内務省
 −政府の中心−

 第二次護憲運動の終息後、清浦内閣が退陣して護憲三派による連立内閣が組閣されるに当たり、政友会の高橋是清総裁が内務、外務、大蔵のいずれかの閣僚の椅子を求めた際、仲介役に立った内大臣・平田東助伯爵は、「内務は政府の中心、大蔵は政策の中心であるからこの閣僚は憲政会から出す」と語って、政友会の要請を突っぱねた。その内務省の創設から廃止までの七十余年間に関して多少、ふれてみたいと思う。

1)内務省草創期−明治初期内務省

大久保利通 1873.11.29-1874.02.14 参議 太政官
木戸孝允 1874.02.14-1874.04.27 参議・文部卿 太政官
大久保利通 1874.04.27-1874.08.02 参議 太政官
伊藤博文 1874.08.02-1874.11.28 参議・工部卿 太政官
大久保利通 1874.11.28-1878.05.14 参議 太政官
伊藤博文 1878.05.15-1880.02.28 参議 太政官
松方正義 1880.02.28-1881.10.21 太政官
山田顕義 1881.10.21-1883.12.12 参議・陸軍中将 太政官
山縣有朋 1883.12.12-1885.12.22 参議・陸軍中将、伯爵 太政官
 
 内務省は、大久保利通によってその根幹が作られたと言っていい。元々維新政府はその当時、民部省と大蔵省の権限が重複して問題が発生していたが、民部省が廃止され、大蔵省が内政まで一手に司ることになったが、これも制度としては問題が多かった。
 そこで、征韓論争で政府の第一人者となった大久保利通を中心として内務省設立の建言がなされ、明治六年十一月十日の太政官布告によって内務省が設立され、翌年一月の太政官布告によって機能が開始した。その権能は大方、大蔵省から移管されたが、警察力を司法省から引き継ぎ、地理局などの外局を工部省から移した。特に警察力をつかさどる警保局と、内政活発化を図る勧業局が当時の内務省の両輪として活動した。
 明治十一年、大久保が東京紀尾井坂で横死したのちも、内務省の基礎は揺るがず、各省庁との間に外局を移管しあったりしてその体裁を整えていった。明治十四年、従来内務省の外局である駅逓局、山林局などを合して農商務省が設立されるに到り、内務省の性格はがらりと変わり、明治十八年の改組では警保局を中心とする警察部門と、県治局・戸籍局を中心とする地方統治部門の二本立てで内務省が進んでいくことがほぼ決定された。

2)内閣制度発足−明治中後期内務省

山縣有朋 1885.12.22-1889.12.24 陸軍中将、伯爵 第一次伊藤・黒田内閣
松方正義 1888.12.03-1889.10.03 大蔵大臣(兼任) 黒田内閣
山縣有朋 1889.12.24-1890.05.17 内閣総理大臣(兼任) 第一次山縣内閣
西郷従道 1890.05.17-1891.06.01 陸軍中将、伯爵 第一次山縣・松方内閣
品川弥二郎 1891.06.01-1892.03.11 子爵 第一次松方内閣
副島種臣 1892.03.11-1892.06.08 伯爵 第一次松方内閣
松方正義 1892.06.08-1892.07.14 内閣総理大臣(兼任) 第一次松方内閣
河野敏鎌 1892.07.14-1892.08.08 第一次松方内閣
井上 馨 1892.08.08-1894.10.15 伯爵 第二次伊藤内閣
野村 靖 1894.10.15-1896.02.03 子爵 第二次伊藤内閣
芳川顕正 1896.02.03-1896.04.14 司法大臣(兼任) 第二次伊藤内閣
板垣退助 1896.04.14-1896.09.20 伯爵(自由党) 第二次伊藤・松方内閣
樺山資紀 1896.09.20-1898.01.12 海軍大将、伯爵 第二次松方内閣
芳川顕正 1898.01.12-1898.06.30 子爵 第三次伊藤内閣
板垣退助 1898.06.30-1898.11.08 伯爵(憲政党) 第一次大隈内閣
西郷従道 1898.11.08-1900.10.19 元帥・海軍大将、侯爵 第二次山縣内閣
末松謙澄 1900.10.19-1901.06.02 男爵・貴院議員(政友会) 第四次伊藤内閣
内海忠勝 1901.06.02-1903.07.15 男爵 第一次桂内閣
児玉源太郎 1903.07.15-1903.10.12 陸軍中将、男爵 第一次桂内閣
桂 太郎 1903.10.12-1904.02.20 内閣総理大臣(兼任) 第一次桂内閣
芳川顕正 1904.02.20-1905.09.16 子爵、貴院議員(研究会) 第一次桂内閣
清浦奎吾 1905.09.16-1906.01.07 農商務大臣(兼任) 第一次桂内閣
原 敬 1906.01.07-1908.07.14 衆院議員(政友会) 第一次西園寺内閣
平田東助 1908.07.14-1911.08.30 男爵、貴院議員(茶話会) 第二次桂内閣
原 敬 1911.8.30-1912.12.21 衆院議員(政友会) 第二次西園寺内閣
 内閣制度発足後、機構整理は一層進んだ。明治十八年、戸籍局を総務局の課に格下げし、明治二十四年、総務・地理・会計・図書四局を廃して庶務局とした。また内閣直属の鉄道庁を内務大臣直属官庁とした。三十一年には県治局が地方局と名称を改め、三十三年、社寺局は宗教局となった。

 自由民権運動の一つの果実として、議院内閣制度が創立されたが、内務省はその民権運動の志士たちにとってまさに宿敵であった。警察力によって運動を取り締まり、時には品川弥二郎内相のように選挙に干渉することもあった。しかし、地方知事や地方警察を指揮し、任免する権限や選挙管理の権限もまた、地方局を持つ内務省にあるため、内務省とは味方に付ければこれほど有利なものはなかった。
 やがて内務大臣の椅子はわが党の勢力拡充を図る政党政治家の狙うところとなる。
 これを最初に手掛けたのが政友会の
原敬であった。原内相は、「新進抜擢」「老朽淘汰」の名の下に、藩閥系知事を退けていわゆる帝大出の学士官僚を据えた。原内相のもと、地方局長となった床次竹二郎、警保局長となった古賀廉造(司法省から牛蒡抜き)、神社局長となった水野錬太郎などが有名であり、特に床次、水野はやがて原の勧めで政友会に入党し、重要な領袖となっている。また、各府県知事にも親政友派の人々を据え、政友会の勢力扶植をはかった。
 このように、この当時から内務大臣のポストを手に入れることにより、党利党勢をひろめることが行われていた。やがて政党内閣が盛んになるに連れ、一層内務のポストは羨望の的となる。

3)デモクラシーの時代−大正期内務省

大浦兼武 1912.12.21-1913.02.20 子爵、貴院議員(茶話会) 第三次桂内閣
原 敬 1913.02.20-1914.04.16 衆院議員(政友会) 第一次山本内閣
大隈重信 1914.04.16-1915.01.07 内閣総理大臣(兼任) 第二次大隈内閣
大浦兼武 1915.01.07-1915.07.30 子爵、貴院議員(茶話会) 第二次大隈内閣
大隈重信 1915.07.30-1915.08.10 内閣総理大臣(兼任) 第二次大隈内閣
一木喜徳郎 1915.08.10-1916.10.09 貴院議員 第二次大隈内閣
後藤新平 1916.10.09-1917.04.23 男爵、貴院議員(茶話会) 寺内内閣
水野錬太郎 1917.04.23-1917.09.29 貴院議員(交友倶楽部) 寺内内閣
床次竹二郎 1917.09.29-1921.06.12 衆院議員(政友会) 原・高橋内閣
水野錬太郎 1921.06.12-1922.09.02 貴院議員(交友倶楽部) 加藤友三郎内閣
後藤新平 1923.09.02-1924.01.07 子爵、貴院議員(茶話会) 第二次山本内閣
水野錬太郎 1924.01.07-1924.06.11 貴院議員(交友倶楽部) 清浦内閣
若槻礼次郎 1924.06.11-1926.01.30 貴院議員(茶話会、憲政会) 第一・二次加藤内閣
若槻礼次郎 1926.01.30-1926.06.03 内閣総理大臣(兼任) 第一次若槻内閣
濱口雄幸 1926.06.03-1927.04.20 衆院議員(憲政会) 第一次若槻内閣
 原内相の勢力扶植によって、政党の勢力扶植にとって内務省が必要であることが判明した。また、官僚たちの間にも、藩閥を重んじる旧勢力よりも、政党に接触することによって出世をはかろうと考える風潮が強まってきた。原だけでなくのちの政党政治家たちも、これをできる限り受け入れ、官僚のノウハウを貪欲に吸収し、政党の構造を教えることに躊躇はなかった。内務省が大蔵省などと比べ、「(政党)色が付かなければ出世は難しい」ところであったのは、どうも間違いがないようである。

 大正はデモクラシーの時代であるとともに、労働運動が勃興し、選挙法が改正される一方で治安維持法が成立した時代でもある。第一次加藤高明=護憲三派内閣成立までに労働運動対策の社会局がつくられ、宗教局が文部省主管へと移された。朝鮮・台湾・樺太の植民地行政は大正六年まで内務省が所轄するなど、めまぐるしい機構整理が行われた。
 そして治安維持法の改正に伴い、明治末年から拡充されてきた悪名高き特別高等警察(特高)が飛躍的にその機能・人員を充実させはじめた。

4)政党政治の隆替−昭和初期内務省

鈴木喜三郎 1927.04.20-1928.05.04 貴院議員(研究会、政友会) 田中義一内閣
田中義一 1928.05.04-1928.05.23 内閣総理大臣(兼任) 田中義一内閣
望月圭介 1928.05.23-1929.07.02 衆院議員(政友会) 田中義一内閣
安達謙蔵 1929.07.02-1931.12.13 衆院議員(民政党) 浜口・第二次若槻
中橋徳五郎 1931.12.13-1932.03.16 衆院議員(政友会) 犬養内閣
犬養毅 1932.03.16-1932.03.25 内閣総理大臣(兼任) 犬養内閣
鈴木喜三郎 1932.03.25-1932.05.26 衆院議員(政友会) 犬養内閣
 政党政治の時代が開幕すると、政権交代のたびに内務省の各局長、地方間ポストがごっそり入れ替わる慣例が積み上げられていく。政党政治の時代であるからこそ、選挙管理をする内務省の存在は重要であったし、知事、府県警察などの地方官にわが党親派の人物を据えておくことは選挙に非常に有効で有利な方法であった。
 これを大々的に行ったのが、昭和まもなく成立した田中義一=政友会内閣の内相・
鈴木喜三郎である。鈴木は本来司法畑を歩いてきた人物で、その人脈は国本社総帥の平沼騏一郎に直結すると言われていたが、彼は内務大臣の椅子を得ると、民政党系の局長、地方官を軒並み更迭・左遷し、代わりに中央には司法省から引張ってきた人々を、地方官には親政友会の人々をそれぞれ任命した。鈴木が「腕の喜三郎」と呼ばれる所以であり、天皇も牧野伸顕内大臣に対し、政党による党派的人事の憂慮を洩らしたほどである。
 しかし、天皇の憂慮にも関わらず、この以後も濱口=民政党内閣犬養=政友会内閣のもとで党派的人事は行われた。この源平交代のような人事にピリオドが打たれるのは、五・一五事件の銃声によってである。

5)挙国体制の進展、新官僚、新々官僚の時代−戦前期内務省

山本達雄 1932.05.26-1934.07.08 貴院議員(交友倶楽部、民政党) 斎藤内閣
後藤文夫 1934.07.08-1936.03.09 貴院議員 岡田内閣
潮恵之輔 1936.03.09-1937.02.02 貴院議員(研究会) 広田内閣
河原田稼吉 1937.02.02-1937.06.04 林内閣
馬場^一 1937.06.04-1937.12.14 貴院議員(研究会) 第一次近衛内閣
末次信正 1937.12.14-1939.01.05 海軍大将 第一次近衛内閣
木戸幸一 1939.01.05-1939.08.30 侯爵、貴院議員(火曜会) 平沼内閣
小原直 1939.08.30-1940.01.16 貴院議員(同和会) 阿部内閣
児玉秀雄 1940.01.16-1940.07.22 伯爵、貴院議員(研究会) 米内内閣
安井英二 1940.07.22-1940.12.21 貴院議員 第二次近衛内閣
平沼騏一郎 1940.12.21-1941.07.18 男爵 第二次近衛内閣
田辺晴通 1941.07.18-1941.10.18 貴院議員(無所属倶楽部) 第三次近衛内閣
 斎藤挙国一致内閣時代、内務省を中心に官僚が陽明学者・安岡正篤や国家改造論者で革命家・北一輝、またそれまで目の敵としていた社会主義・マルクス主義までも取り入れて幅広く活動をはじめた。さらに、岡田内閣時代、内務大臣には「新官僚」の希望の星、後藤文夫が任命される一方、内閣直属機関として内閣調査局が設けられ、その初代長官にかつての内務官僚・吉田茂(戦後の外交官首相とは別人)が登庸された。調査局には農林官僚・和田博雄、逓信官僚・奥村喜和男などのほか、陸軍大佐・鈴木貞一などの各省の俊英たちが集められた。その中では右翼も左翼も、天皇親政主義もマルクス主義も共存していたのである。
 その中で、内務省の地位低下は免れない。かつては内務大臣の椅子を取り合って相争った政友会・民政党も、二・二六事件の後は衰退の一途を辿り、内務省本流である地方局は調査局(のち企画院)の進める総力戦体制の名の下にどんどん職域をうばわれてしまう。昭和十三年には内務省衛生局・社会局を独立させて厚生省が成立し、同十五年には神社局が外局の神祇院として拡充されたが、結局内務省の中で羽振りがいいのは警察権を握る警保局のみ、という状況を迎える。この巻き返しに出たのが、大政翼賛会の地方行政組織化である。当初は日本における挙国一致政党と目されていた翼賛会も、近衛総裁の消極姿勢によって次第次第に骨抜きとなり、最後には内務省の地方組織を強固ならしめるための肥しになってしまったのである。
 このような環境の中で、ついに対米戦争は開戦する。

6)太平洋戦争開戦、革新官僚の時代−昭和戦中期内務省

東條英機 1941.10.18-1942.02.17 内閣総理大臣(兼任) 東條内閣
湯沢三千男 1942.02.17-1943.04.20 東條内閣
安藤紀三郎 1943.04.20-1944.07.22 陸軍中将 東條内閣
大達茂雄 1944.07.22-1945.04.07 小磯内閣
安倍源基 1945.04.07-1945.08.17 鈴木貫太郎内閣
 戦時体制を動かしたのは、「統制好き」の革新官僚たちと陸軍の軍人たちであったが、東條内閣時には、東條首相は陸相、参謀総長に当初は内相まで兼ね、絶大な権力を有した。内務省自体も戦時体制に入っての機構改革が行われ、計画局、土木局を解体して防空局と国土局に改組。また拓務省の廃止に伴い、内務官僚の多くが占領地の統治に加わった。
 しかし、戦局日に日に悪化し、ついに昭和二十年夏、聖断、降伏。マッカーサー率いる占領軍がおりたった。それは内務省の弔鐘といっていいであろう。

6)内務省解体−昭和戦後期内務省

山崎巌 1945.08.17-1945.10.09 東久邇宮内閣
堀切善次郎 1945.10.09-1946.01.13 貴院議員(研究会) 幣原内閣
三土忠造 1946.01.13-1946.05.22 貴院議員(研究会) 幣原内閣
大村清一 1946.05.22-1947.01.31 貴院議員 第一次吉田内閣
植原悦二郎 1947.01.31-1947.05.24 衆院議員(自由党) 第一次吉田内閣
片山哲 1947.05.24-1947.06.01 内閣総理大臣(臨時代理) 片山内閣
木村小左衛門 1947.06.01-1947.12.31 衆院議員(民主党) 片山内閣
 GHQは戦争中から練りに練った日本国内の改革策を次々と打ち出し、それは内務省に強い衝撃を与えた。特に東久邇宮内閣を倒壊させるに到った政治犯・思想犯の釈放、政治警察の廃止などを主眼とする指令などが内務省の一方の存在理由に与えた衝撃は少なくない。また、GHQは昭和二十二年、地方自治を推進する官庁が確立すれば、内務省の存在意義はないとして、解体を要求。片山社会党内閣はこれを受諾し、内務省は同年末を最後に姿を消した。
 現在、内務省の権限のうち地方局は自治省へ、国土局の管掌は建設省へ、警保局の機能は法務省と国家公安委員会へ、それぞれ移管された形となっているが、知事民選となった現在、かつての内務省の面影はどの省庁にもない。なお、かつての内務省庁舎はさきごろまで自治省が入っており、現在建て替え中である。

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