日本の英語の教育について思うこと

日本で「英語を使う」というと、喋ることを真っ先に連想しがちだが、言葉は書けてなんぼだと思う。上手に喋れればいいに越したことはないが、e-mailが通信手段として普及した現在、書き言葉で意志疎通を図る機会が増えて来ている。そして、日本語の通じない相手なら、通常英語を使うことになるので、ちゃんとした英語が書けることの重要性は増加の一途である。間違いに満ちた文章を書いて送ってしまうと、喋るのが下手くそで失う信頼より、遙かに大きい信頼を失ってしまう。単に友達として一緒にいるならば、まともな文章が書けなくても、こちらのペースを乱さずにとけ込んでくれる人を歓迎するだろう。でも一緒に大事な仕事をするとなると、少々口べたでも、しっかりとした文章が書ける人を選ぶ。

以前、英語公用語化の議論に対しての国会議員の発言だったかで、10人に1人英語が本当に出来る日本人がいればいい、というのを読んだことがある。自分はここでの「英語が出来る」というのは、仕事上で英語を日常的に使うことに耐えうるレベルと解釈している。"本当に"がつくともう一段階上を示しているのだろう、例えば、"仕事上で殆ど困らないレベル"であろうか。これはそんなに英語に力を入れなくてもよいとの趣旨で発言されたように記憶しているが、英語が本当に出来る人材を10人に1人の割合で作ろうと思えば、並々ならない教育投資が必要になる。幾らかの無理を承知で言うと、現在大学・短大への進学率は50%を越えているわけで、その5人に1人、即ち受験者の母集団が進学希望者全員からのランダムサンプルと近似できる模擬試験の英語の偏差値58以上の生徒が、英語が本当に出来るようになれということになってしまう。これが実現できれば、日本は英語が得意な非英語圏国の仲間入りが出来るだろう。発言者の意図とは逆かも知れないが、目標として考えた場合、これはかなり大胆で、実現には大々的な教育改革が必要だと思う。ここでは、「10人に1人英語が本当に出来る日本人を作る」ことを念頭に置いて、そのための施策を述べてみたい。

今まで日本が育んできた受験英語でも、しっかり勉強すれば読解能力と和訳能力は、それなりの水準に達することが出来ると思う。しかし、もっと英語教育が書くことに力を入れなければ、国際社会のなかで日本は立ち後れてしまうのではないだろうか。読み書きはできるけど、英会話が駄目といっている日本人は多い。それは、会話の能力が極端に低いので書くことの能力の低さが目立っていないだけである。実のところ、基礎(i.e.基本文法と語彙)があって心理的な障害さえ取り除けば、喋ることはそう難しいものではない。しかも会話なら、分からなければお互いその場で聞き返すことも出来る。また声の調子、話者の表情など内容以外の属性が多くの情報を伝えるため、言葉そのものの役割は小さい。一方、文書の場合では書かれた言葉が殆どの責任を負うことになる。従って外国人であろうとも、言葉の正確性に求められる水準は会話よりもずっと高くなる。今までは、限定された企業、もしくは限定された部署が取り扱えば済んでいた英語でのやりとりが、e-mailの普及等の理由から営業や開発の一線で行う必要性が増えてくる。そうなると、英文でe-mail一本がすぐに書けるかどうかが重要になってくる。書くという作業は母国語であってもなかなか骨の折れる作業で、外国語だったら尚更である。このような状況に日本の英語教育は対応できるだろうか?はなはだ心許ない。「10人に1人」を実現するための第一歩として、実施して欲しいと思っていること以下に述べる。

先ず、国語教育で日本語を書くことをもっと重視しなければならない。小学校の時には作文の時間というのがあったが、遠足や運動等の行事の後で、これらについて書きましょうといったものを始めとした、叙述的な文章が求められていたと記憶している。それ以降も、残念ながら自分の考えを他人に伝え説得するための日本語の書き方というのを習った記憶がない。大学入試で小論文が必要だった人は幸いである、このための練習を少なからず積んでいるのだから。自分は英語を書く必要に迫られてからその必要性に気づいて、なんとか意識的に努力はしてきたのだが、ようやくこのページの内容止まりである。小学校の頃の作文の時間が苦痛だったお前なんぞに、書くことを重視しようなんていわれても説得力がない、と言われるのが怖いが、批判されることを恐れていては進歩もなかろう。批判してくれる人は、少なくとも読んでくれるわけだから、喜ぶべきだろう。

卒論を書く前に読んだ、「論文の書き方」という本が起承転結を批判していたことが印象に残っている。その趣旨は、論文を書く際にも「起承転結」をきっちり書くようにという指示があるが、これは漢詩の構成を指示しているのに過ぎない。これは論文の書き方ではない。論文に求められるのは、起と結、そしてその間に論理で繋がれた承の列であるとのことだった。「転」には存在理由がないのである。しかし未だに(大学の教授ですら)論文や試験答案に「起承転結」をきっちり書くことを求めるのが無くならないのは、論の通った文章を書くことが、日本語のなかで十分尊重されていないことの現れではないだろうか。

英語を母国語とする人たちでも、しっかりした文書を書くことが難しいことは分かっているし、だからこそ、多くの大学で英語の授業が必修となっていて、しかも嫌われているのだろう。例えば、UBCのundergraduate programでは英語が専攻に依らず必修となっており、学生には嫌われてる。しかもこの科目の登録条件に、大学が実施するLPI(Language Proficiency Index) Testで(通常は入学前に受ける)、level 5以上の得点を取ることが求められている。このテストでは、essayがその配点の多くを占め、これで十分な点数が取れないことには、level 5に達するのは不可能になっている。英語が母国語でない学生は、一層の苦労を強いられるようだ。

以前に読んだ本が主張していたことと記憶しているが、キリスト教の影響下で育った学問体系が、欧州人にしっかり書くという技術(言語間でスタイルはいくらか異なるようだが)の方法論を作らしめ、育ませてきたと認識している。しっかりした文書を書くと言うのは技術の一つであり、高等教育を受けたからには備わっていて然るべきもので、それをないがしろにするのは高等教育の怠慢とまで言っていたように記憶している。私はこのことをから、欧米には文化的に、しっかりした文書を書くことを求める文化的な圧力があるのだと理解した。訓練が教育に組み込まれ、それが一般化すれば文化に成熟する。そして、文化が訓練を強化するという、正帰還が形成されているのではなかろうか。

English writingの授業を取ると、essayで求められる形式というのがあることを習う(essayは論文(paper)の一つ手前の形で、paperではcitationが厳しくなる点がessayと異なっているものの、基本要素は同じと認識している。essayは日本語で言うところの小論文といってよいと思う)。そんな型にはめられるのは、気にくわなかったが、読者の理解し易さを考えると英語が求める形式(しっかりした文書と呼ぶことにする)に理があることを認めざるを得ない。しっかりした文書とは、センテンスに間違いや指示関係に不明瞭が無く、トピックセンテンスとそれをサポートする具体例で構成され、トピックが一つに限定されたパラグラフを持ち、そのパラグラフを組み合わせてた全体で主張を明解に述べる文書と理解している。別に特別なことのようには見えないが、自分でやろうとしてみるとなかなか難しい。自分ではわかってもらえるように書いたつもりの文書が、他人には何をいっているのかさっぱりという文章になってしまう。しっかりした文書を書くためには、指針とそれに基づいた練習が必須であることを思い知らされる。

一方、日本語で自分の考えを書いて相手に分からせることの技術が育まれたかというと、疑問に思う。文化の一要素である古典について考えてみたい。日本の古典文献の難しさは、単に言葉や文法の違いではなく、文脈や背景に過度に依存して主語や、重要な述語を省いてしまうことにあったと思う。簡潔で美しいという評価を得る文学作品の一方で、一部の事情通にしか分からない文書が量産され、現在に至ってもその伝統が残っているのではなかろうか。「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明りて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。」、美しい日本語である。だが、ここには多くの他者に理解して貰うことを前提にした文書、即ちしっかりした日本語は書かれていない。学校の古文の授業で扱うものの多くがこの範疇に入る文書であることは、こういったものしか生き残っていないことを示唆している。そして、これが日本文化の方向性を示していると理解している。

会社に入って、上司から日本語の書き方を勉強し直してこいと言われる人は多いのではなかろうか。自分もそうであった。このように、社会の需要は強いにも関わらず、しっかりした日本語を書くことの教育機会が与えられていないことが問題である。国語の時間を振り返ると、書かれている内容を読みとる事には時間を割いても、自分の考えをまとまった長さで述べる機会はとんと無かった。その能力付与のためには、日本人に訓練の機会を与える必要がある。自分の経験では、日本語では文章の理解は読む側に責任の中心が置かれているのに対して、英語では書き手にその責任が置かれているような印象を抱いていた。上記に述べたように、日本では文化的な圧力が欧米に較べて乏しいと考えられるので、なおさら教育が意図的にこの能力獲得の機会を与えなければならない。

自分は美しい日本語を否定するつもりはないが、美しい日本語と、しっかりした日本語の間には相容れない面があることを認識する必要がある。文章の達人と呼ばれる人たちはこれらを併せ持った文章を書くのかも知れないが、我々凡人がそれを目指すと、空中分解した文章が出来上がることだろう。我々は、その違いを意識的にとらえつつ、しっかりした日本語の書き方を高校、大学とかけて勉強し訓練する必要があると信じる。さもなくば文化の流れに身を任すことになってしまい、他人に理解しがたい文書が量産されるだろう。

日本人は自分の意見を述べるのが苦手とよく言われる。しかし、それが得意と言われる欧米人たちとて生まれながらにして得意なわけではなく、然るべき訓練を経ているはずである。クラスでディベートもよかろう、しかしその前段階の議論のための共通基盤が形成されていなければ不毛である。議論のための意見には理由付けが必要である。理由のいい加減な意見は感想である。感想の交換は、実りある議論ではない。しっかりした文書を書く訓練が、自分の意見を他人に伝える技術の基礎になると私は考える

残念ながら、高校の授業時間数は限られている。従って、しっかりした日本語を書くための教育機会の提供には、何らかの時間を削る必要がある。私は、高校で古文に費やす時間を削って、これに当てればよいと考える。社会のニーズを考慮すれば、どちらが相対的に重要か答えは自ずと出るであろう。文語はLatin語と同様死んだ言葉である。Latin語が欧米の教育において必修の座から落ちて久しい。国際化の中で、自国文化の理解が必要であり、古典は日本文化と深く関わっていることは認識している。しかし、文化を理解するために、古典を原文で理解出来る必要はない。既に殆どの古典文献に現代語訳は揃っているのだから、文学としてではなく文化の観点からの勉強なら口語でも出来る。勿論、日本の伝統文化に興味を抱き、深く勉強したいと思えば原文の理解能力が必要となろう。大学の国文学科がその学習の機会を与えられないはずはない。大学の外国語授業の枠で、「古典日本語」を提供すればよい。ともすれば、ドイツ語やフランス語よりも人気科目になるかもしれない。

日本語にしっかりと書くための伝統的枠組みがないのであるから、英語でのスタイルをそのまま持ってきてはどうだろうか。どのみち起承転結の形式も中国からの借り物である。英語が求めるスタイルで日本語を書くようになれば、それを英語に置き換えるときに余計な苦労をしなくて済む。直訳体で日本語を書こうと言っているのではない。文書作成で難しいのは、パラグラフ内の論理を直線的にし、パラグラフ間の関連をいかに上手く組み立てるかである。これが、母国語できっちり出来るようになれば、英語を書くときの苦労は多いに低減される。自分の考え・主張を論理的に日本語で書くための訓練の機会を、もっと多くの日本人が得るべきである。日本語でしっかりした文書を書く訓練、これが日本の国際化への近道と信じる。

次に英語教育自身について述べたい。高校の英語教師を英語圏の大学からTESOL(Teaching of English to Speakers of Other Languages)の修士号を取ることを支援するプログラムを文部科学省はなるべく大規模に(理想的には希望者全員に。勿論、受入先のadmissionは彼らが自らの力で得る必要があるが。)用意するべきである。こちらに来て、日本で暮らしたことがあるというカナダ人に多く会った。彼らの殆どは日本で英語を教えていたとのことで、JET programで教えていたというのが大半だった。このプログラムは継続的に日本中の公立中学を全てカバーする規模で行われているようで、自分の中学頃とは大きな違いである。しかし、投資効果は長続きしない。彼らは長くとも3年で帰ってしまう。また、受け入れる側の意思疎通能力の問題やnative English speaker自身の教育に対する意欲の問題などから、単なるテープ再生機がわりにしかなっていないケースがあるとも聞く。これではお金の無駄使いである。一方、2年間英語圏の大学で英語教育について勉強すれば、意欲のある先生なら生きた英語を身につけてくれるであろう。そして、この投資効果は彼らが退職するまで持続する。費用は国の全額負担が望ましいが、学位取得後の食い逃げ(企業派遣のMBA取得者がやって問題になっている)の問題があるので直接負担は、税金を使う以上現実的ではない。しかし、これは国益に叶うことである。そこで、無金利若しくは低金利で渡航中の学費と生活費をカバーする返済期間の長いローンを提供し、復職後、一定の高い基準を満たした学位(文部省がTESOL programの基準を定めればよい。例えば授業の90%以上が当該言語で行われている、教授の60%以上がPh.D.を持っている等)に対する手当という形で、ローンの返済が大きな負担にならないように給与を幾らか上げた上で、10年などの長期に亘って返済を求めるというのではどうだろうか。間接的に費用を国が負担するのである。これなら実現も強ち不可能ではないのではなかろうか。転職しても借金は残るから、学位が確実に手当になる職場に残ることにへの動機付けを強めることができる。既に、自費でTESOLの学位を取るために留学をしている意欲的な先生もいる。帰国後の勤務先を心配することなく、在学中の金銭面の負担を気に懸けず勉強できるようになれば、彼らに続く先生が増えるのではなかろうか。そして、少しでも多くの先生に、英語圏が必要と考えている英語を学んできて欲しい。

すこし脇道に逸れたい。ルーマニア人の友人は母国で英文学の修士を修めていた。そんな彼が、UBCの心理学の修士課程に入る際にTOEFL受けてスコアを提出することを要求された。彼は単なる侮辱という印象しか持たなかったそうである。彼に説明しなければならなかった。日本で英文学を修めても、その授業の殆どは日本語で行われており、それが日本では驚くに値しない。従って、英文学の学位が決して英語能力の証明にはならない国もあるのだ。だから、一律にTOEFLのスコアを要求することが必要なんだと。英文学を教えるのに、授業が英語で行われないことが彼には驚きだったようだ。Shakespeareを扱うときは、当時使われていたとされる発音を教授は使うとも言っていた。常識の違いは、水準の違いである。

私が留学経験を積んだ英語の先生に最も期待するのは、英文を自信を持って添削できるようになって欲しいということである。巧拙に差はあろうとも、高校生がessayを書けるようにならなければ、「10人に1人」の実現は不可能と思う。彼らがまともにessayが書けるようになるためには、書いては彼らの間違いを先生に指摘して貰うということを何度も繰り返すしかない。そして先生たるもの、生徒のessayに朱を入れることが出来なければならない。先生には留学を通じて、自信を持って生徒の英文を直すことが出来るようになって欲しいのである。果たして、どれぐらいの英語の先生が、500wordのessayを2時間かけて書いたとして、それをJETで来ているNative English Speakerに見て貰ったときに赤ペンが全く入らないで済むだろうか。少なくない先生がびっくりするような結果を貰うのではないだろうかと思う。日本で英語を教えていても、英文でまとまった文書を書く機会というのはないからだ。自分が十分出来ないことを生徒に押しつけるのは先生も良心が咎めるだろうことは理解できる。外国語を書くというのは骨の折れる作業で、折角の労作といえどもnative speakerに点検して貰わないとなかなかまともなものにならないというのは、Journal paperを書く機会をもったことがあれば知っている筈だ。残念ながら、英語の教員資格を取るのに英語で論文を書く必要があるとは聞かない。

書く技術を得るのに留学が必要か?自分の経験では、必要だと思う。間違いの指摘と修正候補の提示までなら、JETで来ているnative speakerにも出来よう。しかし、生徒にしてみれば、なぜ自分が書いたのが間違いで、修正候補として提示されたものが妥当なのか理由を理解しない限り、同じ間違いを繰り返すであろう。残念ながら、間違いの理由をきっちり説明するのはnative English speakerにとっても容易ではなく、通常然るべき教育機会が必要になる。日本語の場合を考えて頂きたい。外国人の書いた日本語を直すことは大多数の日本人にとって容易でも、その修正にまともな理屈を付けて説明できる人は非常に限られていることから理解できよう。JETに参加しているnative English speakerには、大学の学士号は求めているものの、外国語としての英語の教育に関するqualificationはまったく要求していない。勿論、経験を積めば彼らも良い英語教師になってくれる事だろう、しかし、彼らが経験を積んだ頃には、帰国するのである。残念ながら、外国語としての英語の教育に関して経験を積んだnative English speakerが日本に来ることは希である。なぜならそういった人たちの多くは、母国で大学や学校で職を得ており、わざわざ外国に職を求めて来る必要はないからである。したがって、こちらから学びに行いって、その成果を日本に持ち帰ってもらう必要がある。他人が書いた英文の間違いを指摘するのは勇気がいる。英語の先生であってもそうだと思う。日本の先生に添削から解説まで出来るようになってもらうために、留学して勉強することを求めている。留学経験が彼らに知識と自信を与えてくれるはずである。

これらに対応して、多くの大学の入試にessay(英語)、或いは少なくとも小論文(国語)が課されるようになる必要がある。依然、日本の教育は大学入試を中心に回っているのは事実であるから、入試改革なくして英語力強化の施策は有効には機能しない。入試で小論文を大規模に取り入れると、大学全体をカバーするような入試には適さないかもしれない。入試で、受験生が十分準備をしていれば、TOEFLのessayで聞かれるような平易な問題に対しては、小論文では大きな差がつかないだろう。その一方、つけようとすると出題内容が徒に高度になってしまう。京都大学の経済学部が小論文入試で抱えているような問題である。これについては、シンガポールが参考になるだろう。ここでは大学の受験資格としてessayのテストがあり、大学入学希望者はこれにパスする必要があるとのことだった。このように、入試では一定の水準に達することを求めればよい。問題も、TOEFLで出されるような、平易な問題でよいと思う。高校生ですばらしいessayや小論文をかける必要はないが、essayや小論文どう書かかれるべきか知り、自分の力でそのような文書を書く訓練が是非必要だと考える。

そして、英語を書くという訓練は大学においてさらに強化されなければならない。大学の英語の授業で最も不思議だったのは、どうして語学が少人数のクラスで行われたのかということだった。英語のクラスでやっていたことは、単なる訳読だった。これならば大教室でやればよい。皮肉なことに、予備校の大教室の英語授業の方が遙かに内容が豊富であった。大学では生徒に英文でessayを書かせて、それを採点し添削するということを行わない限り、あの少人数クラスとそれに伴った語学教員の多さは正当化出来ない。大学の英語教育には、essayからpaperへの橋渡しをする義務があると信じる。もちろん、paperの内容に関しては専門教育を経た後でなければ、学生が論文の名に値するものは書けないであろうが、paper writingの技術的な面は専門教育を受ける前に修得できる出来る筈であり、そうするべきである。大学の教員であるからには、paper writingの指導は出来る筈である。

以上述べたように、日本語と英語の両者について、書くことの教育を強化することが、今後の国際社会の中で日本人の地位の向上のために重要と考える。高校の国語教育で論理的に読者を説得できることを目指した文書作成の技術を身につけるべく指導し、論文などの高度な文書作成の基礎を身につけ、英文でのessayを書くときの足場を作るような教育を施すべきと考える。高校で古文が取り扱う内容を大幅に削減し、その分の時間を当てれば実現が可能である。これに平行して、高校の英語教育でessay執筆能力の獲得を重要な教育目標に掲げ、教育・指導実施するともに、指導者教育のための海外留学の機会の提供を積極的に進めるべきである。加えて、大学入試科目にessayの導入を勧告し、大学の語学教育で英文でのpaper作成の技術面を指導するべきと考える。

ったく、何を偉そうに書いてんだかなぁ、、、。