ノモンハン事件」(ノモンハン−じけん)

 満州国とモンゴル人民共和国の国境不確定地域をめぐって日本軍(関東軍)・満州国軍とソ連・モンゴル軍が衝突し、日本軍は死傷率七割という空前の敗北を喫した国境紛争。日本ではノモンハン事件と称呼されるが、ソ連ではハルハ川事件、モンゴルではハルハ川戦争と呼ばれる。この事件によって日本は極東ソ連軍の精強さを見せつけられると同時に、当面はソ連が満州方面に侵入することがないことを確認した。
 昭和七(1932)年、満州国が成立したが、南満はともかくとして、広漠たる北満の広野には国境未確定地域がすくなくなく、特にモンゴル人民共和国との間には、ハルハ川東岸地域を巡る紛争が絶えなかった。モンゴル側は歴史的経緯からハルハ東岸地域を自国領と主張し、満州国側は国境ラインはハルハ川であるとして東岸地域は当然にして満州国領だとしていた。昭和十年前後からこの地域での小競り合いが頻発化していた。
 昭和十四(1939)年、その小競り合いが発展し、いわゆる第一次ノモンハン事件を引き起こした。
モンゴル側のハルハ川渡河を察知したハイラルの第二十三師団が偵察のために東支隊を派遣すると、モンゴル軍はハルハ西岸に後退したが、まもなく在モンゴルのソ連軍と共同して、再びハルハ川を越えた。第二十三師団は東支隊以上の規模の山県支隊を派遣し、山県支隊は偵察部隊を放ったが、その偵察部隊は全滅するに至った。山県支隊は偵察部隊の回収をせぬまま帰還した。
 六月、ソ連は戦車・飛行機を擁する三個師団六個旅団の投入を決し、モンゴルも共同部隊として騎兵二個師団を投入した。日本も精強をうたわれた第一戦車隊と第七師団の一部を投入したが、その兵力差にはあまりに開きがありすぎた。にもかかわらず、関東軍はモンゴル国内のタムスク爆撃を大本営の意志に反して行い、第二次ノモンハン事件の幕がひらかれた。
 七月二日、関東軍はハルハ川両岸に展開するソ連・モンゴル軍に攻撃を仕掛けたが、ソ連増援部隊が来着し、さらにソ連の優越する機械化部隊によって退勢に追い込められ、さらに完全に守勢に回ったのみならず、第一戦車隊は甚大な損害を被った。さらに八月二十日、ソ連・モンゴル軍は大攻勢に出て関東軍を各所で分断、包囲し、日本軍随一の精兵と呼ばれた関東軍はノモンハン以東のモンゴルの主張する国境線外に撃退された。
 その間、国際情勢は大きく変わり、まずソ連とドイツは独ソ不可侵条約を結び、ドイツがポーランドに宣戦し、英仏がこれに対してドイツに宣戦した。第二次世界大戦がはじまったのである。これと前後して日本政府はソ連に停戦を申し入れ、九月十六日成立した停戦協定によれば、満蒙国境は完全にソ連・モンゴルの主張するものであった。
 この戦役の被害は、第六軍だけによれば、戦死・行方不明8717名、戦傷病10997名という膨大な数であった。戦争において全兵力の一割を戦死・戦傷などによって失えば大敗北であるという常識からも鑑みて、信じがたい戦争であった。しかもその得るところは寸土もなかったのである。

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