赤い旅団の恐怖


 イタリアでは1970年来、ブリガーテ・ロッセ(赤い旅団)と呼ばれる極左団体が暗躍、殺人、強盗、誘拐、放火などを繰り返していたが、メンバーの大半は教師と学生であった。1978年(昭和53年)3/16午前9時15分、キリスト教民主党総裁で元首相のアルド・モロ(61)がローマ北西のコルチナ・ダンペッツォ通りの自宅を護衛車に後を守られて車で出た直後、十字路で横から外交官ナンバーの車が行く手を塞ぎ、モロ元首相の車はこの車と衝突、護衛の車もモロ元首相の車に玉突き衝突した。そこへ別の車から降りた空軍の制服を着た4人の男が銃を乱射、護衛官5人を殺害し、モロ元首相をさらに別な車に押し込んで誘拐した。外交官ナンバーの車は盗難車と判明、その後、赤い旅団を名乗るグループから犯行声明が出され、トリノで拘留中の仲間の釈放を要求してきた。
 
 モロ元首相は1946年の国政初当選以来、首相を5回経験したイタリア保守政党の大物で、次期大統領の有力候補と目されていた。またローマ大学で刑事訴訟法を講義、弁護士事務所も開設するなど法律家としても名を馳せていた。モロ元首相は1963年12月、初めて首相に就任した際には社会党閣僚を受け入れ、その後12年続く中道左派政権の道筋をつけ、さらに1976年6月に選挙で中道政党が敗北し共産党が躍進すると、保守のキリスト教民主党総裁の立場から共産党との協力体制を実現させており、極左団体からは目の敵にされていた。キリスト教民主党単独では政情不安を引き起こす少数与党となるので、共産党とも手を結んで挙国一致体制でアンドレオッチ内閣を支える手段に出たのである。政界ではモロ元首相誘拐事件の当時、第4次アンドレオッチ内閣成立直前で、共産党含め多数が支持にまわり、545対30という圧倒的な大差で信任されている。また3大労組も極左団体に抗議の意味で13時間のゼネストを行い、100万人が参加、しかしイタリア国民からは「これが30年の民主主義のなれの果て」と自嘲する声も聞かれた。
 
 3/18には赤い旅団から軟禁されているモロ元首相の写真が報道機関に送りつけられる。赤い旅団のリーダーであるレナート・クルチオら15人の裁判は当初、3/10に予定されていたが警官が殺害されたために延期となっていた。赤い旅団は過去に誘拐した人質との交換で刑務所にいた仲間の釈放を求めたものの、それを拒否したジェノバ高検検事長を執念深く狙い、2年後に殺害するなどの事件も起こしている。
 
 赤い旅団暗躍の背景には、イタリアのごく一部の階層の不満に遠因があるとも分析されている。イタリアでは失業者が170万人、その70%以上が20代以下で、大学生なども学生の肩書を失うのを恐れてわざと留年しながらアルバイトで食いつなぐ者も多かった。キリスト教民主党を代表する保守政党は「ソット・ゴベルノ」というコネ社会を形成しており、一方の共産党は労組のメンバーの既得権益確保に必死で、労組に入っている労働者の雇用は確実に守られるものの、未加入の者はいつまでたっても職につけない状態が続いていた。こうした挙国一致体制からこぼれ落ちた人が社会に不満を感じていたという論法である。
 
 3/28、11都市のマフィアのゴッドファーザー連が、3/30午前4時までにモロ元首相を解放しないと獄中の赤い旅団のメンバーを次々に消すと声明を発表。警察の厳戒態勢に商売を妨げられていたマフィアがしびれを切らしたのである。4/4、遂に犯人は公にその要求を明らかにした。ミラノのアベニーレ新聞に仲間の釈放を要求する声明を送りつけてきたのである。それまでは誘拐したモロ元首相を人民裁判にかけるなどという声明を発してはいたが、正面切って仲間の釈放を人質解放の条件とする声明は出していなかった。4/15夜、赤い旅団は人民裁判でモロ元首相の死刑が決まったとの声明を発し、4/18には死体はアペニン山中のドケッサ湖にあるなどとしたが、4/20には先の声明は捏造であったなどとして、4/22午後3時まで期限をつけて仲間の解放を要求している。
 
 赤い旅団の本拠はトリノにあった。トリノはフィアットの本拠地で、当初は赤い旅団も殺人などは行っていなかったが、一般の労働者が赤い旅団を支持しない事がわかると、社会不安を巻き起こす戦術に転換、モロ元首相誘拐までの3年間に、トリノでは赤い旅団によって22人が襲われ、5人が殺害されている。赤い旅団の犯行について警察に証言した者は、名前が割れると処刑リストに記載されて狙われるため、失踪する者が後を絶たず、テロとの戦いを訴えた新聞紙の編集主幹は赤い旅団の手で射殺されていた。わずか2、300人の赤い旅団の暴力に120万人の住民が恐怖と憎悪を向けるという構図がこの頃のトリノにはあった。
 
 4/24、赤い旅団は初めて具体的な釈放者の名前を挙げての要求を出し、クレチオら13人を釈放するように要求、しかし政府は応じなかったため、5/5にはモロ元首相の死刑判決執行の予告声明を出した。モロ元首相は5/9午後1時半、ローマ市内中心部の共産党本部近くのカエタニ通りに駐車中の車の中から射殺体で発見される。手足は鎖で縛られていた。殺害時刻は発見の1日前以内で、赤い旅団の隠れ家で射殺されたものと思われた。アメリカ、東西ドイツ、フランス、イギリス、ソ連などはイタリア政府の態度を支持したが、モロ元首相の家族はイタリア政府を激しく非難し、追悼行事の一切を拒否した。イタリア国民の多くは長引く誘拐事件に飽きており、「イタリアを滅茶滅茶にしたモロがどうなってもいい」と突き放した意見が多く見られたが、モロ元首相が惨殺体で発見されると、「ナチより野蛮」と極左団体非難一色となり、モロ元首相家族への同情の声も上がった。

参考
毎日新聞東京版各記事など 1978


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