企画院事件」(きかくいん−じけん)

 いわゆる企画院官僚の一部が共産運動に関与して治安維持法違反の容疑を受けて逮捕された事件。

 これに先立ち、官僚のうち判任官の一部が実際に共産主義活動に手を染め、官庁人民戦線を結成しようとして逮捕された「企画院判任官グループ事件」が発生し、以前より治安当局の内部でも企画院はアカのおそれありという風評があった。かくして、高等官らの左翼系運動にも追及の手が伸び、「企画院事件」が発生する。
企画院調査官の正木千冬佐多忠隆稲葉秀三、農林省調査課長の和田博雄、大政翼賛会組織局の勝間田清一和田耕作らが、彼らの所属していた内閣調査局(のち、企画庁企画院に改組)時代から官庁人民戦線なる結社を基点として共産主義運動を行ったとされ、治安維持法違反の廉で逮捕された。
この当時の内相は共産嫌いで有名な平沼騏一郎である。彼が、軍部・企画院の社会統制における共同歩調を好まず、この逮捕を指令した可能性がある。企画院事件はきわめて政治的な色彩がつよい事件である。

木戸幸一日記」(きどこういち−にっき)

 維新の元勲・木戸孝允の孫にあたり、内大臣を務めた木戸幸一侯爵の日記。昭和20年12月15日までの事象が記されている。
 木戸は東京裁判において「宮中お側近くに仕えた自分が有罪ならば天皇も有罪になるおそれがある」と考え、積極的に自己の無罪を主張するためにこの日記を検察側に提出し、証拠文書として使われた。その信頼性は「原田日記(のち、「西園寺公と政局」として公刊)」とほぼ同様と考えられ、多くの人々の隠したいことまで暴き立てることになった。
 結局、判決は木戸に終身禁錮を言い渡したが、のち保釈、以後木戸は政治から一切手を引き、昭和52年まで存命した。同日記は岡義武をはじめとする木戸日記研究会の面々が木戸の許可を受けて東京大学出版会を通じて出版した。

宮中某重大事件」(きゅうちゅう−ぼう−じゅうだいじけん)

 原内閣時代の大正十年、大正天皇の皇太子、廸宮裕仁親王(摂政宮)の妃に内定していた久邇宮良子の血統に、島津家から入った色盲の系統ありとして、元老山縣有朋を中心とする勢力が久邇宮家に内定辞退を迫り、久邇宮家は杉浦重剛頭山満など右翼や、島津家およびその息の掛かった薩派と結んでこれに抵抗。世間には「宮中某重大事件」として流布され、ついに宮内省と内務省が共同で「婚礼に関して特段の変更なし」と声明する事態にまで発展した事件。
 この事件によって、それまで官界・政界・宮中に渡って絶大な発言権を保有していた山縣の威信は低下し、枢密院議長を辞任、栄爵を拝辞するまでに追い込まれた。
 山縣は、「俺は勤王に出て勤王に討ち死にした」と興奮して語っていたという。

協力内閣運動」(きょうりょく−ないかく−うんどう)

 満洲事変前後から政界ではじまった、政友会・民政党が協力することによって協力内閣(挙国内閣)を組閣し、軍部独走と外交緊迫の事態に対処しようとする動きのこと。
 これは第二次若槻内閣の内相・安達謙蔵が主唱していたもので、安達はかねがね、
なんとか政機の転換を図れ。このままではとても押してゆけない。自分は非常に危険だと思う。それにはやはり犬養(毅・政友会)総裁を首班にして我々がたすける、ということで行きたいと思う
 と語っていた。当初の案では、若槻首相・幣原外相を辞めさせて、安達首班、犬養副総理、という形が構想されたが、これではあまりに陰謀的に解されるいうことで、安達の言う、若槻内閣が総辞職してそのあとに犬養を首班とする連立内閣組閣の構想に落ち着いたものと見える。
 若槻もこれに賛同しかけていた。のちに若槻は井上準之助蔵相が緊縮財政の立場から、幣原喜重郎蔵相が協調外交の立場から、それぞれ政友会との連立に反対したためにこれを拒否するのだが、安達はこの時点での若槻の逡巡に乗じて、工作を進行させていった。
 十一月四日、安達は、
どうしても連立でやって行きたいから、軍部の諒解を求めて、民政党と政友会を一緒にさせたらいいと思う。どうかこれは極秘にしておいてくれ
 と、原田熊雄に語った。さて、その相手の政友会でも、政民連携に話がまとまっていたわけではない。
 幹事長の森恪政友会単独でなくては承知しないと言い、犬養健も、党内強硬派を抑えるためには「やはり単独内閣で行かなければいかん」と言っていたが、鳩山一郎久原房之助などの政友会領袖たちの一部には、「連立でいい」という動きもあり、また、連立内閣首班には宇垣(一成、陸軍大将)をだそうという動きもあり、統制はまったくとれていなかった。
 十一月十一日頃には、協力内閣運動はますます混乱してきた。犬養首班案、宇垣首班案に加え、山本達雄首班案、平沼騏一郎首班案、斎藤実首班案などが泡沫のように浮かんでは消えた。政局は不安定になってきた。
 しかし、この頃には先述のように若槻首相自身の案が、このままの内閣でやっていくということに決まり、協力内閣運動を拒否するようになっていた。ところが、安達内相は十一月中旬に行われた大演習に供奉して帰ってきたその日の内に、
時局重大である故に、もし国民の信念と決意とを示す上において、政党の協力を基礎とする国民内閣を必要とする場合が生じたならば、いつでもこれに応ずる
 と声明した。事態は一挙に紛糾した。安達は井上蔵相を説いたが、
「絶対に駄目だ。考える余地が全然無い」
 と断られ、久原房之助など政友会の連立派も蠢動したが、若槻など閣僚は内閣維持を確認しており、いまさら協力内閣を組閣する意志は毛頭なかった。若槻はこうして安達に翻意をうながしたが、安達は「相談しなければならないから・・・・」と言って、自宅に引きこもったまま閣議に出席しない日が続いた。総理に閣僚を辞めさせる権限はなく、辞職を待たねばならぬから、ここに若槻内閣は停頓した。
 十二月十一日、協力内閣運動が生んだ閣内不一致で、若槻内閣は倒れた。

桐工作」(きり−こうさく)

 日中戦争打開のために、極秘裡で昭和十四(1939)年からはじまっていた和平工作。失敗に帰した。
 汪精衛工作は、汪の地盤と見られていた東南諸軍の呼応が無く、結局日本占領地下での政権樹立という方針に転換したとき、汪らはこの政権が日本の傀儡となるのではないかという強い危惧を抱いたが、同時に、日本にとって期待する全面和平への障害となるか、促進になるのか、疑問でもあった。
 結局、工作を推進していた今井武夫大佐は、汪政権の樹立に力を尽くすと同時に蒋介石=重慶政権との和平こそが最終的な日中和平に繋がると見て、昭和十四(1939)年十二月末、蒋介石夫人宋美齢の弟・宋子良なる男との接触を開始した。
 翌年の宋との会談で、正式な和平会議の前提を論議する、日中両国私的使節による予備会談を持つことに決定。今井はこれを閑院宮参謀総長畑俊六陸相に報告し、さらに天皇へ上奏がなされた。参謀本部と陸軍省は、この工作を「桐工作」と命名し、宋子良の提議通り予備会談を開催し、臼井茂樹大佐、今井武夫大佐、鈴木卓尓中佐らを代表とした。
 会談は香港でおこなわれたが、満州国承認問題をめぐって揉めにもめ、正式回答はもちこされた(そのために、汪精衛政権は南京還都式を延期せざるを得なくなった)。宋子良はこの後四月、ようやく重慶政府の成案を持参してふたたび香港に至り、六月に再度会談が廈門でもたれた。日本側は、汪精衛・蒋介石政府の合作を日本が仲介すること、蒋介石・汪精衛・板垣征四郎の会談を要求したが、宋は、蒋の出席はむずかしいと言い、場所は長沙を指定した。
 ところが、七月末、重慶政府からもたらされた回答は、一挙に工作を挫折に導くものであった。
 汪・蒋合作に関し、日本は口出しせぬ事などをはじめとして、近衛第一次声明(「国民政府を対手とせず」)などを回答してきたのである。また、日本側においても政変あり、米内光政内閣が更迭されて第二次近衛文麿内閣が成立、新陸相東條英機は桐工作に冷淡であった。そして、実はこの宋子良という男の素性すら、明確ではなかったのである。
 そして、九月、宋(と名乗る男)は、重慶政府内で懸案となっているのは満州国承認と日本軍の駐兵問題で、
「懸案の二件は日華和平実現の癌なれば、日本側にて譲歩する以外、和平実現の見込みなし」
 と断言し、九月二十七日、支那派遣軍は桐工作を中止するに至った。

 なお、この「宋子良」なる男は、今井武夫によると、後に1945年六月、上海憲兵隊に身柄を拘束された曾広という男であった。彼は、抗日派蒋介石系の特務機関・藍衣社の幹部であったという。

勤王まことむすび」(きんのう−まことむすび)

 昭和戦前期に存在した国家主義団体。
 昭和八(1933)年七月、要人暗殺計画が露見、いわゆる神兵隊事件が発覚してその首謀者等は一斉に捕縛された。神兵隊の構成員は前田虎雄を首領とする黒龍社系の右翼活動家たちであったが、神兵隊員は公判中に分裂、その一派である天野辰夫らは公判後に井上昭血盟団の井上日召)の盟友である本間憲一郎と結び、昭和十四年三月、勤王まことむすびが結成された。その綱領は政治運動・宗教運動・右翼運動を排し、「吾は日本人なり」を標榜した。機関誌「まことむすび」は約一万部発行されていたという。のち、湯浅倉平内大臣平沼騏一郎国務相暗殺未遂事件を起こし、激しい政府攻撃、非難を「まことむすび」紙面で行った。その結果昭和十八(1943)年十月、天野らは逮捕。結社取消処分となって消滅した。

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