第七十一代:鈴木善幸内閣
(任:昭和五十五年/1980.7.17-昭和五十七年/1982.11.27)


鈴木善幸首相(在任:1980.6.12-1982.11.17

総理大臣 鈴木善幸    
外務大臣 伊東正義 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)年5月18日  
園田 直 昭和56(1981)年5月18日-昭和56(1981)年11月30日  
桜内義雄 昭和56(1981)年11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
大蔵大臣 渡辺美智雄    
法務大臣 奥野誠亮 昭和55(1980)年7月17日-昭和56(1981)年11月30日  
坂田道太 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
文部大臣 田中龍夫 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)年11月30日  
小川平二 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
農林大臣 亀岡高夫 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)年11月30日  
田澤吉郎 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
運輸大臣 塩川正十郎 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)年11月30日  
小坂徳三郎 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
建設大臣 斉藤滋与史    
通商産業大臣 田中六助    
厚生大臣 齋藤邦吉 昭和55(1980)年6月12日-昭和55(1980)年9月19日  
園田 直 昭和55(1980)年9月19日-昭和56(1981)年5月18日  
村山達雄 昭和56(1981)年5月18日-昭和56(1981)11月30日  
森下元晴 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
郵政大臣 山内一郎 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)年11月30日  
箕輪 登 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
労働大臣 藤尾正行 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)年11月30日  
初村滝一郎 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
自治大臣 石破二郎 昭和55(1980)年6月12日-昭和55(1980)年12月17日  
我孫子藤吉 昭和55(1980)年12月17日-昭和56(1981)11月30日  
世耕正隆 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
経済企画庁長官 河本敏夫    
行政管理庁長官 中曽根康弘    
北海道開発庁長官 原健三郎 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)年11月30日  
松野幸泰 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
沖縄開発庁長官 中山太郎 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)年11月30日  
田邉國男 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
防衛庁長官 大村襄治 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)年11月30日  
伊藤宗一郎 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
科学技術庁長官 中川一郎    
国家公安委員長 石破二郎 昭和55(1980)年6月12日-昭和55(1980)年12月17日  
我孫子藤吉 昭和55(1980)年12月17日-昭和57(1982)年11月27日  
環境庁長官 鯨岡兵輔 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)年11月30日  
原文兵衛 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
総理府総務長官 中山太郎 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)年11月30日  
田邉國男 昭和56(1981)年11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
総理府総務副長官 佐藤信二 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)11月30日  
福島譲二 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
総理府総務副長官 菅野弘夫 昭和55(1980)年6月12日-昭和56(1981)1月23日  
川村皓章 昭和56(1981)1月23日-昭和56(1981)11月30日  
山地 進 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
内閣官房長官 宮澤喜一    
内閣法制局長官 角田禮次郎    
内閣官房副長官 瓦 力 昭和55(1980)年7月17日-昭和56(1981)11月30日  
池田行彦 昭和56(1981)11月30日-昭和57(1982)年11月27日  
内閣官房副長官 翁 久次郎    

成立過程

 「ハプニング解散」による衆参同日選挙の結果は、自民党の勝利であった。しかし、大平首相はすでに死去し、後継総理総裁の選出を行わなければいけない。
 大平首相の死はすでに発表されていた。政府では、伊東正義官房長官が総理職務を、党では、西村英一副総裁が、総裁職務を代行していた。

 大平後継の模索が、水面下で行われていた。
 後継者を誰にするか、ということも重要だが、それ以上に、後継者の組閣する内閣を本格的な内閣にするか、それとも大平総裁の任期までの暫定内閣とするか、という位置づけの部分も重要であった。
 暫定であれば、大平の盟友の伊東正義官房長官と、長老の西村英一副総裁が有力であろうと思われた。本格政権であれば、宏池会のニューリーダー・宮澤喜一と、佐藤栄作首相後を争った「三角大福中」のうち、未だ総理総裁になっていない中曽根康弘が候補者であると考えられた。
 彼らに対し、吟味を行い、次期総裁として妥当かどうかを判断するのは、田中派、福田派など大派閥である。田中派はロッキード事件の傷が癒えず、総裁候補を出せない。福田派は、大平を死に追いやったハプニング解散の責任があり、こちらも候補擁立ができる周囲の状況ではなかった。そして何より世論は、「ニューリーダー」による政治を求めていた。

 ところが、選挙結果を開けてみると、西村はまさかの落選。伊東は糖尿病と持ち前の謙虚な人柄で固辞した。また、昭和53(1978)年一月の第34回党大会で、「総裁が任期中に欠け、その後任を党大会に代わる両院議員総会で選任した場合、その任期は前任者の残任期間とする」という改正党則に基づいて、今回選任する党総裁は大平暫定とする機運となった。
 吟味の対象となるのは、宮澤、河本、中曽根である。
 宮澤は、元から田中派との関係がよくない。田中角栄は、宮澤を「英語屋」としか認識していなかったし、宮澤のインテリジェンスとプライドは、田中に迎合することを許さなかったであろう。
 中曽根は、田中側近の金丸信や、旧河野派のパトロン小針暦二との関係がよくなかったと言われている。本人は、佐藤栄作後継といわれた五名の最後の一人でもあり、「角さんが推してくれる」と最後まで確信を持っていたといわれる(「渡辺恒雄回顧録」)。中曽根は、今回の暫定で甘んじるつもりはなく、暫定後、本格政権を射程に入れていたであろう。
 河本は、「三木武夫の後継者として派閥を継承しつつあり、その日大人脈を生かして、大量の系列党員の入党を進めていると言われ、総裁予備選挙となれば有利だと思われていた」(「自民党 政権党の38年」北岡伸一」。

 以上の面々が、それぞれの思惑を抱いていたわけであるが、田中角栄にせよ、今回発言の余地を与えられなかった福田赳夫にせよ、今回選ぶ人物に長くやらせるつもりはなかった。あくまでも「暫定」は「暫定」であり、大平の残任期間をまとめあげて次に渡す人物以上ではありえなかった。伊藤昌哉は「田中角栄の手が激しく動いているのを感じた」と語っている。
 こうして、田中は大平の腹心であった鈴木善幸をたきつけるにいたる。もともと宏池会は、宮澤支持で一本化されていたわけではない。大平・前尾の確執から、その系列も未だにしっくりいかないものがあった。鈴木善幸の働きかけに対して斎藤邦吉田中六助が賛同して、宏池会の新会長に鈴木が収まったのが大きかった。
 田中派が宏池会鈴木派と提携し、福田派がそれに乗った。最後まで「角さんが推してくれる」と言いつのった中曽根も、瀬島龍三の説得で鈴木に協力した。かくして7月15日、西村副総裁は鈴木総裁を推挙した。

経過

 

 戻る