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入江文郎文書:二枚紙の留学生リスト


清書されたものの下書きだと思われていたからか、これまで余り注目されたことのなかったように思える留学生の名前が書かれた二枚紙の半紙について考察する。

二人を除き、この二枚の紙に書かれた名前は、明らかに兵部省-陸軍省からの官費留学生である。明治3年の10人*の官費留学生のうち、名簿作成時に生きていた8名(小坂、石丸、舩越、野村、楢、堀江、小國、柏村)と、明治5年の7人*(曽禰、渡辺、諏訪、廣、湯川、國司、長嶺)の官費留学生。残りの二人は、明治3年に官費ではないが官費留学生と同じ船で渡仏・留学した島根の庄司金太郎*と、やはり官費ではないが明治5年に渡仏・留学した小城の松田正久である。


1. リストの翻刻
二枚紙は、島根県立博物館の岡学芸員の御指摘通り、横長になるように真ん中で半分に折って見るように書かれており、メンバー構成からして、以下のような順番で見るのが妥当であろう。
田中隆二氏の『幕末・明治期の日仏交流――中国地方・四国地方篇(一)松江――』(渓水社、平成11年)では「國司政輔については名前のみでその他の記述がない」としているが、半分に折った裏に続くと考えなかったのだろうか?1枚目には清書版にはない追加の情報もあるのに、全く無視されているところも謎である:

山口縣岩國
 ゝ小阪勇熊
二十才
午ノ十一月廿八日佛國着千八百七十一年正月十八日
参謀学
佛國政府学校サンルイ在留「パリー」

岡山縣
 ゝ石丸三七郎
二十才
午ノ十一月廿八日佛國着
築造学
佛國政府学校在留「ニース」

廣島縣
 ゝ舩越熊吉
十八才
午ノ十一月廿八日佛國着
砲兵学
佛國政府学校「サンルーイ」在留「パリー」

岡山縣
 ゝ野村小三郎
十七才
午ノ十一月廿八日佛國着
参謀学
佛國政府学校デカルト在留「パリー」

山口縣
 ゝ楢嵜頼三
二十一才
<裏面に続く>
午ノ十一月廿八日佛國着
佛國小學校在留ニ?政府学校??
ニ通い稽古「パリー」
軍事刑律

 東京府堀江提一郎
二十才
午ノ十一月廿八日佛國着
軍事刑律
佛國政府学校在留「ムロン」

山口縣岩國
 ゝ小國磐
十七才
午ノ十一月廿八日佛國着
築造学
佛國政府学校在留「ムロン」

山口縣山口
 柏村庸
廿二才
午ノ十一月廿八日佛國着
砲兵学
佛國政府学校パリー

山口縣
 曽禰荒介
廿才
申ノ十一月廿六日佛國着
歩兵
佛國小学校在留ホンテンブロー
<もう一枚の紙に続く>

山口縣
 渡辺小三郎
廿才
申ノ十一月廿六日佛國着
築造学
佛國小学校在留ポントアズ

和歌山縣
 諏訪秀三郎
十八才
申ノ十一月廿六日佛國着
歩兵学
佛國小学校在留ポントアズ

山口縣
 廣乕一
ニ十才
申ノ十一月廿六日佛國着
砲兵学
佛國小学校在留ホンテンブロー

山口縣
 湯川温作
十八才
申ノ十一月廿六日佛國着
砲兵学
佛國小学校在留ボーヴェー

 國司政輔
十七才
<裏面に続く>
申ノ十一月廿六日佛國着
築造学
佛國小学校在留「モー」
(書き損じ?)

山口縣
 長峯正介
十八才
申ノ十一月廿六日佛國着
歩兵学
佛國小学校在留「パリー」

 松田正久
二十七年
軍事刑律、普通
明治五十二月一日着
マルク塾

ゝ庄司金太郎
十八才
午ノ十一月廿八日佛國着
築造学
佛國「ニース」政府学校在留


2. リスト作成時期
さて、このリストが作成された時期であるが、まず、明治3年留学生の10人のメンバーのうち、明治4年(1871)4月18日に死亡した前田壮馬*、明治5年(1872)10月25日に死亡した戸次正三郎*の名前がないことから、1872年10月25日以降。
更に、明治5年の留学生がフランスに到着(「申ノ十一月廿六日」=1872年12月26日)してからパリ近辺の小学校に入学するまでの時間を考えると、1873年に入ってから。
また、時期特定の手がかりとして、各学校の在籍記録での確認がありうるが、今のところわかっているのは:
野村小三郎のデカルト学校在籍*
1872年10月1日から12月31日、
1873年10月から一学年間、
1874年10月7日から一学年間
渡辺小三郎の「ホンタワース」校在籍*
明治6年(1873)1月28日から
明治7年(1874)9月のパリ転居まで
弘虎一の「ホンテースブロー」村學校在籍*
着仏後、
明治8年(1875)9月30日パリへ転居するまで
湯川温作の「ホーベイ」學校在籍*
着仏後、
明治7年(1874)パリ転居まで

以上の事から、このリストは早くても、明治6年(1873)2月以降に作成されたと推測される。


3. 小國磐のデカルト学校在籍
まず、一番注目される点は小國磐についてである。各種出版物には、「デカルト学校」に在籍とあるものもあるが、デカルト学校の学籍簿*には、野村小三郎の名前はあったが、小國磐の名前を確認することができなかった。学籍簿を保管している同校図書館によると、他の学校に在籍していて授業だけ受けに来るケースもあったが、その場合でも、籍のある学校の名前とともに、生徒の名前は記載されるはずとのことだった。そして、この下書き状のリストには、“佛國政府学校在留「ムロン」”とあった。「ムロン」は、今のところ定かではないが、フォンテーヌブローのあるSeine et Marne県の首府ではないかと思われる。デカルト学校のように古い学籍簿が出てくれば確認できる可能性は残っている。 また、清書されたリストも検証しなおしたところ、小國磐の「教師」=在籍学校欄は空欄であり、出版物の著者の誤解であることがわかった。それにしても、せっかく陸軍省の留学生のリストがあるのに、なぜその内容が清書版に反映されなかったのだろうか?


4. 年齢について
年齢については、明らかに事実と違って記載されている人がいる。
明治3年の留学生については、出発時、明治3年(1870)当時の年齢(かぞえ年であろう)が公文書*に残っている。このリストが明治6年(1873)に作成されたとすると:
・・・・・・・・出発時年齢・・・リストの年齢
小坂・・勇熊:::::21:::::20歳
石丸三七郎:::::21:::::20歳
舩越・・熊吉:::::17:::::18歳
野村小三郎:::::16:::::17歳
楢崎・・頼三:::::24:::::21歳
堀江提一郎:::::24:::::20歳
小國・・・・磐:::::15:::::17歳
柏村・・・・庸:::::22:::::22歳
グループの年少組は、おそらく数え年から西洋式の満年齢に直した年齢であろうが、年長組は明らかにさばを読んでいる。おそらくは、政府学校に在籍するための方便であろう。


5. 名前の漢字の書き違いについて
リストは入江自身が書いたものであるかもしれないが、筆跡鑑定などはしていないので、ひょっとしたら彼が書いたものではないかもしれない可能性がある。
官員録や公文書などでも、人名の書き違いは結構見られるが、同じ一行のメンバーの名前は少なくとも正しく書くのではないか? と、すると、リストを作成したのは、陸軍省の留学生たち自身ではなさそうだ。
小阪勇熊:小坂勇熊*
廣 乕一:廣あるいは弘 虎一*


6. 堀江提一郎の出身地
堀江提一郎の出身地は、静岡の磐田である*。当時既に東京に移住していたにしても、他のメンバーは皆、元の出身地が書かれているのに、彼だけなぜ元の出身地と違う「東京府」出身とされたのだろうか?
幕末に報國隊を組織し倒幕活動をしたのだが、徳川のお膝元である磐田は維新後も「徳川贔屓」の気風が強く、帰るに帰れない状況だったといわれている事と関係があるのだろうか?


7. 楢崎頼三だけなぜ小学校在留も併記なのか?
楢崎頼三と國司政輔は、苗字は違うが実家は同じ、実の兄弟であることがわかっている*。また、実弟の政輔の兵学寮入りに尽力した楢崎頼三の手紙が残っている*ことから、政輔の渡仏にも頼三が関与していると推測できるかもしれない。言わば、頼三は政輔の後見人のようなもの。政輔の欄に見られる「モー」はおそらくパリの北東50kmほどの距離にある町のことであろう。政輔の後見人としての頼三は、自分はパリの政府学校でフランス語修行をしながら、政輔の監督の為、モー村の小学校へも時々行っていた。と、解釈できないだろうか?


8. 政府学校「パリー」について
楢頼三、柏村庸の在籍した学校は「政府学校パリー」とされている。当時、パリには「政府学校」が複数存在していた。そのうち、これまでの調査で学籍簿などを確認できたのは、野村小三郎が在籍した「デカルト学校」と、清書されたリストに名前のある清水金之助が在籍した(このリストが作成されたときには在籍していなかったようだが)「シャルルマーニュ学校」の2校である。小坂と舩越が在籍した「サンルイ学校」については、彼らの前後の時期については学籍簿があるのだが、彼らの時期だけない。時期が時期だけに、普仏戦争からパリコミューンの混乱の中で散逸してしまったのか、何か別の理由があるのか、その簿冊だけ別のところに保管されているのか、更なる調査が必要である。まだ調査していない「政府学校」の学籍簿については、保管されていることを祈るばかりである。


9. ペア
全員ではないが、成年と未成年はペアになって同じ政府学校に在籍していたようである。
堀江-小國ペア ムロンの政府学校
石丸-庄司ペア ニースの政府学校
小坂-舩越ペア サンルイ学校
楢崎-國司ペア
明治5年留学生の方は、まだ年齢については未確認だが:
曽根-廣ペア フォンテーヌブローの小学校
渡辺-諏訪ペア ポントアズの小学校
長峯は一人だが、場所がパリなので、成人の同胞には事欠かなかったということか。
野村と湯川については後見人なし。野村はデカルト学校の記録から、湯川は少尉任官のときの公文書から、成績優秀だったことがわかっている。既にこの当時充分にフランス語力があったから、一人でも大丈夫だったということか。


10. 進路
進路について、明治3年の留学生には「参謀学」が二人、明治5年になると「参謀学」は一人もおらず、かわって「歩兵学」が三人いる。「参謀学」と「歩兵学」は、単語は違うが内容的には似ているのだろうか? 小坂は日本で参謀大尉になった後、組織編制替えで歩兵大尉になっている。
偶然かもしれないが、フォンテーヌブローの小学校に学んだ二人、曽禰と廣は、その後会計の道へ進んだ。


11. その他
以上が主な考察および疑問点であるが、他にも、小さな疑問点はある。
・小坂は「サンルイ」なのに、なぜ舩越は「サンルーイ」なのか?
・このリストでは「築造学」だが、兵部省文書では「造築学」、その他「築城学」となっているものもある。フランス語の「GENIE」の訳語に違いないが、まだ訳語が確定していなかったから文書によって違うのか?
・「軍事刑律」についても、兵部省文書他では「軍事刑法」となっている。これも、訳語が未確定だったからなのか?
(2006.5.9up)