蜜柑色文字は報告書印刷後の書き込みです。


 
石丸三七郎

 明治3年、兵部省派遣で大坂兵学寮からフランスに留学を命ぜられた10人のうち、武官ではなく技師(陸地測量士)になった石丸三七郎について検証する。
 石丸三七郎は、フランスでは陸軍関係の学校に在籍は確認されず、帰国後もキャリア途中で陸軍省を辞職しているので、その後のことがまだつきとめられていない、10人の中では一番未確認要素の多い人物である。
 野村小三郎と同じ岡山の出身と言うことで、岡山の日笠俊男さんが出身地での詳しい調査を行ってくださった。フランス出発前については『日仏野村小三郎学会設立準備会会誌』(http://www.geocities.jp/silkroadocean1869)の日笠さんの論文をもとに、石丸三七郎の生涯の途中迄について今までにわかったことを紹介する。

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 基本となる公文書、「明治三年庚午九月ヨリ十月迠 外國留學生事件 兵部省大阪出張所」(防衛研究所史料閲覧室所蔵)の石丸についてのデータは:
  第一等生 岡山藩 石丸三七郎 廿一歳
  留學生分科 石丸三七郎 右造築学科
 すなわち、出発時の明治3年に数え年21歳、岡山藩出身で造築学を学習予定だった。


石丸三七郎の生い立ち
 石丸三七郎、通称義直は、上記の文書の数え年から逆算すると1850(嘉永3)年生まれとなる。
 鴨方藩士佐野貞蔵(知行100〜140石、物頭格)の三男として生まれ、長じて石丸家の養子になった。
 鴨方藩は、現・岡山県西部(山陽線鴨方駅)の鴨方に置かれた岡山藩の支藩で、岡山藩主池田光政の次男が備中に領地を分知されて成立した。石高は25.000石。小藩で独立性は少ない。陣屋は鴨方にあったが、歴代の藩主(池田信濃守)も家来の侍衆も岡山城下に常住していたので、三七郎の出生地も岡山城下であろう。
 ただ佐野家の屋敷の所在はまだ把握できていない。岡山大学所蔵の「池田家文庫」と呼ばれる史料群の中の一枚の岡山城下絵図(幕末)によれば、岡山藩士の石丸家や野村家は城下の弓之町(明治期の町名)に所在することが確認できるが、その図で鴨方藩士の屋敷は皆信濃守侍衆あるいは信濃守殿衆と記されていて具体的な家名がない。でもこの絵図で信濃守侍衆の屋敷数十軒が城下に散在していたことがわかる。
 佐野貞蔵の屋敷について、確かなことがひとつある。「佐野貞蔵 五番町角屋敷請取帳 慶応2(1866)年2月(旧)」(池田家文庫)という史料によると、この年佐野家は、五番町(弓之町の北に隣接する侍屋敷の町)の新しい屋敷をもらっている。この史料は、その立会人見届けの書状。請取った屋敷は、母屋七部屋(10畳1、4.5畳1、6畳4、4畳1)と五間長屋ひとつの広さである。侍屋敷では家主が折々かわる。この史料によって三七郎の実家は、1866年以降は、番町角に所在したと確認できる。
 三七郎の実家の家格は、「嘉永5年 家中分限帳」(『鴨方町誌』昭和30年所収)によると物頭格で100石取り。小藩ゆえ野村家の400石、石丸家の350石に比して多くない。なにしろ家老の石高が350石である。しかし地位は物頭で、藩の重役に次ぐ比較的高い役職である。軍隊でいえば部隊長、会社でいえば課長クラスだろうか。内容から明治2-3年のものと考えられるもうひとつの史料、「鴨方藩士族卒高取調帳」(永山卯三郎『岡山県通史(下)』昭和5年所収)によると、佐野貞蔵の知行高は加増されたのか140石となっている。ただ取りあげたこの「分限帳」と「取調帳」は、ともに「池田家文庫」に存在するものと考えるが、現在「池田家文庫」には見当らない。原本は散逸したのだろうか。そのためここでは両史料は、ともに二次的書物からの孫引きであることをお断りする。
 三七郎の実家佐野家が岡山城下番町にいつごろまで住いしていたかということは定かでない。明治改革の嵐は、佐野家にも容赦なく押し寄せる。佐野家の知行高は、明治の改正で現石18石となる。(「明治3年御支配帳(鴨方藩)」池田家文庫)貞蔵は1871(明治4)年隠居。倅の慎平(三七郎の兄と考えられる)が家督相続するが、そのとき慎平は「士族」を仰せ付けられる。
 三七郎は佐野家を出、石丸家に養子として入る。その石丸家の先祖に“歴世の功臣”と語り継がれている石丸平七郎定量(定量は通称あるいは筆号)がいる。石丸家の初代は伊勢の人で石丸令帰。初代のころは扶持の少ない侍だったが、代を重ねて400-350石の格式の家となる。平七郎定量は四代目。郷土史研究者などの間では、知らぬ人はいないだろうと思われる著名な人物で、実に三代の藩主に57年の長きにわたって仕えただけでなく、その間に備前の国の地誌『備陽記35巻』を完成させている。『備陽記』の緒言に「備前国之事跡委ク記ス者我未見之其国ニ生レテ其事跡ヲ不知余リニ歎カシ予若年ヨリ此事ニ志シ随所見聞是ヲ書集メシカバ漸ク小冊之書ト成レリ…」とある。完成は1721(享保6)年(復刻版から引用)。定量は77歳で隠居する。隠居後は変名して初代の令帰を名乗る。そのとき藩主から格別の「年久しく相務めしによって隠居を申付くるによって、此後は随分楽をして長生きするよう」の慰労の言葉をもらったという。(同前復刻版解題)彼はその言葉通り1748(寛永1)年90歳でこの世を去った。
 三七郎は石丸家の11代。定量の没後およそ100年の誕生である。でも三七郎が石丸家に希代の“功臣”がいたことを知らないことはないだろう。三七郎が測量技師の道を歩んだのも、この定量の因縁によるものだろうか。


出発前の石丸三七郎
 三七郎が石丸家350石の家督を相続したのは、1867(慶応3)年8月17日。まさに江戸時代終末の年である。相続の350石はたちまち明治になって現石22石となる。350石の格式の家がなくなったかわりに与えられたのは「三級下座」という実質のない名ばかりの格式だった。一方で主君に仕える身に待ちうけていたのは、日本列島をおおった戊辰戦争だった。
 1867(慶応3)年12月9日、石丸三七郎は主命により討幕派の拠点京都に派遣され、京都御所の側の「清和院御門」の警固につく。数え年18歳の時である。
 翌(1868)正月3日、戊辰戦争のはじまりとなる鳥羽伏見の戦いが起きると、徳川方の京都襲来のおそれの情報もはいり、三七郎は「小具足」着用(=戦闘態勢)で「清和院御門」に出張、正月21日まで警固にあたる。
 その後、3月に殿様のお供の行列に加わり大阪、京都に出張。同様の出動が、5月、7月、9月と続いている。
 石丸三七郎は新編成の藩の部隊の藩士のなかでは、リーダー的存在だったようで、1868(明治1)年7月に「壱番小隊嚮導」(隊列を組むときの基準となる人)に任ぜられ、翌(1869)4月に、「歩兵教授」兼任で「歩士銃隊長試補」(=見習い)に任命されている。
 戊辰戦争は5月に官軍の勝利で終ると。新政府兵部省は、6月8日、石丸三七郎に横浜兵学校での兵学修行(仏学伝習)を命じる。戊辰戦争終結わずか20日後のことである。その「御達書」(池田家文庫)には簡単に「兵学修行申付候事 六月 軍務官」とだけある。申付けられたのは、石丸三七郎と香河義郎の2名であるが、このとき、この2名に別の形で野村小三郎が加わり、岡山藩からは3名が横浜に出向く。  この横浜兵学校入学が、フランス留学につながる。
 彼のフランス留学は、自ら望むところであったかどうかは定かでない。しかし急ピッチで動いている新政府の明治富国強兵国家創建の大事業に三七郎が有能な人材として選ばれたことだけは確かである。

 ところで、三七郎の「三級下座」だが、これは維新変革のあだ花的な一時の措置である。江戸時代は人に上下尊卑の差をつける身分制社会。侍の上下尊卑の格付は、石高の多少でおのずと決まっていた。その石高は新政府がとりあげて突然なくなる。そのとき、彼等には平等社会の秩序のイメージなど持つべくもなかったから、侍の上下尊卑の序列をどう付ければよいか混乱する。会同の際の席次も定まらない。そうした混乱をさけるため、あるいは身分社会の秩序を保つためと言った方がよいかも知れないが、これまで持っていた石高の多少を9級にわけ、それを本級として名目ばかりの上下の格付をしたのである。(5000石以上1級、1000石以上2級上座下座。500石以上三級上座、300石以上三級下座という風に5級まで全部で9級にわける)
 一方職務についてはその上下を9等にわける。この方は実際の職務の内容で等級がつけられ、功績があれば等級も上がるという面がある。しかし本級の級数は基本的には変らない。職務から離れれば本級にもどるのである。三七郎の場合の実際は「三級下座、五等」(この「三級下座はすぐに「六級」に改められる」である。職を辞せば実質のない三級下座という家柄だけのこるということである。平等社会では家柄というものにはなんの価値もない。


フランスの石丸三七郎
 他の9人のメンバーと共に1870年11月27日(西暦、旧暦明治3年閏10月5日)、横浜港をフランス船籍のヴォルガ号で出発した石丸は、
 1870.12.08(20歳):香港到着
 1870.12.09(20歳):ラ・ブルドネ号に乗りかえ香港出発
 1870.12.14(20歳):サイゴン
 1870.12.17(20歳):シンガポール
 1870.12.24(20歳):Port-de-Galles(セイロン島)
 1871.01.02(21歳):アデン
 1871.01.08(21歳):スエズ
 1871.01.11(21歳):ポートサイド
と、各地に寄港し、1871年1月18日(西暦、旧暦明治3年11月28日)にフランス、マルセイユ港に到着している。マルセイユではGrand Hôtel de Marseilleに宿泊し、港に近いCAYOL Frères写真館で写真を撮った。Grand Hôtel de Marseilleは、港から上る大通りと駅から下る大通りの交差点にあり、治安悪化のため近年は閉鎖されていた。外見はそのままに、中を改装して警察署として使われるとのことで、2004年11月に訪れたときには工事途中であった。

(写真:閉鎖中のGRAND HOTEL DE MARSEILLE)

 一行メンバーの一人、小坂勇熊の息子、小坂狷ニ氏の手による『小坂千尋小傳』に岩倉使節団の山田顕義らと撮った写真があり、メンバーの何人かは早い時点から顔がわかっていたのだが、石丸三七郎の名前はなく、なかなかわからなかった。しかし、一行の楢鮖阿了丗溝陲北昌疋汽ぅ困離汽ぅ麁り写真が見つかり、何と、天然パーマであることがわかった。
 その後しばらくの足取りはわからないが、入江文郎の留学生名簿によれば、明治5年(1872)年の秋頃には、ニースの政府学校で普通学を学び、その後「築城学」を学習予定であった。
 兵部省文書でもう一人の「造築学」学習予定者である小國磐はエコール・ポリテクニークで学び工兵の道へ進んだが、石丸の場合は年長ということもあり、学校に入って学ぶよりも、ニースの政府学校での学習でフランス語に不自由しなくなった後、現場で陸軍の測量技術を学んだということだろうか。帰国後は武官ではなく、陸軍省七等出仕、測量技師の道を進むことになった。


帰国後の石丸三七郎
 三七郎のフランスからの帰国は、明治8(1875)年。すぐに陸軍省に出仕する。
 明治08(1875)01.15(25歳):帰朝命令
 明治08(1875)07.07(25歳):陸軍省七等出仕
その後、明治9年から明治19年まで陸軍士官学校、陸軍大学校の教官を勤めた。
 明治09(1876)10.06(26歳):参謀局第五課出仕被免、士官学校教官専務
 明治18(1885)(35歳):製版法調査委員会メンバー
        各種製版法を比較研究、写真電気銅版法を採用
 明治18年4月には学校の教授の教材を『泰西絵原 写景法』にまとめて出版している。写景法とは透視図法のこと。本人の巻頭の「例言」に、「初学ノ便ニ供セント欲ス」とある。またその内容については、「仏国学士ブイヨン氏ノ著作ニ基ク」と断っている。この種本は、フランスの国立図書館に所蔵されている、A. Bouillon著『PRINCIPES DE PERSPECTIVE LINEAIRE APPLIQUES D’UNE MANIERE METHODIQUE ET PROGRESSIVE AU TRACE DES FIGURES DEPUIS LES PLUS SIMPLES JUSQU’AUX PLUS COMPOSEES』のことだと思われる。フランスで少なくとも4版、スペイン語にも翻訳されているところを見ると、当時の透視図法のベストセラーだったということだろうか。
 そして、この書出版の翌年(1886)、三七郎は陸軍技師(測量師)に転任する。
 明治19(1886)05.22(36歳):五等技師に
 明治19(1886)07.08(36歳):陸軍五等技師奏任官五等
 明治22(1889)04.17(39歳):任陸地測量士
 明治27(1894)06.22(44歳):病気のため非職被命
 明治28(1895)03.11(45歳):依願免本官
技師の仕事は、1894(明治27)年まで。病気を理由にその職を解かれている。その後しばらくして技師を依願退職する。その年45歳である。
 技師は、技術関係の仕事を専門にする高級官吏の職名。彼は七等のちに五等で出仕しているからいわゆる旧制度の高等官待遇(奏任官)の官吏ということになる。彼がなぜ依願退職したのかは不明である。退職後の消息も不明である。これまでの経歴はみな政府の公文書によっているため、退職後のことが不明となるのである。
 『官員録』によると、おそらく官舎で引越しを何度かし、先にあげた彼の著作書の奥付では三七郎の住所は東京小石川区高田老松町三番地(現在の文京区目白台、文京目白台一郵便局あたりか)となっている。そこがはたして彼の終焉の地なのだろうか。陸軍省を辞めて以降のことは、今のところ全くわかっていない。




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