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塩飽大工と その建物 |
海上に雄飛した塩飽島民が、各地より文化を取り入れてここに造り出した技能は造船と建築である。
倭寇が海外に進出したとき、外海を航するに適した複底尖舳の大船を造り出したのを始めとして文禄の役には優秀な船大工を出し、寛文年間には新井白石が「完堅精好侘州視るべからず」と賞賛を惜しまなかった。
全国無比の塩飽船を造り出した海運界の黄金時代は、塩飽文化の華を咲かせて、建築、工芸方面の発達に寄与するところが多かった。神社、仏閣を始め一般民家の新築、修理が盛んに行われた。そこに優秀なる技術を有するものが続出した。
塩飽大工の名は広く知られるようになり、ある者は諸侯の用人となり、広く各地に出稼ぎして、各々その技を発揮した。
中でも有名なのは、本島生の浜に生まれた橘貫五郎(官五郎とも)である。代々建築を業として名匠の誉れ高く世々貫五郎の名を継いだので、貫五郎といえば直ちに、彫刻建築を連想する程になった。 |
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生の浜「かぶら岬」より高見島を望む |
小阪大谷より牛島を望む |
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塩飽大工とは? |
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塩飽大工は幕末期から明治にかけて腕の良いことで有名な塩飽諸島出身の大工の総称である。
塩飽はもともと回船業と造船で繁栄したところであるが享保頃から次第に衰微し、近世末期には造船の技術を生かして大工職に転じ、他国へ出稼ぎに行くようになった。活躍の場は、殆どが対岸の中国地方や関西方面の有名な社寺の造営や町並み造りであった。作品の細部に船大工独特の手法が見られる。
明治5年(1872)の記録によると塩飽諸島には本島、牛島、広島、手島、与島、瀬居、沙見島、櫃石島、岩黒島、佐柳島、高見島11島からなり、総戸数は2244でそのうち大工職は707、漁業719、船乗り210、農業484、商業25、その他99とあり、塩飽大工の隆盛さがしのばれる。中でも大工職は既に嘉永3年(1850)に島外に稼ぎに出たもの、350を数え、船大工の伝統を生かして西日本の各地の寺社に腕を振るい塩飽大工の名を馳せた。 |
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特に有名な大工の棟梁では本島泊の山下呂九衛門、大江太郎右衛門、佐藤伝吉、本島生の浜の橘貫五郎、牛島の山下半左衛門がいた。(香川県大百科事典) |
塩飽大工の大江家は本島泊の出で国宝吉備津神社を建立した。生の浜の橘貫五郎は総社市の備中国分寺五重塔と善通寺五重塔を親子で建立している。上の十二支の彫刻はこの国分寺五重塔の第一層の軒に見られる。橘貫五郎は本島では、正覚院の庫裡玄関の彫刻を彫り生の浜三所神社の奥殿の彫刻は多くの下絵に見ることが出来る。 |
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備中国分寺の俯瞰図 |
備中国分寺五重塔 |
讃岐善通寺の俯瞰図 |
讃岐善通寺五重塔 |
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橘家は代々「番匠屋」と呼ばれ、備中に於いては備中国分寺五重塔、高山寺山門、林松寺、正満寺の造営、讃岐に於いては善通寺五重塔、水主神社本殿、脇宮、八剣神社、山北八幡、西大寺、湊川神社など親子で建立している。 |
橘家は「番匠屋」の屋号がついているが「ばんじょう(番匠)は大和、飛騨などから京都へ上って勤番した大工、こだくみ」のことであり「ばんじょうや(番匠屋)は大工」である。つまり生の浜で「番匠屋」の屋号を持っていたことは橘家が塩飽の棟梁として一般から認められていたことになる。 |
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初代橘貫五郎の掛図 |
初代貫五郎の童遊戯図・襖絵の下絵 |
二代貫五郎の欄間彫刻の下絵 |
二代目橘貫五郎の長男 橘実は、塩飽大工として、大阪、広島、東京で多くの建築物を建立し、後、朝鮮に渡り、仁川の近くの水原にある水原ホテルを設計建立し、義弟宮島貞吉と京城にある旧朝鮮総督府を建立した。
明治30年(1897)には大工職養成機関として組合立塩飽工業補習学校が泊地区に設立され、多くの塩飽大工が養成された。 |
本島には多くの神社・寺院があるが、塩飽大工が建立した代表的なものを幾つか挙げてみる。 |
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神社 |
1)木烏神社 |
所在地 |
本島町泊670 |
祭神 |
大国主神(おおくにぬきのかみ)、大押立神(おおおしたてのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ) |
拝殿は明治30年(1897)に改築したもので塩飽大工の作であり、拝殿の向拝の彫刻等は笠島の斉藤邦之助が造った。
(木烏神社の千歳座も塩飽大工の作と言われている。) |
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拝殿の正面/唐破風 |
千歳座・回り舞台がある |
石鳥居・波形の大きなつくり |
本殿 |
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2)尾上神社 |
所在地 |
本島町笠島388 |
祭神 |
日本武尊(やまとたけるのみこと)、倭比売命(やまとひめのみこと) |
貞享2年(1685) 乙丑11月再建す、とある。玉藻集では尾上大明神とある。
正徳3年(1713)6月の塩飽島諸訳手鑑に塩飽大工が建立したとあり、大正5年(1916)に塩飽工業補習学校が拝殿を設立したと、記録に残されている。 |
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補習学校の生徒が建てた拝殿 |
拝殿の下の入り口にある大鳥居 |
境内より瀬戸大橋を望む |
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3)八幡神社 |
所在地 |
本島町笠島1034 |
祭神 |
仲哀天皇(ちゆあいてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇(おうじんてんのう) |
神功皇后征韓の途次、軍兵を従えて当地宮の原に御駐留せられた。
浜を宮の浜と呼ばれ、古くより塩飽全島のウブスナである。 |
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神社山門より本殿を望む |
本殿・最近新築された |
県道より鳥居越しに参道を望む |
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4)生の浜 三所神社 |
所在地 |
本島町生の浜 |
祭神 |
天照皇大神(てんしようこうたいじん) |
生の浜にあり、塩飽大工は明治初年には全戸数71の内45戸あり、鎮守の神社を総出で建立した。
橘貫五郎の彫刻と見られる奥殿の彫刻は島内一と言われている。 |
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神殿の柱・獅子頭が見られる |
神殿の横側の彫刻 |
獅子の全身が見られる |
本宮の正面扉の彫刻 |
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本殿お堂の横花の彫刻がある |
本殿の正面扉に侍の彫刻 |
本宮の左横側にひょっとこの面がある |
本宮の右横側におかめの面がある |
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三所神社の全景
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拝殿の屋根瓦
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拝殿は唐破風
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正面は千鳥破風 |
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5)三社神社 |
所在地 |
本島町福田464 |
祭神 |
天照皇大神(てんしようこうたいじん)・大国主神(おおくにぬしのかみ)・事代主神(ことしろぬしのかみ) |
文化元年(1804)、棟梁福田丘八が再建した。主な建造物は本殿、幣殿、拝殿で氏子は70戸であった。古今讃岐名勝図絵によると福田地区の塩飽大工がこれにあたった。 |
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本殿の瓦は尻浜産である |
神社の全景 |
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6)四社神社 |
所在地 |
本島町大浦188 |
祭神 |
伊邪那伎神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
市寸島姫命(いつくしまひめのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと) |
大浦一円の氏神である。塩飽大工の作であって、中規模であり老朽している。
氏子戸数は大浦で80戸であった。 |
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正面の大鳥居より拝殿を望む |
本殿と拝殿を回廊で結ぶ |
大浦海岸よりフクベ鼻を望む |
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7)庭日神社 |
所在地 |
本島町笠島553 |
祭神 |
奥津比古神(おきつひこのかみ)・奥津比売神(おきつひめのかみ) |
山根地区の神社で建物が老朽したので、平成元年に再建した。
規模は中位であるが新築のため全て整っている。崇敬者は約180人。 |
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山根地区より神社拝殿を望む |
拝殿の内部・最近新築された |
鳥居越しに瀬戸大橋を望む |
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8)徳玉神社 |
所在地 |
本島町甲生185 |
祭神 |
安徳天皇(あんとくてんのう) |
屋島に於いて源平合戦があった時、平家の残党が遁れて来て此の地を永住の所と定め、安徳天皇を安したと云う。文政11年(1828)7月、宮本清三郎、丸尾五左衛門、岡崎清左衛門が檀主となり再建した、とある。
建立は塩飽大工による。 |
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神社正面の鳥居 |
安徳天皇を祀った本殿 |
神社前から瀬戸大橋を望む |
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9)大山神社 |
所在地 |
小阪1294 |
祭神 |
大山祗神(おおやまづみのかみ) |
昔、石工棟梁、大石九郎兵衛という者が本島の大岩に「小阪浦山之神 大明神」と刻みし大石を小阪浦の氏神と崇めた。塩飽大工により大山神社として昭和62年に再建した。崇敬者は約530人。 |
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島一番の大鳥居・境内に大きな記念石がある |
本殿・松の向こうに島一番高い小阪山が見える |
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寺院 |
1)正覚院(山寺) |
円熟した「塩飽大工」の手技が残されている。本尊は聖観音菩薩である。
この寺は島の中央を走る山の頂上にあり、延暦4年(785)桓武天皇の勅願により創建されたといわれる。真言宗醍醐派の大本山で修験の大寺院、天長9年(832)には聖宝がこの寺で生まれた。
聖宝は京都醍醐寺の開祖となった人で、後、理源大師の号を賜る。
御影堂(みえどう・理源大師)の上の山の中腹には左から大師堂(弘法大師)・金堂(聖観世音)・薬師堂(薬師如来)があるが、金堂の床下には織田・豊臣時代の水軍が乗り回した千石船の大きな舵そのものが梁に利用されていて、今でも外から見られる。庫裡玄関の彫刻は塩飽大工の作と言われ、棟梁
橘貫五郎を始め、生の浜の塩飽大工の作と言われている。 |
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高台にある大師堂・金堂・薬師堂 |
橘貫五郎作といわれる庫裡の彫刻 |
山門の横にある鐘楼 |
2)常福寺 |
生の浜の山腹にある常福寺は本尊が地蔵菩薩で、文政11年(1828)、塩飽大工で橘貫五郎の血縁である、生の浜の住人の長尾家と信原家が中心となって建立された。
常福寺は真言宗善通寺派で境内の五輪の塔は室町時代のものと言われ、古くて大きい。
鐘楼も島中で正覚院、持宝寺に次いで三番目に大きいものである。
境内の精霊堂も島中で一番古い。 |
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常福寺の山門 |
鐘楼 |
聖霊堂から瀬戸内海を望む |
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地蔵尊を祀っている本堂 |
室町時代の五輪塔 |
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3)持宝寺 |
大浦にある真言宗醍醐派の寺で本尊は毘沙門天である。
庭は松の木が盆栽風に林立し、奥のお堂には県指定文化財となっている阿しゅく如来像がある。
本殿は文政11年(1828)の建立で、玄関は寺として唐破風型になっていて豪華なつくりとなっている。
正門は、門の上に鐘楼があり、門を通るときに鐘楼をくぐる、見たことがないつくりのようだ。
また門の横には、馬小屋と小作人の部屋とが一緒になった長屋があり、国内で残っているのは、ここだけらしい。
この島は住職が托鉢に回るのでなく、広い水田を所有し小作人を使って耕田したと言われ、その名残りである。
大浦には塩飽大工が当時110戸中72戸もいて、棟梁も優秀な人材がいた。 |
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阿しゅく如来のお堂 |
持宝寺の山門にある鐘楼 |
人馬同居の長屋 |
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4)長徳寺 |
笠島の町並みから坂を降りたところに長徳年間(995〜998)の創建と言われた長徳寺がある。
本尊は木造阿弥陀如来で、平安時代の作である。
なお客殿の庫裡の屋根の棟瓦は、2匹の龍が約10mづつ向かい合っていて、中国風に刻印された長徳寺の名がある。
最近最後の塩飽大工といわれている笠島の高島昭夫氏が境内に庫裡を建てた。
境内には樹齢約500年と推定されているモッコクがあり、「ふるさとの名木」と大切にされている。 |
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境内の名木モッコク |
本堂「阿弥陀堂」 |
新築された精霊堂 |
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高島昭夫氏が建立した庫裡 |
屋根の棟瓦に飾られた龍と唐文字 |
山門の柱は鎌倉時代のもの |
5)東光寺 |
本尊の甲生の西にある真言宗醍醐派の寺で真言宗開基は弘法大師。
木造薬師如来像は国の重要文化財で、高さは1.42mある。
木造不動明王像や毘沙門天像は市の重要文化財である。
山門、本殿、仏殿も甲生の塩飽大工の建立である。 |
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東光寺の全景 |
山門から本堂が見える |
薬師如来像の収蔵庫 |
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6)寶性寺(ほうしょうじ) |
泊の山側にある寶性寺は真言宗醍醐派で、本尊は大日如来である。
当寺は弘法大師の草創で理源大師の開基である。
享保年間に火災にあったが、鎌倉時代建造の本堂は火難を免れ、現在の場所に塩飽大工によって移築された。
本堂の後方裏山(奥の院)には昭和の建立による「塩飽観音」がある。
咸臨丸でアメリカへ渡った石川家の菩提寺である。
現在、精霊堂が建立中であるが、この棟梁は塩飽大工
橘貫五郎の流れをくむ大工で、笠島の長徳寺の精霊堂を建立した一人である。 |
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山門と塩飽観音の石碑 |
本堂 |
山中にある塩飽観音 |
観音堂より
瀬戸大橋を望む |
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7)専称寺 |
笠島の町並みの坂を上り、城山登り口に浄土宗の専称寺がある。
本尊は阿弥陀如来である。
建永2年(1207)開祖である法然上人が法難にあい関白九条兼実の領地であった塩飽本島に流され寓居した遺跡の地である。
寛永14年(1637)、堂牢が悉く焼失し、後、塩飽大工により再建された。
境内に人名年寄吉田家の墓がある。 |
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本堂・法然上人が居住した |
人名吉田家の墓 |
寺の下の民家のこて絵 |
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8)来迎寺 |
泊海水浴場の高台に法然上人開基の来迎寺がある。
建永2年(1207)、法然上人がこの地に逗留された旧跡である。
京都 知恩院の末寺で本尊は阿弥陀如来立像で、慈覚大師の作である。 |
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来迎寺の山門 |
本堂 |
山門横の宝筐印塔 |
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9)阿弥陀寺 |
小阪の高台に海を見渡す、浄土宗の阿弥陀寺がある。
「弘法大師 御歳42才の砌、島々を御修行の時、当寺にて7日断食の際、阿弥陀如来の本尊をお造りになり供養された。寛永18年(1641)、それまで岩の御堂にあったものを木造の御堂を建立して祀った。」と、寛永18年、浮田勘兵衛の残した古文書にある。当寺は法然上人が高知へ配流の時、本島に立ち寄られ、笠島の専称寺に逗留されたが、小阪より出立の時、舳綱石に「南無阿弥陀仏」と爪彫なされ、阿弥陀寺へお祀りされた事蹟を残された。 |
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本堂正面と灯篭 |
本堂 |
鐘楼から小阪港を望む |
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10)惣光寺 |
塩飽総本山本島八幡神社の参道の入り口に真言宗醍醐派、惣光寺がある。
本尊は阿弥陀如来で開基は弘法大師である。
創立は元平元年(729)5月15日で島中最古の寺となっている。奈良興福寺の行基徒弟大僧正海順が住職す。
宮の浜浦八幡宮別当惣光寺となった。塩飽大工が本堂・客殿・庫裏を建立した |
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惣光寺の山門と鐘楼 |
屋根瓦に桃などの飾りがある |
本堂 |
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その他の建築物 |
1)塩飽勤番所 |
勤番所は、塩飽領を統治する役所として約200年前の寛政10年(1798)に建築された。
三方を土塀で囲み、前には小さな堀があり、道路に面して大きな長屋門、その右側に供部屋、番人部屋がある。
主屋の正面に式台があって、そこを上がると「政務の間」と呼ぶ事務室、奥は年寄の詰所と台所となっていて、左の縁側のところが罪人を調べる白州となり、長屋門に「ろうや」の跡がある。
全て塩飽大工によって建立され、石材や屋内の柱など正確無比で、古さが感じられない美しい建物である。 |
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2)夫婦倉 |
江戸時代に、薪廻船業を営んでいた「新屋」長尾茂平治が嘉永4年(1851)に建てたもので、生の浜の塩飽大工
物部喜代七が棟梁となって建築した。塩飽の廻船に関する貴重な建物である。
もと隣接地にあったが昭和63年10月、解体修理のとき、現在地に移転した。
二連式の珍しい形から「夫婦倉」と呼ばれている。
本家の長尾優氏は昭和天皇の侍従歯科医であり、倉の横に記念碑がある。 |
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生の浜「夫婦倉」 |
夫婦倉の入り口 |
倉の横に長尾優の記念碑がある |
生の浜の「カブラサキ鼻」 |
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参考資料 |
大月雄三郎氏「総社市 郷土風土記」 真木信夫氏「塩飽」
入江幸一氏「いっぺん来んかな」
新野 忠氏・黒川隆弘氏「堂宮大工」
堀家守氏「神社名鑑・寺院名鑑」 |
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