三國志あらすじ 

 

蒼天己死 黄天当立(172〜184)

 

黄巾の乱勃発

 

 前後あわせて約400年続いた漢は、衰退していた。外戚・宦官により国政が私物化されたことが原因である。これにより、真っ先に農民の暮らしが苦しくなった。そこにお札と聖水で病気を治し、腐敗した漢に変わる黄天の建設を説いてまわったものが、張角の太平道である。彼らが光和7年(184)に起こした農民反乱をそのシンボルから黄巾の乱という。乱そのものは平定されたが、後漢の支配は崩壊、三國志の時代が始まるのである。

 

桃園結義から黄巾討伐へ

 

 黄巾の乱の平定に立ち上がった三人の男達、劉備、関羽、張飛が桃園で義を結ぶ場面から物語は始まる。今の北京の郊外にあたるタク県の楼桑村で挙兵した劉備三兄弟は、幽州タク郡で劉焉を助けて黄巾と戦った。「国に背く逆賊ども、すみやかに降伏しないか」。劉備が罵ると、黄巾の程遠志は多いに怒り、副将の茂を出して戦わせる。張飛は一丈八尺(約6b)の蛇矛で茂を一刺にした。怒った程遠志が張飛に打ちかかろうとすると、関羽は八十二斤(約50s)の青龍えんげつ刀で程遠志を真っ二つにした。さらに劉備三兄弟は青州太守のキョウ景を助けた後、劉備がかつて師事した廬植が、広宗で黄巾の首領の張角と戦っていることを聞き、広宗に駆けつけた。廬植は大変喜んだが、黄巾を包囲したまま勝敗はつかなかった。そこで廬植は、張角の弟である張梁・張宝と戦っている皇甫嵩・朱儁の救援を命じ、劉備は穎川郡に向かった。

 穎川郡では、皇甫嵩・朱儁の火攻めにより、黄巾は大敗を喫し、さらに曹操がそれに追い打ちをかけていた。劉備が廬植の言葉を伝えると、皇甫嵩は逃げ延びた張梁・張宝が兄の張角と合流するであろうから、引き返して廬植を助成して欲しいと依頼する。途中まで来ると、一郡の人馬が囚人車を護送してやって来た。見れば、なんと廬植である。軍の監察に来た宦官に賄賂を渡さなかったため、廬植は冤罪を着せられたのである。張飛は真っ赤になって怒り、護送の兵士を斬って廬植を救おうとしたが、「朝廷では公正なお裁きがあるはずだ」と劉備に止められた。こののち、劉備は黄巾に苦戦する官軍を助け、廬植に代わった董卓を救出するが、劉備が無官であることを知った董卓は、ろくに礼も言わない。

 結局、劉備は大きな功績を挙げたにもかかわらず、安喜県の県尉にしかなれなかった。それすら宦官の命で監察に来た督郵のため、うしなうことになるのである。

 

誓って義兵を集め、群凶を滅さんとす(189〜192)

 

反董卓連合軍

 

 黄巾の乱を平定しても、後漢は復興しなかった。宦官と外戚の対立が続いていたからである。外戚の何進は、宦官の全滅をはかり、強力な軍隊を洛陽に呼び寄せようとする。先手を打った宦官は、何進を殺害した。袁紹は宦官を皆殺しにするが、少帝は都を連れ出されさまよった。そこに涼州より董卓が到着する。董卓は少帝を廃して陳留王を立て、それにより国政を握った。曹操は、董卓打倒の義兵を募り、これに対抗した。これに呼応して各地の諸侯が立ち、反董卓連合が結成された。

 

水関・虎牢関の戦い

 

 曹操が偽りの詔を各地に送ると、董卓を打倒するため、各地で諸侯が一斉に蜂起した。曹操は軍議を開き、袁紹を盟主とした。孫堅は先鋒を志願して洛陽の東、水関に攻めかかる。董卓は武将の華雄に迎え撃たせた。緒戦は孫堅が優勢であったが、讒言により袁術が兵糧を送らなくなり、混乱した孫堅軍は一蹴された。華雄は袁紹の本陣に迫って何人もの武将を討ちとる。色を失った袁紹の幕中で「華雄の首を献じましょう」と豪語した者が関羽である。曹操は熱い酒を注がせ、一杯あおって馬に乗るように勧める。関羽は、「そのまま置いていてください。すぐに戻りますから」と言うや、馬にまたがり出陣した。ときの声があがり、天がくだけ地が破れんばかりの物音が轟くと、しばらくして馬が本陣に駆け込み、関羽が華雄の首を地面にほうり投げた。そのとき、酒は温かかったという。

 華雄を討ちとられ水関の西の虎牢関を固めた董卓は、ついに呂布を送り出す。真っ赤な錦の直垂を着け、赤兎馬にまたがった呂布は、無人の野を行くように、兵をなぎ倒す。それを食い止めた者は張飛であった。張飛は呂布と50回以上も打ち合ったが、勝負がつかない。これを見た関羽は、呂布を挟みうちにした。三頭の馬が丁字形になって攻め合い、30回も打ち合ったが、呂布が打ち負かすことはできなかった。劉備は雌雄の二本の剣を抜くと、黄色いたてがみの馬を走らせ、斜めから切り込んで加勢。3人は呂布を囲み、回り灯籠のように力を合わせて戦った、形勢不利とみた呂布は、劉備に脅しの一撃を加え、劉備がかわすところ馬を飛ばして退却した。やがて長安に逃げ込んだ董卓を滅ぼせない諸侯達は、領土の奪い合いを始めていく。

 

中原に波乱を起こさんとする呂布(192〜198)

 

流浪の狼・呂布

 

 董卓が王允の連環の計により呂布に殺されたころ、曹操は青州で黄巾を降伏させて青州兵を編成し、勢力を安定させた。そこで父の曹嵩を徐州より迎えようとしたが、陶謙は劉備に助けを求め、徐州を託して死去。そこへ曹操に敗れた呂布が転がり込む。献帝を擁立した曹操は、二虎競食の計・駆虎呑狼の計により、呂布・劉備そして袁術との関係を引き裂いていく。

 

エン州・徐州攻防戦

 

 陶謙の病死により劉備が徐州の牧となると、曹操に大敗した呂布は劉備に身を寄せた。曹操は二虎競食の計により、劉備に呂布の討伐を命じた。しかし劉備は、呂布にそれを告げることで、曹操の計略を打ち破った。そこで曹操は駆虎呑狼の計により、劉備に袁術を討伐させ、その隙に呂布に徐州を奪わせることに成功した。袁術は呂布に劉備の背後を襲わせようとしたが、約束の兵糧を送らなかったため、呂布は劉備を迎えて豫州刺史とし、小沛に駐屯させた。しかし、張飛は呂布の下に居ることに我慢できず馬を奪った。これを機に呂布に敗れた劉備は、曹操に身を寄せた。曹操は劉備を豫州牧に任じ、軍隊を立て直して小沛に駐屯させ、呂布の討伐を準備させた。

 建安3年(198)、曹操はいよいよ呂布討伐を決意した。劉備に出撃を命じる一方、袁紹には公孫サンの討伐を勧めて背後の脅威をなくし、徐州の陳珪・陳登父子にも内応の手筈を整えさせた。しかし、曹操から劉備への密書を入手した呂布は、一足早く劉備に攻めかかる。曹操は、夏侯惇に劉備の救援を命じる。呂布の配下の高順と戦った夏侯惇は左の目を射られて敗退、劉備も小沛を棄てて、梁城で曹操に合流した。済北まで北上した曹操は、曹仁に小沛を攻撃させるとともに、自ら大軍を率いて呂布討伐のため簫関に向かった。陳登の活躍により簫関を抜いた曹操は、ついに呂布の本拠地である下ヒ城を包囲した。曹操は、郭嘉の進言により、沂水と泗水の流れを決壊させ、下ヒ城を水攻めにする。

 下ヒ城は東門を除き、ことごとく水浸しとなった。呂布は袁術に救援を求めたが、袁術は来なかった。水攻めによって兵糧が不足し、内部分裂した呂布の集団は崩壊、呂布も降伏して曹操に斬られたのである。

 

中原の覇をかけた曹操と袁紹の争い(199〜207)

 

天下分け目

 

 反董卓を旗印に挙兵して以来約10年、曹操はようやく河南の司州・エン州・豫州・徐州を基盤に献帝を擁立して天下に号令する立場を得た。しかし、袁紹もまた河北の冀州・幽州・并州・青州を支配し、曹操を上回る勢力を誇っていた。袁紹がその本拠地である業から精兵十数万を率いて出発したと聞いた曹操は、建安4年(199)8月、官渡に軍を進めた。官渡の戦いに勝利した曹操は、袁紹を継いだ袁譚・袁尚をも滅ぼし、華北を統一する。

 

白馬・官渡の戦い

 

 白馬の戦いは、官渡の戦いの緒戦である。曹操が注をつけた『孫子』の兵法は、兵の少ない側が運動戦をすべきであると述べる。兵力に劣る曹操は、すばやく移動することにより、袁紹軍を城壁も陣地もないところに誘い出し、大軍のすべてが到着する前に戦いを仕かけた。官渡に陣を置いた曹操は、袁紹の本軍が白馬をめざして黎陽に至ると、延津より黄河を渡り袁紹軍の背後を襲うそぶりをみせた。慌てて袁紹軍が延津に向かうと、延津から白馬に急行した曹操は、顔良の不意を衝き、関羽が顔良を斬った。袁紹の本陣が延津を渡ると、曹操は白馬から取って返し、またもや関羽が文醜を斬る。運動戦により鮮やかな勝利をおさめた曹操は、官渡の陣に引き返した。

 これに対して袁紹は、大軍に有利な陣地戦に持ち込み、官渡にせまって決戦を挑む。曹操が守る官渡の陣地を攻める袁紹軍は、高いやぐらと土山を作り、その上から矢を雨のように降らした。曹操軍も陣内に土山を築いて対抗するとともに、「霹靂車」と恐れられた移動式の投石機により、敵のやぐら・土山を狙い打ちにする。すると袁紹軍は「地突」と呼ばれる地下道を敵の陣地の下まで掘り進める作戦を展開、曹操軍は深い塹壕を幾重にも掘り、敵の「地突」を無力化させた。こうした長期にわたる陣地戦は、経済力を必要とし、また兵力の多いほうが有利である。兵糧の尽きた曹操は弱気になり、荀に撤兵の相談をする。荀は覇をかけた戦いであるとして、徹底的に戦うよう曹操を励ました。やがて、曹操は袁紹から投降してきた旧友である許攸の策を用い、袁紹の兵糧を貯蔵してある烏巣を自ら騎兵を率いて襲撃して焼き払う。曹操の官渡の本陣を攻撃していた

袁紹軍の張合たちは、曹操に降伏。曹操は天下分け目の戦いに勝利をおさめたのである。

 

曹操の中原統一の夢消える(208)

 

曹操、荊州を併呑

 

 官渡の戦いから7年の歳月をかけ、袁紹の残存勢力を平らげて華北を統一した曹操は、中国の統一をめざしていた。そのころ劉備は、荊州牧の劉表の客将として髀肉の嘆をかこちながらも人材を求め、三顧の礼を尽くして諸葛亮を迎えると、新野に駐屯して曹操の南下に備えていた。建安13(208)年、曹操が南下して荊州に向かうと、劉表は病死し、次子の劉を担いだ蔡ボウは、劉備に相談なく曹操に降伏、不意を衝かれた劉備は敗走する。こうして劉備と孫権の同盟が成立し、赤壁で曹操の大軍を破ったが、荊州の零陵・桂陽・武陵・長沙の4郡はその後も、諸侯が独立して劉備に抵抗する構えをみせたため、劉備によって攻略される。

 

赤壁の戦い

 

 襄陽を支配した曹操は、騎兵を選りすぐって劉備を急追、長坂坡ハで攻撃した。曹操軍は民衆を含みはだか同然の劉備軍を、欲しいままに殺戮する。趙雲は阿斗(劉禅)を抱き、曹操軍の中を駆け抜けてこれを守り、張飛は、わずか20騎を率いて殿をつとめた。「わたしが張翼徳である。やってこい。死を賭けて戦おうぞ」。近づく者は誰一人無く、こうして劉備は虎口を逃れ、無事、劉表の長子劉の守る夏口にたどり着くことができた。そのころ諸葛亮は、劉備の命を受けて孫権への使者となり、張昭たち降伏論の渦巻くなか、魯粛の助けを得て、曹操と戦うべきことを説いた。最終的に孫権に戦いを決意させた者は、周瑜である。周瑜は大都督として水軍を率いると赤壁へ向かう。しかし、烏林に堅陣を敷く曹操軍を撃滅するためには、火攻めが必要である。折しも季節は冬、北岸に向かう東南の風は吹くはずもない。諸葛亮は、周瑜と約束して拝風台を築き、東南の風を祈った。

 開戦の当日、黄蓋は先陣をきって船を出す。快速船十隻に、枯れ草や柴を積み込んだ黄蓋は、諸葛亮がよんだ東南の風にのって曹操軍に近づき、兵士たちに黄蓋が降伏すると叫ばせた。指揮船上には「先鋒黄蓋」と大書した旗を押し立て、船尾には退避用の小舟を結び、いっせいに帆をあげて敵船団へと突進したのである。これを見た程は、船足が速いことから偽りの降伏であると見抜き、その進言をうけた曹操は停船を命じた。しかし、曹操軍まであと二里(約8q)の距離にいた黄蓋は、船に満載した枯れ草に火をかける。激しい東南の風にあおられた船は、炎の矢のように曹操の船団に突入した。火は、船を焼き尽くして陸上の陣をも襲う。黄蓋に続いた周瑜は、精鋭部隊を率いて上陸、曹操軍はあっという間に壊滅し、曹操は江陵に敗走、命を保つのがやっとであった。

 

劉備と曹操、漢中をめぐる覇権争い(210〜219)

 

劉備、漢中を望む

 

 赤壁の戦いで大敗を喫した曹操は、水軍の養成を始めるとともに、関中地方(長安近辺)に兵を進め、馬超と韓遂との信頼関係を突き崩してこれを破り、涼州まで平定。赤壁の戦いに勝利をおさめた孫呉は、直後に周瑜を失って荊州をとることができなかった。代わって荊州南部を根拠地とした劉備は、荊州に関羽を残し、劉璋を降して蜀を取り、蜀(成都)から関中への要所となる漢中を攻略。その後、劉備は江夏・長沙・桂陽・の荊州東3郡を呉に割譲することで孫権と和解した。

 

漢中争奪戦

 

 関中を取った曹操は、孫権との戦いを張遼に任せ、張魯を降伏させて漢中を占領、漢中はすでに曹操の領土となっていた。劉備はまず、攻撃中に背後を衝かれることを防ぐため、巴西から張飛を派遣して、瓦口関を守る張合を破らせた。そのうえで、黄忠と厳顔の老将コンビに葭萌関を攻めさせ、守将の夏侯尚を破った。曹操が引き上げた後の、漢中方面軍の司令官は、夏侯淵であった。相次ぐ敗戦に陽平関を固めた夏侯淵に対して、劉備は黄忠を定軍山に陣取らせ、漢中をうかがう形勢をとった。夏侯淵は張合とともに、精鋭を率いてその後を追い、劉備軍と戦った。山腹に待機していた黄忠は、陣太鼓をいっせいに打ち鳴らし、怒濤のように坂を駆け下って殺到し、夏侯淵を討ち取った。老将黄忠の大手柄であった。

 漢中を奪われることは関中、とりわけ長安が危機にさらされることになる。劉備の祖である前漢の高祖劉邦は、漢中より関中を得て、ついに項羽を破って中国を統一している。劉備に漢中を渡すことを避けたい。加えて、挙兵以来、自分を支えてきた夏侯淵を斬られた曹操は、自ら兵を率いて漢中の奪回に向かった。勢いにのる劉備は、趙雲を繰り出し曹操軍を漢水に追い詰めて大勝した。劉備は自ら漢水を渡り、背水の陣を敷いて曹操を挑発する。「我こそは漢皇室の一門にして、詔を奉じて国賊を討たんとする者である」。劉備は曹操を正面から破り、さらに張飛が北上して南鄭を取ると、曹操は斜谷でも魏延に敗退した。

 

劉備の中原統一の夢破れる(219)

 

魏と呉の挟撃

 

 劉備が漢中に出兵すると、関羽もまた荊州から北上して襄陽を取り、樊城に立て籠もる曹仁を攻めた。曹操は遷都を考えるほど関羽を恐れ、曹操の支配下から関羽に応じる者も現れ、諸葛亮の「天下三分の計」も実現間近に思えた。しかし、関羽は諸葛亮の忠告を聞かず、孫権との友好関係を保持しなかった。そのため司馬懿の計で、曹操が孫権と結び関羽を挟撃することを防げず、劉備は荊州の大半を失った。曹仁の危機を聞いた曹操は、于禁とホウ徳の二将を援軍に派遣。ホウ徳は関羽に一騎打ちを挑むと、偽って逃げ出し、ひそかに弓を手にして関羽の左腕に命中させた。一方、関羽は襄水を利用した水攻めを行い、于禁は降伏、ホウ徳も関羽配下の周倉に生け捕られた。曹仁の守る樊城も水浸しになったが、必死に守り抜き、逆に毒矢を関羽の右腕にあてた。毒で腕は腫れ、動かすこともできない。そこに現れた名医の華佗は、骨を削る治療で関羽を助けた。そのころ呉では、関羽に警戒されていた呂蒙が、病気と偽って油断を誘い、後任に陸遜を推薦。陸遜がへりくだった手紙を送ると、関羽はすっかり油断し、呉に備えた荊州守備兵の大半を樊城攻撃に向かわせた。呂蒙はたちまち荊州を占領。関羽に見下されて恨んでいた傳士仁と糜芳が、一戦も交えることなく降伏したからである。

 関羽は荊州から増強した兵力で樊城を攻め続けていたが、曹操が救援に派遣した徐晃は手強かった。手術直後の関羽の右腕には力が入らない。それを見た関平は退却の銅鑼を鳴らし、関羽が自陣に戻ろうとしたとき、鬨の声が響きわたった。樊城の曹仁が討ってでたのである。徐晃と曹仁に挟み撃ちにされた関羽軍は大混乱に陥り、荊州に逃げようとした。ようやくそこに早馬が来て、荊州が呂蒙に奪われたことを伝えた。使者が諸将や兵士の家族は無事に暮らしていると伝えると、戦意を喪失する将兵が続出、敗走した関羽は麦城に立て籠もる。廖化は包囲を突破すると上庸の劉封・孟達に救援を求めるが、見殺しにされた。関羽は北門の囲みが甘いことを見て、そこから蜀へと脱出を図る。北門を空けておいたのは呂蒙の計略だった。関羽は朱然の包囲を破り、潘璋を蹴散らしたが、落馬したところを潘璋の部下馬忠に生け捕られ、関平とともに首を斬られた。

 

荊州回復を望んだ劉備、白帝城に死す(220〜224)

 

劉備、私情に奔る

 

 曹丕が漢を滅ぼして曹魏を建国すると(220年に曹操死去)、劉備は皇帝に即位して蜀漢を建国。曹魏が後漢から禅譲を受けたことを認めないためである。にもかかわらず劉備は、曹魏ではなく孫権を討った。義弟関羽の仇討ちのために。さらに仇討ちの準備を進めていた張飛を殺した部下も、呉に亡命する。

 劉備が呉を攻撃したので、呉は蜀の南方に住む南蛮を扇動して反乱を起こさせた。これに対して劉禅を即位させた諸葛亮は南征を行い、孟獲を七擒七縦の末に心服させた。

 

夷陵の戦い

 

 劉備は益州の留守に太子の劉禅と諸葛亮、さらには趙雲・魏延・馬超を残して、呉に侵入した。夷陵では孫桓を破り、黄忠の死を乗り越えて、さらにオウ亭では甘寧を戦死させた。関興は仇である潘璋を殺し、張苞も父の仇を討つことができた。それでも劉備の怒りは納まらない。そこで孫権は、陸遜を抜擢し、劉備との戦いを任せた。陸遜は、戦いに逸る孫堅以来の宿将をなだめて持久戦へと持ち込み、侵入当初の猛烈な勢いを失わせた。これに対して劉備は、シ帰から夷陵にかけて、草の茂った長江沿いの湿地の狭い平地に七百里にわたり陣営を築き、数十の軍団を駐屯させて長期戦に備えた。劉備の布陣を聞いた曹丕は、劉備の敗北を予言し、その兵法に通じていないことを笑ったという。さすが曹操の子である。劉備の戦法を心配して意見を求めに来た馬良から布陣を聞いた諸葛亮は、漢の運命もこれまでかと敗北を予言する。

 陸遜の火攻めにより、果たして劉備軍は敗れ、後詰めの関興・張苞も深手を負った。そこに諸葛亮の命により救援に駆けつけた趙雲が現れ、その働きによって劉備は白帝城に逃れることができた。

 陸遜は諸葛亮が設けた八陣図に迷い込み、追撃をあきらめた。白帝城で病が篤くなった劉備はある夜、関羽と張飛の霊から、「兄弟がまた集うのも遠いことではないでしょう」と告げられる。最後を悟った劉備は、成都から諸葛亮を呼びよせる。劉備は諸葛亮に、「君の才は曹丕の十倍はある。きっと国家を安らかにし、大事を定めることができよう。もし劉禅が補佐するに足りるなら補佐して欲しい。その器でなければ君自らが成都の主となるがよい」

 と遺命を伝える。諸葛亮は、

「私は肝脳を血に塗れさせても(戦場で死んでも)、ご恩に報いることはできません」

 と答え、五丈原で陣没するまで、劉備への忠義を貫くのであった。

 

先帝の遺志に報いるため「出師の表」奉る(227〜234)

 

諸葛亮の北伐

 

 南征により後顧の憂いを断ち、また北伐のための資材と兵力を整えた諸葛亮は、建興5年(227)、劉禅に曹魏への北伐の意義と決意を告げる「出師表」を奉り、漢中を拠点として関中の長安をめざした。その間には秦嶺山脈が連なり、行く手を阻む。山間を抜け関中に達する道には、東から子午道・駱谷道・褒斜道・故道(陳倉道)・関山道の五路があった。勇猛で知られる魏延は、子午道より一挙に長安を落とす作戦を主張した。漢の高祖劉邦が長安を占領した作戦である。言い換えれば、曹魏が最も予想している作戦と考えてよい。そのため、諸葛亮はこれを採用せず、桟道が少ないため、大軍を動かすのに最も安全な関山道を通り、涼州を支配下に置く戦略を立てた。涼州では董卓の強さを支えた涼州兵を編成でき、また益州から長安を取るよりは、道にも恵まれていた。なによりも、予想外の行動で曹魏には備えがなかった。

 諸葛亮は、趙雲と芝に褒斜道からビをうかがわせ、曹真の軍がこれに対応すると、そのすきに関山道より涼州に侵入、夏侯ボウを破って南安郡を得た。天水郡では姜維に敗れたが、かえってこれを部下に収め、祁山では王朗を罵ってこれを退け、涼州と関中を遮断することに成功した。曹魏の明帝は事態の深刻さを理解し、自ら長安に出陣して涼州の救援をはかった。諸葛亮に呼応した孟達を斬った司馬懿を涼州の救援に派遣。これをくい止めている間に、涼州を手中に収めれば、蜀漢の勝利は確定する。諸葛亮は、ここで愛弟子の馬謖を起用した。馬謖は天水郡東北の街亭で曹魏と戦い、街道に陣取って曹魏軍をくい止めよ、との命令に反して水のない山上に布陣、自軍を壊滅させた。馬謖の失態により、第1次北伐は失敗に終わった。諸葛亮は軍をまとめて漢中に戻り、涙を振るって馬謖を斬り、自らも右将軍に降格した。

 諸葛亮はその後も北伐を続けた。しかし、蜀の桟道を通らざるを得ない補給は困難をきわめ、部分的な勝利を得ながらも、長安を陥とすことはできなかった。一方、頼みの同盟国である孫呉では内紛が続き、諸葛亮の思うとおりには、曹魏と戦うことができなかった。

 建興12年(234)、病に冒された諸葛亮は孫呉に使者を派遣し、同時に曹魏に対して挙兵をすることを促すとともに、10万の兵を率いて五丈原に進出。上方谷(胡蘆谷)で危うく命を落とすほどの敗北を喫した司馬懿は、堅固な陣に閉じ籠もって戦わない。しびれを切らせた諸葛亮は、女の髪飾りと喪服を司馬懿に贈りつけて辱めた。司馬懿はとりあえず激怒して明帝に出撃の許可を求める上奏をしたが、予想どおり却下されると、勅使を迎え、戦わないことを全軍に確認。諸葛亮は不用意な挑発により、その焦りを見透かされていた。また、司馬懿は使者に諸葛亮の執務ぶりを尋ね、寝食を忘れたその生活に、死期が近いことを悟った。一方、同盟国の孫呉の敗退を聞いた諸葛亮は、落胆して気を失った。それでも姜維の勧めに従い、祈祷により自らの寿命の回復を懸命に試みた。7つの燭台のまわりに49の小燈を連ね、中央に自分の命を象徴する主燈を置いて、一心に北斗星に祈る諸葛亮。7日間、主燈が消えなければ寿命が12年延びるという。しかし、最後の夜、曹魏軍の襲撃に驚いて報告に来た魏延に主燈を踏み倒されて、諸葛亮は嘆息する。「死生に命あり、祈祷ではどうしようもない」

 諸葛亮は、今までの北伐が兵糧の不足に苦しんだことに鑑みて、木牛・流馬で運搬にあたったほか、斜谷水の河辺に土地を開墾し、付近の農民とともに屯田を行って兵糧の確保に努めた。こうして補給の体制は整ったが、諸葛亮の寿命は、これ以上の戦いを許さなかった。8月、病魔に侵された諸葛亮は、自軍に落ちていく星を自分の将星であると指差し、そののちに病没した。蜀漢軍は、諸葛亮があらかじめ立てておいた計略によって、無事漢中に引き上げることができた。司馬懿は、蜀漢軍の撤兵後に諸葛亮の陣営を調査し、「天下の奇才」であると感嘆したという。

 

三国ついに統一される(234〜280)

 

三国の滅亡

 

 五丈原で諸葛亮を防いだ司馬懿は、そののち遼東の公孫氏を滅ぼし、勢力を拡大した。明帝の死後、後事を託された曹爽は、司馬懿の軍権を剥奪して君主権力の再編をめざした。しかし、司馬懿は正始の政変により曹爽一派を打倒し、司馬師・司馬昭兄弟は、毋丘倹・文欽・諸葛誕の抵抗を一蹴した。一方、諸葛亮の死後、ショウエン・費イの輔政期には内政に努めていた蜀漢は、二人の死後に姜維が北伐を繰り返し、国内の支持を失っていた。そこで、景元4年(263)、司馬昭は、艾・鐘会を派遣して、蜀漢を滅ぼした。蜀漢を滅ぼした司馬昭は、曹魏より禅譲を受ける準備を始め、九錫の賜与など、曹操が後漢を滅ぼした際に行った儀礼が繰り返されていく。咸熙2年(265)、司馬昭が死去すると、昭の子である司馬炎は、曹魏を滅ぼして西晋を樹立した。さらに咸寧8年(280)、孫呉を滅ぼして中国を統一、三国時代に幕を下ろしたのである。