Counter

「日本発、世界平和改革は史的唯物論と民主主義との融和から生まれる」

資本主義でもない、社会主義でもない唯物民主主義概念に基づく新社会体制へ!

                              2009.1.30

                               2009.6.2 改訂

 はじめに

小生が、孫がいてもいい年である60歳になった頃、始めて孫の将来のことが気になり心配になった。それまでの小生は自然科学に関心があり、社会科学については殆ど関心を持たなかったのである。

何故なら、社会科学に興味を持つ人達に任せていれば将来はより良い社会になるだろうと楽観視していたからである。

ところが最近の社会を見るにつけ、果たしてこのままで孫の将来は我々の子供の頃と同じように自然に接することができるだろうか、或いは、現に必要な天然資源が充分に彼らに残されているだろうか、と考えていたら、殆ど確信に近いほど否定的になった。

そして、将来の行末について自分で考えるようになって3、4年が経った頃、或る友人に出会った。彼は小生より何歳か上であるから既に定年退職し、自分の才覚で自営業を営んでいる。その彼が過去に勤めていた会社とそれこそ命がけで闘ってきた経験を持ち、彼から資本主義社会の多くの問題点について聞かされた。彼の話から、その闘争が通常の組合闘争を超えた人間の尊厳を守る闘争のように小生には眩しく思えた。

少なからず彼の影響を受けた小生も、一般に言われるように、何れ資本主義体制は崩壊するであろうと信じ、また、尊敬する小田実氏の考えと実践に同調する一人である。

しかし、気の小さな小生にはこのままでは、資本主義体制の崩壊があるにせよ人類の崩壊と同時進行しているという不安に駆られるのである。このため、小生の始めは小さかった考えが段々大きくなり、最近になって上のような標題を考えるに至ったのである。

従って、この標題は自分なりに独学で学んだ結果得たものであるから、多くの独断と偏見に満ちているであろうことは否めない。

それを承知の上で、敢えてここに公開し、皆様からのご批評を得たいと願ったのは、緩やかな変化を待っていてはとても間に合わないので、一刻も早く新しい体制に変える必要があると考えたセッカチな小生のせいであるからご容赦願いたい。

たかだか6,7年の社会勉強位で言えることは知れており、これから学ばねばならないことが後から後から出てきてその成果を待ってからでは小生の命も尽き果ててしまうであろうと思うほどである。

であるから、取りあえず、ここに今の小生の思いをぶつけ、それを叩き台として、みなさんに議論して貰えれば望外の喜びである。

 

1.        古典の再評価

20世紀最大の思想家であるカール・マルクスの思想は、一時は世界を翻弄し、その影響力は到底小生が窺い知ることなど恐れ多いことであろう。

時が流れ、現代において、やや古臭い観を禁じ得ない思想のように思われていることは小生の不勉強のせいであればよいがとても残念である。

資本主義社会の矛盾はマルクスが資本論において指摘した史的唯物論は現代においても未だ眩い程輝いているように小生には感じられるし、小生の自然科学的思考は既に唯物論的であることを最近、この勉強をするようになって気付かされた。

史的唯物論によると、商品の価値は労働によって生まれ、資本家は労働によって得られたその価値を労働者に払うのではなく、労働力の再生産費である賃金を支払い、そこに搾取が生まれる巧妙な仕組みがあると言う。

 

2. マルクス社会主義論には矛盾がある?

小生は「マルクス社会主義論には、以下の2点で矛盾がある」と考える。

その第一点は、マルクスが分析した資本論を唯物史観から見ると、商品の価値は労働によって生まれるにも拘らず、資本家による労働者からの搾取が生じていることが問題となっている。従って、資本家が利潤として独占していた剰余価値をその主体である労働者に還元されるべきであることが史的唯物論的解決策である。

第二点は、マルクスの唱える弁証法的唯物論によると、社会主義は私有財産制度を廃することにより、企業を国有化するのである。それもそれを為すのは一部の労働者支持層によるのである。この主張はとても史的唯物論的とは言えず、吉本隆明著「共同幻想論」によると、マルクス主義は、上部構造(観念の領域)は下部構造(経済の領域)と連動、反映していると考えましたが、これに対して、観念の領域はそれ自体独立しているのだと考えたのが『共同幻想論』です。故に、マルクス主義は唯物論ではなく観念論的であると考えざるを得ない。また、橋爪大三郎は彼の著「永遠の吉本隆明」のなかで以下のように説明している。安保闘争は大衆的な高揚を、前衛的な革命組織が指導する、という構図そのものが間違っている。この構図は必ず権力を必要とし、その権力は自己正当化を計るので、スターリン主義になるに決まっている。と同時に、その結果として、民主主義をも踏み越えてしまっていることも歴史が証明している。

そのことは百も承知であろうマルクスが何故、社会主義を進めたか?が疑問として浮かび上がる。

吉本隆明著「カール・マルクス」によると、マルクスは、史的唯物論による解決はプロレタリアート独裁を生むと確信していたと思われる。プロレタリアート独裁の社会は彼の望む社会ではなく、資本主義体制より歴史的に後戻りするような社会として彼の目に映り、更に、彼は当時の民主主義をも信じていなかった、という。当時の民主主義とは、例えば、太宰治著「冬の花火」のなかで、彼が“敗戦直後の日本は、軍国主義をそのまま裏返しただけの無節操な民主主義がまかり通っていた”と述べているのと同じような粗野なものに観えたのではなかろうか。

そのため、マルクスは史的唯物論によって資本主義の矛盾を解き、観念論によって社会主義を説かざるを得なかったのではなかろうかと浅はかな邪推をする小生をお許し頂きたい。

また、資本主義体制下における幸福論から見た人間疎外の二面性(マルクスの批判として)として、資本家は、労働者の労働力を私物化することにより、労働をせずに幸せを求めようとし、そのことにより希薄な満足感しか得られず、労働者は、労働によって得られた果実を搾取されることによって労働に相応して得る幸せを奪われる。

以上のことから、小生は夏目漱石著「草枕」中より、シェレーの雲雀という詩の一節;

“・・・腹からの笑いといえど 苦しみのそこにあるべし 美しき極みの歌に 悲しさの極みの想 籠るとぞ知れ” が思い起こされる。

つまり、資本主義体制は効率の悪い幸せ追求方式ともいえるのではないであろうか。従って、マルクスの「資本主義による労働を二重の意味での人間疎外である」と言う主張を幸福論追求の面からみてもまさに的を得た指摘であろう。

 

3. 何故、日本発?

小田実著「今アメリカといかに付合うか」によると、民主主義と平和主義の車の両輪をもつ日本には、世界の一員として民主主義と自由の危機と平和の破壊、その二つを招来させない責任がある、と言われているように、

敗戦後60年を経た日本は良い意味で平和憲法により民主主義が成長している。

現在の日本は、太宰が指摘したような粗野な民主主義ではなく、民主主義と平和主義の車の両輪をもつ日本は、世界のなかで最もふさわしい民主主義国であるという小田実氏の主張はマルクスをも説得させ得るのではないだろうか?

しかし、わが国の民主主義はブルジョア民主主義であり、小生はそれを制限的民主主義と呼び、いまだに充分機能しているとは言えない。 従って、 生産の場、およびあらゆる働く場にも民主主義を導入するべきと訴えたい。

読売新聞社と英BBC放送が共同実施した21か国対象の世論調査で、「日本は世界に良い影響を与えている」という評価は56%となり、「悪い影響を与えている」の23%を上回った。この事からも我が国の民主主義の質は世界でトップクラスと言えるでしょう。即ち、日本の民主主義こそ平和構築の一方法として世界をリードする任を持つのである、と小生は考える。

 

4. 革命ではなく改革

唯物論的革命は無政府主義を生み、プロレタリアート独裁の社会を生むことをマルクスは確信していた。小生が考えるに革命は小さな戦争と変わらない、と信じている。

当時なら、武力を伴う革命が世の中を変える正当な方法であったであろうけれど、現在では、武力に依らず、選挙により社会を変える合法的な手段がある。従って、たとえば標題を目的とした人達による政治団体を作り、国民に訴え社会変革を行うことが可能なのである。

太宰治著「晩年」の解説者;奥野健男によると、太宰治は、虐げられた人々の味方になろうとすべてを賭けてとびこんだが、マルクシズムの非合法政治運動から受けた傷、その非人間的な政治運動への幻滅のため運動から脱落した。しかしどんな理由があるにせよ、自分は仲間を裏切ったといううしろめたさを持った。自分はプロレタリアではなく、農民たちを搾取する大地主の子であり「滅びる人間」「滅亡の民」であるというコンプレックス、自分は革命の戦士でなく、滅ぼされる側の人間だという痛切な自覚、それらが太宰を絶望に追いこみ、自ら生命を絶とうと決断させた。とある。それに加え小生が思うには、太宰は彼の鋭い嗅覚により、その非人間的な政治運動に参加した結果、マルクス社会主義者上層部の思想にスターリニズムを嗅ぎ取ったのではないだろうか。

また、小田実氏もNHK教育番組のなかで、「人類の平和活動は、劇薬ではなく、漢方薬が良い。」といって、革命を嫌っていたことが伺われる。

 

5.      政治運動による憲法改正

個人主義の成熟と民主主義の徹底化は車の両輪の如く、望ましい社会に必須の要件である。

カール・マルクスさん 今の日本の民主主義であれば、そして、革命ではなく選挙による改革なら、資本主義体制を史的唯物論による解決を託せるのではありませんか?

吉本氏によらずとも、社会主義(共産主義)は幻想であり、スターリニズムを生むだけであることは歴史が証明している。従って、その体制はユートピアであると考えるのは誤りであり、資本主義の対岸に位置するべき思想であって、

“理想の社会は民主主義の延長線上にしか有り得ないのである。” これは小生の主張であるが、その理由として、

第一に、吉本隆明wikipediaによると、小林よしのりとの歴史認識、戦争観において、小林は「人は個人を超えねばならぬ時がある」「今の日本人で『個人主義だ』『個の精神だ』と唱えているやつは、アメリカの戦争によって『公』を背負えないフヌケ」と化した者にすぎないと『戦争論』で述べている。

一方吉本は、国民と国家との関係は、「個人」や「市民社会のほうが国家や公よりも概念としては大きく「原則でいえば、三人以上集まって発生した集団や社会の中で生ずる利害問題をどう調整するかということから、「公」の問題が出てくる」「それが「公」の原型」 と言っているように、概念の大きさからいうと、先ず初めに個人があり、次に市民社会があり、そして、国家ありきとなる、と考える。  これは憲法に規定されている主権在民と一致する。

それに反し、社会主義体制は先ず国家があり、官僚指導の元に運営される体制であり、個人は社会の一部としての、しかも個人主義は制限された存在となる。 更に、この社会体制は観念論に基づくものであり民主主義を踏み越えたスターリニズムに陥ってしまうことは歴史が証明している。

第二に、現在の議会制民主主義の下での政治が充分に民意を反映しているとは言えないという問題がある。 小生が現在の民主主義をブルジョア民主主義、或いは制限的民主主義と呼ぶ所以である。

その問題解消の手段として、資本主義体制を改革し、労働の成果をその主体である労働者に還元した上、民主主義手法を消費の場のみならず、生産の場に、あらゆる働く場にも導入することにより、従来の労働者が主体的に社会参加することにより、現在の政治関連世論調査にあるような、浮動層、および無関心層を相対的に減少させ、その結果として政治が民意を反映するようになると考える。

言い換えれば、個人主義が充分に成熟した社会において国民一人一人の意志によって作られ、そこには支配・被支配の存在する余地の無い法治社会を目指すことが肝要である、

と小生は考える。 そして、吉本隆明著「カール・マルクス」よると、 市井の片隅に生まれ、育ち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである、という。

現憲法において、資本主義体制における諸悪の根源である労働力の売買を禁止し、労働を個人本来の所有とする。その結果労働によって得られた果実は、労働者に還元する、即ち、経営権を株主から労働実務者に移すように改正する。更に、金融資本についてはその増殖手法を制限する。

これにより、貨幣の役割も資本に転化することなく本来の役割に戻り、ここにおいて、生産の場にも民主主義が実践されるようになる。この改正は現社会を飛躍的に変えるのではなく、寧ろ、たとえば、私有財産制度を残し、奴隷制度廃止、売春禁止、そしてその次ぎの民主化のステップである。

夏目漱石著「私の個人主義」で、「人は己のツルハシでもって何かを掘り当てようと努力することが尊いことである。」と言っているように、多くの労働者が労働を通じてこの機会を持ち、これにより自己実現の道が開け、このことを通じて個人主義の成熟が飛躍的に早まると小生は考える。

現憲法下においても国民主権国家と言われている国家は、上述の資本主義体制を捨て、個人主義の成熟が早まるよう上述の改正を行うことにより、真の意味で、国民の総意に基づく望ましい国家となる。

与謝野晶子著「階級闘争の彼方へ」によると、

私の考察では、階級闘争という意義は、労働者が全く資本家の支配から解放されて、平等なる人格者として対抗し、これまで資本家が利潤として独占していた剰余価値を――むしろ労働者から略奪していた剰余価値を――労働者にも公平に分配されることを要求する行動に対して、資本家がこれを拒否することでなくてはなりません。即ち労働者の要求する所が、既定の賃銀の幾割の値上げという類のものではなくて、労働者自身の刻苦の成果である生産価値の余剰、即ち営利事業の利潤の幾割を労働者にも分配せよ、もしくはその利潤の全部を労働者に返還せよという類の要求にまで進まなければ、資本家を向うへ廻しての争闘とはいわれないと思います。・・・中略・・・

文化主義の社会には、唯だ文化生活の建設に努力し、協力し、貢献する労作者ばかりがあります。資本主義もなければ営利主義もなく、従って資本家と労働者との階級が対立する見苦しい光景もありません。生活に必要な物質財は、その生産を各人の能力に応じて自由に分担すると共に、その分配もまた各人の必要に応じて公平に行われます。生産の唯一の要素は人間の労働力です。土地も、器械も、原料も、資金も、余剰価値も、悉く人間の労働力に附属したものです、と言う。

この標題に基づく社会体制を仮に“唯物民主主義”と名付け、例えば、上述のような社会を通じて、現在のように消費の場にしか存在しない民主主義を生産の場にも、更には、国家公務員をも含めたあらゆる働く場にも導入し、国家は平和主義の基で個人主義の成熟が早まる社会を目指し、そして、その後真の意味で民意の総和として存する民主主義社会から理想の社会が実現されることが望ましいと考える。

村瀬学の『次の時代のための吉本隆明の読み方』によると、 日本の知識人は、かつてのロシア・マルクス主義に翻弄され、その後、アメリカからのモダニズムに翻弄されていた、という。 従って、唯物民主主義概念は、両者の長所、即ち、マルクスの史的唯物論とモダニズムの民主主義を融和させたものと言えよう。

「唯物民主主義概念こそ正義への近道」

従来の民主主義はブルジョア民主主義であり、小生は制限的民主主義と呼ぶ。 そして、唯物民主主義概念に基づく民主主義は、企業においては生産の場に、公務員、官公署においてもあらゆる働く場に民主主義を導入することであり、これが正義への一番の近道であると結論付けたい。

メール;siharima@yahoo.co.jp

以上

  播磨愼一

ゲストブックへ