瓶覗 第3-4号
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

設立準備会会誌
日仏野村小三郎学会
  第3号
2003.10.22発行
  発行者:日仏野村小三郎学会 設立準備会
東京理事:小川  
岡山理事:日笠  


★写真★

横浜−香港間:VOLGA号


香港-マルセイユ間:LA BOURDONNAIS号


小三郎一行が乗った船
小川  
 

小三郎さんたちの乗った船に関する情報は、彼らの引率の先生、シャルル・ビュランを追っている徳島の佐光さんが横浜の開港資料館で手に入れてくださった1870年12月8日付の『THE JAPAN WEEKLY MAIL』が最初のものだった。11月27日発のVOLGA号のマルセイユ行きの乗客リストの中に、引率のシャルル・ビュラン以下、13名の日本人の名前がローマ字で載っていた。例によってヘボン式のローマ字綴りが定着する前なので、つづり字はかなり実際の名前とは違っているが、それは以下のとおりである:
     Buland, Kashissamoura, Osaka,
     Founacchia, Ischimaron,Bekki, Namoura,
     Maeda, Thorie, Narasaki, Oganni, Mori,
     Mouracami, Naudzi
これを、実際の名前に綴りなおすと、
     Kashissamoura→Kashiwamoura→柏村庸之允)
     Osaka→小坂(勇熊)
     Founacchia→Founachoshi→船越(熊吉)
     Ischimaron→Ischimarou→石丸(三七郎)
     Bekki→戸次(正三郎)
     Namoura→Nomoura→野村(小三郎)
     Maeda→前田(壮馬)
     Thorie→Horie→堀江(提一郎)
     Narasaki→楢崎(頼三)
     Oganni→Ogunni→小国(磐)
     Mori→毛利(藤内)
     Mouracami→村上(四郎)
     Naudzi→Chaudzi→庄司(金太郎)
大阪兵学寮からの派遣は10名であるが、毛利、村上は山口藩、庄司は松江藩から藩費により派遣された者であろう。外務省外交史料館所蔵の航海人明細鑑にも、兵学寮からのメンバー(何故かこの文書に戸次の名前はなく、9名)に続けて、村上四郎、庄司金太郎の名前がある。

『THE JAPAN WEEKLY MAIL』には、乗客名簿にFor Hong Kong, For Saigon, For Marseilleとあったので、てっきりVOLGA号はマルセイユ行きだと思っていたのだが、その後にやはり佐光さんに教えていただいた、『お雇いフランス人の研究』(澤護著、敬愛大学、平成3年)の横浜寄航のフランス郵船についての記述によるとかなりの頻度で横浜港を出入りしているので、VOLGA号は横浜―香港間の船で、その先マルセイユまでは、別の船が航行していたのだと推測していた。

8月のマルセイユでの調査で、マルセイユ市立図書館所蔵のL’EGALITE紙、GAZETTE DU MIDI紙(どちらも1871.1.20日発行分、マルセイユ港 18日到着便)、そして、商工会議所資料室所蔵のLE SEMAPHORE紙(1871.1.19発行分、マルセイユ港の動き 18日到着便)の情報から、香港を1870年12月9日に発ったLA BOURDONNAIS号が乗り継ぎ便であろうということがわかった。残念ながら、フランス郵船の乗客名簿は散逸して商工会議所の資料室にはないそうなので確証は得られなかったが、ブールラレーヌ市議のシャプランさんがパリのヴァンセーヌの軍事史料館から得た引率のビュラン先生関連の文書の中にある1870年12月13日にサイゴンでうけとった公文書の日付は、香港から乗り継いだラ・ブルドネ号の行程とつじつまが合う。新聞にある、ラ・ブルドネ号の航路は以下の通りである(日付は出発日であると思われる):
     12. 9 香港
     12.14 サイゴン
     12.17 シンガポール
     12.24 Port-de-Galles(セイロン島の港)
     1. 2  アデン
     1. 8  スエズ
     1.11  ポートサイド

ところで、1870年12月8日付の『THE JAPAN WEEKLY MAIL』には、ビュラン一行の前に、次のような乗客の記載がある:
     T.E.Sameshima, Thioda, Goto, Yoskie,
     Nanerio, Yamada, Takenoske, Kino
これらの人物は、前号で紹介した1871年1月22日付のL’EGALITE紙とGAZETTE DU MIDI紙にあった日本の特命使節プリンス・サメシマとその一行であろう。プリンス・サメシマは初代外交官の鮫島尚信、二人目のThiodaはShioda、塩田三郎、Gotoは後藤常である。

さて、船の詳細であるが、これはまだ今後の課題である。マルセイユの商工会議所で、 HISTOIRE DU COMMERCE ET DE L’INDUSTRIE DE MARSEILLE, XIX-XX SIECLE, TOME VII, LE GRAND SIECLE DES MESSAGERIES MARITIMES』(マルセイユの商工業の歴史、19-20世紀、第7巻、フランス郵船の時代)(1992年、商工会議所編)と、◆HISTORIQUE DE LA FLOTTE DES MESSAGERIES MARITIMES 1851-1975』(フランス郵船の船舶沿革)(1979年初版、1997年版、COMMANDANT LANFANT著)という2冊の本に出会ったが、船の大きさ、年代による航路など、一致しない点が多く、一次史料にあたる必要がある。
VOLGA号                ´
製造年月日     1865.2製造     1864.11.21進水
長さ          98.4/88m     88/98.40m
幅           9.8m         8.3m
総トン数       1529tb, 885tn    1610
排水量        2280d         2280
推進力        1200馬力       1400馬力
乗客          一等 31     一等 31
             二等 16     二等 16
             三等 20     三等 20

LA BOURDONNAIS号
製造年月日     1863初旬    1862.7.27進水
長さ          88/82.9m     83/91m
幅           9.6m        9.40m
総トン数       1582tb, 951tn   1418
排水量        2000d        2066
推進力                   1600馬力
乗客          100         100

前回報告した小三郎一行が滞在したGRAND HOTEL DE MARSEILLEには、幕末以来マルセイユに到着した日本人は皆このホテルに泊まったのではないだろうか。幕末1864年の池田長発の使節団もこのホテルに泊まったという。この一行で、長い船旅の途中で病に倒れ、マルセイユで亡くなった横山信道(敬一)は、前田壮馬と並んでサン・ピエール墓地に眠っているのだが、使節団の物語を書いた『維新前夜 スフィンクスと34人のサムライ』(鈴木明著、小学館)にこの様なくだりがある:
------------------------------
益田進と一緒に、復一がもとの「グランドホテル・デ・マルセイユ」の前を通ると、ホテルのマネージャーが出てきて、
「私たちは、マラリヤにかかった貴国のサムライを心から看病したのに、何故、別のホテルに泊まるのか」
と訊いたのである。
益田はとっさに、
「そうか。あのパリスから随いてきたフランス野郎が、賄賂をとっているに違いない」
といった。賄賂はともかくとして、義に於ても、グランドホテル・デ・マルセイユの方に泊るが筋というものであろう。
益田はそのことを山内六三郎にいった。山内は、
「その通りだ」
と、池田に直言した。池田は間髪を入れずに、
「以前の旅舎に移ろう」
と、うろうろしている一行を尻目に、さっさとグランドホテル・デ・マルセイユに移ってしまった。そして、新しい従者としてついてきたフランス人パリーを、パリに追い返した。池田は、何事によらず、決断の人であった。
-------------------------------
義理を重んじる明治のサムライたちは、その後も横山信道を看病してくれた恩を忘れず、このホテルを使い、そして、前田壮馬もこのホテルでお世話になって宿主に見取ってもらったのであろう。




野村小三郎学事始(続)
野村小三郎。岡山市平井の墓標
----仏海院無極透天居士----
日笠  


★写真★

日本の墓標


(1)
墓標に『野村尚赫之墓』と刻まれている。小三郎の通称は「尚赫」(しょうかく)。
野村小三郎家の墓所さがしをはじめる前の私なりの予備調査によって、私は野村家の江戸期の先祖の墓所が平井地区にあること(実際に現存しているかどうかはわからなかったが…)註 △泙疹三郎の通称が「尚赫」であること註◆△覆匹鮹里辰拭そのことがなければ墓標は見つかっていなかったかも知れない。
平井地区は、後楽園の借景になっていることで知られる操山丘陵の西南端の地区。操山は岡山市街地東端から東に数キロにわたって連なる低くなだらかな丘陵。そのふもとは、どこも岡山市民の菩提(ぼだい)の場所。だが平井地区は、ふもとばかりでなく、丘という丘、頂上から山すそまで全山墓標で埋められている。岡山市最大の墓地。プロの石碑屋さんの言うところによるが、その数30万基。
墓所さがしも8日目(8回目)となったその日(2003.3.2)の夕刻近く。もうそのときは、小三郎の墓所さがしをすっかりあきらめて帰りかけ、車の道にたった。そのとき、「尚赫」の文字がいきなり目にとびこんできた。私は思わず「ウッソー」と息の多い叫び声をあげた。小三郎の墓標を発見した瞬間。しかしそれを発見というと正確でない。墓標は、道にむいてたっていた。私の正面に。小三郎は、あきらめて帰ろうとする私を呼びとめたのである。「尚赫はここにいるよ」と。実際に、車を置いている駐車場に向おうとしたそのときである。
小三郎と、かく不思議な出会いをしてから私は彼のことを調べ続けている。

(2)
その墓所に4基の墓標がある。一つは『野村藤右衛門尚志墓』。小三郎の父親。南向きにたっている。墓標の側面に「慶応2年丙寅4月23日」、「本源院学翁宗集居士」が記されている。この墓標は小三郎が建てたものと考えている。もう一つは小三郎本人のもの。これは西向きにたっている。墓標に刻まれているのは通称の「尚赫」だけ。時代が変ったことを示している。ちなみに野村家では「尚」の字が代々うけ継がれているがそれも小三郎までのこと。墓標は大きさもスタイルも親子ほとんど同じ(全体の高さ170〜180センチ)である。三つめは養子「景造」の墓標。小三郎の死後養子景造が家督を継いだ。だが景造のあとは、家督を継ぐものなく、墓標は、小三郎縁(ゆかり)の人田渕さんが建てた。 野村姓の墓標はこの三基。存在しているはずの野村家の江戸期の墓標はない。平井地区の別の場所にあるのだろうか。
この墓所に野村姓でない女性の墓標がもう一つ存在する。『阿井千賀之墓』。「明治十四年四月一日卒 五十九歳」、「春宵院梅室自香信女」と記されている。小三郎の墓標とならんでいるので母親?と思いたいが、アメリーレバン役場の死亡証明書によると母親の名は「おてる」という。阿井千賀と小三郎とのかかわりは現在のところ不明である。

(3)
さて小三郎の墓標。碑の左側面に「明治九年六月二十六日於仏蘭西卒 享年二十有二」、右側面に戒名の「仏海院無極透天居士」が刻まれている。
小三郎のアメリーレバンでの病没は、陸軍省から明治9年8月17日付で岡山県に通知され、その文書コピーが遺族に届けられた。そして翌年の6月6日に、アメリーレバンの墓標の写真が陸軍省から県を通じて遺族に届けられた。その写真は現在田渕さんの家で保存されている。ただし120余年の歳月で、写真は変色し、墓標の像の輪かくがほとんど見えなくなっている。
小三郎の形見は、この写真以外にはなにもないようだ。遺髪、遺品などが届けられた形跡はどこにもない。養子景造は、義理の親が明治9年6月26日フランスでなくなったという厳粛な事実に接して、縁の菩提寺(どのお寺さんか特定できていない)から「仏海院無極透天居士」の戒名を授かり墓標を建てた。景造は、明治13〜14年のころ重ねて自家のあちこちの地所を抵当にして借金している。小三郎の墓標の費用に当てたものではないかと推測している。

(4)
15歳でフランスに留学。そして再び故郷を見ることなく遠い異国の地で果てた。21歳という短い生涯。
1870(明治3)年。大阪兵学寮の第1次フランス留学生として選ばれた10人の生徒の一人。帰国後は、日本の近代国家創建の事業での活躍が期待されていた。しかし志なかばで病にたおれた。創刊号の「野村小三郎学事始」で筆者は、そのことを「・・・無事に帰国していれば日本陸軍のリーダーとして名をなしたとも考えられるが・・・」と書いている。しかし現在は、彼についてそのような面ばかりにとらわれてはいけないと思うようになった。彼は短い生涯ではあったが、立派な墓標とそこに刻まれた名をのこしている。アメリーレバンの大理石の墓標には「大日本陸軍生野村小三郎」。故郷の平井の墓標には「野村尚赫」そして「無極透天居士」。とくに故郷で名づけられた「無極透天」。これほどすばらしい名を得た人がこれまでいただろうか。私は知らない。
忘れ去られていた野村小三郎。短い生涯ではあったが、彼は名をのこした。
忘れられた小三郎の事蹟が掘り起こされ、いよいよ明らかになれば、明治の歴史の語り継ぎがどれほどゆたかになることだろうとつくづく思う。(2003.10.4)

註 …屐慳嵒諭κ唇羯格萃敢此‐綫険”婉瓠焚次乏童弔諒茵戞2山市中央図書館蔵。
昭和10年代、「岡山帚苔会」という郷土史家の設立した会が岡山市街地周辺の墓地、墓標調査をしている。その成果は「帚苔」(しゅうたい)と題するガリ版パンフとして発行されている。その帚苔会の中心に著名な郷土史家渡辺知水がいた。
本綴は同会の1942〜1943(昭和17〜18)年ごろの調査でパンフ発行されなかったものを知水が整理したものである。手書き。同綴に小三郎の江戸期の先祖の「野村小十郎尚高 享保14没」の墓標のあることが記されている。
小十郎が小三郎の先祖であることは、岡山池田藩文書(現岡山大池田家文庫マイクロフィルム)の『奉公書』によって明らかになっている。
昭和10年代に存在していた墓標が今は見当たらないということである。

註◆ー蟒颪冊子『岡山藩士族名簿』。岡山市中央図書館蔵。
昭和10年代(推定)に「廃藩置県」当時の岡山池田藩/岡山県文書(現岡山大池田家文庫マイクロフィルム)の調査により池田藩士族の維新改革による禄高の変化を調べ一覧表にする作業をした人たちがいる。著者不明だがこの表の中の1行に小三郎の分がある。
備考欄に「明治九年仏国ニテ死亡養子景造相続」の書き込みがある。これに小三郎は通称の「尚赫」で記録されている。筆者は原典に当たるべく池田家文庫マイクロフィルムを数万コマめくったが、当該資料はマイクロ化以前に散逸したのであろうか見当たらなかった。




★事務局から★
(編集後記)

野村小三郎一行をフランスへ引率した、大阪兵学寮のフランス語教師シャルル・ビュランの縁の方がみつかりました。
シャルル・ビュランは、幕末明治の日仏交流を扱った本には必ずといっていいほど名前は出てくるのに、「幕末から来日していたフランス公使館付の軍人で、横浜の語学所でフランス語を教えていた。明治になってからも、大阪兵学寮でフランス語教師だった」ということ以外、ほとんど手がかりのつかめない人でした。階級も、“護衛騎兵軍曹(後に中尉)” とか、“護衛曹長(後に少尉)”とか、本によってかなりのバリエーションがあり、何とかパリのヴァンセンヌにある軍の原本にあたれないかと思っていました。
ビュラン先生のお墓のあるブールラレーヌの文化財担当市議のシャプランさんのご協力で33枚の軍の文書が手に入り、階級についてはある程度疑問が解消され(日本にいる間に軍曹、少尉と昇任)、日本での暮らしや小三郎さんをはじめ生徒達の動向は、この縁者の方がお持ちの手紙などからわかってくるのではないかと期待しています。
手紙や軍の文書の内容は、この会誌の中で報告していきますので、どうぞお楽しみに!




秘色色
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


設立準備会会誌
日仏野村小三郎学会
  第4号
2003.11.7発行
  発行者:日仏野村小三郎学会 設立準備会
東京理事:小川  
岡山理事:日笠  


★写真★

フランス、アメリーレバンの墓標


野村小三郎学事始(第3)
------「歴史人物事典」の説明をあらためる------
日笠  


                  (1)
野村小三郎が、120年もたってから、遠いアメリーレバンから私たちを呼びよせた理由。

「よのなは 小三郎 こんにちよのことを小二郎とするものもあるが それはあやまりでござる くにに もどらなかった それがしゆえ わすれられるのはいたしかたない だが あれこれあやまりつたえられては いささか しんちゅうおだやかならぬ、、、、」

彼が不思議な力を発揮して、話してくれたことである。

(2)
少年小三郎の歴史的フランス留学。地元でそれはすっかり忘れられていた。歴史の風化という言葉がある。その風化は極地に達していた。忘れ去られ、なにごともなかったようになる。それを風化というのだろうか。否。そうとは言えない。だから風化は恐ろしい。虚構(ウソ)が大手をふってひとり歩きする。風化は虚構の格好の舞台なのである。
小川三枝さんから、アメリーレバンの墓標のことを知らされ、私は少年小三郎のことをはじめて知った。それで地元で発行の歴史人物事典なるものをひらいてみた。ところがその項目は「のむらこじろう」になっていた。別人ではない。参考までに、それを次に掲げる。
   『岡山県歴史人物事典』1994年
   10月3日 山陽新聞社発行
   ------------------------
   のむら こじろう 野村小二郎
   1835〜1876(嘉永6〜明治9)
   岡山市の人
   仏語の先覚者。岡山城下東中山下に生
   まれる。1871年(明治4)香川真一、津田
   弘道らに従い、森下龍三、石丸三七郎と
   ともにフランスに行く。小二郎は一行とわ
   かれてこの地にとどまって勉学、’76年(明
   治9)パリで没した。ときに23歳であった。
   (『岡山市史・学術体育編』)
   ----------------------------
地元の権威ある郷土史研究者の執筆。もし私が小三郎に呼ばれていなければ、これをそのままうけいれていただろう。しかしこの説明は、厳密にいって没年の1876年以外は、すべて事実でない。私は歴史の風化というものの有り様に、いささか衝撃をうけた。

(3)
これは、「岡山市史」に典拠しているから、それを見てみよう。
   『岡山市史 学術体育編』1964年
   (昭和39)3月31日 岡山市発行
関係の頁に「岡山藩遊学者調 池田家文庫書類」の項があり、その資料に記される遊学者の中から「後来、名をなした」もの19人をとりあげ、簡単な説明を付している。小三郎は19人の中に「小二郎」で登場している。その説明は何に典拠してなされているか不明。とりあえずそのまま下に引用してみる。
   「東中山下、森下龍三と一緒に、香川に
   従って仏蘭西に行き、この地にとどまって
   勉学、明治九年、二十三歳で巴里に歿」
前出「事典」はこの説明の孫引きでなりたっていることが、ここではっきりする。
今度はこの先が問題となるが、典拠不明でその追求は次第に先が暗くなるのはいなめない。しかし追求の手をゆるめては、小三郎がうかばれない。
しかしその前にすこし横道にそれさせていただく。
実は、この「市史」がとりあげた資料の「岡山藩遊学者調」なるものは、戦中の『岡山県教育史中巻 昭和17年(1942)5月31日岡山県教育会発行』が取りあげている。「同史」はこの資料によって遊学者の「一覧表」を作成している。そこでは小三郎は正しく「小三郎」で登場している。したがって前出「市史」が「教育史」に典拠すれば「小二郎」はなかったはず。私は次のように推理する。「市史」は資料の原本(オリジナル)を見たのだと思う。その際、原本の墨付を「小二郎」と読みちがえたと。
「歴史事典」の執筆者(歴史の研究者・記録者)が説明を他からの孫引きですませ、虚構をひとり歩きさせては困るが、たとえ一次資料を扱っても、解読不充分で虚構をつくりだすのも同じように困る。
「遊学者調」の原本は現在岡山大学附属図書館池田家文庫に『他所遊学取調』の表題資料として保存され、マイクロフィルムで閲覧できる。私は必要があって、これまでにマイクロだけでなく原本も熟覧したが、解読は、資料の奥が深くむつかしい。単に墨付の字体のくずれが判読しがたいというだけではない。『他所遊学取調』は表題は一つだが、筆の異なるA、B、C、D4通の巻紙墨付からなり、内容はそれぞれに異同がある。したがって「教育史」のように一つに並べて表にすれば問題も生じる。「一覧表」によれば小三郎は、「明治2年9月」と「明治3年7月」の2度遊学したことになっている。(同「取調」は期間を限って国内の遊学のみ取りあげている)しかし彼の国内遊学は兵学寮入学の一度だけである。
彼は「明治2年9月」(1869)、藩から「東京出府修行」を命じられる。この「東京出府」の具体的内容は、『奉公書』(「御奉公之品書上」・池田家文庫)小三郎分が欠損して空白。小三郎とともにフランスに留学した石丸三七郎の『奉公書』を見ると、そのあたりは、「明治2年6月8日兵部省より横浜において仏蘭西学伝習仰付られ」「同年同月同日横浜兵学校(学校と学所の二様の記載が『奉公書』等にみえる)へ罷越」(読みくだし)と記されている。小三郎の場合は、先輩格の横浜兵学所入塾生森下度太郎(池田藩権大参事。のちの大分県令森下景端の長男)の「代り」の出府(「遊学取調」)とされているから、小三郎はそれは、わずかの日にちの差はあるが、石丸三七郎と全く同じ横浜兵学所での仏蘭西学伝習であったことは間違いない。
この横浜兵学所入塾生は、この期大阪に兵部省兵学寮(のちに東京に移る。陸軍幼年学校・士官学校の前身)が設立され、そこに全員移る。小三郎も石丸三七郎も大阪兵学寮生徒となったのである。 では「明治3年7月」(1870)のことはなにか。それは大阪兵学寮の夏休業をおえた彼が帰省先から大阪に戻る「出立」の日のこと。その日(7月20日)がわざわざ「遊学取調」の一つに記されていたのである。「明治2」と「明治3」は兵学寮生徒としての一連のうごき。
話は飛躍するが、小三郎の「東京出府」・「大阪兵学寮入学」が、運命のフランス留学につながったことではある。

(4)
話を本筋に戻す。さてさて「市史」の虚構の根っこはどこにあるのだろう。
1877年(明治10)10月岡山県出版『備前略史』という書物。元池田藩権大参事成田元美の編集。ときの県令高崎五六の序文もある。本書「巻之二」の「明治3年」に藩士の海外視察の記事がある。1870年(明治3)の記事であるが、小三郎のことは取りあげられていない。この記事は、このときの国の海外視察(米欧)に、藩から権大参事香川忠武、大属津田弘道が加わったこと、それに「語学ニ通スルヲ以テ」藩士森下龍三(森下景端の次男。のち兵学寮教官に任ぜられている)が付随したと記している。視察は同記事によると、「明治4年5月6日」横浜出発、「明治5年9月29日」横浜帰着となっている。「岩倉使節団」に先だつ海外視察団である。
どうやら後の人がこれと小三郎らの留学を想像で結びつけたようだ。次の如きものもある。前出「教育史中巻」は「遊学生の派遣」の項で、この香川や津田の海外視察を、「岡山藩は、・・・・岩倉具視に随伴せしめ、海外視察を命じた。」としている。小三郎が香川らに随伴した事実も、香川が岩倉使節に随伴した事実もない。しかし市史などの執筆者の権威でもって事実でないことが事実の如く堂々と書かれる。事実でないから、その資料的根拠はどこからも得られていないはず。ずさんな典拠で歴史の虚構を構築する姿がここにある。
歴史の研究者や記録者が、研究調査対象事項の不明な点を推定で考えることは、学問研究の世界ではフツウによくあることである。推定は大胆にされてよい。しかしその推定はすくなくとも学問の科学の世界の言葉で言うところの仮説。それが間違っていないかどうか確かめる作業がどこまでも続く。当の「事典」や「市史」の説明には仮説を検証した気配は全くない。

(5)
「昭和10年」(1935)代。地元に明治維新期の資料を博捜(はくそう)した郷土史家がいる。その人たちの労作の一つは前(3)号「野村小三郎学事始(続)」で紹介した。ここでもう一つ『岡山県治記事』をとりあげる。
岡山県は立庁以来、何度か県政資料を集める事業をしている。「明治7年(1874)太政官達」の「歴史編輯例則」によるもの、次いで大正期の県年代期編集のための事業など。しかし折角の両収集資料(原本か写しか不明)は、県庁倉庫で死蔵され戦災ですべて烏有に帰した。しかしその一部は形を変えて保存されていた。
1937年(昭和12)に郷土史家たちがつどい岡山県郷土史学会が設立される。同会は翌年、倉庫の後者の資料により、『岡山県史稿本、上、中、下』をまとめガリ版刷冊子限定50部をつくった。1939〜42年(昭和14から17)には、同会の人たちは、やはりガリ刷りの『岡山県治記事全11冊』をつくる。この方は倉庫の前者資料によるもの。この二つが現在図書館等に保存されていて利用できる。ただこれは厳密にいって編集された写しであるから二次資料。
さてこの『岡山県治記事』の方に小三郎留学にかかわる資料が1件収められていた。岡山大学図書館池田家文庫にあるいはオリジナルがあるかとマイクロをさがしたが見つからなかった。したがってこの二次資料は、私にとって一次資料的価値をもつものとなっている。その1件は次。
   「同年十一月二十五日史官ヨリノ達ノ趣ニ
    因リ元岡山県東京出張所詰官員ヨリ上申
      当県士族
       石丸三七郎
       野村小三郎
   右之者共大阪兵学寮エ入寮中昨庚午七月以
   官費国へ被差遣留学罷在候昨日依御達此段
   御届申上候以上
   辛未十一月二十四日 岡山県史官御中」
貴重な資料。しかしこの1件だけでは、小三郎がいかなる経緯で、何のために、何国に留学したのかなど何もわからない。「・・・官費国へ被差遣」は「・・・官費仏国へ」のミスコピーではないかと思うが原本がないのでたしかめようもない。二次的な資料の限界である。原本(オリジナル)を保存することがどれほど大切なことか知ってほしい。

(本項付記)
この項の原稿を以上のように書き終ってからも、オリジナル資料にこだわっていたところ、県庁倉庫で烏有に帰した資料(後者)は副冊(控)で本冊は当時政府太政官正院に提出されており、それは現在国立公文書館内閣文庫に『岡山県史料(県治紀事)』として保存されているとの情報を得た。幸い元岡山県史編纂室が、そのコピーを持っていて、国立公文書館にわざわざでかけることなく閲覧することができた。その中に、ガリ版『岡山県治記事』の1件のオリジナル資料が存在していた。私の推定どおり「・・・官費国へ被差遣」は「・・・官費佛国へ」となっていた。原本(オリジナル)の保存の大切なことを改めて感じたことである。

さて「昭和10年」代、なかんずく県郷土史学会に参加した人々の労作が、市史などに反映することは予想されるところだが、この時期の市史に小三郎は登場していない。しかし、その市史の編集委員のひとりに著名な郷土史家岡長平がいる。県郷土史学会の幹事でもある。新聞記者、岡山市会議員、市文化財専門委員を勤めた経歴ももつ。氏の博識ぶりと話の面白さには定評があった。彼の書いたものには小三郎が登場している。
岡長平著作集第1巻『巷説・岡山開化史』岡山日日新聞社 1977年(昭和52)11月1日刊所収「洋行と遊学」。
「・・・・・この見学団(筆者註:前出『備前略史』にある香川や津田参加の見学団のこと)の世話役として、語学に通じてるので岡山藩士の森下龍三という青年が、ついて行っておる。権大参事森下景端の息子だ。池田筑後守長発(井原の殿様)が幕府の特使としてフランスへ赴くとき、もともと岡山とは本家分家の関係であるし、殿様同士も懇意だったので備前藩切っての秀才森下竜三、野村小三郎、石丸三七郎の三人を、むりに頼んで家来にして一行に加えてもらい、パリにとどまって勉学し、明治になると帰って来た、洋行経験者なのである。(後略)」 実際の話のように書いているが、「マユツバ」もの。典拠も示していない。この文の別のヶ所で『備前略史』も『他所遊学取調』も見たことはわざわざ記しているが、この二つの資料に見える話ではない。小三郎は1855年(安政2)生れ。長発(ながおき)のフランス行きは1864年のこと。もしこれがほんとうなら小三郎は9歳で留学ということになるが、事実でないのだから何をか言わんやである。
岡長平は「風聞(ふうぶん)」をいかにも実際にあった話のように面白く聞かせる天才。氏の著作集の題には、頭に「巷説」(こうせつ。風聞と同じ)がつけてある。そういう風聞が存在するのだとひらきなおられたら、なにもいえない。それにしてもこれは、と思うことである。
非常に著名な岡長平の書いていること。「市史」の編纂委員でもある。どうもこのあたりに当の「事典」の虚構の根っこがありそうだ。「歴史事典」がずさんな風聞だけでなりたっているとしたら問題だ。看過できない。たしかに風聞にもいろいろある。しかしいずれにしても、歴史の記録者、あるいは歴史の語り部は、真実を放棄することがあってはならない。大先輩諸氏に失礼ながらそう言わせてもらう。

(6)
半世紀をこえて虚構の説明が続いてきた。野村小三郎学会の設立で、なんとしてもそれに終止符をうちたい。
現段階(中間段階)で、冒頭にあげた「歴史人物事典」の説明を、とりあえず以下のものに改めなければならない。設立準備会の日仏における一次資料の掘り起こしと検証によって新しく明らかになった事実である。日仏の大勢の方々のご理解とご協力があってそれができた。心から感謝している。調査はまだ入り口。くわしい具体的な報告は、さらに調査が進んだ段階でいちいち典拠も明らかにしてすることになるだろう。学会へのご協力今後ともよろしく。

   〜〜〜〜〜〜

野村小三郎(のむら こさぶろう)
1855〜1876(安政2〜明治9)
----------------------------
○ 備前福岡生れ
父親は藤右衛門。知行400石。家督を継いだ小三郎も知行400石。しかしすぐに明治の改革で改正現石24石となる。屋敷は岡山城下東中山下にあった。しかしフランス役場の死亡証明書では「備前福岡生れ」とある。この点はいまだ謎。
○ 仏語の先覚者?
1869年(明治2)から、兵学寮生徒として仏語伝習する。しかし仏語伝習は幕府時代にはじまっている。また彼の仏語伝習の成果・成績はいっさいのこされていない。先覚者としてよいか?
○ 1870年(明治3)15歳で兵学を学ぶためフランスに留学 大阪兵学寮のフランス軍人教師ビュランの帰国にあわせて、急に留学することになった兵学寮生徒10人のなかのひとり。
○ 仏蒸気船ボルガ号で横浜出港
横浜出港 1870年(明治3)11月27日(陽暦。以下同じ)。12月8日香港着。香港で船乗かえか。スエズ運河経由ラ・ブルドネ号で1871年(明治4)1月18日マルセイユ着
○ フランスでの留学の足どり
現段階ではほとんど不明
○ 1876年(明治9)6月26日没
転地療養先の南仏アメリーレバンで病没。病名不明。満21歳。陸軍少尉
○ アメリーレバンの墓標
大理石の立派な墓標に「大日本陸軍生 野村小三郎墓」「明治九年六月廿六日卒」と刻まれている。墓地は永年取得
○ 岡山市平井の墓標
「野村尚赫之墓」「明治九年六月二十六日於仏蘭西卒 享年二十有二」法号「仏海院無極透天居士」

----------------------------------------
のむら こさぶろう 野村小三郎
1855〜1876(安政2〜明治9)
野村家の屋敷は岡山城下東中山下にあったが、フランスの死亡証明書では備前福岡生まれ。1869年(明治2)から、兵学寮生徒として仏語伝習。1870年(明治3)11月27日、数え年16歳のとき、大阪兵学寮のフランス軍人教師シャルル・ビュランの帰国に伴い、フランス留学した兵学寮生徒10人のひとり。翌年1月18日マルセイユ到着後、パリで兵学修行したと思われるが詳細不明。’76年(明治9)6月26日、転地療養先の南仏アメリーレバンで病歿。病名不明。享年満21歳。陸軍少尉。アメリーレバンの墓標には「大日本陸軍生 野村小三郎墓」とある。故郷の岡山市平井にも墓がある。法号「仏海院無極透天居士」
----------------------------------------




小三郎の墓標の石
小川  
 

八月には、アメリーレバンのリュセットさんと、小三郎さんの墓標の大理石を切り出したと思われる採石場へも行きました。
墓標の材質は、アメリーの隣町、セレの白大理石だと聞いていたのですが、墓石を彫った石工についての手がかりを探している過程で、お父様が石職人だったという、セレのボネイさんにたどりついたのです。
小三郎さんの墓標をつくった石職人のアトリエがわかれば一番だけれど、でも、墓標のような日本文字を彫るのは難しいですか?などの質問もしたいので、地元の職人さんを紹介してくれませんか?と、リュセットさんにお願いしていたところ、セレの役場から「以前、墓堀だったボネイさんという人がいるので、その人と話してみたらどうでしょう」と、リュセットさんは言われたそうです。ところが、ボネイさんは墓堀ではなく、話をするうちにお父様が石職人だったということがわかり、ボネイさんご自身は元軍人ですが、趣味が釣であったことから、セレの山奥にあった大理石の石切り場のことを知っていたのです。お父様は小三郎さんが亡くなってからの生まれなので、小三郎さんの墓石をつくった職人ではありませんが、セレの石職人についての一つの手がかりになりそうです。
セレの町から、リュセットさんのフツウの車(ジープなど山登り用の車ではなく)でそろそろと一時間も登ったでしょうか。ほとんど誰も通わないような栗の木山の山奥に、その石切り場はありました。
仮面ライダーのシーンに出てくる大谷石の採石場のようなところを想像していたのですが、山のわき腹に高さ1mほどのアーチの枠をはめられたトンネルの入り口がそれでした。トンネルを掘り進んだところに大理石があるのだそうです。人件費の採算が合わず、もう随分前に廃坑になり、山の重みに耐え切れず、ほんの1m先で上の土砂がくずれてトンネルはふさがっています。 ボネイさんによると、墓標を作るには少なくとも倍以上の原石が必要だそうで、こんな山奥のトンネルの奥から巨大な石を切り出す作業はどんなにか難儀だっただろうと感じ入りました。エキゾチックな日本の文字を彫ることについては、モデルとなる型紙があれば、どんな形でもそう苦労せずに彫ることができるのだそうです。これは、リュセットさんが調べてくれた現職の石職人、クロバトさんも同意見でした。
入り口周辺には大理石を切り出したときのカケラが土に埋もれており、サンプルを拾うこともできました。雨風にさらされてつるつるになった地表に出ている面は、アメリーの墓石そっくりです。

帰り道、あいていた車の窓から、見たこともないようなきれいなトンボが飛び込んできて、-------小三郎さんだ!と、みんなで言いました------しばらく一緒にドライブしました。




★事務局から★
(編集後記)

このような歴史調査は全く初めてだった私は、まず、とりあえず図書館で手に入る関連の書物を調べた。日仏の交流の歴史を扱った本やはとても少なく、しかも専門書がほとんどだったけれど、近所の区立の図書館は都の図書館からとりよせてかしてくれた。それらの本を読んでみてまず思ったのは、小三郎さんがパリで客死となっていること。生歿年が不祥になっていること。出発した年が明治3年と4年のものがあること。そして日笠さんの本文にあるように、小二郎となっているものもあること。などだった。
パリで客死というのだったら歿年だってわかりそうだし、いくら旧暦の時代だからといって、調べれば明治3年か4年かぐらいはっきりしそうなものなのに。。。
シロウトには理解できない状況だったけれど、きっと大本の原典があるに違いないから、それが見つかれば本当のことがわかるに違いない。と、防衛庁の防衛研究所の史料閲覧室へ行った。初めてで勝手が良くわからないけれど、とにかくその年周辺の文書を見れば出ているだろうと頁をめくっていたら、ちゃんと明治3年の派遣時の文書や亡くなった後のことが書いてある文書も見つかった。そこでも確認できたけれど、その後行った外務省の外交史料館の文書にも、変わった読み方の名前にはちゃんと振り仮名がしてあった。例えば一行の戸次はべっき(とつぎとされている)、小坂はおさか(こさかとされている)などである。同じ参考文献を見ているはずなのに、何故?とずっと不思議に思っていたら、それが孫引きの恐ろしさだと今回の日笠さんの説明でよくわかった。(小川  )




Counter