自信(6th Oct)
さいきん気がついたことをふたつだけ
じぶんに自信がないひとというのは
なにかやりたいかどうかということについてはとにかく懐疑的なのに
やりたくないという感触に関してまったくうたがいをしらない
いいかえるならじぶんを行動させないような直感にはとにかく正直なのだ
もうひとつ
日常的にことばでもってひととわたりあわないひとは
いつ噴火するかわからない活火山のようなものだ
日々の不満が噴出することなく地中に蓄積していくので
いったん火を噴き始めると本人ですらコントロールすることがむずかしい
そんなひとにかぎって死火山にあこがれているのだけど
生きている限りものを感じることはさけがたいので
噴火をできるだけ小規模なものにできるかどうかは
どれだけうまいことマグマを地表に流してやるトンネルを掘れるかにかかっている
地表に流れ出したマグマは最初のうちこそ灼熱をみなぎらせているが
つめたい風や太陽にさらされているうちにすぐに熱をうばわれて
もうかたちをかえることのない地層になるだろう
そんなふたつ
かわいそう(2nd Oct)
スバルのキャブがオーバーフローしてJAFのひとにきてもらったり、フロートがパンクしてるのをハンダで直したり、バイクのシートを塗装したり、してますが、はい生きてます。
共感は一般的にいってひとを力づけるものだが、その共感がじぶんじしんの感触から実はずれている場合はどうなのだろう。
同情や反感をへてあるできごとの加害者や被害者になることが、気持ちを救済することがあるだろうか、というのがきょうのテーマ。
一般的なにんげん関係に限定(構造的な差別とかはちがうので)。
いま書き終わって最初にもどって読んでいるのだけど、この洞察はひととの関係のなかで意見をうまくいえないひとは必読。というか、べつに読むひともない雑記ですが。
ひととひととの関係のすれちがいは、よいわるいというものではなくて、相手にいいにくいこと、悪者にならないようにしよう、とかしてるうちに、どんどん溝が広がっていくのはよくある。
たとえばなかよく過ごしているひと以外に気になるひとができてきて、なかよく過ごしてきたひとへの態度が自然とそっけなくなり、それを受けて相手がいらだったり、暗くなったりすることがまたいやになり、結果気持ちはそのひとから加速度的にはなれていった場合ですら、別にそこでどちらかが悪いわけではない。
いいにくいことはいいたくない。相手を傷つけるようなことをいうのは、じぶんが傷つくからさけたい。相手の好意はとりあえずうれしいし、それを失いたいとは思わない。そんなふうに感じてなにもいえなくなるのは、にんげんとして弱いけれどよくあることだ。
いいたいことがあるのにいえない。そのいらだちは、いうことのできないじぶん自身へのいらだちとして意識無意識関係なくでてくるし、相手の笑顔への罪悪感を感じることもしばしば。そのつらい現場からじぶんを救済するためのいちばんの近道は(ほんとうはちゃんと話すことですが)、相手の悪さをカウントしていくこと。気まずさを感じていわないでいることを始めて、言葉がのどにひっかかってしまうようになったきっかけはじぶんにあるのに、その相手が悪いからうまくいうことができない、その相手といると自然のじぶんでいることができないと感じるようになる。つまり、じぶんが相手といることがつらい理由を、相手のなかに見出すようにすれば、それこそじぶんをみつめることなく、その関係からはおさらばすることができるのだ。
もちろんだいたいのひとにはいくつも悪いところがあるので、そこをカウントしだすときりがないし、その段階では、わざわざ相手のいやなところを引き出すようなしつもんや態度をとることもしばしば。きいてはやっぱりとうんざりし、またうんざりすることの繰り返し。で、相手のいやなところをみつけることが、じぶんのことばにできない苦しさを楽にするのだから、これはなかなかやめられない。
しかしそれであたらしいひとや関係を選びとったからといって、問題が解決するか、というとたぶんそんなことはないだろう。なにしろ、みにくいことはことばにださないでなるべくきれいにしたい、という気質や習慣はなにもかわっていないのだから。ふとしたきっかけで、おなじことを繰り返してしまうだろうし、関係がうまくできなかったというおそれだけはどんどん蓄積していくので(原因をみつめることがないまま)、そのことはかれ/かの女からさらにことばを奪いはしてもふやしはしないだろうから。
あらためていうのもしょうもないが、ひとというのはだいたい不器用なものだ。ある気持ちの部分にふたをして、ある部分だけをきちんと生き生きさせておくということはかなりむずかしい。じぶんの後ろめたさとか、ネガティブな部分を避けるようにすれば、自然といえない領域がふえていき、じぶんが自然にできていない、と感じるようになる。
そういった悪循環から抜け出すみちは、結局は、気持ちをじぶん自身のものとしてとりかえすことによってしかない。つまり、ことばにしなかったことで、じぶんでじぶんの気持ちを殺していったのだと、きちんと自嫌悪なしに受け入れることだ。
さいしょのテーマに話をもどすと、一般的なにんげん関係相談では、正直にはなせないことや、相手への不誠実さは責められがちだけど、ぼくはそういったことばにできない弱さは、かぎりなくにんげん的だと思うし、弱さを責めてもはかないことだとも思う。
加害被害という一般的な構図にならって、じぶんを加害者ととらえることは容易に自己嫌悪(つまりは現実逃避)にむすびついて結局「なんでそうなったのか」を問わないままじぶん自身の問題を放置することになるし(なにきいても「わたしが悪い」としかしわいわないひとは、結局はなにも見たくないのだと思う)、逆に被害者になることは、相手へのうらみやにくしみといった救いがたい感情をはぐくんでしまってじぶんでじぶんを救い出すちからを逆に弱めてしまう。なにしろ、そういった関係の破綻や、すれちがい、ぶつかりあいから気持ちを解放するのは、じぶんも含めてにんげん的な弱さを許すことによってしかなされないのだから。
満月の夕べ(22nd Sep)
中秋の名月らしい。
しかしアメリカにいるときに気づいたことだけど満月のときはあきらかにからだもこころも調子が悪くなる。
そんなふうに思って過去の雑記を読み返してみたら
2007年の8月もこんなことを書いていた。
「橙色のおそろしいような満月だった。アメリカにいたころにはっきりと意識するようになったけど、満月が近づくにつれて大体の場合体調が悪くなり、あとそれにともなって強烈な孤独感と焦燥が到来して、どこにも落ち着いていられなくなる。まるで月の引力の魂をすいだされているようだ、と思う」
さて今回はどんな感じなのかねえ
この数週間
ことばを使うことから逃げ惑うように
がまんする、書かない、口にしない、
気になっていることを宙吊りにしておく、と
全部できそうなことを試してみたが
その結果わかったのは、ことばにできないのは苦しいことだってこと。
さいしょに不調がでたのは内臓で
その次にきたのは頭の重みだった。
夕方が近いころになると意識が朦朧として後頭部に錘をかかえているような
血液が全部鉛になってしまったかのようなしんどさがあって
しごとどころじゃない。
まるでことばにしなかった思いが全部出口を求めてからだのなかで暴走している感じだ。
書いたり、言葉にすることで、思いや憎しみや愛着にとりつかれもするものだけど、
ざんねんなことにそこから逃れるのは、すくなくとも言葉を使わないという方向ではないってことが、
おぼろげながらわかってきた。
そんなじぶんの気質をとりあえず許そう。
おぼれるなかでしがみついたものはよくみたら藁だったし、その藁はいつまでたってもやっぱりたよりないが、それでも藁がないとしずんでしまうのだから、しょうがない。
ぼくはまえにどこかで
「悲しみやつらさを口にすることで他者を引きとめようとすることは、もっとも力なきひとの力の行使へのアディクションである」といった感じのことをえらそうにも書いたが、いまはその理解があやまりであったと思う。
ある日いきなりひとは健康になったりしないし、悲しみやつらさはおうおうにしてそれまで受けてきた、そのひとが無理をしてきた生の痕跡であるのだから、そのことを口に出すのは回復への道のりであって、どんなことがあってもその逆ではない。じぶんが語ることばにとらわれていくかもしれないが、それでも苦しさを内にひめたまま生きつづけるよりはなんぼかましだ。
満月の夜にはひとつくらい確信がもてるものだ。
はたらく(21th Sep)
いやもう口内炎がいたくて
満月が近づくにつれてからだの昨日からきぶんまで総崩れになるのはいつになってもかわらない
そんながけっぷちのきぶんをしってかしらずか
さいきんは懐かしい友だちやあっていなかったひとから連絡がきたり
実際にきたりのオンパレードで
ぼくを落ちきらせないような
なみなみならぬ執念を感じさせる
そうわたし唯物論者じゃないので
運命の出会いとか
このひととは絶対になかよくなるっていった直感をかなりのレベルで
信じているのです
それにしてもはたらくことはつかれる
そんな凡庸なことを書くのもまたしょうもない
お金しかその椅子にあたしをしばりつけるものがないってことにくらくらするのだ
やりがいとかなんだとかいってもみてもいいが全部うさんくさい
使用者がとりかえ可能な労働力って自信をもっていっている状況で
使い捨ての立場からどこにやりがいなんて見出してやるもんか
しごとには遅れても友だちとの約束には遅れないひとになろう
いやちょっと組み替えて
友だちとの約束におくれるのと同じようにしごとにも遅れるひとになろう
だってお金しかつなぎとめるものがない場所へは律儀に顔をだすのに
お金とはまったく関係ないところでつながってる友だちとの約束は適当でいいとしたら
ひととしてずいぶんまちがってる気がする
手紙(20th Sep)
手紙を書きたい
だれか嘘にならない手紙の書き方をしらないだろか
むかしからひととの関係で悩みをかかえていたり、なにかむずかしさを覚えたりしたときには
いつも手紙を書いてきた
手紙を書くことはときに磁石をもって砂鉄を集めているようでもあり
思いやばらばらになっていたものがまとまってくることもしばしば
しかし問題は一方で返事を期待したり
ことばの当然の効果としてじぶんをうまく見せたい
思いやりをもっていたり相手のことを考えているみたいに
文字のうえで描き出したいという欲望が比較的自由に
話すことに比べればもっと落ち着いてできるということで
書いていると嘘もほんともいっしょくたになる(もちろん本人はおおまじめでほんとうのことを書いているつもり)
この雑記を読んでいてもあきらかなように離人神経症気味のわたくしとしては
手紙を書くということがすきだけどほんとうにおぼつかない
いったん書いたことへの反論やちがった感覚の可能性が
書いて数秒後にはたちあらわれて
ふつうひとはそこまで意識しないのだろうけど
確信が遠のいていって
とにかくあぶなっかしい
離人神経症では
なんかじぶんがまじめな病気みたいなので
いったりきたり症候群といっておこう
あしたくらいいったりきたりしながらも手紙を書こう
ボーンホルム(17.5th Sep)
さいきんは曲ラッシュなのだけど
実は夏休みまえに完成していた曲があって
それは冬にデンマークのボーンホルム島を訪れたときの印象を
歌にしたもので
その曲の一節がなんかいもなんかいもあたまのなかにまわっていた
こんな澄んだ森に きみがいれば
夜がきてもきみを 見つけただろう
大切なものはまた風のなか
そんな一節
大切なものを見失うことはないだろうって
きびしさと美しさのなかで
すごした冬だった
大切だと感じているものが見えなくなったり
失うのはつらいことだ
じっさいには生きている時間の一瞬であるにしても
つかんだ確信が大きければ大きいほど
置いてけぼりになったときのさみしさも大きい
あの冬はまた来るんだろうか
やくにたつのかなー(17th Sep)
びっくりするくらい理屈っぽいよね
ひととの関係が非対称なのはいつものことだし、受身じゃなかったらうまくいくってもんでもないんじゃない
っていうか、こんなにことばを並べてみたところでじっさいの人間とのつきあいのなかでは
まだハチクロのほうがマニュアルとしてやくにたつかも
だから考えるなんてろくでもない
分析すること
冷静なこと
ことばをつかって考えること
そんなどれよりも悲しいときにさきに泣いてしまえるほうがつよいし
ものいわぬ迫力を持つんだ
投資(16th Sep)
あのひとのことをほんとうに好きかわからなくなった、とか
じぶんの気持ちがわからない、とか
そういった相談ともいえないような相談をきくことがたびたびある。
その発言をていねいにきいていると、かれ/かの女たちのなかで、愛情はちょうど春になったらあたたかい風が吹いてくるように、どこかから胸に訪れる、といった感じでイメージされているように思える。
ぼくはロマンティストであることにはずいぶんな自信と負い目があるが、実は愛情をどこかから訪れるものと信じて疑わないひとたちのほうがよっぽど子どもっぽいロマンティストだとさいきん思う。
経験的にいうと、ひとへの愛着のつよさは、そのひとにどれだけ時間をかけてはたらきかけたかということに比例する。べつにお金をかけるということではないけど、それを投資といってもいい。
べつに自己否定的になる必要もないし、自己嫌悪する必要もないが、ほんとうにそのひとのことが好きかどうかわからなくなった、と話しているひとは、いちどでいいからその相手に対してじぶんがどれだけはたらきかけをしたか、冷静にひとつひとつ数えてみるといいのでは、と思う。何通のメールを書いて、何回あそびにさそって、何回じぶんの感情をことばにしてつたえたのか。これまで好きかどうかわからないひとと町を歩いたとき、映画館にいったとき、レストランにはいったとき、旅に出たとき、それらの状況をつくりだすためにどれだけ相手にはたらきかけをしたか。ていねいに数えてみればみるほど、おそらくじぶんはなんのエネルギーもつかっていないことを発見するのではないか。
相手に対してなにもしていないような状況で、ただ相手のはたらきかけを感受しているだけの状況で、愛着や愛情が生まれてくるはずがないのだ。愛着や愛情はひととひととの関係から生まれてもくるし、なくなりもするものなので、どこかの神が関係の外側から与えてくれるものではない。
はたらきかけをしようと感じないから、好きかどうかわからない?
そういうことばをきくこともしばしば。しかしそこではじつは理解が逆転している。はたらきかけをする、能動的になるかならないか、はもちろん相手がだれか、ということも関係はするのだけど(ちっとも魅力を感じないひととかかわろうとは思わんから)、往々にしてそのひとの行動様式の問題だろう。そこにはかなりのレベルでジェンダーロールやトレーニングがかかわっているから、べつに受動的でありつづけることを選んだ(選ばされた)ことすべてがそのひとのせいであるとはいえない。ただ、いま描き出したロジックがただしいとするなら、受動的でありつづけるかぎり、つねに愛情や愛着は不透明だし、ふとしたことで好きかどうかわからなくなるだろうし、いつまでたっても落ち着いてひとと関係を築いていくことなんてできないんだろうなと思う。
まあ別に恋愛関係がきちんとつくれないことがいちばんの不幸とはいえないが、ひとへの愛情がどこかから飛来して胸に居座りつづけるものだ(じぶんはなにもしないでも!)というイメージを抱き続けることは、結局はたらきかけをなにもしないじぶんを肯定することにもなるので、不幸なことにちがいない。
とはいえ、はたらきかけをすれば幸福かというとそうでもなくて、そのぶん別れがつらく悲しくなるのです。
投資をすればするほど思い入れも強くなるし、為替とかとちがってひととの関係はいつだってあっというまに原本割れしてしまう(なんも回収できないどころか、いやな気持ちや悲しい気持ちを生み出してしまう)。
ああ生きるってしょうもない
必然(15th Sep)
でもさ、ことばを使うようになるにはそれなりの必然があったのではないかって思った。
きょうの昼からの連続シリーズですが。
おとこのこになることにそれほど疑問をもたないでいたら、ことばを使ってじぶんの位置をさぐらなくてもよかったのでは。思いっきりすきになったひとに結婚の決まった恋人がいなかったら、別にふつう恋愛をしたらよかっただけでは。
つまりふつうの感受性が男性ジェンダーイメージを自然とみなしたり、ふつうの一対一のカップル関係を自然としている以上、そのどこにも居場所のなかったぼくはじぶんの落ち着く場所をまずはことばでさぐらなくてはならなかったのでは。
とくに不幸なわけではないけれど、ひとが自然と感じるありかたや関係からただ生きるだけではみだしてしまうとき、言葉がないことにはどうしようもなかったのだと思う。
きょうは酔っ払いなのでこのへんでねむろ
牢獄(14th Sep)
アブグレイブ特集をテレビでみたからじゃないけど、ことばはひとを無言の苦しみからは解き放つかもしれないが、またあらたなことばの檻にとじこめるものだ。
ちっぽけな虚栄心やヘゲモニーをとりたい欲求はある程度ことばがつかえるようになるとわりあい簡単に満たされる。しかしそんなふうに「場所を占める」ためにことばを使い続けていると、こんどはことばが語り手に逆襲をはじめる。と、いうか呪いをかけはじめる。
ふつうひとは、感じたことを苦心してことばに置き換えようとする。しかしことばに浸りきっているひとの場合、それとはちがった順序がありうる。昨日も書いたことだが。「場所を占めたい」「美しくすてきなことをいいたい」といった欲求から選び続けていたレトリックが、いつのまにかじぶんの「ほんとうの」気持ちを表していると疑わなくなってくるのだ。ほんとうの気持ちがある、という発想がひとつの言説にすぎない、とかいってみても、そういった、ことばで世界が構築されていくというアイデアがよのなかのメインストリームになることはたぶんなくて、実際に日々の生活やすきなひとがそういったアイデアとはほとんど無関係に生きている以上、そういったことばゲームは精神の危機や孤独以外なにも生まない。
つまりことばを使えば使うほど、学べば学ぶほど生きづらくなる。
同じようなことばを使うひとのなかにいればいいんだろうけど、こまったことにぼくはぜんぜんそういったことば遊びの世界に魅力を感じなくなってしまった。
とはいえ反知性主義もきらいだ。たいして知識もないのにさらに学ぶことを否定してもねと思う。
ことばが感性を鈍らせていかないようなかたちでからだに入ってくればいいのに。
いつのまにか秋がきて出勤のお時間。
あめふり(13th Sep 2010)
書くことやはなすことがすべてうたがわしく、たよりなく感じられるとき、どんなふうにして思いをつたえたり、なにを感じているのかさぐったらいいのだろうか。
言葉になれきっているひとの思考はちょっとなれきっていないひとには理解しがたいところもあり、口からでることばが思考の先をいったり、まるで考えていなかったような言葉がでたり、じぶんのことばをひとごとのようにききながら考えを整理していったりすることがある。思ってもいないことをいうのではないけど、まだあんまり確信がないことでも、ちょうどなんのうただか思い出す前にメロディを口ずさんでしまうのと同じように、ことばになってしまう。
だから自己嫌悪やその当然の帰結としてのひとへの(じぶんへの)不信の強いときには、ことばはまったく役に立たなくなるのだ。なにを書きたいかもわからない。いいたいかもわからない。ただ自動記述のように、ことばが流れ出てくるということがたびたびあっていまはそんな状態か。
いちばんの問題は10年間もたくさん旅したバイクのシートが昼間にぬすまれてしまったことで、そとにでるのがおっくうでしょうがないこと。たぶんはらがたつよりは、かなしいのだ。ひとのことはよくわからないが、なんとなくやりきれない喪失感をかかえて手も足もでないこういった感情のありかたを、悲しいと人間なら表現するんだろう。そんな感想が強烈に離人症的だね。
どうにもきもちがやすまらない日々がつづく。
和倉温泉でひいたおみくじは大吉だったのにな
新曲(11.5th Sep 2010)
新曲といえば新曲ばかりなんでやんすが、きょうライヴでやってそこそこ評判がよかった新曲の歌詞など。
ハローハロー
夕がたの風に 頬染めて 葡萄畑の坂を きみと 歩く 歩く
忘れてたことばかり いとおしく 感じるよ
いつも遠回りして 帰る場所もちがうけど
夢見てるよ きみの夏
ハロー きみは元気かな
ハロー いっぱい手を振るよ
夕立のあけたそら 蒸し暑い 部屋のなか
きみの夢ばかり ばかりみてるよ
夏草を染める 青い月 湖の風がふく ほら
きょうはくもりのち雨 あしたは晴れるかな
そんなふうで いいかもね
ハロー きみは元気かな
ハロー いっぱい手をふるよ
なぜだか空っぽで なぜだか泣けるのです
きみの夢ばかり ばかりみてるよ
ハロー きみは元気かな
ハロー いっぱい手をふるよ
なぜだか空っぽで なぜだか泣けるのです
きみの夢ばかり ばかりみてるよ きみの夢ばかり ばかりみてるよ
スイスから帰ってきた日にこんな曲ができたのがふしぎで。
Vevey
うわのそら(11th
Sep 2010)
『パーム』のことを書いてたら続きが読みたくなって、買いそびれていた最新刊とかを買ってきた。
ジェームズがテキサスの農場につかまってさんざん虐待されていた時代のはなしが最新刊なのでくらく、いたい。飯能の古本屋で読み始めてからもう10年以上もつきあっているシリーズだからなんか物語って感じがしなくて、もうひとつの生をのぞき見しているような気分にもなる。
もうひとつの生というと写真のヴヴェイはチャップリンが余生を過ごした町で、こんなところで湖をながめたり畑をいじったりしながら生きる時間があるのかとちょっとあこがれた。
現実の生は、夏休みも終わりかけ。ライヴも直前で。
旅の途中に書いた手紙は、目的地にうまいことたどりつくことができただろうか。まだ旅はうまいこと生活の中に居場所を見つけられないまま、ゆめうつつの日々が続く。
さっきケンカしてしまったディディがなくのでそろそろ寝る時間。
低空飛行(10th Sep 2010)
まあこれまでだってそれなりに生活するのにせいいっぱいってときはあったんだけど、いまがどこかちがうのは楽しく日々過ごせていたときの記憶が、いまの生をおびやかさないことかな。
そのちがいはなんだろう。
むかし『パーム』で、気持ちは何度でも戻ってくる、決して傷つかないんだ(Nothing hurt)という感じの言葉を読んで、なにか大事なことをいってると東飯能の古本屋で10代中ごろの日々に直感的に思ったが、ずいぶん時間がすぎて、やっとどういう感じかわかった。
生きた時間を重ねてわかるのは、ひととのぶつかりあいとか別れはもちろんあるんだが、じぶんが生きていくなかで大事なひととの関係であったり、ひとをイトオシク思う気持ちっていうのは、どんなひどい別れ方をした場合でも、だいたいもどってくる。もちろんそうではないって感じるひとはいるだろうし、たまたま別れていったひとがいいひとたちばかりだったのかもしれない。それでも、ぼくが生きていくなかで、決して傷つかないってことばはチェインギャングの歌詞と同じくらい確信をもってつかめる。
そこらへんは理屈の問題ではなくて、感じるほかないし、じぶんでもだれがこの先生きていくなかで大事な存在になるのかはほとんどわからないのだけど、後ろ向きで手探りしているような未来のイメージのなかでも、なんとなくその気配くらいは感じ取れる気がしてきた。
現在を悲観しきらないこと。
過去のイメージがいまの生活をおびやかすのは考えてみれば、ノスタルジックなうしろむきな希望しかないからだ。回復しえないという絶望が、過去を想起させ、過去はいまの生活をむしばんでいく。
そういった悪い循環からすこしは離れられたんかなという昼前。
夏休み最後の平日は、『パーム』の「星の歴史」を読んですごそう。
ライヴライヴ(9.5th Sep 2010)
今夜はひさしぶりに丸太町大宮あたりのライヴハウスにいった。
考えてみたらはじめてあの店で演奏したのは10年前で、働いてるひとまでそのときとおんなじでなんかなつかしくてすらりとあいさつした。
半分かげながら、お互い10年すぎましたねってこころのなかでつぶやいたり。
なんだかんだ、京都で生きてるんやね。
路研の宮沢さんの演奏をききにいったのだけど、いやほんといいっす。
声、ブルース、リズム、ていねいさ、音の揺れかた、全部いけてる。
見せ付けたいって意識からはるかに遠く、ただ音を楽しむような演奏はよい。
チューニングがあまいのもなんのその。
音楽っていいななんて、ひとごとみたいにひさしぶりに思った。
ぼくもライヴしたいな。
信じる(9th Sep 2010)
この日々において大事なのは信じることだと思う。
ことばができるにしてもできないにしてもそれは同じことで、結局じぶんを信じきることなしにはすきもきらいもあったもんじゃない。ひとの気持ちやことばを信じられない、いまいち身をもって感じられないことは、往々にしてじぶんじしんへの不信の表れなのだと感じる。落ち着いてみると。
TシャツにはDon't stop Believingと書いてあって、なにをいってるんだと思ってたけど、こういうことか。
そういえばジュネーブにYesterday will be betterという展覧会かなにかのポスターがはってあったけど、みょうに予言的なタイトルの意味をかなりポジティブに受け止めるなら、いきづまったらがんばって前をみるんじゃなくて、よりよい昨日をみるのがよいかも、って。
ライヴ近し、気持ちははれ。
夜を埋める(8th Sep 2010)
雨が降ったあとの部屋の温度はさがって、すこしばかり秋らしくなった。
眠れない夜更けに文章なんて書いているわたしは、要するに飲みからあぶれてしまったってことで、友だちをつかまえる気にもならずナイフをみがいたり、ハンダづけをしたりひとりでいたらやりそうなことをして夜を過ごしている。
旅から帰ってきて10日目。
一日ももれることなく続いた飲みの日々はいったんおやすみで、さてこれからどうなるんだろ。それにしてもだれもみないネット上の雑記に文章を書くことは、たのしい。コミュニケーションのツールですらないので、出会いも別れもしったこっちゃなく、ただ記憶とモノローグを、なくなってしまう机のなかではないところにおいておくだけ。
さいきんになって思うのだけど、ぼくは好きなひとに、好きということをあまりきちんと信じてもらえたことがなくて、それは不幸なことかもしれない。もちろんモノポリー(モノガミー、ポリガミーのことよ)うんぬんいってたときは、生き方の問題もあるからしょうがないかって思っていたが、そんなことばで生を規定するようなやりかたはもうどうでもいいやって思うようになってからも、あいかわらずあまり信じてもらえない。モノポリー時代の亡霊にじぶんも含めてとりつかれてでもいるように。
さみしがりなのがよくないんだろうか。
なにかしら出会いが多そうなのがよくないんだろうか。
いつも冷静そうなのがつまらないんだろうか。
信じてもらえないのは、ひとが好きというかたちで認識できるような社会的な要素や表現が欠如しているのかと思って、ひとがどんなふうにして好意をつたえているか観察して、まねてみてもいまいちぎこちない。
なにかが欠如しているのか、それとも愛情が薄いってことなのか、いろいろ考えはするものの、どうにもわからない。そもそもひとがしてほしいやりかたで、好意を示し続けるなんて不可能だし、示し続けないと信じてもらえない関係っていうのもどこか不健全。おいしい料理をつくるとかプレゼントをていねいにつくるとか、そんなところに本質があるんじゃないんだろうな、と思いつつも、けっこうごはんつくるのも大事だよねとか思う。愛情にうたがいのことばが投げかけられるとき、そのぎりぎりの雰囲気とはうらはらにいつも、あたし、あのパエリアおいしくできたのに、あのおいしさではまだ伝わらなかったかーとか無念さをかみしめるのです。そんなふうに無力感を感じることは多い生き方ですが、あいかわらずつぎにあのひとにごはんつくるときは飛び切りおいしいブイヤベースにしようとか考えている、夜。
この先もずっとこんなふうなんかな、とか猫のディディに話しかけはするものの、猫ははなから興味なさそうに早く寝たらとばかりにあくびちゃんです。
そう、
それとはまるで別のはなしなんだけど、ことばってやっかいだなと思う。
もうちょっと丁寧にいうと、ことばへの距離感や経験がひとによってちがうのは言語がちょがうのとおなじくらいむずかしい。
あまり本を読まないひとは、ことばにはじつはおおくの意味やつながりかたがあるということをしらない。つまり言葉と意味、感じることの距離が近いのだ。
一方で本をたくさん読むひとは、あることばがむすびつく意味のヴァリエーションをたくさん知っているので、ちょっとばかりはなしを聞いただけではひとがなにをいおうとしているのかわからない。そこでは話してのことばを感じるというちからはかぎりなく鈍感になる。
ことばをたくさんしっている人間は、感じることから距離があり、ことばをあまりしらない人間は感じることと、今度は近すぎる。ことばにたよりきっている人間には、ことばをあまりつかわないひとの発話は往々にして理解がむずかしいし(感じることから遠いしね)、ことばをあまりしらない人間は相手がいおうとしていることを言語的に理解するまえにはやとちりにしろ、真意を先取りしているにしろとにかく感じてしまう。
ことばを使いこなす人間のことばはとにかくいいわけめいている。ことばを使いこなせない人間のことばはまるで連想ゲームだ。
そんなときにものをいうのはやっぱりごはんなんかな。
とてきとうにして眠りにむかうよる。ことばを待ちつつ。
エーデルワイス(2nd Sep 2010)
毎日曲ができてくる。
この一年やすんでいた部分が動き出した感じ。
きのうできた曲は三拍子で、歌詞の言葉もメロディもこれよりも美しい曲はこれからもできなさそうだ。
ライヴで演奏するのは少し先になりそうだけど。
エーデルワイス
指先をなでる
きみと夏の風に
緑色の空も
すこし笑ってるよ
白い雪が残る
遠いいただきでも
きみとゆっくりいけば
たどりつくだろう
エーデルワイス きみと
谷間に揺れる花びら
エーデルワイス エーデルワイス
口笛吹いて きみと帰ろう
夜のひとしずくを
あつめてきみのもとへ
眠れぬ夜はいつも
そばにいるから
エーデルワイス きみが
笑えば夜も光るだろう
エーデルワイス エーデルワイス
きみと手をつないでこう
エーデルワイス きみは
まるで夜に光る月
エーデルワイス エーデルワイス
きみとふたりこの夜をゆこう
きみとふたりこの夜をゆこう
夏日(5th Aug)
いやほんとにもう暑くって
外に出たくないのです
いつのまにかラムール跡地には
三階建ての家の柱が立っていて
これはわずかここみっかで建ったのだけど
これでもう角を曲がるときに自転車から手を思いっきりふってくれた
あのひとの笑顔がみれんと思うと
ちとさびしくもなる
空き地にはあっというまに家が建ち
なにもないは、なにもないではなくなる
気持ちの空き地もそんなもんかいの
それはそうとこんなに暑いと外に出れない
しかしそれは気持ちがだらしないからでは
でもなにもしなくていいしな
なんてせめぎあいと同じようなことが生きてるとたくさんあって
困り気味なのです
つまりだれが悪いというわけではないけど
気が悪い、気持ちが晴れないってことがあって
どうすれば解決するかわからんとき
自分が悪いわけでもなく
まして相手が悪いわけでもないとき
どうすればいいんやろ
そんな簡単なこと悩むまでもない?
とりあえず自分中心で考えたらシンプルになる?
こういう文章かいてるといま働いてる職場では
具体性がないのであなたの悩みがつたわってきません、とか書くんだよな
余計なお世話! 書けないこと授業で書きたくないこともあるっちゅーねん
とはいうものの具体性やたとえは自分ですっきりするためにも実は重要でやんす
おしゃまさんとスナフキンの待ち合わせってことで考えるか
実際にはそんなシチュエーションはないにしても
おしゃまさんはヘルシンボリの美術学校で働いている(ちなみにうそですよ)
「暖かくなったら会いましょう」と冬のある日スナフキンに手紙を送って
しばらくのちにスナフキンから、いいですね、と返事がきた
ヘルシンボリの美術学校は思いのほかいそがしくておしゃまさんは
暖かくなる春休みの休暇申請をだいたいの目安をつけてはやいめにとった
雪も解け始めたころ風のうわさでスナフキンがデンマークまで旅に出たとおしゃまさんはきいた
と、はなしはここで宙吊り
この場合いろいろなことがいえるが
いちばんはっきりしていることは
ふたりとも自分のペースで生きているだけで
ぜんぜん悪くないってこと
にもかかわらずこのすれちがいは
あまりどちらにとってもよい気分をもたらさないだろうことは
容易に想像できる
あえてこのすれちがいに
ひとつ現実的な提案を介入させるなら
おしゃまさんは「どの春」なのかをしっかり伝えておけばよかったのかも
スナフキンのほうは旅に出るつもりってことを思いついたときに伝えておけばよかったのかも
まあ
そんなこといっても
ひとのコミュニケーションの大半は
あまり具体的に言語化されない期待や慣例(いつもそうしてるってこと)や
なんとなくの共同体のルールを前提にまわってるので(あいさつされたらあいさつするとか)
いちいち言語化してみたってすれちがいがでてしまうのは
やっぱりふせげんのだろうとも思う
ひとの自由はどっちにしろなんでもありなんで
おしゃまさんはよくわからなくてもなんとなく休みをとるだろうし
スナフキンは手紙をもったまま気の向くまま旅にでるってことか
チェインギャング(4th Aug)
ひとをあいするってことをしっかりとつかまえるんだ
なんて
いいこというじゃない
明け方に顔をふみにくる
猫にもやさしくなれないわたくしはまだまだ
だと思う
高校のときに
よく歌っていたうた
いつのまにか
あまりきかなくなったうた
いまになって
なんだどうすればいいのか
ずっとずっとまえにしってたのかって思わせられるうた
8月の夜更けに
ひとりくちずさむうた
あしたは胃カメラをのみたくもないのに
のむのだ
熱帯夜(3rd Aug 2010)
ああ眠れねえ
そんなふうにつぶやいてみてもやっぱり
眠れねえ
べつに暑いとか不眠だとか
そういった
やることばかりがざわついていて
眠れないのだ
ええわたくしひっしに生きております
このところ生きることのほかにはなにもしていないくらい
生きております
ほんも読まず
文化にもうとくなり
哲学も社会学も
言葉を使う人間なんてまっさきにうさんくさいと
サルトルが甲殻類をきらっていたのと同じくらい
いやになってしまった
そんなふうに思いながら
自分検索なんかしてたら
あった
「バンドも料理も創作表現もDIYもアウトドアもこなす多機能セクシーインテリジェンス北欧腹黒イケメンお茶目」だそうだ
すばらしく魅力的な形容詞のならびをかんがえてくれた
書き手にまず感謝したい
そうとうち的だ
ほんも読まなくなったあたしにはとうていおよびもつかないくらい
のびやかなことばの感性がある書き手
それにしても
わたくしここに書かれているように
じぶんじしんの魅力を信じきってこれたら
もうちょっと楽に生きてこれたんじゃないかとも
思うのですが
じっさいにはひとりっこなこともあって
いつもいつもひとりになることにおびえてばかりおりましたの
どんなに言葉をならべてみたって
ひとがじぶんをきらいにならないって信じきれんことには
どうしようもない
クリスチアンみたいにじぶんのことをえんえんと分析的に話したって
じぶんのことがわかるどころか
ことばでじぶんをつくりあげてゆくばかり
どんどんひとからは、ついでにじぶんからも
遠くなるんでありんす
ことしの課題はとりあえず
組合運動をつづけることと
音楽をやめないことと
ちゃんとひとを信じきること
じぶんもふくめて
悲しみよさようなら
ついでにことばもさようなら
あんたはずいぶんあたしをたすけてもくれたけど
結局はすこしだって幸福にはしなかった
On a jetplane (8th Mar 2010)
旅立ち前の晩。
ボーンホルムで出会ったアンナ−リサ、ヨン、ハネスという順番でメールの返事が来た。アンナ−リサは20の誕生日をむかえたばかりなのでテンション高め、ヨンはアイスランダーらしい静けさと愛嬌(ほかにアイスランドのひとをしらないだけなので偏見でしょうが)を感じさせる文面で、ハネスは音楽以外のことに関心がないのが一発でわかるくらい、自分がどんな曲をつくったってことをたくさん書いたメールだった。文の最後にいつでもTartuに遊びにきたら、と書いてあって、エストニア語のTartuという都市のひびきはなんかいとおしい感じがした。北の端のタリンから南に180キロの場所にある都市らしい。そこからあと数十キロでエストニアをでてしまう、そんなちいさい国。
あした夕方にでて、あした朝着くサンフランシスコには下の写真のブローニーを持っていく。よくしらない、けれどなにか存在感のある機械がひとつふえるだけで旅はずいぶん魅力を増す。
10年ぶりに訪れる町はどんな風をたたえているんだろう。
ブローニー(7th Mar 2010)
ボーンホルムのNexoのセカンドハンズで買ったアグファのisolaという古いカメラにきょうアンジェで買ってきたブローニーを入れてみた。ぜんぜん知らんかったけど、ブローニーはいろんなフォーマットで使えるようになってるから、巻き取りはばもカメラごとにかえられるように、フィルムの裏には紙がはってあって、そこに記号が書いてある。なるほどカメラの後ろにのぞきまどがついている理由はこれだったんだと納得。ガムテでふさがなくてよかった。
さて写るかな。
きょうは雨もやんだので、いいかげん自分の話もおしまいです。あなたは昔から自分のことばかりぺらぺらしゃべるのがすきなんだから。
天使の夜(6th Mar 2010)
雨もやはり降り続いているので昨日の続きをすこし。
もっと自分時間をさかのぼって、1991年に書いた小説に今夜はたどりついた。15歳のころ。
小説のなかで、書き手である<わたし>はまず東京行きの中央線に乗っている。西国分寺では、隣の席に座った老夫婦が降りて、次に乗り込んできた学生たちは三鷹でおり、中野ではサラリーマンふうのひとたちがのってくる。そんなふうに次々に乗り込んではさっていくひとたちをただながめている。やがて<わたし>も東京駅で降りて、物語はおりかえしの夜。
今度は立川駅のしまってしまったハンバーガーやのまえで<わたし>は南武線を待っている。そこで、通りかかったひとりの男が、さっきもいたよね、みたいな感じで話しかける。電車に乗って何をしていたのか、という問いに、<わたし>は、すべてをみてみたいと思っていたと答え、続けて「いつも、いつも、行ったり来たり。何のために生きて、何のために死ぬのか? そんなこと、結局、わからないまま人は死ぬのさ」という。それに対して、ふーん真理だね、といったあと男は「ただ、また気付くだろうそれが全てでないことにも」といって、その場を去る。やがて、南武線川崎行きがはいってきて、でていった。もうホームには<わたし>の姿はなかった。
語り手がいなくなって、語り手をみつめていたまなざしもなくなり、物語は終わる。なんて、きざな対話! しかし、ものごとがうつろっていく様子をただながめるということが、このころでももうすっかり身体化されているのだなと思った。まるで言葉のわからない場所にただよっているようなしずかな孤独感に満ちた、そんなものごし。
ちなみに立川駅の南武線ホームには当時ドムドムバーガーがありました。なんのことはない、うちから東京にでかけて、またうちに帰るというルートがそのころのぼくのせいぜいの想像のおよぶ範囲で、ハンブルグやらマドリッドやら二等船室やらが小説のなかにでてくるには、まだしばらく待たなければいけなかったようです。
きょうは天使突破一丁目が吉田寮でさよならライヴ。東京に行くみたいで、ライヴは大盛り上がり、懐かしい顔もずいぶんたくさんいた。そのあとは百万遍で2時過ぎまでのんで、さっき帰宅。別に気持ちを過去に旅させるまでもなく、元気だね。
エストニアと冬かぼちゃ(5th Mar 2010)
雨のふる3月はじめの深夜。デンマークから帰った時差のせいか寝付かれない。毎日パソコンの画面をみていたり、なんとなく夜がふけるのを待ってしまう。
そう、しごとは春やすみ。どこにいくことも、しなければいけないこともない(という気分)にひたるのは、なんとも気持ちがいい。
今夜はどういうわけか、ほとんど腐海とかしたハードディスクの森をさまよっているうちに、昔書いた小説群にたどりついた。
ぼくが小説を書き始めたのは生きることが書くことと直結するような大げさな孤独をかかえていた10代前半のことで、よくもまあと思うくらい毎日のように、新しい作品を生み出している。その作品はいまどこかで発表するようなものでもないし、ちょっと内容の稚拙さははずかしいかぎりなのだけど、あきらかにひとつの傾向があって、自分のことながらおもしろいなと思った。
物語の主人公が旅をしているものが圧倒的に多くて、ポツンと駅や、電車や、船といった場所にひとりでいて、世界をながめている。ついでにいうと、まだ出会っていない土地や、できごとの名前を結構書き記している。もちろん旅に関する記述には『ゲド戦記』や『銀河鉄道の夜』の影響をみることはたやすいし、装備をととのえて旅をすることはRPGの主題でもある。ただどうも、それだけでは説明がつかないような予感のようなものが、書き記されているような気分にもなる。それは、こんな具合だ。
入国管理局を通過するのに少しの時間がかかった。結局、港の待合所を出たときは正午を過ぎて
いた。待合所は細い通りに面している。マスクレド通りといって、エストニアを横断する唯一の国道で
あると観光案内所でもらった地図には書いてあった。
乾いた道路を馬車が砂煙を上げながら通り過ぎていく。サキのすぐ目の前に停まった馬車の荷台
にはたくさんの巨大なかぼちゃが積んであった。やがて、待合所の建物の横のゲートを通って、船員
が集まってきた。二人がかりでかぼちゃを荷台から下ろして、ゲートのすぐ近くに着岸している小型の
商船に積み込みを始めた。サキは軽く妙のシャツの裾を引っ張る。
「冬かぼちゃの出荷ね。あの船はクリーブランドまで、あの重いかぼちゃを積んでいく。もうすぐ、ハ
ロウィンだから」
「冬かぼちゃ?」
不思議そうな顔をするサキに笑って、妙は言った。
「夏のかぼちゃはスープにいい。冬のかぼちゃは燃料か、せいぜい観賞用ね」
もちろんここで書かれていることはまったくのでたらめで、小説を書いたときは実際にエストニアという国があるということも知らなかった。なのでこの風景も、想像の産物だし、だいたい内陸のオハイオ州にあるアメリカのクリーブランドまで船でたどり着けるはずもない。それでも、いまになって読むと驚かされるのは、これを書いた数年後にオハイオ州に留学して、ちょうど重たいかぼちゃを彫ってハロウィンのパーティーをした少しあと、クリーブランドまでわざわざ出かけているということ。エストニアには、数年前の夏にいった。冬かぼちゃはなかったけど、小さな町をすきなひとと一緒に歩いた。読み返してみると、その小説のなかだけでなくて、まだろくに旅もしていなかった時期に書いた小説の中に、どれだけそれから先に出会うことになる土地の名前や、風景や食べものについて書いてあるのだろうと思う。
その『旅愁』という小説のなかで、主人公のサキは、金沢出身で黒猫のロベス・ピエールを飼っていて、電車でハンブルグに向かっている。砂浜で止まってしまった列車から降りて、小船の二等船室に乗ってエストニアに向かう。その途中でであった妙と行動をともにするのだが、エストニアについてすぐに妙も、それまでサキが出会ってきたひとたちと同じように、別れらしい別れもないまま唐突に離れていく。物語の内容はともかく、いまうちにいる黒猫であったり、先週乗っていたハンブルグ行きの列車であったり、列車や船に乗っているときの視線がまるでいまその風景をみているかのように書かれている。
もちろん小説がそれからたずねる場所の見取り図であったり、単に希望を書いたものだともいえるのだけど、ときどき神がかりなぼくには、その10代前半から後半にかけての作品たちには、出会うべきものや来るべき将来が、うしろむきに書き記してされているような、どこかそんな気がしてならない。
ホームは潮の匂いに満ちていた。
時計 は〇時一二分を指している。
人影はない。
家の明かりが、遠くの空の下に見える。
海にはイカ釣り船の灯が、幾つか、蛍のように光っている。
肌寒くはなかった。
八月の風は熱気に満ちている。
虫の声が、聞こえる。
汽車は、遙か遠くを、走っていた。
プラットホームから蛍光灯の明かりで、輝いている、線路の上に降りる。
汽車は煙突から煙を出しながら、海に向かって、走っていく。
線路の上に立って、汽車が、海の中に消えていくのを、真は見ていた。
小さな点になって、いつか、汽車は見えなくなった。
軽く、溜め息をついて、真は線路の上を歩き始めた。
どこまでも、茶褐色の線路は続いている。
空に月はなかった。
そんな17歳のときに書いた『夜汽車』という小説の風景を、いつか見るような気もするし、もう見ているのかも。