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ようこそ塩飽本島勤番所へ

塩飽勤番所 塩飽勤番所は我々の祖先、「塩飽の人々」がるいるいと今まで築いた功績がここに蓄積されており、私のホームページで一部を紹介します。
塩飽勤番所は、塩飽領を統治する役所として寛政10年(1798)に建築されました。当時三人の年寄が、交代で勤務したので勤番所といいます。勤番所とよぶ建物は、全国でここだけしか残っていない貴重な歴史遺産です。昭和45年に国の史跡に指定され、昭和57年には、皇太子殿下もここをご訪問になり、塩飽水軍の歴史をご研修なさいました。昭和52年に復元工事が施行された後は、歴史資料館として一般に公開し、本島観光の目玉となっています。館内には、信長、秀吉、家康らの朱印状、名奉行として知られた大岡越前守の漁場の裁許書、日本人の手によってはじめて太平洋を横断した、咸臨丸乗組員の遺品などの塩飽の歴史を物語る資料が展示してあります。

織田信長の朱印状
織田信長朱印状 織田信長朱印状
織田信長の朱印状は、塩飽の船が堺の港(大阪府)に入港すると、他国の船は75尋(ひろ・約100m)の間をあけて塩飽の船を通すこと、もしそれに違反した場合は処罰することを、天正5年(1577)に堺の代官に命じたものと言い伝えています。
当時の塩飽船の活躍と、信長がいかに塩飽水軍を重視していたかがわかる貴重な資料です。
この朱印状には、有名な『天下布武』の信長の朱印が押してあります。

豊臣秀吉の朱印状
豊臣秀吉朱印状 豊臣秀吉朱印状
豊臣秀吉の朱印状は天正14年(1588)九州の島津氏を征討するために、讃岐の領主仙石権兵衛とその将兵を派遣するから、50人宛乗れる船を10艘出すように塩飽の年寄に命じたものです。秀吉は天正18年(1590)に塩飽領1250石を650人の船方に与える旨の朱印状を発行しました。この人達を人名(にんみょう)と呼び、以来明治にいたるまでその子孫が塩飽を共有することになります。この朱印状は記録ばかりで現存しません。後に徳川家康から同じ趣旨の朱印状うけたので、そのさい引き替えたものだろうと言われています。

徳川家康の朱印状
徳川家康朱印状 慶長5年(1600)9月15日、徳川家康の率いる東軍と、石田三成を中心とした西軍併せて15万の軍勢が、美濃(岐阜県)の関ヶ原で激突し天下分け目の合戦がおこなわれました。塩飽の水軍は東軍について戦ったので、家康が勝利を収めると、年寄の宮本伝太夫、入江四郎左衛門の両名が、戦塵の消えやらぬ草津の本陣を訪ね、戦勝の賀詞を述べて引き続き朱印状を頂戴したい旨を申し出ました。家康は諸大名より先に祝賀に来たことを喜んで、大阪城で朱印状を渡すから、先に発って大坂で待つようにとのことで9月28日大阪城西の丸において交付されたのが、現在も残る左の朱印状です。二代将軍秀忠からも、寛永7年(1630)同じ趣旨の朱印状を受領していますが、以後は発行されることなく、明治に至るまで人名領が続きました。塩飽勤番所には上記のほか、秀吉が朝鮮に侵攻した文禄元年(1592)に船大工や船頭の徴用と荷物の輸送を命じた豊臣秀次の朱印状が3枚残っています。

東廻りの海路図
東しまわりの回路図 江戸時代中期は、塩飽の廻船が最も活躍した時代です。寛文11年(1671)に開発された東廻り航路は津軽(青森県)から太平洋を南下して江戸に至るもので、この海路図は東廻り航路に従事した塩飽の廻船が使用したもの。広げると約10メートルもあり、途中の港湾・河口・島・目標となる山々などを淡彩で書き、要所からの距離や通過できる場所などが記載されています。塩飽の廻船は、翌寛文12年(1672)に開かれた西廻り航路に主として従事し、東北の産物を日本海・瀬戸内海を通って大坂へ運びました。

高松藩との漁場論争の裁許書
漁場論争の裁許書 漁場論争の裁許書 漁場論争の裁許書
この漁場論争は瀬居島の沖に「かなて」と呼ぶ鯛のたくさんとれる漁場があって、ここの境界がはっきりしていないため、数10年にわたって高松藩と塩飽の争いが続き、遂に高松藩が幕府へ訴えました。当時幕府には、評定所という現代の最高裁判所にあたる機関があって、勘定奉行・町奉行・寺社奉行の合議によって裁決が行われました。判決文の要旨を記すと、『塩飽から”かなて”が塩飽のものだという証拠に差し出した書物は、申し伝えばかりで、塩飽の釣場と定めたものが一通もない。一方高松には、他国の釣船を番船をもって追い払ったという記録が、浦役所の書類に記入されているから、”かなて”は高松のものと思われる。しかし、”かなて”のすべてが高松のものだという証拠も高松にはない。よって今般定めるところは、瀬居島・小瀬居島と室木島の東端を見通し、西面は塩飽領、東面は高松領とし、鰆瀬は従来どうり双方の入会とする』この裁判に加わった奉行の中には、名奉行として有名な大岡越前守忠相の名もあります。又、八人の奉行が連判しているので、讃岐の方言で公認という意味で「はちはん(八判)」というのはこれから出ているといわれます。そして、この境界線は現在も守られています。

咸臨丸の模型と病死した乗組員の墓地〔サンフランシスコ ローレル丘〕
咸臨丸乗組員説明 咸臨丸の模型 乗組員墓地
200有余年の鎖国の後日本が開国して初めて海外に日の丸を掲げた軍艦を派遣しました。これが咸臨丸の太平洋横断です。咸臨丸は安政2年(1855)に幕府がオランダへ注文して建造した軍艦で、同4年(1857)春竣工し8月に長崎に入港、9月5日幕府に引き渡されたもので---『長さ:49.7メートル 幅:7.3メートル 100馬力 蒸気螺旋仕掛三本マスト625トンの木造船で大砲12門を備えていた。』---
乗組員総員96名のうち艦の直接操縦にあたる水主50名のなかに35名が塩飽出身者で本島は14名が参加しました。このように塩飽から多くの水主を出したということは、古くから幕府の船方として優れた航海技術を持っていたためです。この先輩たちの血を引いて今までに多くの船員を生み出し日本海運の発展に寄与してきました。

この文献は、塩飽勤番所顕彰保存会会長入江幸一氏の『塩飽水軍の島本島へいっぺん来んかな』及び米本 仁氏の「塩飽の島びとたち」から引用させていただきました。

この続きは次回をお楽しみにお待ちください。