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フランスに点在する日本人の墓
明治大坂兵學療佛國留學生史研究会(仮)篇



明治3年、開校間もない大阪の陸軍兵学寮からフランスへ公費留学した10人の日本人留学生のうち、4人が留学中に亡くなり、フランスの墓地にひっそりと眠っています。 此処では、その4人にまつわる歴史を中心にお話していきたいと思います。
もう一人。この10人を引率していたフランス公使館付軍人、Charles BULANDについても新しい事実がわかり次第随時、お伝えしていく予定です。

!おねがい!
此処に登場する人たちは、すべて実在の人物です。特に野村小三郎については、墓地が手狭になったとの理由で、129年守られてきたお墓が整理されてしまう恐れがあります。また、Charles BULANDは教え子が数百人いるにもかかわらず、軍人としての身分が低かったためか、その後研究がなされた気配がありません。 この二人について、また登場する他の人物についても何かご存知の方は、是非教えてください。
尚、戸次正三郎、楢崎頼三、前田壮馬のお墓も確認し、三基とも無事でした。



お知らせ


昨年末2004年3月の申請以来笹川日仏財団に二度の助成をいただいた調査内容を含む大坂兵学寮フランス留学生調査のまとめ『日仏交流黎明期の解明 大坂兵學寮第一期留學生とフランス語教師シャルル・ビュランの足跡と行績』が出来上がり、全国都道府県立図書館に寄贈しましたので、ご関心のある方は、最寄の都道府県立図書館へお問い合わせください。まとめ以降にわかったことはこちらのホームペイジで随時紹介していく予定です。

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明治3年兵部省留学生の略歴は  こちら Icon
明治5年陸軍省留学生の略歴は  こちら Icon
(2007.7.25up)

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『日仏交流黎明期の解明
  大坂兵學寮第一期留學生とフランス語教師シャルル・ビュランの足跡と行績』(印刷版)
の正誤表は こちら Icon (2007.1.30)

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人物紹介はこちらへどうぞ。(2007.1.16)
前田 壮馬 Icon
戸次正三郎 Icon
楢 鮖 Icon
野村小三郎 Icon
舩越 熊吉 Icon
小坂 勇熊 Icon
小國 磐 Icon
石丸三七郎 Icon
柏村 庸 Icon
堀江提一郎 Icon
シャルル・ビュラン Icon

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受け取りの返信があった図書館は こちら Icon

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各人の最新年表はこちらへどうぞ。(2007.1.13)
シャルル・ビュラン Icon
前田 壮馬 Icon
楢 鮖 Icon
堀江提一郎 Icon
戸次正三郎 Icon
柏村 庸 Icon
石丸三七郎 Icon
小坂 勇熊 Icon
舩越 熊吉 Icon
野村小三郎 Icon
小國 磐 Icon

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http://www.geocities.jp/silkroadforest1212/kochiに「明治の佛國留學生 前田壮馬」をupしました。(2006.5.22)

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http://www.geocities.jp/silkroadforest1212/iwakuniに「明治の佛國留學生 小國磐」をupしました。(2006.5.16)

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「入江文郎文書:二枚紙の留学生リスト」 Icon をupしました。(2006.5.9)

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人物年表整理(2005.12.26)

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<予告>
「日記帳」のページで、2004-2005年、笹川日仏財団から助成を受けた「明治大坂兵學寮佛國留學生史研究会」の調査事業、「日仏交流黎明期の解明 〜大坂兵學寮第一期留學生とフランス語教師シャルル・ビュランの足跡と業績〜」 の調査結果を中心に、その前後にわかったことも含めて報告することにしました。(2005.11.17)

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各人年譜改訂中(2005.7.4〜)
2005.4.21 山陽新聞:デスクノート「ラスト・サムライ」(2005.6.24up)
ゲストブックの「お墓への道」野村小三郎分追記(2005.6.15up)

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大久保春野の出身地を訂正(同郷の加藤様、ご指摘ありがとうございました)(2005.2.21up)

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ゲストブックに「お墓への道」をup (2005.1.5記入)

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第15回サンジョルディの夕べ文学賞ルポルタージュ部門受賞(2004.6.14記入)
この文学賞は、フランス領カタルーニャのペルピニャのÒmnium Cultural(カタルーニャ文化団体)が主催で、サンジョルディの日の催しの一環として毎年夕食会を開き、その場で発表されるものです。今年の発表は4月30日でした。ラジオ・アレルスという地元のラジオで募集のある事を知り、アメリーの野村小三郎さんのお墓から出発した、前田さんも含む留学生の捜索顛末記で応募しました。

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本件関連記事(2004.3.17記入)

2003.4.8 中国新聞
 「維新の志半ば無縁仏に フランスに眠る明治初年日本人留学生 墓消滅の危機子孫探す」 広島市立大の田中先生の投稿
2003.4.13 山陽新聞
 「旧岡山藩士の墓仏にあった 明治初期に留学、病没 現地邦人ら尽力、存続へ」

2003.7.3 西日本新聞 夕刊
 「同郷留学生の墓守れ 柳川から渡仏志半ば客死 没後130年過ぎ放置パリ県人会が奔走」
2003.7.7 西日本新聞
   「墓参なく整理のおそれも 仏に眠る明治留学生の墓 無念さ、寂しさに胸突かれ・・・」
2003.8.3 西日本新聞
 「パリ県人会子孫と面会 明治の留学生墓地存続へ奔走 高田町の戸次さん「仏訪ね弔いたい」」
2004.2.27 西日本新聞 夕刊
 「仏に眠る柳川出身留学生 歿後130年 子孫墓参 線香備え「ほっとした」」

2003.7.23 高知新聞
 「所感雑感 南仏にある前田壮馬の墓」
2003.12.2 高知新聞 夕刊
 「本県出身の明治政府派遣留学生 マルセイユに眠る前田壮馬 日本総領事館 高知市の子孫に墓の写真」
2003.12.11 高知新聞 夕刊
 「話題 130年を経て」
2003.12.12 高知新聞 夕刊
 「本県出身 仏に眠る留学生 前田壮馬の写真見つかる 洋装にまげ姿」


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2003年4月17日、マルセイユ総領事館による野村小三郎墓参りのセレモニーが行われました。このおかげで、すぐにお墓が整理されてしまう可能性はかなり低くなったと思われます。(ただ、村の墓所のスペースが足りないという根本的な問題が解決されたわけではありませんし、たとえ永年所有権を取得していても、100年経って世話をする子孫がいない場合には、お墓を整理することができるという法律があるそうなので、野村小三郎のお墓整理の可能性は依然消えてはいないのです)
「死者は生きている人の記憶の中だけによみがえることができる」という俗説があるそうです。だから、小三郎さんを含むこの五人の死者に少しでも関心を持たれた方は、是非、お墓のおあるうちにお墓参りをしてあげてください。

2003年4月末、野村小三郎さん以外の3人の日本人のお墓と引率だったビュラン先生のお墓を訪ねる旅に出ました。結局、その当時に亡くなった日本人のお墓は全部で6基見たのですが、中にひとつだけ、生年と歿年が皇紀で記されたものがありました。
皇紀は、先の大戦前に使われはじめたと思われがちですが、皇紀制定は明治5年11月15日だそうです。明治2年に年号を廃止して皇紀に一元化することが建議され、5年になってその通りに認められたのだそうですが、最終的には「皇紀に重点を置き、年号も併用」となったのだそうです。皇紀一元化を提唱したのは刑法官権判事津田真一郎(真道)で、明治2年4月に官選の諮問機関である集議院に「年号ヲ廃シ一元ヲ可建ノ議」を建議したそうです。余談ですが、津田真道は津山藩、岡山県の出身なので藩は違いますが、小三郎さんと同郷です。(以上、F隊員から教わりました)
それを考えると、皇紀についての制定があった以前に亡くなった方たちはともかく、明治6年以降に亡くなった方たちは、当時の明治政府が重点を置いて使用するように定めた皇紀を記すほうが自然だと思われるのですが、現実にはそうではありません。特に、この6人は、国費留学生が主ですので、そのことを考えると、年号で書いてあることのほうが、不思議のような気がするのですが、どうなのでしょうか?


きっかけ

南フランスのスペイン国境近いピレネーの山腹の山里アメリーレバンという村に、120年を超えて人知れず異国の地に眠る一人の日本人のお墓がある。
墓石には日本の文字で「大日本陸軍生 野村小三郎 墓」とはっきり刻まれており、向かって左側面には「明治九年六月廿六日卒」とある。
村の共同墓地にあるこのお墓は、近くに住む婦人が40年来訪れる以外、誰の目を引くこともなかった。
この日本文字の墓石(高さおよそ1.6メートル、およそ45センチメートル角の白大理石造)の前には、地面の上に畳一畳ほどの大きさの平墓石があり、そこに刻まれているフランス語の文字はほとんど消えかかっているが、次のように判読できる:
此処に眠る/野村小三郎/日本兵学校生徒/アメリーレバンに死す
1876年6月26日/享年21歳/墓の永年所有権取得
この日本人のことについては、現地でもわかる人はもういないようだが、村役場には死亡証明書が保存されている:
1876年6月27日午前9時、ピレネー・オリエンタル県、アルル・シュール・テック小郡、アメリーレバン村役場戸籍係職務の町議会議員、ジャン・フルネ氏、ローマ温泉職員、ピエール・オサイユ氏(53歳)、アパート宿主のピエール・デルクロス氏(58歳)が出頭し、野村小三郎氏(日本兵学校生徒、21歳、備前国福岡生まれ、パリ在住、故野村藤右衛門と故野村おてるの子息、独身)が、きのう当村のローマ浴場施設で死亡したことを宣言した。戸籍係は死亡を確認後、この証明書を作成し、出頭者と共に読み上げて署名したものである。


Icon 氏名/ニックネーム
meijijidai 
Icon 登場人物1
野村小三郎(AMELIE-LES-BAINS) 
Icon 登場人物2
戸次正三郎(FONTAINEBLEAU) 
Icon 登場人物3
楢崎頼三(MONTPARNASSE) 
Icon 登場人物4
前田壮馬(MARSEILLE)  
Icon 登場人物5
シャルル・ビュラン(BOURG LA REINE) 
Icon 時代
幕末最末期〜明治9年 
Icon 帰国した残り6人
石丸三七郎、小國磐、小坂勇熊、柏村庸之丞、船越熊吉、堀江提一郎 
Icon その他の人々
山澤静吾、太田徳三郎、 
Icon 捜索は続く
 
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☆登場人物1 野村小三郎

野村小三郎 Icon

1876年(明治9):
06.26 AMELIE-LES-BAINSにて病死。

明治十三年十月十二日
伺士第千八百0一号
陸軍少尉故野村小三郎同湯川温作先年仏国留
学被仰付 地在留中罹病野村小三郎ハ明治九
年六月同国アメリーニ於テ死亡湯川温作は十
一年八月帰朝之途中香港ニ於テ死亡致候然所
両人病中療養諸費埋葬料謝儀等別紙之通官金
拝借致居候ニ付返償之儀各遺族 相達候所何
レモ貧困ニテ何分返償之目途無之被下功之 
願申出候ニ付猶実地情想取調候所相違モ無之
事情悠然之至ニ付本年五月陸軍中佐故益満行
靖拝借金之儀に付御指令之例ニ準シ特別之御
詮議ヲ以右拝借金其儘下賜候様致度此段相伺
候也  別紙略之
御指令 十月廿七日
伺之趣聴届候事

と、陸軍の文書にも残っているのに、何故ほとんどの事典、研究書では「パリにて死去」になっているのかということも、解明していきたい謎の一つです。
→ 現在のように国立公文書館が門戸を開いておらず、「太政類典」「公文録」などの史料にアクセスできなかったのかも?


☆登場人物2 戸次正三郎

戸次正三郎 Icon

1872年(明治5年):
11.25(旧暦10.25) フォンテーヌブローで死去(死亡年齢は出発時の日本側の公文書によると数え年24歳のはずだが、フランスに残る死亡証明書によると18歳。)
フォンテーヌブロー墓地の墓石の名は「戸次親任」(べっきちかと)

名前の読みは”べっき”です。人名辞典や渡航者名簿のようなものでは”とつぐ”などとされていますが、兵部省文書、外交史料館所蔵文書、死亡証明書、墓誌など、全て”べっき”となっています。



☆登場人物3 楢崎頼三

楢 鮖 Icon

桂太郎の親友:
帰朝の途次仏都巴リを過ぐ。而して に志を同くして語学所に入校したる親友楢崎頼三は、陸軍幼年学校に止まりしが、素志を達して仏国に留学中なり。我は本国を去てより初めて此人に遇ふを得、互いに久カツを叙したり。楢崎は仏都に来りて既に二年以上に及び、仏国の事情にもよく通じたりしが、不幸にして健康を損じ居たるを視て、我はカレを勧めて、兄は我より齢二年早く生まれたれば、申さば晩学にて、到底兄が多病の身を以て青年者と学事に競争するは難し、兄は事を為さんとするこそ前途の志望となるべけれ、然らば先づ学業をすてテ事を為す方鍼を執り、我と共に帰朝すべしといひしが、カレ敢て可かず、留まりて仏都に在りて猶も学事に勉め、且競争上我に一歩をコエて進まん為め、暫く仏国に留りたる上、更に伯林に至りて普国の兵制をも研究したる後帰朝せんとの志を懐きしなり。 くすれば仏普二国に就て研究の功を積み、我に一歩をコゆるを得べしとの競争の点より出たり。故に我は遺憾ながら病める友を伴い帰朝する能はず、別れを告げて仏都を去れり。楢崎といふ人の我が為には親友にして、また益友なり。且競争の友なりしことは、此一事にても知るに足れり。然るに楢崎は天之に寿を仮さずして、幾くも無く鬼籍に上りしが、まことに惜むべく悼むべきことなりし。
(『桂太郎自伝より』)



☆登場人物4 前田壮馬

前田 壮馬 Icon

マルセイユ、サン・ピエール墓地の墓石の名は「前田元行」

西暦1864年2月4日(文久3年12月27日)に出発した池田使節団の一員、横山敬一(墓石名は信道)が同様にマルセイユに到着直後、黄熱病で亡くなっていることから、前田壮馬の死因も黄熱病ではないかと考えられるかもしれない。が、高知の郷土史家、平尾道雄氏によると死因は結核。本当のところはまだ不明。



☆登場人物5 Charles BULAND


ブュラン君之事に付而は 足下等に代り 国帝之軍族ミニストル之恩顧を願ふべし 彼是まで絶へす足下等を補助し 厚情親切を以て敏捷に注意せしことば 諸子之眼前に於而余か欣喜深き証を彼に示さんこと甚栄ありとす 故に教師及生徒輩も各其褒賞を得へし
(塩田三郎訳)

  第二次フランス軍事顧問団の一員であったLouis KREITMANN氏のお孫さんで、マルセイユ在住のPierre KREITMANNさんに送っていただいた資料、および、Bourg-la-Reineの共同墓地、役場に残る史料、軍事史料館所蔵文書などにより、大阪兵学寮フランス語教師のスタメンの一人であったビュランの消息を追っていきます。

1834年04月09日 パリで生まれる。

シャルル・ビュラン Icon

1871年04月11日 Auch(フランス南西部)で死去。

1873年12月22日 パリ近郊Bourg-la-Reineに埋葬される。

大変残念なことに、1975年、ビュラン先生のお墓は誰もあとを見る人がいないと確認され、1990年に別の人のものとなってしまいました。
ただ、共同墓地、役場の担当者のご協力により、現在先生の人生の記録を調査中です。
シャルル・ビュランの墓所取得から100年後、墓の世話をする者がいなくなり、墓所を整理することになったとき、シャルルの妹マリーの嫁ぎ先の墓所へ、両親と共にお骨は移されたということがわかりました(05.02)。



☆帰国した残り6人


石丸三七郎 Icon ニース政府学校は全仏に80余りあった公立リセの一


小國 磐 Icon
 安政3年(1856)生まれ。岩國藩士小國次郎左衛門頼寛の長男。
 フランスへ出発した1870年11月当時は数え年で15歳。一行最年少だった。大坂兵学寮入学時期は不明だが、兵学寮生徒として渡仏。
 フランス到着後、明治6年(1873)頃には、年長の堀江提一郎とともにパリ近郊のムロンの政府学校に在籍。
 その後ずっとムロンの政府学校に在籍したかどうかは不明だが、明治9年(1876)秋には船越熊吉と入れ違いでエコール・ポリテクニークに入学。2年後の明治11年(1878)秋には卒業し、続けて砲工実施学校で学んだものと思われる。
 帰国は明治13年(1880)11月。陸軍大学校、陸軍砲工学校教官をはじめとして、工兵の道でキャリアを積む。
 明治33年(1900)4月24日には陸軍少将となるが、その後間もなく病気休職し岩國に帰郷。
 東京からフランス人医師を伴って療養にあたったが、翌明治34年(1901)2月2日死亡。享年45歳(推定)。墓は岩國の普済寺にある。
(島根県古代文化センター『古代文化研究』15号より)(2007.7.14up)

小坂 勇熊 Icon 山縣有朋(中将)新興日本陸軍建設のこよなき相談相手

柏村 庸 Icon
 庸之允と名乗っていたときの「庸」は「ツネ」と読むようだ。
 嘉永2年(1849)生まれ。山口藩士族柏村数馬(のち信)の子。
 父の実弟に明治新政府の参議廣澤眞臣がおり、このコネで横浜語学所入学およびフランス留学メンバーに加えられたと考えられる。
 フランス到着後、明治6年(1873)頃にパリの政府学校に在籍していた以外のことは一切わからない。ベルギーにいた可能性もある。
 予定留学期間の5年後である明治8年(1875)には帰国。
 士官学校教官を経て、おじ廣澤眞臣は既に暗殺されていたが、2年後の明治10年(1877)4月には陸軍少佐に任ぜられるというスピード出世。
 明治13年(1880)3月には、獨逸國公使館附を仰せ付けられる。
 そのドイツ公使館付武官の赴任中に知り合ったNatalie Hermine von Langen嬢と結婚するために、日本の妻子を離縁。
 明治15年(1882)にドイツからの帰朝命令を受けたが結局帰国せず、陸軍省も免官となる。
 その後明治21年(1888)、有限会社品川硝子会社設立時の社長となる。
 この会社は長続きせず、結局ベルリンに戻り、下宿屋を営んで彼の地で一生を終えたと思われる。
(島根県古代文化センター『古代文化研究』15号より)(2007.7.14up)

舩越 熊吉 Icon
 安政元年(1854)4月22日、現・広島県呉市広長浜で宇都宮勘右衛門の三男として生まれる。
 慶応4年(1868)3月、神機隊(広島藩の農兵隊)に入隊し、翌明治2年(1869)、船越衛に従って東賊を討つ。
 戊辰の役後の6月に横浜語学所へ入学、翌明治3年(1870)8月には助教見習を申し付けられる。
 フランス到着後は、明治4年(1871)の夏にはニースにおり、明治6年(1873)頃にはパリのサンルイ学校で学び、明治7年(1874)、理工系のエコール・ポリテクニークに合格し2年間在籍、大変優秀な成績を残す。エコール・ポリテクニークを卒業したことで、陸軍省(日本)から陸軍少尉を任ぜられる。その後フォンテーヌブローの砲工実施学校で実践を学ぶが、1年後の明治10年(1877)10月には卒業。その年末には帰国する。
 帰国後は士官学校教官をはじめとして砲兵畑を歩む。
 帰国後の明治12年(1879)12月に改名して舩越剛、翌明治13年(1880)8月には改姓して宇都宮剛となる。元々宇都宮家の生まれで舩越家へ養子に出ていたのが戻ったのか、舩越姓が変名だったのか(田中と名乗っていたこともあるようだ)についてはまだ不明。
 本科教程之編纂、大砲制式、海岸防禦等の取調に尽力したが、帰国後5年足らずの明治15年(1882)5月18日死亡。享年28歳。墓は青山霊園にある。
(島根県古代文化センター『古代文化研究』15号より)(2007.7.6up)

堀江提一郎 Icon
 弘化3年(1846)8月18日、遠州国磐田見付の淡海國玉神社神官を代々つとめる大久保家の大久保縫殿之助の長男として生まれる。
 幕末の動乱期に際し、父とともに報國隊の一員として倒幕活動にあたる。堀江提一郎はこの時の変名。
 慶応4年(1868)3月、報國隊の代表者として東海道大総督軍の東下に加わり、甲州笹尾峠の戦で偵察としての働きに功があったため、大総督親衛隊として東征を許可され、御守衛大砲隊取締として紅葉山、上野の各地で奮戦、功を奏す。
 この年(1868)6月2日に江戸城西丸大広間で行われた招魂祭の祭主を務めた。
 明治2年(1869)1月、軍務官書記拝命、函舘へ出張し、降伏人榎本武揚らを取り纏めて東京へ。7月には兵部大録に任ぜられ横浜語学所創設事務を担当。
 この事から、フランスへの留学は自らも学ぶのだが、半ば他の生徒たちの引率者の役目も負っていたのではないかと推測される。  フランス到着後は、明治3年12月13日(1871年2月2日)からトゥーロンの政府学校入学。8月まで滞在した後にパリへ上京する予定だった。
 明治6年(1873)頃には一行最年少の小國磐とパリ近郊のムロンの政府学校に在籍し、その後は実際に陸軍の諸施設に入り実地学習をしたものと思われる。
 当初の予定通り5年で留学を終え、明治8年(1875)5月には横浜到着。当初は陸軍省七等出仕の事務官だったが、明治10年(1877)4月、陸軍少佐を任ぜられ、以降、大正4年(1915)1月末に68歳で亡くなるまで、陸軍士官学校校長、教育総監参謀長、朝鮮駐剳軍司令官等を歴任し、明治40年(1907)9月男爵に、明治41年(1908)8月には大将となる。
 大正4(1915)年1月末死去。墓は青山墓地にある。
(島根県古代文化センター『古代文化研究』15号より)(2007.7.6up)



☆その他の登場人物

山澤静吾

弘化2年12月15日生まれ
鹿児島藩出身、鹿児島藩士山澤十太夫の長男
1868年(明治元年) 1月1日 戊辰戦争参戦(1月10日まで)
1869年(明治2年) 2月   第一大腿5番小隊長
          5月   御親兵として上京
1871年(明治4年)      陸軍大尉
         11月   少佐
1872年(明治5年) 2月   免本官、牧畜研究のため、アメリカ派遣
1874年(明治7年) 5月   帰朝
         10月   中佐
         12月   陸軍省出仕、陸軍生徒取締としてフランス派遣
1877年(明治10年) 5月   露土戦争観戦(11年7月まで)
1878年(明治11年)11月   帰朝
         12月   歩3連隊長
1882年(明治15年) 2月   大佐
1883年(明治16年) 2月   歩1連隊長
1884年(明治17年) 2月   近歩1連隊長
1885年(明治18年) 5月   少将、歩3旅団長
1890年(明治23年)12月   歩10旅団長
1894年(明治27年) 6月   留守歩9旅団長
1895年(明治28年) 1月   中将、第4師団長
          4月   出征(12月まで)
         12月   男爵
1897年(明治30年) 3月30日、死去



☆時代:野村小三郎と同時に渡仏していた人々
幕末・明治海外渡航者総覧(文久元年1861〜明治45年1912)による


陸軍省より:334人

フランスへ:750人

渡航年別:明治3年 1870:186人
     明治4年 1871:318人
     明治5年 1872:166人
     明治6年 1873: 97人
     明治7年 1874: 44人
     明治8年 1875: 77人
     明治9年 1876: 79人

渡航目的:軍事:586人

公費留学:236人

岡山県出身者:139人
広島県出身者: 78人
山口県出身者:298人




☆参考文献

防衛庁防衛研究所史料閲覧室
外務省外交史料館
国立公文書館
柳川古文書館
萩博物館
山口県文書館
岩國徴古館

ヴァンセンヌ軍事史料館
パリ国立図書館
パリ市古文書館
フランス外務省外交史料室
パリ、モンパルナス墓地
サンシール士官学校同窓会
ブールラレーヌ墓地
国立理工科学校図書室
マルセイユ市古文書館、サン・ピエール墓地
オッシュ県古文書館、オッシュ墓地
マコン県古文書館

柳生悦子『史話 まぼろしの陸軍兵学寮』六興出版 昭和58年
小田康徳『維新開化と都市大阪』清文堂出版 2001年
辻 由美『若き祖父と老いた孫の物語』新評論社 2001年

小坂狷二『小坂千尋小傳』 昭和15年
渡正元『巴里籠城日誌 旧名法普戦争誌 』東亜堂書房 大正3年
田中隆二『幕末・明治期の日仏交流 中国地方・四国地方篇(一)松江』渓水社  平成11年
宇野俊一校注『桂太郎自伝』平凡社東洋文庫 1993年
日本大学編『山田顕義伝』日本大学 1963年
宮岡謙二『旅芸人始末書』修道社 昭和34年 (中公文庫 昭和53年)

秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会 1991年
篠原宏『陸軍創設史 フランス軍事顧問団の影』リブロポート 1983年
水原冬美『パリの墓地 フランス文化の散歩道』新潮社 1997年

倉沢剛『幕末教育史の研究 二』吉川弘文館 昭和59年
倉沢剛『幕末教育史の研究 三』吉川弘文館 昭和61年
高橋邦太郎『日仏の交流 友好三百八十年』三修社 1882年
岡山県教育会『岡山県教育史 中巻』山陽新聞社 昭和17年
 
『海を越えた日本人名事典』 日外アソシエーツ 1985年
富田仁、西堀昭『日本とフランス 出会いと交流』三修社 1979年
富田仁『フランスに魅せられた人びと 中江兆民とその時代』カルチャー出版社 昭和51年
石附実『近代日本の海外留学史』中公文庫 1992年
渡辺実『近代日本海外留学生史 上』 講談社 1997年
西堀昭『日仏文化交流史の研究 日本の近代化とフランス人』駿河台出版社 1981年(増訂版1988年)
高橋邦太郎『お雇い外国人6軍事』鹿島研究所出版会 昭和43年
『日本陸軍将官総覧』新人物往来社 2000年
手塚晃 国立教育会館編集『幕末明治海外渡航者総覧』柏書房 1992年
                   第一巻 人物情報編
                   第二巻 人物情報編
                   第三巻 検索編
富田仁『日仏のあけぼの』高文堂出版社 昭和58年

Jean-Jacques CAILLIS 『II SIECLES D'HISTOIRE au village des Bains(Amelie les bains) 1659-1880』la Societe Vallespirienne de Tir 1999年
Jean-Jacques CAILLIS 『MON VILLAGE DANS LE SIECLE (Amelie les Bains Palalda) 1880-1999』 la Societe Vallespirienne de Tir 2000年

泉三郎『堂々たる日本人』祥伝社 平成8年
松本清張『火の虚舟』文芸春秋 昭和43年
嶋田正、他『ザ・ヤトイ お雇い外国人の総合的研究』思文閣 1987年
上垣外憲一『維新の留学生 西洋文明をどうとりいれたか』主婦の友社 昭和53年
梅渓昇監訳『近代化の推進者たち 留学生・お雇い外国人と明治』思文閣出版 1990年
富田仁『事典 近代日本の先駆者』日外アソシエーツ 1995年
大植四郎『明治過去帳 物故人名辞典』東京美術 昭和46年(昭和10年原著)
土居良三『軍艦奉行木村摂津守』中公新書 1994年
藤井哲博『長崎海軍伝習所』中公新書 1991年
大仏次郎『パリ燃ゆ 1,2,3,4』朝日新聞社 1975年





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2003年01月07日 15時41分24秒 開設

2005年12月27日 最終更新


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