第六十六代:第二次田中角栄内閣
(任:昭和四十七年/1972.12.22-昭和四十九年/1974.12.8)



田中角栄首相(任:昭和47.12.22-昭和49.12.8)

総理大臣 田中角栄   自由民主党総裁、田中派領袖
外務大臣 大平正芳 昭和47.12.22-昭和49.7.15 大平派領袖
木村俊夫 昭和49.7.16-昭和49.12.8  
大蔵大臣 愛知揆一 昭和47.12.22-昭和48.11.22  
田中角栄 昭和48.11.23-昭和48.11.24  
福田赳夫 昭和48.11.25-昭和49.7.15  
大平正芳 昭和49.7.16-昭和49.12.8  
法務大臣 田中伊三次 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
中村梅吉 昭和48.11.25-昭和49.11.10  
濱野清吾 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
文部大臣 奥野誠亮 昭和47.12.22-昭和49.11.10  
三原朝雄 昭和49.11.11-昭和49.12.8
農林大臣 桜内義雄 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
倉石忠雄 昭和48.11.25-昭和49.12.8  
運輸大臣 新谷寅三郎 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
徳永正利 昭和48.11.25-昭和49.11.10  
江藤 智 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
建設大臣 金丸 信 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
亀岡高夫 昭和48.11.25-昭和49.11.10  
小澤辰男 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
通商産業大臣 中曾根康弘    
厚生大臣 斎藤邦吉 昭和47.12.22-昭和49.11.10  
福永健司 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
郵政大臣 久野忠治 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
原田 憲 昭和48.11.25-昭和49.11.10  
鹿島俊雄 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
労働大臣 加藤常太郎 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
長谷川 峻 昭和48.11.25-昭和49.11.10  
大久保武雄 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
自治大臣 江崎真澄 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
町村金五 昭和48.11.25-昭和49.11.10  
福田 一 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
経済企画庁長官 小坂善太郎 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
内田常雄 昭和48.11.25-昭和49.11.10  
倉成 正 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
行政管理庁長官 福田赳夫 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
保利 茂 昭和48.11.25-昭和49.7.15  
細田吉蔵 昭和49.7.16-昭和49.12.8  
首都圏整備委員長 金丸 信 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
亀岡高夫 昭和48.11.25-昭和49.6.26 昭和49.6.26、首都圏整備委員会廃止
近畿圏整備長官 金丸 信 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
亀岡高夫 昭和48.11.25-昭和49.6.26 昭和49.6.26、近畿圏整備本部廃止
中部圏開発整備長官 金丸 信 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
亀岡高夫 昭和48.11.25-昭和49.6.26 昭和49.6.26、中部圏開発整備本部廃止
北海道開発庁長官 江崎真澄 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
町村金五 昭和48.11.25-昭和49.11.10  
福田 一 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
沖縄開発庁長官 坪川信三 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
小坂徳三郎 昭和48.11.25-昭和49.12.8  
防衛庁長官 増原恵吉 昭和47.12.22-昭和48.5.28  
山中貞則 昭和48.5.28-昭和49.11.10  
宇野宗佑 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
科学技術庁長官 前田佳都男 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
内田常雄 昭和48.11.25-昭和49.11.10  
足立篤郎 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
国家公安委員長 江崎真澄 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
町村金五 昭和48.11.25-昭和49.11.10  
福田 一 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
環境庁長官 三木武夫 昭和47.12.22-昭和49.7.11 三木派領袖、副総理格
毛利松平 昭和49.7.12-昭和49.12.8  
総理府総務長官 坪川信三 昭和47.12.22-昭和48.11.24  
小坂徳三郎 昭和48.11.25-昭和49.12.8  
総理府総務副長官 小宮山重四郎 昭和46.7.9-昭和48.11.24  
小渕恵三 昭和48.11.25-昭和49.11.14  
高鳥 修 昭和49.11.15-昭和49.12.8  
総理府総務副長官 宮崎清文 昭和47.12.22-昭和49.11.11  
皆川迪夫 昭和49.11.12-昭和49.12.8  
内閣官房長官 二階堂 進 昭和47.12.22-昭和49.11.10  
竹下 登 昭和49.11.11-昭和49.12.8  
内閣法制局長官 吉国一郎    
内閣官房副長官 山下元利 昭和46.7.9-昭和48.11.24  
大村襄治 昭和48.11.25-昭和49.11.14  
梶山静六 昭和49.11.15-昭和49.12.8  
内閣官房副長官 後藤田正晴 昭和46.7.9-昭和48.11.24   
川島広守 昭和48.11.25-昭和49.12.8  

成立過程

 日中国交正常化が成立すると、国内政局の解散風に追われるようにして、田中内閣は解散を決断した。十一月十三日解散、十二月十日総選挙。
 いわゆる「田中ブーム」と日中国交回復の成果を引っ提げて、自民党に順風が吹いていたかに見えたこの選挙だが、結果は自民党の敗北であった。271議席、選挙前300議席に比べて実に29議席減の大敗である(招集日までには無所属議員を加えて284議席となる)。公明党(41議席から29議席)、民社党(32議席から19議席)とそれぞれ打撃を蒙り、その分議席を増やしたのは社会党(90議席から118議席)であった。
 社会党は議席を三桁に乗せて、面目を保った形であるが、これが社会党の政権政党への飛躍を可能にするものであったかといえば、そうではない。社会党はこの当時、中ソ対立という東側陣営内における深刻な対立の影響をもろに受けていて混乱を余儀なくされていたからである。とはいえ、成田知巳委員長石橋政嗣書記長のコンビが左派の後押しを受けて比較的うまくいっていた結果であったろう。
 と同時に、不気味に高騰を続ける物価への恐怖が、自民党から票を奪ったとも言える。
 のちに福田赳夫が「狂乱物価」と名付け、田中内閣の看板の一つ「日本列島改造」が引き起こした地価暴騰に端を発す物価高がその予兆を見せていたためである。

 総選挙の敗北、支持率の低迷(27%にまで落ち込んでいた)を受けて、田中は非主流派の閣内取り込みが必要であると見て、長年の政敵であった福田赳夫に行政管理庁長官就任を依頼。また、重大な変調をきたしつつある経済を統御するために、田中派きっての経済通・政策マンである愛知揆一を蔵相に起用した。外相には大平正芳、通産相には中曾根康弘が留任する形で、第二次田中内閣は発足した。十二月二十二日である。

経過

1.「カクマンダー」と内奏問題
 田中は組閣後、選挙法改正に動いた。
 現在の中選挙区制では、同じ党の候補者たちによって票の食い合いがおこり、それが今回の自民党の戦術的敗因だったからである。とはいえ、以前より中選挙区制の欠点は指摘されている所であり、田中の改正案は当を得たものであった。
 だが、時期が悪かった。自民党の敗北直後の改正案提出だっただけに、野党内からはお手盛りの選挙法改正だという非難が出て、自分の都合のいいように制度を変える「ゲリマンダー」をもじって「カクマンダー」だと言われた。結局、選挙法改正案は葬り去られる。

 同じ頃、増原防衛庁長官が、内奏問題をきっかけに辞任に追い込まれている。
 内奏とは、天皇に対して、非公式に経過報告や進捗状況を申し上げることを言う。新憲法のもとでは国務大臣は天皇に対して責任を負わないから、この内奏はしなくてもよいのだが、歴代閣僚はそれほど頻度は多くないにしても、この内奏を行ってきている。昭和天皇もそれをわずらわしく思うことはなかったようであり、いわば慣例として行われてきていた(たとえば、入江相政日記。昭和46年九月二十三日「后二時佐藤総理参内」。昭和47年五月十八日項「十一時から正午過ぎまで山中総務長官、陛下にすっかり申し上げ、スーッとしたと言って退出」。等々)。
 さて、内奏は非公式であるだけに外に漏らすべきものではなかったが、増原防衛庁長官は内奏の際に昭和天皇から受けた、
「防衛問題はむずかしいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことは真似せず、いいところは取入れてしっかりやってほしい」
 という激励に感激して、記者団にこれを洩らしてしまった。天皇を政治利用するものとしてこれは政治問題化し、政府与党は天皇の激励はなかったことにして、増原長官は一身上の都合で辞職ということにした。天皇の落胆はおおきく、宮内庁長官と入江相政侍従長に対して、「もうはりぼてにでもならなければ」と言っていたという。

2.日ソ交渉の挫折
 日中国交回復を達成して田中が帰国したとき、田中は、外交上の懸案であった日中交渉はこれで片づいた、あとは北方領土問題の残る対ソ交渉である、と記者団に語っていた。日中交渉の一年後にあたる十月七日、みずからモスクワ入りした。鳩山一郎に続いて戦後二人目の、日本国首相のモスクワ入りである。
 田中はブレジネフ書記長に対し、「今回こそ領土問題を解決したい」と申し込んだのに対し、ブレジネフやグロムイコ外相は、東シベリアに対する経済援助に話をすり替えようとする。また、「日ソ間に領土問題はない」とする態度を変えようとはせず、一時は共同声明なしでの会談終了、つまり交渉打ち切りさえ取り沙汰された。田中は、共同声明に「第二次大戦時よりの未解決の問題」の一文を入れようとしたが、ブレジネフは「未解決の諸問題」と修正するよう要求した。領土問題をぼやかそうとする意図であった。田中は、噛みついた。
「分かった。それなら、口頭了解で確認しておこう。『未解決の諸問題』に四つの島の返還問題が含まれるか」
 と田中が尋ねる。
「ヤー・ズナーユ(そう理解する)」
 ブレジネフが曖昧に答えた。
 田中は突っ込む。
「それでは弱い。含まれるのか、含まれないのか。イエスか、ノーか、ご返事いただきたい」
 ブレジネフは、渋々答えた。
「ダァー(イエス)」。
 こうして日ソ共同声明は発表となった。

                                     (『田中角栄 その巨善と巨悪』 水木楊)

以下 続く


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