昭和ラプソディ(昭和40年4〜6月)

京浜東北線もカラー電車に
昭和40年4月、都心の国電から六三型電車はあらかた消えていたが、京浜東北線だけブドウ色旧式の六三型を走らせていた。ほかの都心乗り入れの国電はカラー1色のものに代わっていた。この六三型電車は戦争末期から昭和30年代まで国電で走っていたが、戦前より大型になり定員が多いというだけで乗り心地は悪く、安全性も良くなかった。その後、安全性だけを改良した七二、七三型となったものの評判は良くなかった。昭和32年になって新型の101系、103系の電車が登場、中央線にオレンジの車体でお目見えしたのが最初で、昭和36年9月にはカナリア色で山手線に登場、昭和39年6月に山手線はウグイス色になった。京浜東北線では昭和40年度に200両を新型車にして3、4年で全車両を入れ替える予定で、続いて常磐線も旧型車両を新型車に切り替えていく事となっていた。
社会派になった美輪明宏
昭和40年4/5、NET「木島則夫モーニングショー」の「今週の歌」コーナーに、久々のテレビ出演となる丸山明宏(美輪明宏)が背広姿で登場して「ヨイトマケの唄」を披露した。これに木島の相方の井上加寿子が涙ぐみ絶句、視聴者の主婦層から大変な反響が巻き起こり、「あなたの評価が一度に変わった」などの丸山への投書が殺到した。丸山はそれまで主婦層に顰蹙を買った中性的なシスターボーイとして売っていたが、この放送によって社会派へと大転身を遂げたのだった。
<長崎・伊王島>炭鉱ガス爆発で30人死亡
昭和40年4/9午前6時20分、長崎港外の西彼杵郡伊王島町の日鉄鉱業伊王島鉱業所の坑口から4300メートルの三区D8号ホーベル払いの採炭場でメタンガスが爆発した。3番方175人が中にいたが、現場で作業をしていた45人のうち30人が死亡した。交代準備中で、ホーベル(無人採炭機)での採炭が終わり、コンベヤー(運搬機)でポケット(坑内貯蔵庫)へ石炭を運んでいる最中の爆発だった。
業界紙社長殺害される 昭和40年4/10殺害。参照→金環蝕の周辺で

<東京・渋谷>建設中の東急ビル炎上
昭和40年4/10午前12時40分、渋谷駅西口の渋谷区大和田町1の新築工事中の渋谷東急ビル(9階建て)の7階南側から出火、7、8、9階1100平方メートルを全焼して午後1時55分に延焼を差し止めた。渋谷東急ビルは昨年から建築を開始しており火災当時は500人が作業中、接着剤から引火したか放火されたかと思われた。
都議会議長選めぐり底なし汚職
昭和40年3/9の都議会議長選では小山、藤森、加藤の争いとなり、自民党の小山貞雄都議(60、台東区)が当選した。3/15、議長選を争った自民党の藤森賢三都議(60、練馬区)が議長選をめぐる贈賄で逮捕、3/16には自民党の中島与吉都議(64、北多摩郡)、自民党の出口林次郎都議(65、杉並区)が収賄で逮捕された。さらに4/5までに自民党の浦部武夫都議(60、文京区)が贈賄で、自民党の石島参郎都議(70、中央区)が収賄で逮捕となり、4/7には自民党で元都議会議長の建部順都議(54、台東区)、自民党で元都議会議長の上野藤五郎都議(62、足立区)も逮捕された。
 
そして4/16朝から取り調べられていた小山都議会議長が贈賄により午後5時に逮捕され、4/20に議長を辞任した。金の流れは小山、浦部が出口、中島に贈賄し、そして藤森から出口、中島、建部、上野、石島に贈賄したというものだった。これら都議会議長選をめぐる汚職に先立ち、食肉移動販売車の運行認可をめぐる恐喝未遂事件で自民党の須貝一正都議(31、中野区)も逮捕されており、都議会自民党は底なし汚職の様相を見せる。
 
5/4には議長選を争った自民党の加藤好雄都議(60、江戸川区)が贈賄で、自民党の町田勝二都議(58、荒川区)、自民党の森伝都議(63、北区)、自民党の斎藤卯助都議(74、品川区)が収賄で在宅起訴された。これで都議会議長選に立候補した全候補が汚職に関わっていた事になった。5/6夜には自民党で元都議会議長の内田道治都議(62、杉並区)が小山議長派の贈賄で逮捕、5/7夕方には都議会自民党幹事長の田村幾太郎都議(70、西多摩郡)が収賄で逮捕された。5/18夕方には自民党の荒木由太郎都議(43、目黒区)が収賄で逮捕となった。
 
5/20未明、都議会は解散決議を行った。さらにボウリング場汚職の収賄で自民党の山屋八万雄都議(74、江東区)も逮捕されるなどして自民党都議17人逮捕という前代未聞の事態となり、首都の保守党の威信は地に堕ち、公害問題などと並んで昭和40年代を通じての東京都の左翼政党の台頭を許す導火線の一つとなった。6/11夕方、地検は17人を起訴した。都議会は6/14に解散した。
 
7/4には参院選の投票が行われたが、7/5の開票で東京では史上初、自民党が全滅という事態になった。東京で弱い自民党というのはこの時からである。7/23には都議選の投票が行われたが58.58%という戦後最低の投票率となり、社会党45議席(前回より13議席増)、自民党38議席(31議席減)、公明党23議席(6議席増)、共産党9議席(7議席増)、民社党4議席(4議席増)、無所属1議席(1議席増)と自民党大敗に終わった。
「事件記者」べーさん宅に強盗
昭和40年4/19午前1時、杉並区永福町のNHK「事件記者」べーさん役の原保美(50)の家の2階に強盗が入り、洋服ダンスから4万5000円を盗まれているのがわかった。犯行時間は4/18午後8時で、原は階下で共演者たちと食事をしていたという。午後7時45分、NHK放送センターで「事件記者」4/20放送分の「白い杖」の収録を終えて原は仲間と帰宅していた。原の役どころは東京日報の長谷部記者。ヤマさん役の園井啓介、毎朝のキャップ役の中原成男を連れてきて飯を食っている最中に強盗が2階に入っていたという。原は「私の勘では犯人は玄人」などと言った。
参院緑風会の解散決定
昭和40年4/20午後4時30分、千代田区のホテルニューオータニで参院緑風会の会員総会が行われ、6/1の現所属議員の任期切れによる活動停止と同時に解散する事を決定した。緑風会は第1回参院選を受けて無所属議員を中心に昭和22年5/17に結成され、5/20には92人の所属議員を抱える保守穏健派の院内会派となった。昭和20年代の参議院では緑風会は強い影響力を持ち、最大時96人の所属議員を擁したものの、元々が緩やかな集まりだった事から次第に保守政党へと所属議員が流れて衰退し、昭和40年の解散決定時には所属議員は佐藤尚武ら4人だけとなっていた。
<京都・河原町>女子寮ガス漏れで6人死亡
昭和40年4/23午前10時10分、京都市中京区河原町六角下ル一筋目東入ルの洋菓子製造販売、志津屋の鉄筋コンクリート5階建ての女子職員寮3階の301号室で女性職員6人(21、15、17、19、18、17)がガス中毒で倒れているのを発見されたがいずれも死亡した。午前10時15分、三条店からレジ係の女性職員が来ないとの連絡が寮長にあり、鍵がかかっていたのでドライバーで開けたところ布団をかぶったまま6人が倒れていたという。ガスストーブのゴム管が外れており、誰かがつまずいた時に外れたものらしい。死亡した女性職員は福井、富山、滋賀、京都の出身だった。
白根一男に結婚詐欺騒ぎ
昭和40年4/23、白根一男(29)が結婚詐欺の疑いで書類送検された。先に脅しで逮捕されていた女(31)に、白根は昨4月に浅草の劇場で知り合ってから夏までに「結婚しよう」と持ちかけて130万円の金品を貢がせていた疑いだった。この女は昨7月、知り合いの会社員男性と結託して別の男に美人局をしたとして3月に逮捕されたが、取り調べの際に白根に結婚詐欺をされたと供述したもの。しかしこの女の証言は採用されず、白根はその後、無実だったとして不起訴となった。ファンが芸能人に金品を貢ぐのはよくある事だったが、白根の場合は女に結婚の約束をほのめかしたという部分が問題視されたのだった。無実だった白根は9/5には新曲を発売、9/23に名古屋の御園座に舞台復帰して芸能活動を再開した。
登校拒否が問題化
昭和40年4月、千葉の市川市国府台町の国立国府台病院で登校拒否の生徒専門のベッドスクールが開校し、市川一中と国府台小の出張教室で中学生6人、小学生5人が参加した。登校拒否は5、6年前から増えて社会問題化していた。登校拒否とは現在の不登校で、当時は学校無口ともいい、集団から離れると情緒的に安定する子供の事だった。年に50日以上、学校を欠席する生徒は文部省の調べで小学生1047万人のうち5万4000人、中学生696万人のうち6万6000人だった。これら欠席者のうちの半数が登校拒否とされていた。
連休に相次ぐ雪山遭難
昭和40年5/3午前8時40分、名古屋市YMCA山岳会の男性5人(29、22、21、18、22)が前穂高岳北尾根四峰から奥又白側へ転落して全員死亡した。うち21歳の男性は愛知大経済学部1年の学生だった。救助に向かった2人も雪崩に流されたが、こちらは無事だった。この日、猛吹雪ながら北アルプスの立山連峰には3500人の登山客がいた。5/5午前7時30分には剣岳で神戸岳窓会の女性ばかり4人(38、27、28、24)のパーティが小窓コル100メートル下で全員凍死して発見され、ほかに爺子岳(2670メートル)では電電公社名古屋電信施設所マイナークラブの3人が遭難して行方不明になるなど連休の山岳遭難の死者は東日本だけで46人、不明7人となり、西日本まで含めると死者57人となった。
角界を襲った拳銃密輸
昭和40年5/6夜、元大関若羽黒こと草深朋明(30)が昭和39年2/5から2/19の大相撲ハワイ、ロサンゼルス巡業に際して拳銃2挺を貰い、さらに1挺を購入して日本へと持ち帰り、1挺を暴力団一力会会長(32)に渡し、1挺を男性会社員(26)に預け、1挺を壊れたとして立浪部屋の紅葵(26)に渡していたとして逮捕された。若羽黒は昭和40年3月に廃業して田端駅前でおにぎり屋をしていたが、警察にタレコミがあったのである。本人否認、拳銃不所持のままの逮捕だった。
 
5/10朝にはプロレスレフェリーの沖識名こと識名盛雄(57)が広島の福山市南町936、ふじ半ホテルで拳銃不法所持で逮捕された。5/11夕方には九重親方こと元横綱千代の山、杉村昌治(38)がコルト式拳銃1挺、実弾5発を所持しているとして出頭し、取り調べを受けた。弟子から預かったと自供したが、具体的な弟子の名前は挙げなかった。
 
この角界拳銃密輸事件は当時の大相撲の最高峰にいた両横綱をも襲った。5/24朝、横綱柏戸こと富樫剛(26)が出頭、昭和37年5/29から6/6までのハワイ巡業で拳銃を入手、昭和40年2月に幕下の付け人、白岩山(27)に隅田川に捨てさせたというのである。5/27には東前頭3枚目の北の富士こと竹沢勝昭(23)が昭和39年2月、ホテル社長(45)からハワイ土産としてコルト式拳銃1挺と実弾5発を貰ったと出頭した。昭和40年6/1には横綱大鵬こと納谷幸喜(24)が出頭、大鵬は柏戸と同様にハワイ巡業で拳銃を入手して5月に隅田川に捨てていた。さらに6/12、西前頭2枚目の豊国こと大塚範(27)も出頭、昨2月のロサンゼルス巡業で若羽黒からハーリントン・リチャードソン銃を貰い、羽田空港で男性会社員(25)に土産として渡したのだった。6/15、九重親方、大鵬、柏戸、北の富士、豊国は書類送検となった。
恐喝で森脇将光逮捕 昭和40年5/10逮捕。参照→金環蝕の周辺で

<鹿児島>西郷輝彦ショーで死者
昭和40年5/10午後7時、鹿児島市鴨池の鹿児島体育館で午後1時、午後4時、午後7時と行われた西郷輝彦ショーの午後7時の回で客が入場の際に入口に殺到し、整理の前道巡査(49)が心臓麻痺で死亡して女性客ら13人が負傷した。8000人の定員に1万2000人が集まり、午後6時、後援会員の200人を先に入場させようとしたところ、ほかの客も押しかけたのだった。警察は4、50人が整理にあたっていたが押しとどめられなかった。このショーは西日本新聞社主催のチャリティーショーで、西郷は鹿児島出身だった。
ILO87号条約を承認
昭和40年5/17午前11時に開会した参院本会議でILO87号条約が承認された。これは昭和33年4月に総評が国鉄機関車労組とILO(国際労働機関)に対して提訴したのがきっかけで、昭和35年4月から政府が通常国会に関係案件を提出して以来、懸案だったが、5年ぶりに解決した。膠着していたのは政府や自民党がILO87号条約承認をきっかけに労働組合対策を強化しようとしていたのと、社会党や総評が同じく承認きっかけに団交権やスト権を回復しようと目論んでいたのが真っ向から対立していたためであった。またこの間に労働者の権利保護は進んでいたので、ILO87号条約承認によって労働環境に特に大きな変化はないと思われていた。ILO87号条約とは結社の自由と団結権を保護するもので、承認国には関連法案の整備を義務付けていた。ILO87号条約は昭和41年6/14に発効となった。
ファイティング原田が世界王座
昭和40年5/18午後8時18分、名古屋市の愛知体育館で始まったバンダム級世界タイトルマッチ15回戦で、世界チャンピオンのブラジルのエデル・ジョフレにバンダム級1位の笹崎ジム、ファイティング原田こと原田政彦(22)が挑んだ。原田の猛烈なラッシュに、客席にいたジョフレの1歳8ヶ月の子供マルセルは泣き叫び、原田は判定勝ちして日本人初のバンダム級制覇となった。客席の1万人には予想外の出来事だった。原田は世田谷の深沢中時代は野球をしていたが、植木職の家計を助けようと米屋でバイトをしていたその得意先に笹崎ジムがあった。昭和35年2月にプロデビュー、昭和37年10月には一度、世界フライ級王座を獲得していた。
<神奈川・藤沢>反響呼んだ「青梅雨」老人心中
昭和40年5/19午後2時、神奈川の藤沢市藤沢の無職、島田方で家主(77)、その妻(67)、養女(51)、家主の妻の実姉(72)の4人が6畳間の布団の中で死んでいるのを発見された。新聞が溜まっているのを不審に思ったガス集金人が近所に住む家主の親戚の酒屋(48)に連絡したもので、4人は服毒しており一家心中とされた。家主は杉並区高円寺北の商店主から50万円の借金をしており昨4月から毎月の利息2万2500円を滞りなく支払っていたが、自宅や土地、家財が抵当に入っていて苦しい生活だったという。5/14付けの遺書が枕の下にあり、葬式の費用として4万9000円と4人の戸籍証明も部屋に置かれていた。
 
この心中は朝日、毎日などの全国紙に掲載され、特に朝日は社会面で非常に大きく扱い、老人ばかり一家4人心中として社会的な反響を巻き起こした。これに触発された鎌倉に住む永井龍男は事実報道のみの記事を冒頭に掲げる形で、心中する一家の心境を忖度(そんたく)して自ら小説化した。この「青梅雨」が参照にしている記事は朝日新聞のそれと最も酷似しており、恐らく永井は朝日の記事をベースとして「青梅雨」を執筆したものと思われる。無論、「青梅雨」の登場人物名などは実際のそれとは別のものが使われている。
 
なお永井に影響を受けた車谷長吉は「青梅雨」の記事は神奈川新聞をベースにしているのではないかと述べている。朝日の社会面であれだけ大きく出た記事であるので、恐らくこの事件を報道した神奈川新聞の記事はトップ級の扱いであっただろう事が推察されるが、車谷の郷里姫路とは違い、神奈川の鎌倉では地方紙の影響力というのは昭和40年当時でも全国紙より劣勢で、車谷の推理にはその辺の感覚の微妙なズレもあるのではないかと思われなくもない。恐らく鎌倉在住者の中で当時も神奈川新聞購読者というのは朝日、毎日、読売のそれぞれ単体の購読者より圧倒的に少なかったであろう。
山一證券が倒産危機
昭和40年5月、山一證券(資本金80億円、日高輝社長)は富士銀行、興銀、三菱銀行、安田信託銀行、三菱信託銀行に金利の低減を申し入れて受理されるなど抜き差しならない状況に陥っていた。2年前から市場が低迷、山一だけ合理化から出遅れたのである。累積赤字は3月の仮決算でも700億円。借入金の金利負担だけで年80億円だった。銀行各社は月利1億5000万円の削減を決めた。さらに5/21午前、田中角栄蔵相は「大衆投資家に大きな影響を及ぼさない」と声明、山一救済が政府主導で行われる事を明確にした。5/28、大蔵省は山一への日銀特融を認可し、5/29に実施された。これは日銀法25条による市中銀行から証券会社へ資金を無制限に特別融資できるというもので、これを山一に適用したのである。こうした延命措置は欧米では考えにくい話だったが、昭和の日本では金融会社の破綻というのは完全なタブーであった。6/7には45億円の融資が決まっている。
 
7/1、橋本登美三郎官房長官肝いりの首相官邸での重度身障児懇談会で水上勉はこの山一證券救済措置について、「私の払う年2000万円の税金が、大証券会社を救うのに使われる。これをそのまま施設へ回して欲しい」と訴えている。水上の次女は生まれながらに下半身不随であった。「障害は背負うものでなく抱くもの、抱く事が生きる事」というのが水上の信条で、重度身障児救済活動には率先して取り組んでいた。
 
山一證券の処理については、新旧分離方式で、いまの山一證券を清算会社にして負債をすべて負わせ、証券業務は新山一證券で行うという案を日銀、富士銀行、興銀、三菱銀行で協議、昭和43年4月の免許書き換えで新会社に免許を交付する事とした。
 
結局、この再建計画は昭和41年6/11、大蔵省、日銀、ほか18銀行によって決まった。9/1に新会社株式会社山一を作り、山一証券の営業権を譲渡して同時に山一証券株式会社に改名。また現在の山一証券は9/1に営業権を渡したらすぐに株式会社山一に改称するというもので、株式会社山一は日銀特融の管理と借金返済にあたり、新会社への店舗、電算機のリースにあたるとされるものだった。この新旧分離方式は後に同じく経営危機になる毎日新聞がそっくりそのまま利用して倒産を免れている。
東京農大ワンダーフォーゲル部のしごき殺人
昭和40年5/18午後9時30分、東京農業大ワンダーフォーゲル部の秩父合宿に参加した造園科1年の和田昇(18)が意識不明だと、合宿に参加した1年生から立川駅から実家に連絡が入った。合宿中、上級生に暴行を受けたとの事だったが、5/20に吐血して全身傷だらけだったため練馬病院が警察に届けてワンダーフォーゲル部で恒常的に行われていた上級生のしごきと称する暴行が明るみに出た。3、4年生は手に棒切れを持ち、「氷川駅発のバスに間に合わなくなる」と疲労で遅れがちな1年生を暴行、これで3人が負傷し、和田の新調のズボンはズタズタになっていた。慶応病院に入っていた負傷者の1人に朝日新聞記者の長男(19)がいた事から、マスコミは大々的に東農大ワンダーフォーゲル部についてリンチサークルと報道を繰り広げた。
 
5/22午前3時40分、和田は肺炎と肺水腫で死去した。ワンダーフォーゲル部は部員48人がおり、うち1年は28人だった。ワンダーフォーゲル部では登山訓練として5/15夜に新宿から夜行列車で出発し、5/16午前2時に山梨の塩山から途中までバスで秩父入り、5/16には笠取山中腹の笠取小屋近くでキャンプして山頂へと上り、再び野営して5/17午前4時起床で午前6時に出発、5/18も午前4時起床で午前5時40分に出発して雲取山を目指していた。そして一行は5/18に行程を終えて青梅線の氷川駅に到着していた。合宿の行程中、歩く時は水を飲んではいけなく、遅れると上級生がロープや素手で1年生を殴打した。1日目は30キロの行程で、直径5センチの枝を先をナイフで尖らせたもので1年生は暴行を受けた。
 
5/22、ワンダーフォーゲル部は解散となり、5/25、主将の造園科4年渡辺(21)と、副主将の農業科3年の藤岡(20)が逮捕された。夕方には渡辺の退学、2年以上の全員の無期停学が決まり、5/29朝には農芸化学科4年の森(23)、林学科4年の寺岡(21)、造園科4年の薄倉(21)、農学科4年の古屋(21)、農業経済学科の大塚(21)が逮捕された。6/4朝には会社員でOBの石塚監督(25)が逮捕された。
<北海道・室蘭>タンカー火災で10人死亡
昭和40年5/23午前7時10分、北海道室蘭港の日本石油精製の室蘭製油所原油岸壁で、接岸しようとしたノルウェーのタンカー、ハイムバルト号(3万5355トン、38人乗組)の右舷がコンクリートの岸に激突した。タンカーの裂け目から油が漏れて30分後に引船の火に引火して爆発、火柱が上がり、引船港隆丸(7トン、2人乗組)が炎上し沈没、タンカーも爆発した。この火災でタンカーの外人8人、引船の日本人2人が死亡した。タンカーはサウジアラビアから6万2000キロリットルの原油を運んできており、うち3万1000キロリットルは横浜で下ろしていた。室蘭港の海上1500平方メートルが燃え上がり、爆発音は4、5キロ離れた対岸の市の中心まで響いたという。5/25午前6時3分、午前6時30分にもタンカーは爆発した。
夜警殺し相次ぐ
昭和40年5/25午前4時10分、川崎市苅宿335の帝国通信工業の正門横の守衛所奥の8畳で守衛の藤井強(62)が鈍器で殴殺されているのが見つけられ、150メートル奥の第1工場と第2工場の間の道の脇で守衛兼ボイラー係の三木土正(たかし、31)も鈍器で殴殺されているのが見つけられた。午前1時30分に罵り合いの声が聞こえたとの証言があり、本館1階から3階の各事務所の鍵が盗まれて荒らされていた事から複数の強盗による犯行と思われた。しかし大金庫の鍵は残されており、給料1150人分1710万円は無事だった。
 
5/28午前5時40分、大阪市住吉区平林北之町3丁目の丸紅木材の寮で、夜警の坂本健一(68)と大西忠五郎(65)が丸太棒で殴殺されているのが見つけられた。ロッカーや机が荒らされていた事から強盗の犯行と思われたが金庫は無事だった。7/15夜、ブロック工の永田末文(24)と少年(18)が、7/17朝にもう1人の少年(18)が逮捕された。
尼になった元タカラジェンヌ
昭和40年5/30、鎌倉の長勝寺で桜緋紗子が得度式を行い、尼になった。桜は小笠原法佳となり、箱根の芦ノ湖畔の尼寺日輪寺へ入った。これは2/22午後の記者会見で発表されて話題となった。普段からバッグには経文と数珠を忍ばせていたという。桜は大正9年生まれ、宝塚から新派を経てフリーとなっていたが、叔父が岡山で日蓮宗の大僧正をしており、義姉も5年前に出家するなど普段から仏教が身近にある家系だった。尼になった直接の動機は昭和25年の交通事故であったという。しかしその後、昭和43年11/9号の「週刊新潮」で、恋人だった花柳章太郎の死去が仏門に入った主要な動機であった事を告白している。
東京12チャンネルからテレビカメラ盗まれる
昭和40年5/30午後4時50分、港区芝公園18号地の東京12チャンネルで、撮影会議終了後に1階警備課に同局のユニホームを着た山根と名乗る男が訪れた。山根は地下2階撮影課ロッカーの鍵を借り受け一旦、返却し、午後8時30分に再び鍵を借り受けて午後10時40分に返却した。5/31、撮影課ロッカーに入れてあった米製ベルハウエル2台など機材4台、114万円相当が紛失しているのがわかり、5/30にロッカーの鍵を借りた山根という男が盗んだと思われたが撮影課には山根という男はいなかった。
日産とプリンスが合併合意
昭和40年5/31、日産自動車(資本金350億円、川又克二社長)とプリンス自動車(資本金120億1500万円、石橋正二郎社長)の合併に関する覚書が大手町のパレスホテルで確認され、丸ノ内ホテルで発表された。これは9月の自由化を控えたもので、国際競争力強化のため桜内義雄通産相がプリンスの承諾を受けて日産に話を持ちかけていたのである。興銀系の日産と住友系のプリンスの合併で、昭和39年には国内は日産が2位の20%、プリンスが7位の5%の自動車シェアがあった事から併せて25%でトヨタを抜き首位となり、乗用車も日産が2位の28%、プリンスが4位の8%で、首位のトヨタの32%を抜く事になった。昭和41年8/1、両社は合併した。
<福岡・山野>炭鉱ガス爆発で237人死亡
昭和40年6/1午前12時40分、福岡の嘉穂郡稲築町の山野炭鉱第一立坑(地下490メートル)から水平坑道に300メートル入った地点でガス爆発が起こり、坑内にいた552人のうち237人が犠牲になるという戦後2番目の被害規模の炭鉱事故となった。救援隊は落盤事故などで午後3時30分にようやく現場に到着して救出作業となったという。しかし坑内はガスで霧がかかったようになっていて、ランプも届かず作業は困難であった。山野炭鉱は昭和38年まで三井鉱山の経営であったが赤字で手放し、独立経営となってからは黒字となっていた。ガスが多く保安基準が厳重な甲種炭鉱で、昭和34年12/21にも7人が犠牲となるガス爆発事故を起こしていた。
 
無事に難を逃れた仕繰夫の証言。「私は立坑の近くで働いていたが、12時40分ごろズシーンという音が奥の方で聞えた。まもなく強い風が吹きつけてきた。14、5分後から生暖かい風が吹いてきて、気分が悪くなり、ふらふらになったので、坑外に脱出した。私のところと現場はだいぶ遠かったが、奥の方は大変だろう」。同じく難を逃れた組夫の証言。「立坑の坑底から数百メートル奥で、仕繰作業に当たっていたら、突然奥の方からの爆風にたたきつけられた。いったん意識を失っていたが、しばらくして気がつき、付近にいた3人といっしょに脱出した」。
 
爆発現場は入気坑道と呼ばれる奥の採炭現場に通じる場所だったため、直接、爆発の被害を受けなくても一酸化炭素中毒での犠牲者を多く出して被害が拡大したのだった。昭和38年の死者458人を出す大惨事となった三井三池炭鉱のガス爆発では入坑者は坑道の続いている宮浦炭鉱などへ避難できたが、山野炭鉱にはそうした連絡口がなかったという。第一立坑からの入気を第二立坑の扇風機で吸い出す形の換気構造になっていて、扇風機をまわせば奥の入坑者のところへ一酸化炭素を送り込み、扇風機を止めれば再びガスが溜まってガス爆発となるという形であった。
 
山野炭鉱は石炭とボタが半々の質の悪い炭層だったが、三井鉱山が手放してからは作業能率を上げ、小さな事故も頻発していた。採炭夫や掘進夫などは固定給ではなくなり、請負給1本となって石炭を掘る作業の度合に応じての給料制度で1日9時間から10時間労働はザラであった。中で働いていた人の70%が閉山炭鉱や付近の中小炭鉱から集まった人で、三井時代より賃金は下がっていたがそれでも中小炭鉱より10%は給料が良かったという。
 
犠牲になった大半が炭鉱の最深部で危険作業に従事していた下請組の人々で、事故当時、炭鉱の中にいたのは正規の鉱員290人と下請組夫200人、組夫は採炭作業は出来ないので坑道の掘進や坑道維持のための仕繰りなどをしていた。下請組夫の給料は正規の鉱員の70%で社宅を用意する必要もなく、石炭産業が下向きになっていたこの頃、下請組夫の数が増えていたという。山野炭鉱では下請組の大半が全滅となった。炭住の鉱員の家族らが事故を知ったのは午後3時、それもマスコミのヘリによってだった。「ちょうど小学校の運動会だったので、そのための飛行機かと思った。それでも変だと思っていたら」。犠牲者の多くは事故救命マスクをつけたままだったがこれは30分しか効力がなく、救助隊が到着するまでに間に合わなかったのである。無事に避難できた人の中でもガスにやられて記憶減退、精神障害などの後遺症の残る者もいた。働き手を失った家族の中には「娘を高校へはもうやれんのじゃなかろうか」とつぶやく主婦などもいたという。
<静岡・浜名>観覧車から幼女転落死
昭和40年6/5午前12時30分、静岡の浜名郡庄内村の浜名湖舘山寺遊園地の観覧車から豊橋市の教員長女の林三枝子(5)が転落死した。林は3歳の弟と2人だけで観覧車に乗っていた。
新潟で第2水俣病 昭和40年6/12発表。参照→昭和ラプソディ(46年9〜12月)

ウィンザーマラソンで重松が世界記録
1965年(昭和40年)6/12午後2時50分(日本時間午後10時50分)、雨曇りのロンドン郊外のウィンザー城を100人でスタートしたポリテクニック・ハリヤーズ・マラソン(ウィンザーマラソン)は、市内のチェスウィック競技場に重松森雄(24、福岡大4年)が2時間12分の世界新記録でゴールを切り優勝した。2位は大会新記録の2時間13分41秒で寺沢徹(倉敷レ)、3位はアメリカのエデレンで、4位に2時間16分47秒で岡部宏和(西鉄)が入った。それまでの世界記録は昨10月の東京オリンピックで記録したアベベの2時間12分11秒2で、日本記録は2月に寺沢がマークした2時間14分38秒だった。重松は1メートル70センチで56キロ、自らのタイムを15、6分台だと思っていたという。
日韓基本条約を調印
昭和40年6/22午後5時、首相官邸で佐藤栄作首相立ち会いの下、日韓基本条約が日本全権の椎名悦三郎外相、高杉晋一日韓会談首席代表、李東元韓国外務部長官、金東祚日韓会談首席代表によって調印された。これは昭和26年より断続的に話し合われていたもので、これによって日韓関係が正常化した。調印には民団が歓迎したが総連は非難、日本が調印によって韓国を朝鮮半島唯一の合法的な政府とみなしたためだった。
<北海道・根室沖>漁船遭難し17人不明
昭和40年6/22午後6時2分、福島の石城郡四倉町のマス延縄漁船第8金比羅丸(39トン、17人乗り組み)が北海道根室沖で波が悪いが網を入れたとの連絡を最後に消息を絶った。6/24午後6時15分には根室沖東990キロで別の漁船が操業中に第8金比羅丸の船名入りの魚籠や救命浮輪などを発見、第8金比羅丸は沈没して17人は死亡したものと思われた。
<神奈川・川崎>石炭ガラ崩れ建売住宅埋まる
昭和40年6/26午後9時40分、川崎市久末1528の住宅地裏の石炭ガラの山が崩壊して建売住宅15棟、14世帯60人が生き埋めとなった。崩壊したのは4万立方メートルに及び、24人が死亡した。6/27未明は雨となった。この石炭ガラの山は近所の農家が田畑を植木の栽培畑にするためと称して、東電潮田火力発電所から昨10月から運ばせたものだった。千代田興業が無許可で運搬していたが、2月に川崎市では中止命令を出したものの、農家と業者がそれを無視して石炭ガラを積み上げていた。現場は大谷戸になっており、谷の入口から中ほどまでに家が建っていて、谷の奥は15メートルの崖になっていた。農家ではこの崖の上から石炭ガラを投棄、谷奥を石炭ガラで埋めてその上に土地を作るつもりだったらしい。埋まった建売住宅は2年前に100万円前後で売り出されたもので、建面積40平方メートルほどだった。
<東京・江東>夢の島で蝿が大量発生
40万平方メートル、海抜12メートルの江東区南砂町の夢の島は1日6500トンの都内のゴミが投棄される埋め立て地だったが、すでに8年間、ゴミが捨てられ続けており、自然発火や蝿の発生が名物だった。日に2.5回は自然発火が起こるが、300から1000平方メートルぐらいを焼いて鎮火していた。雨が多く火事が少ないと蝿が孵化して大量発生となった。エンジンスプレー6台で消毒が行われ、昭和40年6月は29日までに6回もヘリで消毒薬を空中散布していた。しかし6/29はいまだかつてない大発生となり、蝿の被害がひどいのは2000世帯が住んでいた南砂町7、8、9丁目だった。道を歩いていると顔や手に蝿がたかり、夜は天井に沢山、蝿がおり、電気を消すと顔に落ちてきた。わずか1、2時間で1升マスいっぱいになるほどの蝿の数だった。7/14には南砂町9丁目に蝿が大襲来、7/16には夢の島で野焼きが行われた。
 
7/24午後3時から午後4時30分まで夢の島から悪臭が江東区、墨田区、中央区にかけて漂う騒ぎがあった。さらに7/25午後にも日本橋を中心に中央区、千代田区、文京区に悪臭が漂った。  




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