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明治5年の陸軍省留學生7名の略歴2007.07.25up
(島根県古代文化センター『古代文化研究』15号より)

曾彌 荒助
嘉永2年(1849)1月28日生まれ。
長州藩家老職宍戸潤平の三男、長州藩士曾彌高尚(祥蔵)の養子。
明倫館に学び、戊辰の役では大村益次郎に属し、東北の野に転戦する。
明治3年(1870)大坂兵学寮入学。
明治5年(1872)9月に渡仏留学命令が下り、11月12日横浜出発、12月末にはフランス到着。
明治6年頃にはパリ近郊のフォンテーヌブロー小学校入学、それ以降の事は、今後調査予定。
明治10年(1877)帰国、陸軍省八等出仕し、会計局勤務の後、明治14年(1881)太政官に転ず。
明治26年(1893)から30年(1897)フランス駐剳特命全権公使としてパリに在勤。
帰国後大臣を歴任し、特に日露戦争の際の戦費調達を大蔵大臣として苦労する。明治40年(1907)9月、伊藤博文統監のもと韓国副統監就任。
明治43年(1910)9月13日胃癌により死亡。
享年62歳。

渡辺小三郎
嘉永2年(1849)9月28日生まれ。毛利元就の影武者として身代わりになった渡辺通の子孫の萩藩寄組の渡辺家嫡男(明治3年当時)。
明治3年(1870)6月、兵学寮入学。
明治5年(1872)9月に渡仏留学命令が下り、11月12日横浜出発、12月末にはフランスに到着する。
年が明けて明治6年(1873)1月28日、パリ北西Pontoise(ポントワーズ)の小学校に入学。
翌明治7年(1874)9月にはパリに転居し、1874-75年度と1875-76年度にLycée Fontane(ホンターヌ)に在籍。
2年間の在籍の後、明治9年(1876)11月にエコール・ポリテクニークの入学試験を受けるが落第。1年間同校教官工兵大尉ビッケー氏の個人教授を受け、翌明治10年(1877)には無事合格し、2年間在籍。在籍中の明治11年(1878)5月に帰朝命令が下るが、勉学途中ということで取り消される。エコール・ポリテクニーク修了後、陸軍少尉に任ぜられる。改めて明治13年(1880)2月に帰朝命令。
帰国後は陸軍省に出仕したが、間もなく辞職し、その後の消息は調査中。

諏訪秀三郎
安政2年(1855)12月28日生まれ。和歌山藩出身。
竹橋事件、閔妃暗殺の首謀者とされる岡本柳之助の実弟であるという。そのコネによるのだろうか、明治5年の陸軍省留学生7名のうち、唯一の非長州出身者である。
明治5年(1872)9月に渡仏留学命令が下り、11月12日横浜出発、12月末にはフランスに到着する。
明治6年頃にはパリの北Pontoise(ポントワーズ)の小学校に在籍。それ以降の事は、今後調査予定。
明治9年12月帰朝命令が下るが、マルセイユで官給旅費を浪費し、船賃までも使い尽くしながら、明治10年(1877)2月に帰朝。同年陸軍省に12等出仕、明治12年(1879)11等となるが、この年を最後に『官員録』からは名前が消える。12月には、ベルギー女との結婚願いを申し出、翌明治13年(1880)には再渡仏。
その後しばらくの消息は不明だが、明治33年(1900)年2月には、パリで旅館業を営んでいた。秀三郎の諏訪旅館はそれなりに繁盛したようだったが、昭和8年(1933)8月3日、ベルギーのエスコ河岸でピストル死体で発見される。自殺と処理されたが、謎は残る。

弘  虎一
嘉永三年(1850)6月生まれ。公文書には岩國藩出身とあったが、岩國藩の御家人帳に「広」も「弘」もいない。長府出身か。
明治3年(1870)6月、兵学寮入学。
明治5年(1872)9月渡仏留学命令が下り、11月12日横浜出発、12月末フランス到着。
フランス到着後明治6年頃から明治8年(1875)9月30日までFontainebleau(フォンテーヌブロー)村の小学校に在籍。その後パリに転居し、会計学本科を始業する。
明治9年(1876)6月からフランス陸軍省Intendent Militaire(会計局)で実地研修。
2年後の明治11年(1878)3月8日には陸軍会計軍吏補に任ぜられ、5月14日の帰朝命令に従い帰国。帰国途中の香港で湯川温作の死に立ち会う。
帰国後は順調に会計軍吏の道を進み、日清戦争(明治27-28年=1894年7月-95年4月)には第五師団監督部長(第一軍)として出征。
明治33年(1900)9月に近衛師団監督部長に任ぜられた後、翌34年(1901)4月予備役。
妻は青木周蔵養父研蔵の実娘千代子。
その後の消息を含め、詳しくは調査中。

湯川 温作
安政3年(1856)生まれ(推定)。
山口藩士湯川平馬の嫡男(明治3年当時)。
明治3年(1870)6月、兵学寮入学。
明治5年(1872)9月の渡仏留学命令により、11月12日横浜出発。12月末フランス到着。
その後、明治6年(1873)頃にはパリの北Beauvais(ボーベー)小学校に在籍し、この学校で成績優秀者第2位をとる。
明治7年(1874)にはパリへ戻り、Laurent?(ローラン)学校入学。ここでも成績優秀者第2位をとる。
明治8年(1875)10月、Saint Louis(サンルイ)中学校(Lycéeリセ)入学。
2年後の明治10年(1877)7月、Saint Louis中学校での学業を終え、秋からはエコール・ポリテクニークに在籍。ところが2年進級は病気のためかなわず、明治11年(1878)5月14日に帰朝命令が下り、帰国途中の8月5日、香港で死亡。香港に埋葬される。

國司 政輔
安政3年(1856)生まれ(推定)。
長門國阿武郡萩土原、林源八の家に生まれ、のちに國司平兵衛の養子となる。
明治5年(1872)9月に渡仏留学命令が下り、11月12日横浜出発、12月末にはフランスに到着する。
明治6年頃にはパリ北東のモー(Meaux)の小学校に入学。それ以降の事は、今後調査予定。
明治9年12月帰朝命令が下るが、マルセイユで官給旅費を浪費し、船賃までも使い尽くしながら、明治10年(1877)2月に帰朝。同年陸軍省に12等出仕、明治12年(1879)11等となるが、明治14年(1880)を最後に『官員録』からは名前が消える。
その後の消息は今後調査。

長嶺(池田)正介
のちに池田と復姓。三田尻出身か。
安政3年(1856)生まれ(推定)。
山口藩出身。留学時の長嶺姓は養子に行った先の姓であろう。
明治5年(1872)9月に渡仏留学命令が下り、11月12日横浜出発、12月末にはフランスに到着する。
明治6年頃にはパリの小学校に入学。その後はパリあるいはパリ近郊の政府学校で準備をし、明治8年(1875)秋からサンシール士官学校に在籍。2年間の勉学を終え、明治10年(1877)8月陸軍少尉となる。引き続きおそらくは出来たばかりのEcole Militaire Supérieureに進んだ。明治11年(1878)5月に帰朝命令が下るが、在籍途中だったために取り消され、フランスでの研修完了に伴い明治12年11月陸軍歩兵中尉に昇任し、明治12年(1879)11月フランスを後にし、翌13年(1880)1月帰国。帰国間もなく池田姓に復姓。一貫して歩兵の道を進み、明治23年(1890)2月には仏国在留公使館付を拝命。
明治38年(1905)1月に少将となり、明治40年3月予備役に入り、大正3年(1914)9月5日死亡。


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明治大坂兵學寮佛國留學生史研究会(仮)

このページでは、2004-2005年、笹川日仏財団から助成を受けた調査事業
日仏交流黎明期の解明
〜大坂兵學寮第一期留學生とフランス語教師シャルル・ビュランの足跡と業績〜
の調査結果の中から、当初の調査対象の留學生10人以外の人についての情報を中心に報告しようと思います。

10名と共に出発した県費留學の3人、
毛利 藤内
村上 四郎
庄司金太郎

調査の過程で浮上してきた、当初の10人以外の人々とは:
小坂勇熊の留学先、フランス「サンシール士官学校」生7名から、
1872-74 渡  正元
1875-77 長嶺(旧姓池田、後に復姓)正介
1879-81 原田輝太郎
1879-81 水野勝太郎
1885-87 閑院宮載仁
1887-89 久松 定謨

船越熊吉、小國磐の留学先「エコール・ポリテクニーク」生12名から、
1873-75 大田徳三郎
1877-78 湯川 温作
1877-79 渡邉小三郎
1888-90 馬場禎四郎
1891-93 松岡一松郎
1892-94 曽我 祐邦
1893-95 細川
1911-12 永持 源次
1920-22 相馬葵八郎
1920-22 ナガエ

以上の学校に含まれる、明治5年の陸軍省留學生7名、上記に含まれない者は4名、
諏訪秀三郎
渡辺小三郎
長嶺(池田)正介
弘  虎一
曾彌 荒助
湯川 温作
國司 政輔