支持失った新宿騒乱


 若年層の中には安保反対運動が2回あった事を知らない人もいる。60年安保と70年安保というのがそれで、前者が樺美智子や浅沼稲次郎、岸信介などの名前と共に記憶されるもので、後者が新宿騒乱、安田講堂、ベトナム戦争に絡んだ反米などで記憶されるものである。この2つの安保反対運動の大きな違いというのは、60年安保は最後の方では一般の人々もデモの列に加わり東京などではかなり広範囲な支持を広げたのに比して、70年安保は昭和42年10/8の佐藤首相訪米反対の羽田空港で学生の左翼グループと機動隊が衝突した頃より始まり、当初は一般の人々からもそれなりの支援があったものの、ゲバ棒にヘルメット、見境のない破壊活動といったイメージが学生側に定着してからは、一般の人々はむしろ学生を白い目で眺めるようになったという事だろう。

 60年安保がその輪を次第に広げていって最後は岸首相退陣にまで至ったのに比して、70年安保はその輪を次第に縮めていって最後は東大の破壊、さらに先鋭化した学生グループの一部は赤軍派と称してよど号ハイジャック、浅間山荘篭城、そして仲間内の凄惨なリンチ殺人を行い、学生運動そのものに幕を下ろす事になる。学生運動は一般の人々はおろか、肝心の学生からも支持を失った事で、キャンパスから政治の季節は去り、やがて80年代の軽薄な大量消費社会がキャンパスを席巻する事になり、それはバブル経済を挟んで現在にまで至っている。

 昭和43年10/21、三島由紀夫は10/5に結成されたばかりの楯の会のメンバーと共に御茶ノ水から銀座へと世に言う新宿騒乱によって起こった東京の主な街での学生らの暴動を観察していた。三島はその後、東京各地に騒乱を観察するために散っていた楯の会のメンバーらと集まって協議を重ねた末、「反革命宣言」として楯の会でこうした状況に真っ向から立ち向かっていく事を明らかにする。つまりは危機感を煽られたという事なのだが、政府は最後には世論におもねるので政府にも期待しないなどとも言っており、新宿騒乱を面白半分に見物に来た群集が一緒になって投石したり線路の枕木を燃やしたりしているのを見て、余計に事態を深刻に捉えたのかもしれなかった。
 
 この夜はテレビもラジオもしきりに具体的な場所を挙げて「どこそこで学生が暴動を起しております」などと事細かに「実況」するものだから、そんな放送を耳にすれば見てみたくなるのが人の常で、学生よりも野次馬の方が多かったという場所もあったという。嵐山光三郎も新宿駅へ見物に出かけているが、機動隊に投石してみたりしている。「みな、一様に、都市を破壊する面白さに酔っているのだった」。明確な政治意識というよりは、街が破壊されて無秩序になる事への高揚と興奮、群集のみならず学生にも多分にそうした意識があったようである。

 この新宿騒乱の伏線は10/8に起きた、佐藤首相訪米反対の羽田での衝突1周年を記念した全学連学生ら5000人による米軍タンク車輸送阻止を掲げたデモで、新宿駅東口広場で機動隊と衝突、学生らは午後9時頃から新宿駅の線路上に乱入して中央線、山手線がストップ、さらに学生らは交番に放火するなどして、さながら市街戦のようになり、一時的に新宿駅周辺が無秩序な状態に陥っていた。これより8年前の安保の記憶も残っている群集も数万人近く見物にやって来て学生を煽るなどしていた。当事者の学生と機動隊、そして野次馬以外の、新宿駅近くで商売をしている人などは店が壊されてもどこからも補償が出ないため、ただ怒るしかない。一般の通勤のサラリーマンなども被害を受けた口だった。

 10/21夜、さらに大規模な騒乱が再び新宿駅を襲う。「味をしめた」と言っては悪いが、政治闘争云々というよりは、再びあの無秩序な高揚の中に身を置いてみたいという思いが学生らの中になかったとしたら嘘になるだろう。10/21は国際反戦デーであった。新宿駅のみならず防衛庁、国会など東京の各地で学生グループは暴動を起こし、新宿駅では学生ら数千人が午後6時より線路に乱入して停車中の電車の椅子をはがすなどして騒いだため、午後8時に至って新宿駅は機能を停止、山手線、中央線などは完全にストップし、一般の通勤客などは家に帰れずに途中の駅で待機するという形になる。
 
 夜11時までには東口広場は2万人の学生と野次馬の群集で埋まり、テレビの車に放火、電車の上に登って感電して負傷する学生もいた。さらに夜11時半には南口階段で学生らは古シートを燃やし、かけつけた消防隊に投石するなどしたため駅員が消火、午後11時52分には学生らは3、4番線ホームと5、6番線ホームにはがした椅子の山を築いて放火、南口改札口にも放火し、駅舎が焼けるなどしたが、駅員を救出しようとする消防のハシゴ車の活動までも学生や野次馬が妨害した。警察は騒乱罪を適用し、10/22午前0時10分、学生らを新宿駅から排除、東口広場でも催涙ガスを発射、いつの間にか学生らは姿を消し、野次馬の群集だけが暴れまわるという形になった。

 この新宿騒乱の余波で10/22朝からの通勤にも影響が出て、中央線は朝のラッシュ時に全面ストップ、山手線も大崎−新宿−池袋間で運転できなくなった。当然ながら一般の人々は学生らを白眼視した。後々、新宿騒乱を悪し様に書いた書籍などが余り見られないのは、こうした書籍を出版できる立場にある“ペンの特権階級”の人々のほとんどが学生デモ経験者や当時の野次馬に近いような人々だったからで、新宿騒乱を白眼視した一般のサラリーマンや商店主、主婦など当時の大多数の人々は自らの言論などを発表する場は与えらていないので、もっぱら新宿騒乱前後の新聞などに載った街の声で推し量るしかない。新聞の論調は一貫して学生らの行動に批判的なのは言うまでもない。この日の朝刊には「狂人を野放しにしておくわけにはいくまい」といったコラムまで登場しているのだ。

 この騒ぎから1年後の昭和44年10/21、再び国際反戦デーの日がめぐってきた。この年の国際反戦デーは前年までと違い日本だけのものだった。ほかの国は同様の催しを11/15に行うため、日本1国だけの国際反戦デーとなったのである。10/21午前12時5分、NHKに背広姿の学生6人が押し入り、副調整室で機械を破壊し、コードを引きちぎるなどして暴れた。日本生産性本部や交番なども学生らに襲われている。午前12時半には東神田の靖国通りに学生らがバリケードを築いて交通妨害をしたが、午後1時になってやって来た機動隊に10分で排除されている。この日は火曜日であったがあらかじめ騒ぎが予想されたので昼には早退するサラリーマンで時ならぬラッシュが巻き起こり、東京駅、有楽町駅、神田駅、新橋駅では午後1時半までに20万人が帰宅のために押し寄せるという大混雑となった。警察では事前に東大医学部、青山高校、法政大を捜索して、火炎瓶などを押収している。

 午後4時には学生らは新宿駅に乱入、西武線の高田馬場駅にも投石したため、午後4時18分に山手線がストップ、午後4時20分には中央線が、そして西武新宿線も高田馬場などの一部でストップした。新宿駅前は列車ストップを受けて人が溜まり出し、靖国通り、青梅街道、甲州街道が通行止めとなった。新宿の商店やデパート、飲食店など3000軒は一斉に閉店し、商店主らの学生への反感はほとんど憎悪に近いものがあったという。一方で野次馬などの群集は「機動隊帰れ」などと煽り、機動隊に追われるや駅に逃げ込んで駅員に定期を見せ、「定期券があるんだ。これで機動隊に捕まったらお前ら責任とってくれるか」などと脅し、一般の乗客に早替わり。ところがこの日の野次馬には背広などを着て一般人を装っていた学生が多数入り込み、偽装群集ともいうべき者が多かったと新聞で報じられている。一般の人々の反応は学生のみならず、学生を心情的に理解するなどとした群集にも「無意味な跳ね上がり」と非常に冷たかった。こうした学生や群集も機動隊に押され、列車も午後8時前後には再開し、午後11時半にはデモ隊は全体解散となった。

 一方で社会党、共産党などの既成左翼は全国で46万人を集めて集会を開き、東京では3万1000人がデモを行ったが、一部では学生らの妨害に遭い、デモの労働者数人が負傷するなどしている。既成左翼のデモは整然と行われたが、若年層の参加者は少なかった。

 この国際反戦デーの騒乱と無関係な場所が東京にあった。浅草、錦糸町などの下町である。まったく普通の日常がそこにはあった。戦争を挟んだ時代を知っている世代は学生らの浅慮を嘲った。「テレビの前に寝そべり、週末のレジャープランを練る市民にとって『革命』とはいったいなんだろう。やっと手に入れたマイホームめざして満員電車に揺られて帰るサラリーマンにとって『ターミナル占拠』とはなにか。だからこそ、この虚偽の社会の仮面をはぎとり、眠りこけている大衆を目ざめさせるのだ、と学生はいう。しかし“悪夢”を見ているのはいったいどちらなのか」「“体制側”からはみ出しても食べていける時代なのである。パクられても、それはつかの間の不自由な“旅”にすぎない」−。いずれも学生らの騒乱に対する新聞の反応である。実際に製氷や加工作業に従事する労働者らが仕事場を荒らされて、学生デモ隊を「おまえら何の恨みがあるのか、働きもしないものが大きな顔をするな。税金泥棒はお前らだ」と罵倒する姿が見られている。
 
 札幌ではベ平連に襲われた警官2人が火炎瓶で火だるまとなり、福岡では労組の集会を妨害した学生らに労組員が「暴力学生帰れ」と罵声を浴びせると、学生らは「お前らのように馬鹿ではないぞ」「殺してやろうか」と返して揉めるなどした。

 ここまでひと括りに学生としてきたが、無論、学生にもデモなどには無関心な者もいた。この頃の学生語について幾つか紹介しよう。ハンバーグステーキが「わらじ」、くじらの肉のビフテキは「靴の底」、いずれも生協食堂でよく言われた言葉だったという。高校生が睡眠薬で「ラリ」ったのも、この頃から。ずうずうしい奴は空母エンタープライズから「エンプラ」、徹夜麻雀に強い学生は篭城犯人の金嬉老から「キンキロウ」、大食いは「ケメ子」「ケメスケ」、これは「ケメ子の唄」というフォークソングから。「サユリスト」とは吉永小百合ファン。「メルト」とはマルクス(M)、エンゲルス(E)、レーニン(L)、トロツキー(T)。「ゲバルト」とは学生セクト同士の暴力、「ゲバ棒」は角材、ところが学生の中ではそうした実力行使をして騒ぐのは「バッタ」とバカにされた。はたまたテレビの影響で「バハハーイ」「ドンガバチョ」などの言葉もよく使われたという。
 
 この時までに死語となっていた学生語には暴力なしに粛々と、威勢の上がらぬ陳情したら終わりの「御焼香デモ」、あるいは安保の過激な学生行動に慎重だった共産党本部の代々木をもじって、男女の一線を越す事をためらうという意味で「ヨヨギル」、さらには終戦直後の復員学生を意味する「ゾル」など。戦前の学生が使っていた「シェーンなメッチェン」(かわいい女性)などは完全な古語の世界であった。一方で戦後から使われ出した「バイト」などはいまでも使われている。

 70年安保は昭和45年に入ると動きも沈静化、6/23に日米安保条約は自動延長されている。新宿にたむろする左翼学生の間では70年安保を歌謡曲の替え歌として歌うのが流行り、昭和45年には数々の歌が替え歌にされたが、ここでは水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」の替え歌を紹介する。「革命は歩いてこない、だからゲバっていくんだね、石投げて一歩、火炎瓶で三歩、三歩進んで二歩下がる、闘争はワンツーパンチ、汗かきベソかきゲバろうよ、あなたのゲバった足跡にゃ、きれいな花が咲くでしょう、棒を振って石を投げてワンツーワンツー、休まないでゲバれ」。

参考
嵐山光三郎「口笛の歌が聴こえる」 1985
保阪正康「三島由紀夫と楯の会事件」(角川文庫版) 2001
毎日新聞東京版各記事など 1968〜1970



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