野村小三郎

(写真:『小坂千尋小傳』の中の野村小三郎の写真)

 明治3年、兵部省派遣で大坂兵学寮からフランスに留学を命ぜられた10人のうち、この調査のきっかけとなった、フランスピレネー山中の温泉施設付陸軍病院のある村、アメリーレバンで死亡した野村小三郎について検証する。
 2001年夏、報告者の元の留学先、フランス領北カタルーニャのペルピニャの下宿にたまたま滞在中、アメリーレバンの役場から電話がかかってきた。村の共同墓地に古い日本人の墓があるのだが、一度見に来てほしいというものだった。翌日現場を見に行くと、四角柱の先端がピラミッド状にとがった、現地の人の話では白大理石製の立派な墓だった。正面には「大日本陸軍生 野村小三郎墓」、向かって左側面には「明治九年六月廿六日卒」と刻まれていた。案内してくれた役場の人の話では、「共同墓地も近年手狭になり、世話をする人のいなくなった墓は整理の対象になる可能性がある」とのことで、「墓の主の子孫が日本にいないか調べてほしい」と言われた。目の前にある墓はとても立派だったので、日本に戻って人名辞典でも調べればすぐにわかるだろう。と、安請け合いしたのがこの調査の始まりだった。
 フランスの死亡証明書にあった「福岡」生まれを九州の福岡だと思い相談した西日本新聞の室中さんからこの「福岡」は岡山の福岡だと教わり、岡山は中国地方。中国地方の知人はこの方しかいなかったので、元中国電力の多田公熙さんにお世話になるなど、調査当初で右も左もわからずご迷惑をおかけした。
 その後、このお墓が40年来気になっているというアメリーレバン在住のシャランコン夫人を紹介され、現地にも関心を持っている人がいることはわかったが、役場の本心は「日本人に子孫を探してもらったが結局わからず、やむなく整理した」いらしい。調査を急ぐ必要があると、2003年になってホームペイジ(http://www.geocities.jp/silkroadforest1212)を開設して情報提供を呼びかけるとともに、アメリーレバンの管轄である在マルセイユ日本総領事館に事情を通報。ホームペイジからは、岡山の平井墓地30万基の墓の中から日本の野村小三郎の墓を探し出し、この項の出発前の野村小三郎について調べ上げてくださった日笠俊男さんの協力を得ることができ、マルセイユ総領事館は、たまたま付近を旅行中だった迫領事がまず墓参、その後、マルセイユから柳谷総領事、パリから石井武官が正式にお参りくださり、当面の整理は免れることができたと思われる。迫さんご夫妻にはその後も助成申請についてアドバイスをいただくなど、いろいろと相談に乗っていただいた。最初に一緒にお参りした藤原さん、江名さんをはじめとしてバルセロナから、また、ホームペイジを通じてお会いしたことのない方々が時々墓参してくださっているようだ。
 岡山出身の野村と石丸の調査は、日笠さんに任せきりで大変恐縮している。以下、フランス出発前については『日仏野村小三郎学会設立準備会会誌』(http://www.geocities.jp/silkroadocean1869)の日笠俊男さんの論文をもとに、野村小三郎の21年の短い生涯について今までにわかったことを紹介する。

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 基本となる公文書、「明治三年庚午九月ヨリ十月迠 外國留學生事件 兵部省大阪出張所」(防衛研究所史料閲覧室所蔵)の野村についてのデータは:
  第二等生 岡山藩 野村小三郎 十六才
  留學生分科 野村小三郎 右参謀學科
 すなわち、出発時の明治3年に数え年16歳、岡山藩出身で参謀学を学習予定だった。「第二等生」の意味はよくわからない。出発時24歳とある3人(堀江、楢、前田)と16歳の野村のあわせて4人は「第二等生」とあるのだが、年齢と関係あるのだろうか?


野村小三郎の生い立ち
 当初は、墓のあるフランスピレネー山中アメリーレバンの役場に残る死亡証明書と墓が唯一の手がかりだった。死亡証明によると備前福岡生まれ。父親は野村トウエモン。母はオテル。死亡日の1876年6月26日に21歳。享年から逆算した生年安政2年(1855)は、出発時の兵部省文書に見られる数え年17歳とつじつまが合う。ところが、その後の調査で、フランスで在籍していた「デカルト学校」の学籍簿が見つかり、それによると、生年月日は1856年(安政3)1月15日となっていた。こちらが正しいとすると、死亡証明書の死亡年齢とも日本の公文書とも計算が合わなくなる。学校に申告された年齢は往々にして便宜上の方便であることが多いので、ここでは月日のみを採用し、安政2年(1855)1月15日生まれであると考える。
 野村家は知行400石。慶応2年(1866)、父の死により家督を継いだ小三郎も知行400石。しかしすぐに明治の改革で改正現石24石となる。
 野村家の屋敷は岡山城下東中山下(現・東税務署近辺)にあった。フランス、アメリーレバンの役場の死亡証明書では、野村小三郎の出生地は「備前福岡」とあるので、屋敷のあった場所で生まれたのではないことになる。この点は謎だが、母の実家が備前福岡で、母が実家へ帰って出産したのではないかと現時点では推測している。が、父の藤右衛門についてはある程度の事がわかったが、母については今のところ「おてる」という名前以外全く手がかりがない。

(写真:岡山にある野村小三郎の墓)


出発前の野村小三郎
 岡山の平井墓地にある野村家の墓によると、父野村藤右衛門は慶応2年(1866)4月23日歿。小三郎が満11歳の時のことである。家督を継いだ小三郎は翌慶応3年(1867)、家の「大小二腰」を50両で質入している。この借金は、父親の墓標を立てるためではなかったかと考える。
 岡山大学附属図書館池田家文庫に「他所遊学取調」の表題資料として保存されている文書によると、野村小三郎は明治2年(1869)9月、藩から「東京出府修行」を命じられる。この「東京出府」の具体的内容は、「奉公書」(「御奉公之品書上」池田家文庫)に記されているはずなのだが、野村小三郎分はこの部分が欠損して空白となっている。野村小三郎と共にフランスに留学した同じ岡山出身の石丸三七郎の「奉公書」を見ると、「明治2年6月8日兵部省より横浜において仏蘭西学伝習仰付られ」「同年同月同日横浜兵学校(学校と学所の二様の記載が「奉公書」等にみえる)へ罷越」(読下し)と記されている。野村小三郎の場合は、先輩格の横浜兵学所入塾生森下度太郎(池田藩権大参事。のちの大分県令森下景端の長男)の「代り」の出府(「遊学取調」)とされているから、小三郎の東京出府も、日にちの差はあるが、石丸三七郎と同じ横浜兵学所での仏蘭西学伝習であろう。
 この横浜兵学所入塾生は、明治3年(1870)5月、大坂の兵部省兵学寮(のちに東京へ移転。陸軍幼年学校・士官学校の前身)に吸収され、そこに全員移る。野村小三郎も大坂兵学寮生徒となった。
 また、『岡山県治記事』に野村小三郎留学にかかわる資料が1件収められていた。岡山大学図書館池田家文庫の中にはそのオリジナルは見つからなかったので、この二次資料は一次資料的価値をもつものとなるが、次のとおり:
 同年十一月二十五日史官ヨリノ達ノ趣ニ因リ
 元岡山県東京出張所詰官員ヨリ上申
   当県士族
   石丸三七郎
   野村小三郎
 右之者共大阪兵学寮エ入寮中昨庚午七月以官費国へ被差遣
 留学罷在候昨日依御達此段御届申上候以上
 辛未十一月二十四日 岡山県史官御中
   「…官費国へ被差遣」は「…官費仏国へ」のミスコピーであろうが、この1件だけでは、野村小三郎がいかなる経緯で、何のために留学したのかなど何もわからない。


フランスの野村小三郎
 他の9人のメンバーと共に1870年11月27日(西暦、旧暦明治3年閏10月5日)、横浜港をフランス船籍のヴォルガ号で出発した野村は、
 1870.12.08(15歳):香港到着
 1870.12.09(15歳):ラ・ブルドネ号に乗りかえ香港出発
 1870.12.14(15歳):サイゴン
 1870.12.17(15歳):シンガポール
 1870.12.24(15歳):Port-de-Galles(セイロン島)
 1871.01.02(16歳):アデン
 1871.01.08(16歳):スエズ
 1871.01.11(16歳):ポートサイド
と、各地に寄港し、1871年1月18日(西暦、旧暦明治3年11月28日)にフランス、マルセイユ港に到着している。マルセイユではGrand Hôtel de Marseilleに宿泊し、港に近いCAYOL Frères写真館で写真を撮った。Grand Hôtel de Marseilleは、港から上る大通りと駅から下る大通りの交差点にあり、治安悪化のため近年は閉鎖されていた。外見はそのままに、中を改装して警察署として使われるとのことで、2004年11月に訪れたときには工事途中であった。
 野村の写真は一行メンバーの一人、小坂勇熊の息子、小坂狷ニ氏の手による『小坂千尋小傳』に岩倉使節団の山田顕義らと撮った写真があり、早い時点で顔がわかっていた。(冒頭で紹介)
その後しばらくの足取りはわからない。明治5年の兵学寮からの留学生はまず小学校に入学してフランス語を学んだようなのだが、明治3年の彼らについては既に政府学校の授業についていけるだけのフランス語力のある者が選ばれたので、小学校や中学校を経ることなくリセに入学してフランスの高等教育を受けたと考えることも可能である。そして、入江文郎のフランス留学生名簿によれば、明治5年(1872)年の秋頃にはデカルト学校で普通学を学び、その後「隊外士官学務」を学習予定であった。
 「デカルト学校」については、アメリーレバンの人たちによると「そんな名前の学校はフランスには山ほどあるので特定できない」とのことだったが、パリ市文書館を物色中、リセLouis le Grandが、丁度野村小三郎が在籍していた時期だけ「デカルト学校」と名乗っていたことがわかり、その後、同校の公式ホームペイジでも確認できた。リセLouis le Grandは、身近なところではシラク大統領が卒業した、今も昔もフランス中から優秀な生徒が集まる超名門校である。
  そして、デカルト学校の学籍簿から以下のことがわかった:
 1872.10.7(17歳):デカルト学校入学
   基礎数学Bクラス
   氏名:Nomoura Naohero
   出生地:Okaiama(Japon)
   生年月日:1856年1月15日
   入学日:1872年10月7日
   退学日:1872年12月31日
全て手書きなので、特に名前の「Naohero」はデカルト学校図書館のルデュックさん(同校ラテン語教師とのこと)にも見ていただいたが綴り字がはっきり判読できず、岡山の墓に刻まれた「尚赫」の「赫」の字は、「ひろ」がなまって「hero」とつづられたのか、と考えていた。
 この在籍期間中何回か試験を受けており、どの試験もクラスで一番の成績。
 基礎数学Bクラスは、試験科目は理系のみ(数学・物理)である。

(写真:デカルト学校、現・リセ・ルイ・ル・グランの中庭)

 ずいぶん短い在籍で、その後どこか違う学校へ転校したのかと思ったら、別の簿冊に生徒の出入り記録が書かれたものがあり、更なる足跡がわかった:
1872-73年度入: Nomoura Naotérou (のむら なおてる)
    P(寄宿生)
    El.B (基礎数学B)
    Bizen(Japon) 15 Janvier 1856(日本備前1856.1.15生)
    M. Kourimoto(連絡先、栗本氏)
 1872-73年度出: 31 Xbre(12月31日退学)
    Nomoura Naotérou(のむら なおてる)
    P(寄宿生)
    El.B(基礎数学B)
1873-74年度入: Nomoura Naotérou(のむら なおてる)
    Ex.l.(外部通学生)
    El.B(基礎数学B)
    Bizen (Japon) 15 Janvier 1856(日本備前1856.1.15生)
    M. Lelaix – 9, Impasse Royer-Collard(住所)
    (Lelaix氏方、Royer-Collard通り9番地)
 1873-74年度出には名前なし。
1874-75年度入: Nomoura Naotérou(のむら なおてる)
    Ext.l. (通学生)
    Sp.(特殊数学)
    Japon 15 Janvier 1856(日本備前1856.1.15生)
    (住所空欄)
 1874-75年度出には名前なし。
 氏名は先の簿冊では「Naohero」と読めたのだが、こちらの簿冊のよりはっきりした筆跡によると「Naotérou」すなわち「なおてる」と読める。岡山の墓石にあった「赫」の字は「てる」と読むということになる。
 また、初年度は「P」=寄宿生でその連絡先が栗本であったが、2-3年目は「Ext.l.」=通学生になり、「9, Impasse Royer-Collard」の「Lelaix」氏の家に下宿していた。
「9, Impasse Royer-Collard」はデカルト学校まで徒歩2-3分。楢鮖阿了猖柑の住所の近所であるし、当時の日本人留学生はこの辺りに多く住んでいたようだ。
 初年度に3ヵ月しか在籍しなかったのは、病気療養のためと考えられる。国立公文書館所蔵の公文別録明治6年(1873)10月27日「佛國留學生野村小三郎外二名ヘ病気療養費下渡」に「温泉で病気療養」とある。この療養でこの時の「病気」はよくなったのか、1874年の10月から再び「El.B」=基礎数学Bのクラスに在籍、そして1875年10月からは「Sp.」=特殊数学クラスに在籍した。

(写真:野村小三郎の住所、impasse Royer-Collard)

 当初の留学年限は5年間。出発から5年後の明治8年(1875)1月15日、一行の「柏村庸、石丸三七郎、堀口提一郎(堀江の書き間違い)、楢鮖亜廚砲狼朝命令が出ている。10人のうち前田、戸次は既に死亡。小坂はサンシール士官学校、舩越はエコール・ポリテクニーク在籍中、小國はエコール・ポリテクニーク受験準備中で帰朝命令が下らなかったことを考えると、野村もいずれかの軍の学校入学を準備中であったために帰朝命令が出なかったと考えられると思う。だとすると、入江文郎の留学生リストで「学科」の項目が野村小三郎同様「隊外士官学務」だった小坂のようにサンシール士官学校への入学を準備していたということか。いずれにしても、当初予定の5年の留学期間が経った時の帰朝命令に名前がなかったのには、病気以外に(病気だった楢鮖阿砲狼朝命令が出ているので)何か理由がなければならない。
 ところが、1874-1875年度の後期は試験を受けることのできない状態だったようで、試験結果の記入がなく、しかも名前が括弧でくくられ「(Nomoura)」と書かれている。1872-73年度のように退学記録がないので、この学年度は一応在籍はしたが、試験を受けることのできるような健康状態ではもはやなかったということか。
 そして、1875-76年度の入学記録がないこと、サンシール士官学校への入学願いも出ていないこと(入学の予定があったのなら、少なくともサンシール士官学校の手紙の記録が残っていそうだが、入学を希望する、入学を希望していたが病気で今回は見送る、などいずれも出てこない)を考えると、1875年の秋前にはもう学校に在籍する体力もないほど病が進んでいたということか。
 「Sp.」=特殊数学クラスは最終学年であるから、本来ならば1875年の10月からは上の学校に進学するはずである。ところが1874-1875年度の後期はほとんど出席できなかったので、もう一度1875-76年度に「Sp.」=特殊数学クラスを取り直して、小國磐のように1876-77年度の入学を準備する手はあったはずである。
 また、死後の「拝借金棄損」関連公文書に、野村小三郎は「少尉」とある。が、いくら探しても今のところ少尉任官の文書が見つからない。しかるべき学問は修められなかったが、死亡時「特旨ヲ以テ」少尉になったのだろうか。明治9年ならばかなり文書保存も整備されているのだが、まだ確認できないでいる。

 ピレネー山中の温泉のあるアメリーレバンの役場に残る野村小三郎の死亡証明書には以下の様に書かれている:
L’an mil-huit cent soixante seize et le vingt sept juin, à neuf heures du matin
devant nous Jean Forné Conseiller municipal remplissant la fonction de Maire
d’officier de l’Etat Civil de la Commune d’Amélie-les-Bains, Canton d’Arles-Sur-
Tech, départment des Pyrénées-Orientales, ont comparu les Sieurs Pierre Aussail
Employé aux Thermes Romains, âgé de cinquante trois ans, et Pierre Delcros
Loueur en garni, âgé de cinquante huit ans, domiciliés dans la présente Commune
et voisins du décédé lesquels nous ont déclaré que Monsieur Co-Sa-Bourau
No-Moura, Etudiant militaire, âgé de vingt un ans, né à Fouk-Oka,
Province de Bizéen, (Japon), demeurant à Paris, fils de fue To-emon
No-Moura et de feue O-Ter, Célibateire, est décédé le jour d’hier à midi
à l’Etablissement des Thermes Romains, dans la présente Commune. Notre
officier de l’Etat Civil , après nous être assuré du décès en avons dressé le présent
acte que nous avons signé avec les comparants après lecture.
 1876年6月27日午前9時、ピレネー・オリアンタル県、
 アルル・シュール・テック小郡、アメリーレバン村の戸籍係Jean Fourné、
 同村の住人で死者の隣人である、ローマ浴場勤務、53歳、Pierre Ausseil氏、
 家具つき下宿屋、58歳、Pierre Delcros氏が、
 小三郎野村氏、陸軍生、21歳、備前国福岡生まれ(日本)、パリ在住、
 故野村藤衛門と故おてるの息子が、昨日正午、
 同村のローマ浴場施設で死亡したことを宣言した。
 戸籍係が死亡を確認後、この証明書を作成、
 出頭者と共に読んだ後サインした。

 野村小三郎の下宿の大家さんPierre Delcrosの子孫は現在アメリーレバンのホテルのオーナーである。防衛研究所史料閲覧室所蔵の公文書にあった、小三郎死後「下宿の主人に大変世話になったので、お礼に金蒔絵の小箪笥を贈ることにする」という内容を確認したが、家にはそのようなものは伝わっていないとのこと。ただ、小三郎が世話になったPierre Delcrosは子沢山。子供の人数分の靴もないほどで、朝起きた順に子供たちは靴をはき、寝坊の子は一日裸足だったと伝わっているそうだ。大勢の子供の中にはひょっとしたら小三郎と同い年の子もいたかもしれない。16歳で故国を離れ、知る人の誰もいない異国の山の中で一人病に苦しむ小三郎を見て、他人事と思えず親切にしてくれたのだろうか。子沢山に悪い人はいないと常々母から聞かされているし…

 また、2003年春、マルセイユ総領事一行の墓参により、しばらくの間は処分を免れたと思われる共同墓地の墓標には以下のように刻まれている。他の三人の墓(パリ、フォンテーヌブロー、マルセイユ)は交通の便も良く、お参りにも比較的簡単に行けるのだが、何せアメリーレバンはピレネー山中の村。最寄りの鉄道駅ペルピニャからバスを乗り継がないと行けないような辺鄙な場所だ。フランス国内の温泉地としてはかなり知られている場所のようなので、仏日人を問わず、訪れる人がいることを役場にアッピールしていきたい。
 正面 大日本陸軍生 野村小三郎墓
 左側面 明治九年六月廿六日卒
 平面 ICI REPOSE    此処に眠る
     KOSSABERO NO-MOURA   野村小三郎
     Elève Militaire du Japon   日本陸軍生
     décédé à Amélie-les-Bains   アメリーレバンに死す
     le 26 juin 1876   1876年6月26日
     à lâge de 21 ans   享年21歳
     concession perpetuelle   墓の永年所有権取得
 現在野村家の墓を守っている田渕さんの家には、アメリーレバンの墓ができたときに撮られたと思われる、セピア色の写真が大切に保存されている。当時まだフランスに残っていた一行の留学生がお参りしたときに写真を撮り、小三郎の実家に送ったものだろうか。  岡山の墓に刻まれた小三郎の戒名は「佛海院無極透天居士」。抜けるように青いピレネーの空と、晴れの国岡山の空。一人ぼっちだった小三郎は、遠いけれどよく似た空を自由に行き来しているのだろう。

(写真:アメリーレバンの野村小三郎の墓。2006年夏撮影)




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