第十九代:原敬内閣
(任:1918/大正七.9.29-1921/大正十.11.13)


原敬首相(在任:1918.9.29-1921.11.13)

総理大臣 原 敬 大正7.9.29-大正10.11.4、暗殺 政友会総裁
内田康哉 大正10.11.4-大正10.11.13、暫定内閣 政友会
内務大臣 床次竹次郎 政友会
外務大臣 内田康哉 政友会
大蔵大臣 高橋是清 政友会
司法大臣 原 敬 大正7.9.29-大正9.5.15 政友会総裁
大木遠吉 大正9.5.15-大正10.11.13 貴族院
文部大臣 中橋徳五郎 政友会
農商務大臣 山本達雄 政友会
逓信大臣 野田卯太郎 政友会
陸軍大臣 田中義一 大正7.9.29-大正10.6.9 長州派
山梨半造 大正10.6.9-大正10.11.13
海軍大臣 加藤友三郎
鉄道大臣 元田 肇 大正9.5.15、鉄道省設置 政友会
内閣書記官長 高橋光威 政友会
法制局長官 横田千之助 政友会

成立経緯

 寺内正毅は、山縣の直系ではなかったためにしばしば元老の意志を無視して独断で事態を進めていく傾向があったが、かといって山縣は寺内内閣を引っ込ませるつもりはなかった。寺内を辞めさせれば、その後継となり得るような人物を物色しなければならない。山縣の見るところ、手持ちの平田東助も清浦奎吾も田健次郎も伊東巳代治も、どれも今ひとつ欠けるものがあった。
 そこで山縣が目を付けたのは西園寺であった。京都閑居中の西園寺に会った山縣は、殆ど激論的に執拗に西園寺の起つべきことを勧め、西園寺は窮したが、
「仰せごもっともである、けれども遣れない」
 と拒絶した。田健次郎の子飼いで、山縣の情報収集者としての役割を担っていた松本剛吉は以上の経過を山縣から聞いた後、
「然からば原総裁は如何でござりませうか」
 とおそるおそる反問した。山縣はここで返事をしなかった。松本はその「政治日誌」のなかで、
「ここで私は山縣公の意中の人は原総裁であると電光石火的に感じた」
と記している。そして翌日、松本はふたたび山縣に原をすすめると、山縣は、
「さうさ、原でもよかろう」
 だが山縣はそれでも純然たる政党総裁に政権を渡すことは嫌であったから、西園寺が参内したときに不意打ちに大命を降下させたが、西園寺はこれを曲げて拝辞。ついに原に大命が降下することとなった。原は帰宅したところをジャーナリストの前田蓮山につかまえられた。「決まりましたか」と聞かれ、「決まったよ」と応えた。そして、その理由は、
「米騒動だな。あの時若しわが党が煽動でもしてみ給へ、大変なことになっていたに違いないよ。官僚内閣の無力なことが、山縣にも良く呑み込めたのだ」
 その内閣は、「官僚派、貴族院からも数名迎えた妥協的内閣」という大方の予想を裏切って、陸海軍をのぞく全閣僚は政友会から迎えられ、純粋な政友会内閣がここに成立した。

経過

 原内閣には大戦末期の大問題が重畳して押し寄せた。目前にあるのはシベリアに駐兵する日本陸軍六万の去就であり、山東半島問題であり、第一次大戦の戦後処理問題であった。内政では、普通選挙問題であり、小選挙区制導入問題、米騒動問題、労働運動の勃興であった。

 原内閣はこの輻輳した大問題の群を手際よく整理していった。まず第一次大戦のパリ講和会議に対しては西園寺公望全権のほか、牧野伸顕、珍田捨巳などが全権公使として派遣された。

 つづいて在シベリア日本陸軍の処遇については、すでに当初の目的であったチェコ・スロヴァキア兵団の救出も成功した今、長期間にわたって駐兵をつづけるのは国内外政上共に得策とは言えない、という原首相、内田康哉外相、田中義一陸相の一致によって撤兵が実現していった。兵力三万、馬匹五千などが陸続として故国に帰る中、突発したのは尼港(ニコライエフスク)事件であった。赤軍と日本陸軍が沿海州ニコライエフスクにおいて衝突、またロシアに成立したソヴィエト政権は、一種の亡命政権であるオムスク政権を攻撃して潰走せしめた。参謀本部はこの状況において硬化し、出兵継続を主張する上原勇作総長と、大部分撤兵を唱導する田中陸相との間に激烈な対立を醸成した。結局、撤兵主張が通過したが、田中も上原も辞意を表明し、さきに田中陸相が辞任して山梨半造次官が昇格した。

 日華情勢も刻々と変化した。寺内内閣の外交調査会における原総裁が「援段政策」を厳しく批判し、むしろ南北妥協をはかるべきであるとの持論を展開した。原内閣がその方針に従って対華外交を進めていくが、事態は寺内内閣の時と大きく変化しようとしていた。つまり、山東問題に端を発する反日暴動の激化、また段祺瑞の直隷派と安徽派の戦争(安直戦争)が始まり、原内閣はあわてて北京親日派に大規模な梃子入れをせざるをえなくなっていった。南北妥協どころではない、日本は満蒙権益を守るために汲々とせざるを得なくなっていたのである。ここで日本が目を付けたのが、安直戦争においてキャスティング・ヴォートを握った奉天軍閥の張作霖である。日本はこれ以降、急速に張と結束してゆくことになる。

 原と元老の関係はどうだったであろうか。
 山縣は政党を嫌うことおびただしかったが、もはや彼の政治的地平上に原以上の政治手腕を持つ政治家を見いだし得なかった。山縣は政党を嫌いつつも、急速に原に傾倒し、寄り添う。両者の結合が完成したのは明治国家体制の中枢部に機能障害を見いだしたからである。つまり、大正天皇の脳病の進行であった。
 大正天皇はすでに議会開設の勅語を読むことすら困難となり、国務を執るあたわざる状況となっており、摂政設置が避けがたいものとなる。幸いにして、皇太子裕仁親王は壮健であり、帝王の風格に満ちあふれていた。二人は驚喜するが、もうひとつの問題が浮上する。その皇太子の妃となるべき久邇宮良子は島津家の血を引き、その島津家には色盲の系統がある、というのである。
 山縣は久邇宮家に婚約拝辞を勧告したが、久邇宮良子はこれを拒否。このやりとりが東宮御学問所講師・杉浦重剛から右翼に流れ、頭山満など右翼の巨頭や島津家を盟主とする薩派は山縣を激しく攻撃し、山縣はついに栄爵拝辞、枢密院議長を退任する上奏をなした。山縣は敗北し、
「俺は勤王に出て勤王で討ち死にした」
 と興奮憤慨し、原も
「古いかも知らぬが切腹いたす」
 と落涙するありさまであった。ともかく、この問題は予定通り久邇宮良子が天皇家に輿入れすることで決定され、山縣は失脚。原もこのころに右翼から暗殺予告をうけることがしばしばで、二月二十日には遺書をしたためている。現に、のち近衞文麿が西園寺の秘書・原田熊雄に、
「右翼の巨頭の五百三良三が、数日後に原は暗殺されるということを告げに来た」
 と語っている。そしてその原は、まさにその予言の通り、東京駅において近畿政友会大会に出席すべく下阪のおり、転轍手・中田艮一によって刺殺された。短剣は心臓に達し、それが致命傷となったのである。
 山縣はこれを聞き、愕然として涙にくれた。かつて明治国家草創の同僚であった大隈の死去すらその嘆きを減殺することはなかった。こうして二月朔日、山縣も逝去する。最高の権威を持つ元老と、最大の政治力を持った首相がともに死に、その大きな穴を補完しうる後継者はどこにも居なかったとなれば、この時代の再現はもはや不可能であった。

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