第三十六代:平沼騏一郎内閣
(任:1939/昭和十四.1.5-1939/昭和十四.8.30)


平沼騏一郎首相(在任:1939.1.5-1939.8.30)

総理大臣 平沼騏一郎 前枢密院議長
内務大臣 木戸幸一 貴族院・火曜会
外務大臣 有田八郎
大蔵大臣 石渡荘太郎 貴族院
司法大臣 塩野季彦
文部大臣 荒木貞夫 元陸軍大将(皇道派)
農林大臣 桜内幸雄 政友会
商工大臣 八田嘉明
逓信大臣 塩野季彦 昭和14.1.5-昭和14.4.7
田辺治通 昭和14.4.7-昭和14.8.30
陸軍大臣 板垣征四郎
海軍大臣 米内光政
鉄道大臣 前田米蔵
拓務大臣 八田嘉明 昭和14.1.5-昭和14.4.7
小磯国昭 昭和14.4.7-昭和14.8.30
内閣書記官長 田辺治通 昭和14.1.5-昭和14.4.7
太田耕造 昭和14.4.7-昭和14.8.30
法制局長官 黒崎定三

 ・成立過程

 近衛総辞職が明らかになり始めた頃、木戸厚相は平沼枢相に次期首班の打診を始めた。
 その結果、木戸の感触によれば、
「乍然、又一面若し同男に大命の降下する場合には、敢て辞するところにあらずとの意味の口吻もありたり」 ということであった。木戸も、また松平康昌・内府秘書官長も、そしてまた湯浅内大臣も、平沼首班に賛同した。問題は、興津にいる西園寺元老の意向である。西園寺は平沼を嫌うことはなはだしく、その理由は、
1)平沼が右翼団体・国本社の総帥であること。
2)天皇機関説問題の時、平沼が背後にあって策動した疑いが強いこと。
 特に平沼が天皇親政論者であることや親英米的な外交ができる人物でないことなど西園寺の奏薦基準には適合せざる事、また個人的にも西園寺は平沼が嫌いであったようである。しかし、当面他に人はなかった。
 西園寺は、近衛内閣を振り返ってつくづくと慨嘆した。
「とにかく近衛が総理になつてから、何を政治してをつたんだか、自分にもちつとも判らない。どういふんだらうか。・・・・陛下に対してまことにお気の毒である。あれだけ陛下は判つた方であられるだけ、まことに御同情に堪へない」

 一月四日、近衛首相は辞表奉呈。湯浅内府に下問有り、内府は天皇の御諚を受けて興津の西園寺邸へ向かった。「西園寺公と政局」に、西園寺がここで内府に何と言ったかは書いていず、判らない。そしてその日の内に帰京した内府は、平沼騏一郎をもって後継内閣の首班として奏薦した。
 西園寺は、平沼に対して一言、
「エラスティックだからね」
 と言った。原田は、これを、
「平沼という人はなかなかエラスティック(弾力性がある)なところがあるから、責任の地位につけばさう滅茶なことはできもしないし、やりもしまい」
 という意味に受け取った。西園寺は、平沼を嫌ってはいたが、彼が右翼団体の総帥であることは、逆に言えば統制嫌い・共産嫌いということになる。西園寺はそこに目を付けたのであろう。しかし、そういう消極的な政治性格を考慮してから奏薦しなければならなかったこと自体が、西園寺の苦衷を忍ばせてあまりある。

 ・経過

 平沼内閣の課題は、近衛内閣のものと変わらない。
 1) 日独防共協定強化問題=日独伊三国同盟問題。
 2) 泥沼化した日華事変(日中戦争)の収拾。
 が、大きな課題であった。特に前者によって、平沼内閣の命運が決されたといってよい。

 近衛内閣末期、日独防共協定が強化された。軍は防共協定を位置づけて、
「この協定はソ連だけでなく、英米にも適用される」
 と考え、独伊との接近を危惧する有田八郎外相と厳しく対立していたのである。有田外相は、近衛内閣退陣の時に辞任しようとしたが、平沼に交渉され、日独伊防共協定を強化しない、という約束のもとに内閣残留を決めた。当然、有田外相は平沼内閣成立後、ドイツのリッベントロップ外相とイタリアのチアノ外相から提示された、日独伊三国同盟に反対であった。
 とはいえ、真っ向から反対しては近衛内閣の二の舞である。有田は、
「三国同盟の内容は、ソ連を主たる対象とするが、英仏が対象となることはありうる」
「また、そのときに武力援助を伴うかどうかは、そのときの状況による」
 という内容を骨子とした案文を示し、それが五相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相による一種のインナーキャビネット)を通過すると、特使を派遣してドイツ大使・大島浩、イタリア大使・白鳥敏夫の両名はこの訓令を肯んぜず、それどころか政府に対して再考を求めてきた。
 この事態に天皇も憂慮を示した。天皇は、
「もし例の防共強化の問題について、大島、白鳥両大使が中央の訓令を奉じない場合にはどうするか」
「これ以上協定の内容を変えるやうなことはないか」
 と平沼総理に下問し、平沼は
「もし両大使が中央の訓令を奉じない場合には、召還または然るべき処置を致します。またこれ以上更に内容を変へるやうなことがございましたならば、中央から出先に言つてやつた強化の問題は、最終的なものでありまするから、それで駄目ならば交渉を打切るのも已むを得ないと存じます」
 云々と奉答したところ、
「とにかく、初めの第一点、第二点について内奏の要旨を書類にしたためて、自分の所に届けろ」
 という下命があった。天皇が念書を求めるなど、きわめて異例のことである。
 ところが、大島駐独大使は、万一欧州に戦争が起ったときは日本は独伊側に立って参戦すると言明してしまった。有田外相と天皇は、裏切られたのである。四月十四日、五相会議で有田外相は交渉を打切ることを主張したが、陸軍はこれを拒否。五月、ドイツ側の妥協案(ガウス案)が発されると、受諾主張の板垣陸相と、反対派の有田外相、石渡蔵相、米内海相の対立を引き起こした。
 特に海軍は、岡敬純のような同盟賛成派もいたが、中枢の米内海相、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長の下、頑強な抵抗を示したため、一時は陸軍との間に武力衝突がありうるかもしれぬということで、海軍省に武器弾薬を運び込んだという。さらに米内海相は、五相会議の席上、石渡荘太郎蔵相から、
「日独伊の海軍としては、英米仏ソの海軍と戦って、勝算があるのか、どうか」と問われ、
「勝てる見込みはありません。だいたい日本の海軍は米英を向こうに回して戦争するように建造されてはおりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」
 と答えるなど、陸軍の逆鱗を買うこと多かった。
 ところが、事態は急転する。平沼首相が板垣を支持したのである。有田外相は辞意を表明したが、平沼の慰留によって、ともかく辞意を留保した。しかしその後も激しい応酬が続き、解決の糸口は見つかりそうになかった。
 そのころ、ノモンハン事件が勃発している。
 当時、日本とモンゴルの国境線が確定していなかったこともあり、しばしばモンゴル軍が日本の主張する国境線内に進入してきた。日本はこれに対して数度、撃退したが、ついに日本軍はハイラル駐屯軍(第二十三師団)のなかから山県支隊を編制し、積極的行動を開始させた。
 ところが、この山県支隊が出会ったのは「ソ蒙相互援助条約」によってモンゴル国境を守っていたソ連の機械化師団であった。山県支隊はこれにこてんぱんにやられ、撤退した。ところが、関東軍はこれでは軍の威信に関わる、として、辻政信少佐などの作戦参謀を中心とするグループが大部隊を動かした。中央は、日華事変が泥沼化しているのに、ここでソ連を敵に回してはなんともならないとして、局地的に、穏便に片づけるよう指示していたが、またしても現地軍の独断専行が、しかも敗北が確実な独断専行が行われたのである。
 ソ連軍はこれに酬いた。空軍150機による絨毯爆撃、また戦車を主力とする機械化兵団が雪崩を打って侵攻した。
日本軍の投入した兵力一万五千のうち、三分の一が戦死、三分の一が負傷するという壊滅的な打撃を受けた(通常、兵力の一割が戦死・負傷して戦闘力を失えば、それだけで惨敗といわれた)。ソ連にとってこの戦争に拘泥することは望ましいことでなかったため、反撃のみのとどめられたが、惨敗以外の何者でもなかった。
 その直後、平沼内閣を揺るがす大事件が、ドイツ・ソ連の間で起った。
 「独ソ不可侵条約」の締結である。日本との間に反共協定である日独防共協定を結んでおきながら、ソ連と同盟するというのは、実に平沼内閣にとって青天の霹靂であったし、また、それは駐独大使の大島にとっても同様であった。
 こうして、平沼内閣は、大島に対して三国同盟交渉の打ち切りを訓令し、自身は総辞職した。平沼首相の辞職の弁は、余りにも有名である。
「欧州の天地には複雑怪奇の現象を生じ・・・・・」

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