西園寺公と政局」(さいおんじこう−と−せいきょく)

 「最後の元老」西園寺公望の秘書であった原田熊雄が、近衛秀麿夫人・近衛泰子を筆記者として口述した記録文書。「原田日記」とも言うが、日をおいて口述されたものであり、必ずしも日々更新される「日記」の性質を持っていたわけではない。一部西園寺自身による校閲・編集の手が入っている。
 原田が終戦後まもなく死ぬと、この日記はGHQに接収され、東京裁判の法廷において重要な証拠書類となった。そののち、原田の友人であった作家・里見ク丸山眞男林茂が校正の手を加え、岩波茂雄によって岩波書店から出版された。
 全九巻。原稿は「満洲某重大事件と西園寺公」「海軍会議と西園寺公」「陸軍軍縮と西園寺公」の三編から成っているが、分量としては「陸軍軍縮と西園寺公」が表題から逸脱して大きなものになっていることもあり、第一巻に前二者、二巻以降八巻までに後者が収められ、第九巻は索引という構成になっている。

最高戦争指導会議」(さいこう−せんそう−しどう−かいぎ)

 太平洋戦争遂行のため、最高首脳が集った「大本営政府連絡会議」小磯国昭内閣の手によって改称されたもの。
 基本的な性格や、参与する資格は変わらなく、政府からは総理大臣、外務大臣、陸軍大臣海軍大臣。軍部からは陸軍参謀総長海軍軍令部総長が出席し、さらに天皇も臨席した。
 なお、いわゆる「終戦の聖断が行われたのは昭和二十年八月十四日の同会議に於いてである。

斎藤隆夫衆議院除名問題」(さいとうたかお−しゅうぎいん−じょめい−もんだい)

 昭和十五(1940)年二月二日、民政党代議士斎藤隆夫が支那事変処理方針に関する質問演説をなし、それが問題化してついに斎藤の衆議院除名に発展した事件。
 米内内閣成立後の衆議院本会議で、民政党小川郷太郎代議士政友会中島派東郷実代議士の演説に引き続いて斎藤隆夫が壇上にあがった。斎藤は以前粛軍演説で一躍名演説家とよばれるようになった民政党の領袖だが、彼は今回も一時間半の質問演説を行った。その内容は、支那事変の重大性を確認し、歴代政府の収拾方針も行われないままここに来たり、米内内閣としてはどのような範囲で、どのような方法で事変収拾をはかるのか、を斎藤独特のするどい言い回しで問うたもの。これは、問責された米内光政首相畑俊六陸相なかなかうまいことをいうもんだなと思い、議会内でも時局同志会などが特に抗議している他は静穏で、それほど大きな問題とはならない雰囲気であった。
 ところが軍部では武藤章軍務局長など中堅が斎藤の演説に激怒し、これに議会内の親軍派代議士が同調した。斎藤の演説の速記録はこれをおそれたのか、議長によって勝手に削除され、斎藤は懲罰委員会にかけられることになったが、そこでも斎藤は懲罰委員らに弁駁した。だが、民政党内部では彼を自発的に議員辞職させるべくいろいろな方面から手が動いていたし、それでも斎藤は辞職せず、ついに民政党代議士会は彼の除名の是非を巡って対立し、ついに除名賛成派が多数を制した。そしてそれが衆議院本会議に上程されたが、政友会久原派の芦田均ら五名が除名に反対、社会大衆党では党首安部磯雄片山哲らが欠席して反対の姿勢をとったほかは、賛成多数で斎藤は除名されたのである。
 この事件を通して感ぜられるのは一に政党のひ弱さであり、この反対代議士らをめぐってますます政党の内訌は深まっていくのである。

最終戦争論」(さいしゅう−せんそう−ろん」

 満州事変において指導的役割を果たし、軍部内でのオピニオンリーダーであった石原莞爾の代表的著作。

 昭和十五(1940)年五月二十九日、東亜連盟会員で柔道家の福島清三郎の道場「義方会」で行われた「人類の前史まさに終らんとす」という演説を立命館大教授であった田中直吉が筆記し、体裁を整えたものが元になっている。
 内容は、第一章「戦争史の大観」で、まず古代・中世から近々第一次欧州大戦の戦史を、「密集隊形から横隊、さらに散兵、戦闘群への移行」であると見、決戦戦争と持久戦争の変遷があることを指摘している。特に第一次大戦に関する分析は要を得ていて見るべきものがある。
 第二章「最終戦争」は、要するに総力戦を説く内容である。「この次の戦争では男ばかりでなく女も、さらに徹底すれば老若男女全部、戦争に参加することになります」と、石原は言う。とはいえ、それは全国民が最前線に立つということではなく、「一つは敵を撃つこと」であるが、もう一つは「損害に対して我慢をすること」である。これが総力戦ということであると、非常にシンプルに説かれている。
 第三章以下は、石原自ら「私の想像である」と言っているが、また本書のもっとも有名な部分でもある。第三章「世界の統一」、第四章「昭和維新」において、将来の世界情勢において、大英帝国は凋落するであろうし、仏独など欧州勢力は互いにひしめき合うであろう。と、すると、長距離無着陸飛行のできる飛行機と、一発で何万人も死ぬことになるような爆弾ができたとき(そしてそれは五十年以内である)、若いアメリカと東亜の盟主である日本が最終戦争を争い、「世界はひとつになるだろう」。
 さて、「東亜の盟主」となる前提として、日本は他民族軽視の傾向を改めなければならないという石原の考えに、私(管理人)は彼の満州国における理想を感じるが、いかがだろうか。
 第五章においては、石原の日蓮信者としての面目、「占い」が遺憾なく発揮される。私にはこの部分は理解を超えた。日蓮宗や仏教に造詣のない身にとっては、「最終戦争論」中もっとも荒唐無稽の部分と映じる。

 石原はこの考えを長年温めていたものとみられ、満州事変はこの構想のもと、「最終戦争」(総力戦)に備える意味で実施されたと言われる。その意味で、満州国は石原構想の結晶であった。
 だが、石原は関東軍に長く居ることはなく、作戦課長として内地に帰り、その後二・二六事件においては決起部隊を宥和しようとする皇道派真崎甚三郎大将らを大佐の身で叱咤し、抑えて軍部内の意見を鎮圧にまとめ、皇軍相搏をおそれず討伐部隊を進めて叛乱鎮圧に功績を得た。のちに作戦部長となり、二匹目の柳の下のどじょうを狙う日華事変に猛烈に反対したがそれに端を発する東條英機との政争に敗れ、第十六師団長に左遷、さらに予備役に編入させられた。その後は東亜連盟を指導し、戦後、なぜか戦犯には問われないまま山形県鶴岡市で世を去った。

 現在、「最終戦争論」は中公文庫に収録されており、簡単に書店で手に入れることができる。

「財閥」(ざい−ばつ)

1.財閥の定義
  「家族または同族によって出資された親会社(持株会社)が中核となり、親会社が支配している諸企業(子会社)に多種の産業を経営させている企業集団」のこと(安岡重明氏(同志社大名誉教授)の定義)。なお、日本における財閥組織をコンツェルンと同一視する見解があるが、親会社の出資者が財閥家族に限られていたという点で財閥とコンツェルンは異なる。
 日本の財閥として代表的なものは、いわゆる明治維新期に成長した三井三菱住友安田浅野大倉などの旧財閥(新興財閥が勃興してから旧財閥と呼ばれるようになった)のほか、大正末期に急速に力を付けた日本産業(日産)日本窒素(日窒)日本曹達(日曹)森コンツェルン(昭和電工)などの重工業に主軸を置く新財閥がある。太平洋戦争後、進駐してきた連合国軍総司令部の財閥解体指定を受け、いずれも戦前期の財閥としては、以下に述べるような特徴を失い、解散した。占領終結後、旧財閥系列下にあった各社が企業集団を形成したが、銀行など金融機関を中核にしたものであって、戦前における財閥とは異なものである。

2.財閥の特徴
 戦前における財閥の最大の特徴は、同族による閉鎖的な所有と支配である、といえる。
 つまり、親会社の出資者は財閥家族(三井なら三井家、三菱なら岩崎家)に限られていた。親会社とは、三井財閥であったら三井合名会社のような持株会社のことをいう。これら親会社は、子会社の全株式もしくは子会社を支配できるだけの株式を所有することを通じて、グループ全体を支配した。子会社の人々は、まさしく財閥家族の番頭、使用人であったと言っていい。しかし、財閥家族が実際に陣頭指揮を執ってグループ全体のマネジメントをしていたわけではない。あくまで陣頭指揮をするのは彼らから委託を受けた使用人であった(例を挙げれば、明治初期に別子銅山経営の近代化に成功した広瀬宰平は住友の使用人である。また、血盟団事件で暗殺された三井合名筆頭理事団琢磨も、その後任として三井銀行から三井合名入りをした池田成彬も、三井の使用人という位置づけである)。財閥家族は「君臨すれども統治せず」という存在であったと言える。
 もうひとつ、特徴をあげれば、財閥はきわめて多角的な事業経営をなしていたが、その主力は先駆的な工業分野(特に鉱工業)に置かれていた。三井財閥の例をまたしても挙げれば、三井は両替商から始まり、江戸で「現銀掛け値なし」の呉服商越後屋を創設して資力を蓄え、明治維新期に新政府に肩入れ御用金を献上し、政商として発展した。その後、益田孝(1848-1938、実業家。1876三井物産社長、三井銀行・鉱山の基礎を固め、三井合名を組織する)による三池炭坑の払い下げを受け、鉱業分野へ進出し、この三池炭坑の成功(団琢磨に多くを負う)をもとに財閥発展の基礎を築いたのである。 鉱山業という近代工業を基礎に発展した財閥としては、ほかに別子銅山の経営を基礎に発展した(広瀬宰平の功績といっていい)、住友財閥や、公害を垂れ流しながら足尾鉱山の開発をなした古河財閥があげられる。

3.財閥の展開(大正期〜昭和戦前期)
 第一次大戦期、未曾有の活況を呈した日本経済は、新興財閥の台頭をもたらした。久原、鈴木、野村などがその代表的なところである。新興財閥と三井、三菱、住友など既存財閥とは激しい角逐を展開したが、大戦後の不況に金融部門の弱い新興財閥は次々と崩壊した(久原財閥は崩壊の寸前、久原房之助の義兄鮎川義介がこれを引き継いで日本産業(日産)を誕生させた)。また、昭和金融恐慌においては、片岡直温蔵相の失言から東京渡辺銀行にはじまる中小銀行が取り付け騒ぎにあって次々と経営破綻したが、預金者が既存財閥の三井銀行や住友銀行に預け替えをしたため、三井、三菱、住友など既存財閥はますますその勢力を伸ばす結果となった(のちに三井不動産社長、会長となった江戸英雄氏は当時三井合名の不動産課にいたが、「私の思い出には銀行取り付けやそれにまつわる悲劇はほとんどない」と回顧している)。
 既存財閥の勢力伸長は、ジャーナリズムの格好の標的となった。なかでも、浜口雄幸内閣とその蔵相井上準之助がすすめた金解禁政策のときに既存財閥によって行われたいわゆる「ドル買い」(金再禁止を見込み、為替差益をあげるためにドルを大量に買うこと)は井上蔵相自らドル買いを「国賊」呼ばわりしてキャンペーンを張るほどであった。当然ジャーナリズムは追随した。この結果、財閥は怨嗟の的になり、右翼の一部が過激行動に出、井上日召による「血盟団」の青年が、三井合名理事長の団琢磨を三井本社ビル前で射殺した。
 これに恐怖を抱いた財閥家族や財閥経営者たちは、社会の批判をかわすために「財閥転向」と呼ばれるメセナ活動をはじめる。その指導者となったのが、団の後任として三井合名入りをした池田成彬である。池田は、「三井は儲けるべからず、散ずべし」という方針のもと、三千万円を出資して三井報恩会を設立し、寄付活動を行った。そのほか、三井財閥家族十一家の当主を財閥傘下企業の経営陣から退かせ、また、三井合名が所有する王子製紙、東京レーヨンなどの持株五十万株を公開することによって、社会からの批判をかわすことに努めた。三菱、住友などもこれにならったが、この一連の動きを「財閥転向」と呼ぶ。なお、この活動が一つのきっかけとなって、三井合名は急激に財務内容を悪化させてゆき、のちに三井物産と合同する伏線となってゆく(団琢磨理事長時代には固定的なものとしては皆無であった借入金が、池田成彬理事を経て南条金雄理事の時代には二千八百万を越えるようになる)。
 この後、世相は急速に軍事色をつよめ、それに伴い、台頭した軍部と財界、とりわけ三井との「軍財抱き合い」がはじまることになる。「越境将軍」こと林銑十郎の内閣において蔵相に起用された結城豊太郎は、三井を退いていた池田成彬に日銀総裁を引き受けさせたが、これを皮切りにして財界の大物が入閣あるいは重要ポストに就くことが増えてくる(関西財界の巨頭・小林一三も、近衛内閣の商工相となった)。池田にいたっては、西園寺公望元老から内閣首班にすら擬された。こうして、財界・財閥の政治的発言権が伸長することになるのである。
(→ 財閥解体

財閥解体」(ざいばつ−かいたい)

 太平洋戦争の敗戦後、占領軍によって推進された、三井、三菱など同族出資による巨大コンツェルン(財閥)の解体作業。

 


坐漁荘」(ざぎょ−そう)

 「最後の元老西園寺公望の、静岡県興津にあった別荘。
 駿河湾に面する、風光明媚で温暖な興津の地は、西園寺はじめ明治の元勲たちが老躯をやすめるのに恰好の別荘地であったらしく、坐漁荘より西に少し行ったところには、井上馨の別荘もあった。
 西園寺は、一年の間、ほとんどこの坐漁荘に暮らした(夏だけは、駿河台の西園寺邸に過ごした)。「政界のお使い番」として西園寺の秘書を務めた原田熊雄は、東京と興津を行き来する日々を過ごしたし、西園寺の侍医の勝沼博士も名古屋からこの興津に参上した。
 それだけではない。政界の重鎮たちはつねに西園寺の意向をうかがうために、この興津に参上することが常であった。
 政治家たちの興津訪問は、「興津詣で」「西園寺詣で」と呼ばれ(「詣で」とは、元老の名前が西園「寺」であったことによる洒落である)、彼らは坐漁荘に近い水口屋旅館に宿泊して、西園寺の面会を待った。
 天皇からの勅使が時には差遣されることもあり、西園寺は原田が集めてきたり、政治家たちがもたらす各種情報を取捨選択して、勅使の下問に奉答した。
 西園寺は昭和十五年になくなるが、戦後、坐漁荘は興津から、愛知県犬山市の明治村に解体・移築され、現在もそのたたずまいを残している。水口屋旅館の方は、すでに旅館としてでなく、某社の研修センターとして建物が使われている。

櫻会」(さくら−かい)

 砲兵士官・橋本欣五郎を中心として発足した、軍部幕僚層を中心とする団体。
 橋本はトルコ駐在武官のときに見たトルコ革命ケマル・パシャがオスマン帝国を滅ぼして共和国を発足させる)に強いインスピレーションを受け、帰国後に日本の国家改造をめざして結成されたのがこの櫻会である。
 櫻会はふたつのクーデタ未遂事件に関与している。すなわち、大川周明などとともに宇垣一成・陸軍大臣をかついで宇垣政権を発足せしめようとした三月事件、そして西田貢北一輝なども加わり、満洲事変の混乱に乗じたクーデタを行おうとしたのが十月事件である。
 しかしこの二つの計画が露見しても、橋本が一ヶ月足らずの謹慎処分を受けただけであった。櫻会は解散させられたが、その残したところは重大であった。のち、橋本欣五郎は大政翼賛会に深くコミットして「大日本青年党」を結成、戦時中の翼賛選挙で当選、敗戦後、戦犯として巣鴨に収監されている。

薩派」(さっぱ)

 明治時代初中期にかけて「藩閥」と呼ばれる勢力が存在した。なかでも山縣有朋伊藤博文を頂点とする長州閥が第一等の力を持ち、それに大幅に水をあけられていたとはいえ大山巌西郷従道、そして山本権兵衛東郷平八郎らをメンバーとする薩摩閥が第二等の力を持っていた。
 長州閥がじょじょに力を失うと、相対的に勢力を増したのが薩摩閥=薩派である。
 特に大正期において、薩派は海軍・宮中をはじめとして、政界に端倪すべからざる権威を持った。まず海軍には大御所・山本権兵衛、日露海戦の英雄・東郷平八郎とその門下生ともいえる人々たちがおり、宮中には内大臣として牧野伸顕大久保利通の次男、吉田茂の岳父)が、また陸軍にはこれまた大御所・上原勇作政友会には重鎮として床次竹二郎がいた。
 これらが時に緊密に連絡をとり、薩派は長州閥に比較して、長く勢力を保ったのである。

三・一事件」(さん−いち−じけん)

 大正八(1919)年、日本領であった朝鮮半島で起こった暴動。
 第一次大戦後、アメリカ大統領ウィルソンが示した民族自決のテーゼは植民地支配のもとにおかれていたアジア・アフリカ地域各地にナショナリズムの風を巻き起こした。その主動勢力となっていたのは、主に朝鮮外の運動家たちである。アメリカ、上海などにそれぞれ拠点をもっていた安昌浩金奎植らは朝鮮独立の目的を達するために各々が独自の動きを示していた(パリ講和会議に代表を派遣したのもその一環である)。朝鮮内部においても、学生、宗教家などの比較的知識人系の人々によって独立運動の構想が練られていた。
 それらの別々の動きを大同団結させたのが、日本において李王として皇族並の待遇を受けていたかつての大韓帝国皇帝高宗の死である。高宗逝去は日本人が毒を盛ったためと運動家の間では流布され、反日感情を煽った。日本にはかつて閔妃虐殺事件という前科があるから、高宗毒殺の嫌疑も思われても無理からぬことであったろう。また、大正八年二月九日、東京の朝鮮人留学生が独立宣言を声明した。この二つの事件が契機となって、朝鮮内外の独立運動が結びつき、有機化した。運動計画も、当時は軍人が総督となり、武断政治と呼ばれるほどの威圧政治を敷いていた朝鮮総督府(長谷川好道総督)の目を盗んで完成し、三月一日、京城(ソウル)、平壌、開城などの主要都市で運動が開始された。特に京城では正午を期してパゴダ公園に集まった学生たちが万歳(マンセ)独立万歳を叫びながら市内を席巻した。運動は断続的に続けられ、農村にも飛び火した。農村は朝鮮土地調査事業によって土地を失った農民たちが多く参加し、都市部よりも激しい運動が展開され、村役場はおそわれて台帳が焚書された。総督府はこの事態を重く見て、警官隊だけでなく軍隊を投入して弾圧方針に出た。朝鮮のジャンヌ・ダルク柳寛順が逮捕されのち獄死した天安事件などを含めた弾圧事件の死者は一説に依れば七千五百人以上と言われる。
 この事件後、日本政府もこの事態を憂慮し、まず朝鮮総督の更迭に踏み切った。長谷川好道に代わって予備役の海軍大将斎藤実が就任し、「文化政治」を唱えた(なお、西園寺公望はこの事件をもっとも憂慮した一人であった。斎藤の送別会において乾杯の音頭をとった西園寺は、閣下、文明の政治を願いますと斎藤に呼びかけた)。また、朝鮮総督府は部分的にではあるが、朝鮮における集会・結社の自由と言論の自由をあたえる。しかしいったん火のついた独立闘争の動きは容易に沈静化することはなく、展開されていき、新総督斎藤の爆殺未遂事件(斎藤朝鮮総督爆弾事件)を起こすことになる。

三月事件」(さんがつ−じけん)

 昭和六(1931)年十月、当時の濱口内閣の陸相・宇垣一成大将をクーデタでもって総理に押し上げようとした計画。
 これを主導したのは橋本欣五郎大佐であり、二宮治重・参謀次長、小磯国昭・軍務局長なども首脳部もこれに賛成して計画を後援したと言われる。また、右翼の大川周明が社会大衆党と結んで労働者一万人を動員し、外部から国会を圧迫し、軍部は兵力を動かして政友・民政両党の本部を空爆、また議会内に兵を入れて「国民は現内閣を信任せず。宇垣大将による内閣のみを信頼す」とすることによってむりやり宇垣内閣を発足せしめようとしたのである。
 しかし、計画は杜撰であった。
 特に大川周明と社大党の提携・連絡は非常に疎で、大衆一万人動員などは架空の夢物語に過ぎないことが明らかになった。また、大川のパトロンであった徳川義親侯爵が中止を求め、小磯軍務局長なども軟化した。第一に宇垣自身が民政党総裁に擁立されるという呼び声が高くなり、わざわざ危ない橋を渡る気にならなかったのではないか、とする研究者もいる。
 しかし、橋本や大川が宇垣擁立クーデタ計画を推進していたのは事実だが、宇垣がそれを知っていたかどうかは疑問である。
 宇垣本人の日記に、小磯に勧められて大川にあったがその会談はかみ合わぬまま終った、とあるし、同様のことを原田熊雄(西園寺の秘書)にも語っている。ともかく、最終段階において宇垣自身が計画に反対し、三月事件は未遂に終ったのである。

三党首会談」(さんとうしゅ−かいだん)

1:大正五年五月二十四日、三十日、翌月六日の三度、枢密顧問官三浦梧楼の周旋により、政友会総裁原敬同志会総裁加藤高明、国民党総裁犬養毅の三者が三浦邸で会合した。三浦は外交・国防方針に関して共同歩調をとるべく、外交問題に関する一致協同他者の容喙を許さないことの二点に関して覚書を作成した。大隈内閣の後継として、第一次世界大戦激化に対応できる挙国一致内閣を三浦が構想してこの会談を実現させたもの。結局この会談による直接的成果は、大隈内閣の後継として寺内内閣が成立したために生まれなかったが、寺内内閣による臨時外交調査会の成立の一つのきっかけになったと言ってよい。

2:清浦奎吾貴族院内閣の成立に当たり、政友会総裁高橋是清憲政会総裁加藤高明、革新倶楽部総裁犬養毅の三者が、やはり三浦梧楼の周旋によって会合し、「憲政の本義に則り政党内閣の成立を期す」との声明を発した。護憲三派の成立であり、第二次護憲運動の発端となった政党間同盟の成立であった。

3:憲政会内閣の首相であった若槻礼次郎が、解散・総選挙を回避すべく、党領袖にも内密で政友会総裁田中義一、政友本党床次竹二郎の二人を招待して、イギリスの故知に習い、「新帝登極のはじめであるから政争を停止されたい」と申し入れた。政友会、政友本党の両党首は、「政府においても深甚なる考慮を払はれんことを望む」と、暗に若槻の早期退陣と政権禅譲を望む旨、発言した後に若槻の申し入れを了承し、内閣不信任案を撤回した。しかし、結局若槻は政権禅譲をせず、その後却って野党による政府攻撃は熾烈化した。若槻内閣は台湾銀行救済の特別勅令案を枢密院で否決され、総辞職する。

山東出兵」(さんとうーしゅっぺい)

田中義一=政友会内閣のもとで二度にわたって行われた軍事行動。

第一次山東出兵(1927.5)
 当時中国統一を進めていた蒋介石の北伐軍に対する干渉出兵となった。田中首相は外相を兼摂していたが、北伐軍がおこるや、山東半島に在住する日本居留民保護の方針のもと、一個旅団を出兵した。南京国民党政府北京張作霖政権もともに激しく抗議し、中国国民には日本製品不買運動など排日行動が激化した。しかし北伐軍がいよいよ日本利権のある山東鉄道に飛び火すると、さらに満州から追加派兵が行われ、鉄道の西の起点である済南にも兵を進めた。
ところが、国民党政府内で対立が生じ、北伐軍も徐州会戦で敗北を喫したことにより、北伐自体が停頓してしまった。蒋介石は下野し、田中内閣も山東撤兵を声明した。田中首相はその後蒋と会談し、長江以南を把握することと北伐の時期尚早を勧告した。

第二次山東出兵(1928.4)
 蒋介石は下野の翌年一月、早々に革命軍総司令に復職した。ただちに第二次北伐軍が催され、その先鋒が山東省に侵入するや、再び田中内閣も一個師団の動員と天津軍(支那駐屯軍)の動員をかけ、五月一日には日本軍と北伐軍が済南で衝突し、日本軍が済南を占拠した(「済南事件」)。北伐軍はやむを得ず済南を迂回して北京にいたり、張作霖軍が撤退した後の北京に入城、六月、北伐を完了させた。済南事件の収拾は日中外交の焦点となったが、田中内閣は国内の野党民政党をはじめとする非難に押され、和平条件を譲歩し、結局中国側の賠償と謝罪なども勝ち取れず、外交政策としては失敗に帰した。

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