侍従長


徳大寺実則 1871.8.4-1877.8.29 元堂上公家 宮内卿
河瀬真孝 1871.9.20-1873.9.30 元堂上公家
東久世通禧 1871.10.15-1877.8.29 元堂上公家
山口正定 1878.12.24-1884.3.22 軍人・海軍中佐
米田虎雄 1878.12.24-1884.3.22 軍人・陸軍中佐
徳大寺実則 1884.3.21-1912.8.13 侯爵・公爵 内大臣
波多野敬直 1912.7.30-1912.8.13 男爵 東宮大夫
桂太郎 1912.8.13-1912.12.21 公爵・陸軍大将 内大臣
鷹司煕通 1912.12.21-1918.5.15 公爵・陸軍少将
正親町実正 1918.5.27-1922.3.22 伯爵
徳川達孝 1922.3.22-1927.3.3 伯爵
珍田捨己 1927.3.3-1929.1.16 外交官・伯爵 枢密顧問官
鈴木貫太郎 1929.1.22-1936.11.20 海軍大将 枢密顧問官
百武三郎 1936.11.20-1944.8.29 海軍大将
藤田尚徳 1944.8.29-1946.5.3 海軍大将 公職追放
大金益次郎 1946.5.3-1948.6.5 宮内次官
三谷隆信 1948.6.5-1965.3.30 学習院次長
稲田周一 1965.3.30-1969.9.16 侍従次長
入江相政 1969.9.16-1985.9.29 侍従次長 在職中逝去
徳川義寛 1985.10.1-1987.4.13 侍従次長
山本悟 1987.4.13-1996.12.12 宮内庁次長
渡辺允 1996.12.12-現在 式部官長

 明治四(1871)年に天皇の側近奉仕を目的として新設された。旧堂上公家の人々である徳大寺河瀬東久世の三名が相次いで任ぜられたが、明治十(1877)年に侍補がおかれて一時廃止された。その翌年十二月再置され、常時奉仕と侍従たちの監督を司り、軍人二名がこれに補された。明治十七(1884)年、側近奉仕者の制度が改変されて宮内省に侍従職が組み入れられることになり、再置の段階では五等官であった侍従長も勅任一等官とされて徳大寺実則がこれに任ぜられた。明治二十一(1888)年に勅任官から親任官へと改編された。
 明治期・大正期には元堂上公家、元諸侯から侍従が任ぜられることが多かったが、昭和に入って元外交官としてパリ講和会議に出席した珍田捨巳や、元海軍大将・軍令部長であった鈴木貫太郎などが任ぜられ、特に昭和天皇と海軍の人々とはそりがあったのか、鈴木が老齢を理由に退官した後も、百武藤田は両名とも後備役の海軍大将が務めた。

 さて大戦後の昭和二十二(1947)年五月、内大臣府もなくなり、まもなく侍従武官府も廃せられ、ほぼ侍従職が唯一の側近奉仕者となった。大金益次郎は元内務官僚であったが、宮内官僚に転じ、侍従長となったが、天皇の全国巡幸に従う一方で宮内省番記者たちに侍従長への直接取材を許可し、
「これまで陛下を床の間扱いにしてきたのは、われわれ側近が悪かったのだ」
 と発言して宮中の自由化を印象づけた。その後、宮内府の刷新を理由に大金が三谷隆信に交代し、三谷隆信は皇太子(現天皇)の成年式に加冠役を務め、また元外交官として外遊に付き添い、皇室外交を展開していった。
 三谷から稲田周一へ、さらに入江相政に侍従長職は移った。入江は父・為守の二代にわたって宮中に奉仕し、その一方で「侍従とパイプ」、「天皇さまの還暦」をはじめとする著書で「皇室の語り部」として存在した。皇室外交は三谷によってその緒が開かれ、入江によって完成された観がある。入江侍従長は天皇自身の訪欧の際にも付き従い、また各国元首が皇居に訪れた。
 しかしその入江も、老齢を理由に退官を申し出た。天皇は彼を惜しんだが、仕方なく十月一日をもって退官させることにした。ところが入江は九月二十九日、退官まであと一日を余すところで急死する。天皇の驚きは、いかばかりであったろう。その後は侍従職から徳川義寛が昇格。現在の渡辺允侍従長は式部官長からの昇任である。

 内大臣が廃止された戦後、侍従長は侍従次長、侍従、女官長、女官、侍医長、侍医などを統括する宮中の長として、重きを為している。戦後の侍従事情に関しては、朝日新聞社刊入江相政日記に詳しい。

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