位を高からしめた。明治28(1895)年少将・軍務局長として名実ともに海軍軍政の中枢に座り、日清日露戦間期の海軍再編成に当たった。

 ここで山本らが構想したのが「六六艦隊」(戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻で編成された艦隊)である。「三笠」「朝日」「敷島」「初瀬」が一万五千トン級の新造艦としてイギリスに発注され、装甲巡洋艦も既存のものに加えて発注された。日本の国家財政が約八千万円の時代、総経費二億三百万(十年割賦ではあったものの)であるから、いかにすさまじい、というか、常軌を逸した計画であったかがわかる。しかし、議会も、支出に賛成し、国民も耐えた。
 この間明治31(1898)年中将。5月から、西郷海相の強い推薦もあって、五十歳にもならない身で海軍大臣として入閣する(第二次山縣内閣)。山本はこのあとの第四次伊藤内閣第一次桂内閣でも続投し、日露戦争前には桂太郎首相小村寿太郎外相から外交面でも意見を徴され、日英同盟に強い推進力となった。
 さて、日本海軍の戦時編制である連合海軍の組織に当たって、山本は大臣としてその司令長官を選ばなければならなかった。舞鶴鎮守府司令長官といういわば閑職にいた東郷平八郎中将を、山本は抜擢したわけであるが、東郷は「昼行灯」と陰口をたたかれるなどぱっとしたイメージの人物であった。明治天皇は知ってか知らずか、山本に対し、なぜ東郷を起用したのか下問すると、山本は、
「東郷は運のいい男でございますので」
と微笑して奉答したといわれている。
 明治35(1902)年男爵、日露戦後はその東郷とともに明治37(1904)年大将。明治41(1908)年伯爵叙爵。大正2(1913)年には政友会を与党として内閣を組閣し、文官任用令、軍部大臣現役武官制の改定に取り組んだ。が、シーメンス事件で内閣瓦解。予備役編入となった。山本の功績に対し、東郷らが弁護して予備役編入を阻止しようと試みたが、重鎮の横車で海軍大臣の人事が乱されることを望まず、山本本人は受け入れる。
 その後加藤友三郎首相の病死に伴い、ふたたび内閣組閣するが、組閣難航の中で関東大震災が突発する多難の門出となった。ともかくも大正12(1923)年九月、第二次山本内閣が組閣され、後藤新平を復興院総裁として起用するなど震災処理に当たったが、摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)が起こり内閣は総辞職となる。
 その後政界に口出しすることなく、「元老予備軍」と取りざたされたこともあったが本人は恬淡としていたようである。昭和8年十二月八日没。海軍葬が行われた。

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