第七十代:第二次大平正芳内閣
(任:昭和五十四年/1979.11.9-昭和五十五年/1980.7.17)
大平正芳首相(任:1979.11.9-1980.6.12)
| 総理大臣 | 大平正芳 | 自由民主党総裁、大平派領袖。昭和55年6月12日、在任のまま死去 | |
| 伊東正義 | 6.12-7.17首相臨時代理 | ||
| 外務大臣 | 大来佐武郎 | 非議員閣僚 | |
| 大蔵大臣 | 竹下 登 | 田中派 | |
| 法務大臣 | 倉石忠雄 | 政調会長から法相へスライド | |
| 文部大臣 | 大平正芳 | 昭和54.11.9-昭和54.11.20 | 臨時代理 |
| 谷垣専一 | 昭和54.11.20-昭和55.7.17 | ||
| 農林大臣 | 武藤嘉文 | ||
| 運輸大臣 | 地崎宇三郎 | ||
| 建設大臣 | 渡辺栄一 | ||
| 通商産業大臣 | 佐々木義武 | ||
| 厚生大臣 | 野呂恭一 | ||
| 郵政大臣 | 大西正男 | ||
| 労働大臣 | 藤波孝生 | ||
| 自治大臣 | 後藤田正晴 | 田中派 | |
| 経済企画庁長官 | 正示啓次郎 | ||
| 行政管理庁長官 | 宇野宗佑 | ||
| 北海道開発庁長官 | 後藤田正晴 | ||
| 沖縄開発庁長官 | 小渕恵三 | ||
| 防衛庁長官 | 久保田円次 | 昭和54.11.9-昭和55.2.4 | |
| 細田吉蔵 | 昭和55.2.4-昭和55.7.17 | ||
| 科学技術庁長官 | 長田裕二 | ||
| 国家公安委員長 | 後藤田正晴 | ||
| 環境庁長官 | 土屋義彦 | ||
| 総理府総務長官 | 小渕恵三 | ||
| 総理府総務副長官 | 愛野興一郎 | ||
| 総理府総務副長官 | 菅野弘夫 | 昭和54.11.10-昭和55.7.17 | |
| 内閣官房長官 | 伊東正義 | 内閣法九条による代行を指名される(いわゆる副総理)。 | |
| 内閣法制局長官 | 角野礼次郎 | ||
| 内閣官房副長官 | 加藤紘一 | ||
| 内閣官房副長官 | 翁 久次郎 |
成立過程
大平内閣による解散総選挙は、大平首相が掲げた一般消費税導入の政策課題が争点となり、野党だけでなくマスコミ、党内反主流派もこれを一斉に非難攻撃するに到った。こうなっては、大平に近い議員たちも、「これでは選挙が戦えない」として、消費税導入政策をとりさげるよう首相に迫り、ついに、撤回せざるを得なくなった。
果たせるかな、選挙は惨敗であった。自民党は1議席の減であった。1議席とはいえ、過半数の議席を確保し得なかったのは大きかった。また、選挙前までの好トレンドでありながら喫した敗北であり、好トレンドの上に立って決定した議席目標(321名を全国で擁立し、安定過半数獲得を目標とした)だけに、大平の責任は免れ得ないと考えられた。なお、共産、民社、公明の各党は議席を伸ばした(社会、新自由クは減であった)。無所属10名の追加公認によって、自民党は何とか過半数を確保するも、大平の唱える一般消費税導入政策が大きな敗因であったことは疑いない事実で、大平内閣の退陣が取りざたされた。しかし、10月8日、大平首相は敗北を認める一方で、「この結果を踏まえた上で、・・・これからの施政の上で生かしていく」と述べて、引き続き政権担当をしていくと表明した。
ここで、党内反主流派は大平に対し、牙をむいた。
最終的に衆院で過半数を獲得し、安定多数を得たことはこの際問題ではない。目標に対し大幅な未達であり、その原因の大なる部分が大平の消費税導入政策にある以上、きちんと責任をとってもらう、というのがその論旨であった。
最初に火の手をあげたのは、中川一郎らである。「重大な結果を招いた大平総裁の責任は免れることはできない」と述べ、大平の退陣を促した。三木武夫元首相は、「国民の納得のいく形でけじめをつけることが必要」と話した。中曽根元幹事長は、少数の委員による調停機関を設けて総裁は彼らに進退を委ね、調停機関が大平に再登板を求めるならそれは受け入れることができる、と案を示した。
最後に大平と会談したのは、福田赳夫前首相であった。福田は、この会談の様子を以下のように述べている。
「解散についてはかなり各方面に批判があった。また、私だけでなく他の党内実力者たちも反対を公にしておったのに解散を強行し、結果は自民党の惨敗であった。国民に信を求めて、その信が得られなかったのだ。これに対しては、明快な政治行動をとっていかなければならないはずだ。
私(福田)は、大平首相にそのことを率直に申し上げた。つまり、内閣総辞職をするのが筋だということだ。私が彼の立場なら、もちろんそうしたところだ。・・・・
私が説得しても、大平氏は『私はあなたの意見に従って辞めるということにしても結構ですよ。しかし、あと適当な人がおりますか』と、こういうことを言う。・・・・『君が辞めるということになれば、人材はいくらでもおる。あとの人が相談して決めますよ』と言ったら、『いや、それは福田さん、私に死ねということだ』と、そんなことを言う」(福田赳夫「回顧九十年」)
福田は、首相時代、大平幹事長に常に解散カードを封じられていた。その遺恨が強くにじみ出た台詞である。しかし、「私が彼の立場なら、もちろんそうした」という言葉には、事実そうしてきただけに、説得力を感じる。それにしても、常日頃理知的な大平が、福田の言うように、まるで拗ねたかのように突慳貪に対したであろうか。「大平正芳回想録」には、大福会談の出だしとして、こうある。
「会談は、総裁室に二人(大平と福田)だけが残り、・・・いきなり緊迫したやりとりに入った。
福田『きょうは君がキリスト、私は神だ。ひとつキリストと神との裸の会談をしよう。時局は重大であり、まかりまちがえばイタリアのようになるかもしれない。だから腹を割って話し合いをしよう・・・・」(「大平正芳回想録」)
福田の回顧とは違う、大上段からの切り込みであった。大平は、辞任を勧める福田に、頑強に抵抗した。大平は、議員総会や党の正式機関からの要求でもない限り辞めないと言い、福田は、指導者の出処進退は自分で決めるものだと説いた。議論は、平行線であった。というのも、党の正式機関で多数決をとれば、執行部と主流派を握った大平が有利だったからである。さらに、大平続投には、田中角栄が強く支持を打ち出していた。福田としては、大平の倫理観を攻めて、辞任の言質を奪いたいところであった。
かくして、大福会談は決裂し、「四十日抗争」へと突入していくのである。
非主流派三派(福田派、三木派、中曽根派)は、大平退陣へ向けて結束を強めた。
ところで、総選挙後の国会運営について、憲法五十四条にはこうある。
第五十四条 衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。
2 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
3 前項但書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであつて、次の国会開会の後十日以内に、衆議院の同意がない場合は、その効力を失う。
「選挙の日から三十日以内」に招集された国会を、特別国会と言い、言ってみれば次期内閣首班を指名するための国会である。つまり、総選挙によって行われる衆院議員の改選後、ただちに内閣首班が指名されなければならないのだ。なお、この場合選挙人も被選挙人も、国会議員である。そして、所属する政党の代表に投票されるのが通常である。議長選任、内閣首班指名選挙が行われるこの特別国会が、政争のアリーナと化す。
十月三十一日、非主流三派と中川グループは、「自民党をよくする会」を結成。三木おろしの時の挙党協を彷彿とさせるこの「よくする会」が、大平おろしの根城となる。二日には、「よくする会」は、首班指名選挙に統一して福田赳夫を推すことに決定した。
主流派も手をこまねいているわけではない。党執行部は、調停に奔走する西村英一副総裁を中心にまとまり、両院議員総会を開催した。ところが会場は、非主流派に抑えられ、廊下にはバリケードが築かれている。ここで先陣を切ったのが浜田幸一で、非主流派との交渉が不調に終わるや、主流派のためにバリケードを突破して「玄人の喧嘩」を実演した。その様子はテレビで全国に放映された。浜田はこの際、「いいか、かわいい子供達の時代のために自民党があるってことを忘れるな。お前らのためにだけ自民党があるんじゃないぞ」と演説をぶったことは有名である。
主流・非主流の両派の対立は極に達した。非主流派は、福田首班が成らなければ離党も辞さずと息巻いた。大平も、もし非主流派が離党すれば過半数が失われる。新自由クラブとの連立を覚悟していた。
十一月六日、本会議で首班指名選挙が行われた。
自民党からは、前代未聞、憲政史上初の二人が指名選挙に立候補する。大平正芳と福田赳夫である。自民党は、党の分裂を満天下に知らしめることとなった。
結果は、大平135票。福田125票。飛鳥田一雄社会党委員長107票。竹入義勝公明党委員長58票ほか。決選投票が行われ、大平138票、福田121票。薄氷の上の勝利で、大平首班が成立した。新自由クラブの支援の他、反主流派からも造反が出た。その中で、園田直は大平への投票で、福田派を除名されている。中曽根派も、渡辺美智雄とその系列に属する越智伊平らが造反して大平に票を投じた。
かくして、第二次大平内閣が誕生する。大平は党三役人事のあとに閣僚人事という、従来のプロセスを踏まず、いきなり組閣に入った。党三役人事を見てから新内閣への対応を決めようと考えていた反主流三派は、泡を食った。新内閣は官房長官に、官僚時代からの盟友伊東正義。蔵相に田中角栄の秘蔵っ子竹下登。農水相には指名選挙で大平を支持した、中曽根派の武藤嘉文が就いた。文相は、新自由クとの連立を視野に、河野洋平を迎えるつもりで首相が当座兼任したが、結局谷垣専一(大平派)が就任することになる。
十三日、幹事長に中曽根派の櫻内義雄。政調会長に安倍晋太郎。総務会長に鈴木善幸。いずれも、派の長を通さず直に電話し、迎え入れたものである。
この激烈な政治闘争は、確実に大平を蝕んだ。この後、大平は政治評論家の竹村健一と、フジテレビ「総理と語る」で、こんな問答をしている。
竹村「大平さんは、この秋の総選挙の後、ちょっとつぶれかけたんですけれども、失礼な言葉を使いますが、そこで、ぼくは非常におもしろいエピソードを聞いたんですけれどもね。大平さんは口笛がお上手で、よく吹かれると。それで、何かさびしいときやら、つらいときは「荒城の月」を吹いて、景気がよくなると「夜霧の第二国道」というのを吹かれるという話を聞いたんだけれども……。」
大平「いや、まあそういうわけでもないですけれどもね。」
竹村「ここで一度、大平首相が口笛を「荒城の月」でも吹いてもらったら、この番組が一度に視聴率が上がると思うんですが。」
大平「いや、まあ、またの機会にしましょう、それは。」
竹村「それはまあ無理でしょうな。しかし、内紛劇の中でつらいころ思わず「荒城の月」を吹いておられたという話を聞くと、これは、ぼくがそういう話を紹介するのは、何も奇をてらうのでなくて、総理大臣というのもやはり人間だということを言いたいからなんですよ。」
このあとも、大平は過密な外交スケジュールと、四十日抗争のしこりと格闘し続ける。しかしもっとも大平に重荷となったのは、「細心な、どちらかといえば、内気なはにかみ屋」という大平の本当の姿からかけ離れた、「これとは全く逆」の、「責任感の欠如、反省力の鈍さ、権力への執着などがまず先行してしまう」(伊藤昌哉「自民党戦国史」)、国民が受けた大平観であっただろう。消費税解散と、四十日抗争は、誰あろう大平をもっとも傷つけていたのである。
大平が「夜霧の第二国道」を口笛で吹けた日は、あったのだろうか。
経過
大平内閣成立後、国内の政局スケジュールは次の参院議員改選であった。夏前に予定されていた改選の前に、大平首相は外政を精力的にこなした。1979年12月中国、80年1月オセアニア諸国、四月にはアメリカ、メキシコ、カナダを訪問する。
一方で、国際情勢は緊迫し、「新冷戦」時代が到来したと言われた。11月、イランの革命分子がアメリカ駐イラン大使館を占拠し、大使館員を人質にする事件が突発した。そもそもこの事件の発端は、アメリカに亡命していたイランの前王朝の皇帝レザー・パフラヴィー二世の身柄をイラン革命政府に引き渡すよう要求したのを、カーター米大統領が拒否したことから起こったもので、この事件でアメリカ・イラン関係は決定的に悪化することとなる。
翌12月、ソ連邦がアフガニスタンに対し出兵(アフガン侵攻)。アフガニスタンのアミーン大統領の独裁政権を打倒し親ソ政権の樹立をはかる一方、イラン・イスラム革命の波及を防ぐ目的もあってソ連はアフガニスタンに大規模な軍事介入を実施し、12月24日、アフガニスタンの首都カブール近郊を占拠、翌1980年一月中にはアフガンの重要都市をほぼ抑えるに到った。
イランの事件に対し、日本の動きは素早かった、とはいえない。というのも、日本は革命政権との間にようやく石油に関する商談が進みつつあり、これをご破算にしてしまうわけにはいかなかったからである。それ以外の案件においては、大平は日米同盟の忠実な遵守者であったし、のちにモスクワオリンピックへの不参加と、対イラン禁輸措置をとることになる。
帰国した大平を迎えたのは、党内外の不穏な蠢動であった。
まず、野党が内閣不信任案の提出を準備していた。不信任案提出の理由は、浜田幸一衆院議員がラスベガスのカジノで4億円を一夜で擦った、という事件が発端である。ハマコーが4億を擦っただけなら、まだよかったが、その金を用立てたのがロッキード事件の小佐野賢治国際興業社主で、しかもその金はロッキード社から流れた、ということで一挙に政治問題化し、不信任案提出の運びとなったのである。
(なおハマコーはこの後の総選挙で自民党の公認を得られなかった)
党内の不穏な動きとは、四十日抗争に敗北した反主流派三派の動向である。反主流派は「自民党刷新連盟」を結成して大平に対峙する格好であったが、5月16日に社会党が内閣不信任案を提出すると、同調の気配をみせはじめたのである。
第一議員会館には、刷新連の幹部である福田、三木、中曽根、中川らが集結し、本会議欠席の気炎を上げた。櫻内義雄幹事長の説得にも耳を貸さず、福田は森喜朗に指示して安倍晋太郎政調会長を議場から連れ出す有様であった。しかし、逆に中曽根派がいつのまにか議場に現れていた。
かくして、不信任案の投票が行われた。賛成243、反対187。自民党の欠席者は、73名に及んだ。
大平首相は、本会議後に、ただちに閣議を開催した。閣僚に、
「このようなことになり、残念だ。道は解散か、総辞職か二つしか残されていないが、いずれを選択したらよいか」
と問うと、ややあって、倉石法相が「総理にお任せします」。竹下蔵相らも賛成する中、後藤田自治相は、「解散を前提に総理に一任します」と彼らしく発言した。中断された後、大平は閣僚を見渡して言った。
「解散いたします」
選挙日程は、6月22日。政局スケジュール上すでに予定されていた参院選挙と衆院選挙を同時におこなう、いわゆる「衆参同日選挙」となった。
この滑稽な不信任案上程・可決、そして解散劇を、世に「ハプニング解散」という。
野党は、提出した不信任案がまさか通過するとは思っていなかったであろう。その意味で滑稽であるが、それ以上に滑稽だったのは、刷新連を名乗る反主流派である。おそらく、大平の肝を冷やしてやる程度の認識で欠席したと考えられるが、四十日抗争についで今回の造反行動は、許されるたちのものではない。ここまで重大な造反をするなら、造反後、離党して新党を樹立すべきである。それもできないどころか、中曽根の離脱を許し、三派結束にもおおきな亀裂が入っていたことや、新党結成の資金を集めきれず、残留を決定している。
党も、最初は福田、三木を除名し、欠席議員には公認を与えない姿勢であったが、徐々に微温化した。過半数喪失が、踏み切れない理由だった。総選挙に当たり、主流派・反主流派は政治休戦をし、ともに手を携えて、選挙戦を戦っていくことになる。
大平首相が倒れたのは、この選挙戦初日、新宿で遊説第一声を上げた後、横浜に移動して演説を行った直後であった。「暑いなあ、ちょっと苦しい。のどの奥が痛い」。夕方、瀬田の自宅に帰ると、かかりつけの鶴巻医師が待ち受けており、すぐに診察にかかった。医師は診察後、
「狭心症か、心筋梗塞の疑いがあります」
と言い、すぐに虎ノ門病院への入院の手続きがとられた。翌日には、首相が虎ノ門病院で入院のニュースが流れた。かくそうとして隠しおおせるたちの問題ではなかった。その後、傍目には大平は回復しているように見えた。大平の心配事は、もちろん選挙の様子と、6月22日からイタリアのヴェネツィアで開かれるサミットに、はたして参加できるか、ということであった。
大平本人も、見舞いに来た鈴木善幸総務会長に、「もうすっかりいいんだ」と述べるくらいだったが、医師団は慎重であった。医師団に言わせれば、あと一ヶ月の静養が必要で、サミットは無理であると考えていた。日本国首相として、大平はサミットに出なければならないと考えていた田中六助副幹事長と医師団の間で、短いが激しい応酬がされたとも言われている。結局、さらに二週間の静養が必要と医師団が声明し、、つまり、サミット参加は難しいことが判明するに到り、選挙の結果如何に問わず、大平の退陣は確実であるとみられるようになった。
しかし、大平の回復は誰の目にも明らかであるように見えた。田中副幹事長、伊東官房長官は、これなら大丈夫ではないか、と考えて、医師団ともよく相談しながら、大平自身がサミットに参加する方向で、調整を詰めた。が、事態は急転する。十二日未明、突如不整脈が起こってショック状態となり、五時五十四分、大平は首相在職のまま死去した。享年七十歳。
大平が最後まで気にかけたヴェネツィアサミットには、大来佐武郎外相が参加することとなる。竹下登蔵相、佐々木義武通産相とともに大平の遺影も参加することとなった。
そのサミット開催日は、衆参同日選の開票日でもあった。大平の死を受けて、自民党は主流派も非主流派も、全党挙げて「弔い合戦」だと、気勢を上げた。立候補者は一斉に喪章をつけて、演壇に上がった。かくして自民党はこの衆参同日選において地滑り的大勝を得ることになる。自民党獲得議席は248、前回より36議席を増し、またその後無所属当選議員を追加公認することによって287議席の安定多数を占めた。社会党は107で変わらず、公明、共産、民社は軒並み議席を減らした。参院も同様のトレンドで、非改選とあわせて自民党で過半数を獲得した。実に、大平が死を以てあがなった勝利であった。
内閣は、副総理の含みで官房長官を務めていた、伊東正義が首相臨時代理となった。
伊東は大平の葬儀(内閣・自民党合同葬となった)においても葬儀委員長となり、この大蔵官僚時代からの盟友を弔っている。伊東は臨時代理の期間、首相の執務室にははいらず、常に官房長官のデスクで執務し続け、また閣議においても決して首相の椅子には腰掛けなかった、という。