第六十四代:第三次佐藤栄作内閣
(任:昭和四十五年/1970.1.14-昭和四十七年/1972.7.7)



佐藤栄作首相(任:1970.1.14-1971.7.7)

総理大臣 佐藤栄作   自由民主党総裁
外務大臣 愛知揆一 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
福田赳夫 昭和46.7.5-昭和47.7.7
大蔵大臣 福田赳夫 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
水田三喜男 昭和46.7.5-昭和47.7.7
法務大臣 小林武治 昭和45.1.14-昭和46.2.9  
秋田大助 昭和46.2.9-昭和46.2.17
植木庚子郎 昭和46.2.17-昭和46.7.5
前尾繁三郎 昭和46.7.5-昭和47.7.7
文部大臣 坂田道太 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
高見三郎 昭和46.7.5-昭和47.7.7
農林大臣 倉石忠雄 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
赤城宗徳 昭和46.7.5-昭和47.7.7
運輸大臣 橋本登美三郎 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
丹羽喬四郎 昭和46.7.5-昭和47.7.7
建設大臣 根本龍太郎 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
西村英一 昭和46.7.5-昭和47.7.7
通商産業大臣 宮澤喜一 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
田中角栄 昭和46.7.5-昭和47.7.7
厚生大臣 内田常雄 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
斎藤 昇 昭和46.7.5-昭和47.7.7
郵政大臣 井出一太郎 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
広瀬正雄 昭和46.7.5-昭和47.7.7
労働大臣 野原正勝 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
原健三郎 昭和46.7.5-昭和47.1.28
塚原俊郎 昭和47.1.28-昭和47.7.7
自治大臣 秋田大助 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
渡海元三郎 昭和46.7.5-昭和47.7.7
経済企画庁長官 佐藤一郎 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
木村俊夫 昭和46.7.5-昭和47.7.7
行政管理庁長官 荒木万寿夫 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
中村寅太 昭和46.7.5-昭和47.7.7
首都圏整備委員長 根本龍太郎 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
西村英一 昭和46.7.5-昭和47.7.7
近畿圏整備長官 根本龍太郎 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
西村英一 昭和46.7.5-昭和47.7.7
中部圏開発整備長官 根本龍太郎 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
西村英一 昭和46.7.5-昭和47.7.7
北海道開発庁長官 西田信一 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
渡海元三郎 昭和46.7.5-昭和47.7.7
沖縄開発庁長官 山中貞則 昭和47.5.15-昭和47.7.7 昭和47.5.15、沖縄開発庁設置
防衛庁長官 中曾根康弘 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
増原恵吉 昭和46.7.5-昭和46.8.2
西村直己 昭和46.8.2-昭和46.12.3
江崎真澄 昭和46.12.3-昭和47.7.7
科学技術庁長官 西田信一 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
平泉 渉 昭和46.7.5-昭和46.11.16
木内四郎 昭和46.11.15-昭和47.7.7
国家公安委員長 荒木万寿夫 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
中村寅太 昭和46.7.5-昭和47.7.7
環境庁長官 山中貞則 昭和45.7.1-昭和46.7.5 昭和45.7.1、環境庁設置
大石武一 昭和46.7.5-昭和47.7.7
総理府総務長官 山中貞則    
総理府総務副長官 湊 徹郎 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
砂田重民 昭和46.7.9-昭和47.7.7
総理府総務副長官 岩倉規夫 昭和45.1.16-昭和45.1.8  
栗山廉平 昭和45.1.8-昭和47.7.7
内閣官房長官 保利 茂 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
竹下 登 昭和46.7.5-昭和47.7.7  
内閣法制局長官 高辻正己 昭和45.1.14-昭和46.7.5  
内閣官房副長官 木村俊夫 昭和45.1.14-昭和46.7.5   
三原朝雄 昭和46.7.5-昭和47.7.7  
内閣官房副長官 小池欽一     

成立過程

 悲願であった沖縄返還を成し遂げ、その余勢を駆って行われた総選挙は、田中角栄幹事長の采配の下、自民党が地滑り的大勝を博した。社会党は、構造改革路線をめぐる党内対立が尾を引き、まったく手も足も出なかったと言っていい。
 田中はまさしく「選挙の神様」として、自民党を勝利に導いたわけだが、これを手放しで喜べない人物がいた。ほかならぬ佐藤栄作首相であった。
 佐藤は、自分の後継者を、福田赳夫だと目していた。いうまでもなく福田は、佐藤の実兄岸信介の愛弟子であり「岸派のプリンス」と呼ばれる大蔵官僚出身の政治家である。すでに閣僚、幹事長を経験し、政治姿勢としても佐藤に近いものを持っていた。佐藤は福田に「後継総裁」としての修練を積ませることに積極的であったし、佐藤側近の保利茂らも福田をして佐藤後継だという見方で一致していた。
 そのようであっただけに、田中が幹事長として手腕を示し、福田を圧迫するような存在となることに強い懸念を抱いていた。佐藤は、組閣人事において田中とそれに近い人々の更迭を図ろうと試みる。

経過

1.第三次佐藤内閣組閣、安保自動延長

 佐藤は、まず田中を幹事長から官房長官にスライドさせ、保利茂を後任に当てるとともに、田中に近い川島正次郎副総裁もこの際衆院議長に棚上げしてしまおうとこころみた。ところが、これは本人たちだけではなく、党内からも非常な抵抗にあった。なによりも、総選挙を勝利に導いた田中のポストを動かすこれといった決めてとなる理由がないのである。
 田中幹事長更迭を取りやめて、第三次佐藤内閣は組閣された。主要閣僚としては、通産相が大平正芳から宮澤喜一に代わった(日米繊維交渉は未だくすぶりを見せていたため、知米派筆頭の宮澤を起用したとみられている)。また、防衛長官に中曾根康弘。官房長官には保利茂をむかえたほかは、第二次内閣の陣容をそのまま引き継いでいると言っていい。

 この陣容で向かわねばならない最初の問題は、日米安保条約の継続問題であった。十年前の岸内閣における空前の大デモンストレーションの再発も懸念された。だが、すでに第二次佐藤内閣時代に自民党首脳間では自動延長の方針がさだめられており、1969(昭和四十四)年六月には、ロジャーズ国務長官と会談して日米間でその方針を確認し、十月の佐藤・ニクソン会談にさきだって自民党内でもこの方針が再確認された。
 そして、総選挙においては国民は佐藤内閣に支持を与えた。これは日米同盟体制の延長をゆるしたともとれ、佐藤首相は昼食をとるような気楽さで安保自動延長を迎えた。なお、安保反対統一行動に参加した延べ人数は、十年前は全国で560万人。今回の延長においては77万人であったといわれる。

2.佐藤四選
 このころになると、「一強四弱一風来坊」という言葉で、自民党内の実力者が評されることになる。
 一強とは、言うまでもなく佐藤栄作。政界のキャリアとしても、実績としても、押しも押されもせぬ第一人者である。
 三弱とは、田中角栄福田赳夫三木武夫大平正芳である。田中、福田ともに派を率いて一本立ちはしていない。大平はまもなく前尾繁三郎から宏池会(旧池田派)を継承するが、この時点では前尾派との確執に手を焼いている。三木武夫は一派を率い、政界最長老であるが、彼では党内一致を見ることはむずかしく、無力な存在である。
 一風来坊とは、中曾根康弘である。「青年将校」といわれ、少数ながら旧河野派をまとめている。不確実な要素に富む存在である。
 こういった状況で注目されたのは、佐藤栄作の引退時期についてである。さらにいえば、佐藤は次期自民党総裁選に出馬して、同党史上初の四期目の総裁を務める意志があるのか、である。佐藤にこの意志があれば、党はほぼ一致してこれをささえる、支えざるを得ないであろう。佐藤の四選、この点に、政界の耳目は集中していた。

 ここで猛烈に佐藤四選のために奔走したのは、田中角栄である。
 佐藤直系の党人である田中が佐藤四選に奔走するのは当然であるかもしれないが、田中にはある思惑があったのである。そのために、田中は猛烈に動いたのだ。
 田中とその周辺がもっともおそれたのは、佐藤が辞任し、その後継者が福田になることであった。いまのような政権の絶頂期において、佐藤から福田への政権授受はもっともやりやすい。佐藤が反対勢力をおさえこむ充分な実力を持っているからである。それを全力を挙げて阻止せねばならない。そのためには、佐藤四選を支持し、時間を稼ぐことであった。
 彼は、佐藤批判を続ける前尾繁三郎(宏池会会長)に強く働きかけ、出馬を取りやめさせ、さらに各派の佐藤支持を確認した。これに抵抗して総裁選挙に立候補したのは、三木武夫だけである。佐藤と三木では、その彼我の差は懸絶している。十月二十九日、佐藤は三百五十三票の圧勝を果たした。
 なお、佐藤は四選後の内閣改造を見送った。前尾は立候補取りやめによって佐藤の四選実現に寄与したが、それを無視したのである。この後、宏池会では前尾突き上げの内紛が起り、最終的に大平正芳が会長を継ぐことになる。
3.内閣改造、日米繊維交渉決着
 流れは前後するが、総裁選挙に先立つ六月末、日米繊維交渉が決裂している。宮澤喜一通産相スタンズ商務長官との会談であったが、スタンズ長官は佐藤・ニクソン会談での密約がメモされたというペーパーをもとにして交渉に臨み、「密約はない」という佐藤の断言を得ている宮澤はこれを突っぱねた。三日間の交渉の末、共同声明には「agree to disagree」(不合意を合意)という結論に達した、と表現された。要するに決裂である。宮澤は辞表をしたためたが、佐藤首相はこれを受理しなかった。
 翌1971(昭和四十六)年六月、沖縄返還協定調印。また、巻き起こる環境汚染に対応するために環境庁が発足した。
 さらに日米関係では、七月、ニクソン大統領が訪中計画を発表して世界を震駭させた(第一次ニクソン・ショック)。これまで、対中関係においてアメリカに雷同していた日本は、極東の友邦のくせにアメリカに出し抜かれたかたちとなり、国内で中国国交正常化の議論が沸騰し始める。
 その直前、佐藤は内閣改造、党人事刷新を行う。外相福田赳夫通産相田中角栄官房長官竹下登。党人事では、保利茂幹事長が誕生した。この人事、まさに「人事の佐藤」の面目躍如だったと言っていい。
 前述の通り、佐藤は福田を後継者にしたい意向であった。そこで、九月には昭和天皇の外遊(天皇外遊は日本史上初であった)に首席随員として随行し、貫禄を付けさせるための福田外相案であった。そして、もう一方の雄・田中を幹事長から外しておきながら、外務・大蔵の両重要閣員としてはくわえず、むしろ繊維交渉などの難問を抱える通産相に起用した。田中周辺の西村英一、二階堂進などは「泥をかぶることはないじゃないですか」と止めたが、田中は「敢えて火中の栗を拾うよ」と、受けた。そして、空いた幹事長ポストには、年来の希望通り保利茂を起用したわけである。

 ところが、保利幹事長はいきなりつまづく。参院をめぐる問題である。
 参院自民党では、重宗雄三が議長を三期九年務め、その勢威で「重宗王国」と言われていたが、彼が河野謙三(一郎の実弟)のクーデタによって追い落とされたのである。河野は、参院正副議長の党籍離脱などを眼目にして改革を訴え、佐藤に抵抗する三木武夫と結んで重宗四選を阻止する構えであった。保利の就任した六月には、すでに事態は手に負えない段階まで来ていた。重宗は議長選を降り、代わって木内四郎を立てたが、河野は勢いに乗って当選した。参議院は、佐藤政権の有力な支柱であったが、それは崩れた。
 また、これに前後していわゆる「ニクソン・ショック」(アメリカのドル防衛策としての金兌換制廃止と、キッシンジャー補佐官の訪中・米中国交回復へ)が訪れ、佐藤政権は鼎の軽重を問われる結果となった。

 さて、日米繊維交渉は、国内では繊維業者の強力な抵抗に遭い、アメリカも妥協の形勢を見せず、完全にデッドロックとなった観があった。それを驚異的な行動力と決断力であっという間に裁いてしまったのが、新通産相田中であった。
 田中は、アメリカ繊維業の状況を緻密に調べて、「貿易摩擦による被害は、一般に言われるほど大きくない」と判断するや、「被害なきところに規制なし」の立場を打ち出して頑強に抵抗したが、一方で事態打開の道を早急に模索した。通産省幹部をあつめて
、「君らの言うとおり主張してきたが、主張だけでは解決しない。次の打開の手を考えないといかんのじゃないか」
 といった。輸出規制に踏み切り、繊維業界には補償をする。田中は一気呵成にこれを押し進める腹であった。
 というのも、繊維問題というのは、日米間の感情を局限までこじれさせてまで執着するほどのものではない、と田中が読んでいたからである。田中は、日本側業界の「得べかりし損失」を計算し、「それは数百億で済まない」と反論する通産省幹部を後目に、大蔵省に電話し、水田蔵相、佐藤首相を説いて二千億の補正予算を組ませてしまった。業界から轟々たる批判が渦巻いたが、田中は平然として、繊維輸出に関する政府間協定を結んだ(昭和四十七年一月三日調印)。そして、巨額の補償はしたが、田中は「業者の持つ織機を倉庫にしまわせるな。全部廃棄させよ」といい、この問題に徹底した決着を付けた(水木楊「田中角栄 その巨善と巨悪」)。
4.角福戦争
 1972(昭和四十七)年初頭、日米首脳会談が開催されることとなった。
 前年には二つの「ニクソン・ショック」をもろに受け、ぎくしゃくしていた日米関係を修復するための会談である。場所は、アメリカ西海岸のサクラメント近郊・サンクレメンテ。沖縄返還の日程を最終的に詰めるほかは、さしせまった議題のある会談ではなかった。そこで、佐藤はこの機会を利用して、次期総裁に関して田中に因果を含めて、福田擁立へ向けていこうとした。福田はついに、来るものが来た、と感じた。
 ・・・・ある日、私が佐藤総理に会うと「そろそろ田中君に話すか。いつ、どんなふうに言うかな」とおっしゃる。当時通産大臣で次をうかがっていた田中角栄氏に「次の総理・総裁は福田君にしようではないか」と持ちかけるタイミングをはかっている、と私は理解した。
 次の総理・総裁をどうするか、また佐藤総理自身の進退をいつどういう形で表明するか、微妙な時期だった。そのとき私は、佐藤総理に「サンクレメンテ会談に田中君の同行を求めたらいかがですか」という話をした。総理も「それはいいな。いいチャンスじゃないか」と言われたが、同時に「その時を待つわけにはいかんな」とも言われる。
 そこで、私は総理がサンクレメンテから帰ったら「辞めるんじゃないかな」という印象を持った。しかし、それは私の感じで、確かなことはわからない。

福田赳夫「回顧九十年」

 福田支持グループは、「サンクレメンテで、田中は因果を含められる。佐藤から福田への禅譲が成る」とさかんにPRした。ところが、田中はサンクレメンテで佐藤、福田などとヨットに乗ったときも彼らと一室にこもることを極力避けて甲板上に出、宿舎でもさっさとゴルフにでかけた。福田ときちんと言葉を交わすのは、第三者も大勢居る場所だけではなかっただろうか。たとえば、ロサンゼルスの日本料理店「インペリアルガーデン」での会食のように。佐藤首相夫人寛子は、こんな話をのちに聞いている。
 もめぬいた日米繊維政府間協定がやっと成立、サンクレメンテでのニクソン大統領との会談で沖縄返還が同年五月十五日と決まった直後、日本政府首脳、ほっとした表情で、なつかしい日本料理を味わう。
 雑談のなかで、そのころ日本中をわかせた連続殺人事件が話題に----。
  田中通産相(新潟3区) 大久保清というのは、ひどいやつだねえ。群馬県というところは、ほんとに悪い人間が出るところだよ。
  福田外相(群馬3区)  お言葉ながら、通産大臣。ちと誤解があるようだねえ。大久保一家は三代前までは新潟県に住んでいたそうですぞ。どっちが悪者を育てたのかねえ。
  佐藤首相(山口2区)  福田君も、三代前とは、だいぶ遠慮したもんだねえ。(一同、ニガ笑い) 
 笑いに紛らせて、緊張が走った瞬間であった。佐藤・福田と田中の暗闘は、激しさを増していた。
 田中は、佐藤派の中にすでに田中系を増やすことに着実に成功しつつあった。もとより、田中は生粋の佐藤派である。佐藤首相が今日あるは田中の功績が大きい。田中は筋を通してこれまで佐藤に犬馬の労をとってきたのである。そういう文脈で行けば、かつて岸派であった福田は、所詮外様である。身内意識の強い自民党議員に、「佐藤の意向だから」といっても、すんなりと福田が受け容れられるのは、難しいであろう。
 このチャンスを、田中はものにしようと動いた。三月には田中と佐藤・福田の対立は決定的なものとなり、佐藤派内は異常事態に陥った。五月には、田中は柳橋の料亭「いな垣」で田中派の旗揚げを秘密裏におこなった。集合した議員は、衆参両院合わせて81名(佐藤派総勢は101名)。この事態が洩れるに至って、佐藤も泰然と座しているわけにはいかなくなった。
 佐藤の退陣表明がなされた六月十七日、その直後に訪れた福田を激励し、田中には「君子の争いでやってほしい」といいながら、佐藤は一案を提案する。
 角福調停である。田中、福田のいずれかが第一回投票で一位になったら、下位の者が一位のものに協力する、という案であった。福田は、すぐにこれに賛成し、田中もちょっと考えてから賛成した。しかし、実際は田中は、「田中派の下部は福田派に激昂している、実際は一・二位連合は作動するまい」と踏んでいたという。
 このときには、自民党総裁公選の立候補者が出揃っている。福田赳夫、田中角栄、大平正芳、三木武夫。さらに中曾根康弘が出馬すると目されていた。中曾根が出馬しても当選は到底見込めないが、中曾根派内には親田中派が多い。中曾根が立候補しないとなれば田中に票が行く可能性が大きく、福田の選挙戦略上中曾根の出馬は欠かせないものであった。
 ところが、その中曾根が不出馬を宣言したのである。六月二十日のことであった。これによって、中間派(石井派、村上派、船田派、椎名派、園田派)は動揺し、福田支持に二の足を踏むようになる。
 さらに福田に追い打ちをかけるように、総裁公選の直前、七月五日、田中は盟友の大平正芳、そして「佐藤亜流政権」を断固拒絶する三木武夫との間に田中は三派連合を結成し、「三人のうち一人が一位か二位になれば、あと二派がこれに協力する」という協定をつくりあげた。政策協定は細かいところまで詰められず(三木は日中国交正常化を望んだが)、「清新にして実行力のある政治」という抽象的スローガンにとどまった。
 これを知った佐藤は激怒した。田中を呼びつけて、
「言うことを聞かないなら三木派を根こそぎ買収して福田につけるぞ」
 とまで脅したという。互いに政敵がだれかを、あらためて確信した瞬間であったろう。そして佐藤はみずから電話をとって橋本登美三郎愛知揆一などに連絡をしたが、かつての権威は今や雲散霧消していることを確認させられただけだった。

 七月五日、公選の日である。
 日比谷公会堂で開催された自民党大会で行われた総裁選第一回投票は、
 田中角栄、156票。
 福田赳夫、150票。
 大平正芳、101票。
 三木武夫、69票。
 投票総数476票、有効投票数は同数。田中の喉から「おおッ」といううめき声ともつかぬ声がほとばしった。田中は福田を凌いだと同時に、佐藤に勝ったのである。その喊声であった。
 中曾根総務会長の兼ねてからの手配で、ただちに決選投票がおこなわれた。
 田中角栄、282票。
 福田赳夫、190票。
 小学校卒のみの「田中総裁」の誕生であった。
5.佐藤栄作、退陣
 以下、やや蛇足である。
 話が前後するが、1972(昭和四十七)年六月十七日、沖縄返還を見届けて、佐藤首相は退陣を決意した。田中によれば、「一時は五選を言い出した」ようで、紆余曲折もあったが、結局周囲の状況に押されて、退陣のやむなきに至ったというのが率直なところではないだろうか、というのは私の観測である。
 その朝、退陣表明をするということは、寛子夫人にも洩らさなかったという。
「おい、ネクタイを選ってってくれよ」
 と言われて、夫人は赤っぽい派手なのと、茶色ベースの地味なのを渡すと、迷わず赤を選んでつけていったことくらいがその前触れであったと夫人は回想している。

 さて、佐藤は、人気がなかった。本人は「栄ちゃんとよばれたい」と望んでいたが、革新都知事の美濃部亮吉は「ストップ・ザ・佐藤」を訴え、「サンデー毎日」の人気調査では「辞職すべきだ」が68.5パーセントに達した。そのうち圧倒的に多いのが「辞職勧告型」で、「早く辞職を、新しい政治を」「たよりない、辞職すべきだ」などの感想。ついで「嫌悪型」。嫌悪型になるとほとんど残酷なほどで、「陰険ですね」「やり方がきたない」「昔からイヤなヤツだと思っていた」等々(千田恒「佐藤内閣回想」)。
 マスコミ受け、大衆受けをしないことは、佐藤寛子夫人のお墨付きである。しかし、彼女の佐藤評は、深い愛情に裏打ちされていて、読んでいてたのしい。
「面白い人ではありませんよ。恋人にしたらつまらない男でしょうね。亭主にするには、まことにいい男ですね」
「主人という人は、たしかに説明が足りないんですよ。その上パッとした行動がすくないし」
 その「説明の足りなさ」と、現代という「すべてがすぐに、かつ増幅して洩れる時代」が相俟って、マスコミの描く佐藤栄作像が結ばれたわけである。そして、佐藤も、そんなこんなでマスコミには強い不信感を抱いていた。

 佐藤は、まず自民党の両院議員総会で辞意を表明した後、首相官邸でテレビを通じて、所信表明を行う予定であった。
 ところが、ここで手違いが生じたのである。佐藤は、新聞記者抜きで、テレビカメラに向かって演説をする予定であったが、内閣側は記者クラブにあらかじめ質問抜きで参加をさせ、佐藤はカメラに向かって演説する段取りであった。要は内閣と佐藤の考えが食い違っていたのである。ハプニングが起った。会見室に入った佐藤は、新聞記者たちを認めるや、
「テレビカメラはどこかね。今日は、新聞記者の諸君とは話をしないことになっている。ぼくは国民に直接話したい。新聞になると、文字になると、ちがうからね。僕は残念ながら、偏向的な新聞は大嫌いなんだ」
 と言い放ち、一時は執務室に帰ってしまった。再開されると、すぐに記者側から抗議が出た。すると佐藤は、平手でテーブルを叩いて、
「それなら、出ていってもらいましょう」
 記者団は激昂して総退場。がらんどうになった会見室で、佐藤はぽつりぽつりとテレビに向かって語りかけた。
 ・・・・佐藤政治はわかりにくい、佐藤政治は「待ち」の政治だという批判は聞いている。前もって、タイミングについて話せればいい。しかし、それはできない。一国の宰相は孤独だといわれるゆえんもここにある。自分の責任で、チャンス、機会をつくることが宰相の責任だ。このことにおいて今日まで誤りなきを期してきた。・・・・
 七年八ヶ月。師の吉田茂や、これまで歴代最長の桂太郎の内閣を凌いで、連続して政権を支え続けたということでは、最長不倒の記録となった佐藤栄作の内閣は、このように不器用なやりかたで、幕を閉じた。派手なことのできない男、「黙々栄作」らしい幕引きであったかも知れない。

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