モンテンルパの夜は更けて


 *先生、冷たいコンクリートの独房に座って、先生のあたたかい心情に、私は幾度、獄衣で涙をぬぐったことでしょうか。しかし私がいま先生に訴えようとするのは、人生の結論に迷って、救いを先生に求めようとしているのではありません。先生はかつて祖国のために死んだ幾万の学徒兵が、どんな願いと理想を祖国に残して行ったかをご存知でしょう。私たちは信管の抜かれた爆弾を制服制帽の上に背負ったのでした。日本のために一言の不服をもらすことなく、血と肉とをもって、残さんと欲したものが、やがて実を結ぶであろうと信じ、死んで行ったのです。
 
 彼等が残したものは、切断された学究への愛着でもなく、あるものへの怨恨でもなく戦争の勝敗すらもこえた「決して二度と戦争してはならぬ」ということでした。特攻機の上で出撃の前に母にあてた一枚の紙片に「さよならお母さん、私は最後まで学生でした…」と書いて飛出したのです。
 
 先生、私がうったえたいのは先立った彼らの国に旅立たんとする私が、彼らのまいた種子による芽生え、刈りとられた果実を果して持参出来るかどうかということです。戦争のない日本が果して実現しつつあるかどうか。あのワセダの森で学生は静かに書をひもといているかどうか。幾万の学徒の血肉をもってあがない得る「平和」なるものは“講和近し”と歓喜する今日の国民的興奮の中に、得られるものでしょうか。
 
 先生、ワイルドの“獄中記”を読みました。彼は「自己が周囲にあるすべてを失ったと自覚した時こそ、始めて自己の持っているものを自覚し得た時だ」と言っています。青春も、学究への意欲も、私はすべてこの戦争で失いました。しかし静かに考えると「私はもてるすべてのものを祖国のために捧げつくした」という喜びです。
 
 先生、人生とは、こんなに楽しく、誇らしいものでありましょうか。これを私にハッキリ意識させてくれたのは、終戦以来、祖国の人々が打振る再建のオノのひびきでした。先生、新らしい日本が生れる陣痛は想像以上に大きいでしょう。その寸前に絞首台に立たねばならぬ一学徒兵が先立ったおびただしい学徒に与うるに祖国より託された一束の花を抱きながら「日本よ祖国よ、永遠に平和なれ!」と叫ぶ声をどうか聞いて下さい…。

 昭和26年、早稲田の*講師にあててフィリピンから1通の手紙が届いた。「私は比国軍事法廷で絞首刑の宣告をうけ獄窓から過去二年半ただ一途に祖国の発展を祈って来た早大法学部に籍をおく元海軍少尉花岡道夫であります」。校友会から獄中の花岡に送られた学報の中に、*講師の筆による「講師雑感」という一文があった。「いまの学生たちの頭の中には戦争と生命の問題が深くこびりついている。彼らの憂悶は深い。その深さは、明治、大正ののどかな学生生活をおくった人々にはわからない。いまの学生をしかる人はここを考えてやるべきだ」。このエッセイに感じるものがあった花岡は*講師に自らの処刑前の思いを綴った手紙を送ったのだった。
 
 昭和18年10/21、秋雨煙る明治神宮外苑を「抜刀隊」の演奏と共に3万5000人の学生が行進した。学生の特権であった徴兵猶予が停止されて満20歳を超えた学生は出征する事になったのだった。この時の全国の学徒出陣での出征者は13万人ほどであったとされる。10/25より本籍の場所に戻って徴兵検査を行い、陸軍は12/1、海軍は12/9、10に入隊となってそのまま再びキャンパスに戻る事のない学徒兵も多かった。中には捕虜虐待などで戦犯容疑に問われて処刑された者もいたが、容疑そのものが他の人間の責任をなすりつけられたという形によるものも多かった。
 
 この花岡の手紙は昭和26年7/10の朝日新聞朝刊に掲載されて反響を呼んだ。すでに日本国内は戦争が終わり6年も経つのに、遠い異郷の獄窓に処刑を待つだけの同胞がいるという事実に衝撃を受けたのである。昭和26年ともいえばすでにソ連などからの引き揚げもピークを過ぎている。
 
 昭和32年に発表された樋口茂子の小説「非情の庭」はフィリピンの学徒戦犯の死刑囚が兄の学友であったと知り衝撃を受ける若い女性を軸に話が展開しているが、作者の樋口は昭和24年2/21の新聞紙上に掲載された「十四名に絞首刑 フィリピン軍事法廷」という記事の中に京大生の知人の名前を見つけて衝撃を受け、学徒戦犯の冤罪、釈放運動に携わって「非情の庭」を書き上げている。樋口が衝撃を受けた記事の14人の中には花岡の名前もある。樋口はじめ関係者の尽力あって樋口の京大生の知人も花岡も昭和28年7月、無事に日本への帰還を果たした。彼らが収容されていたフィリピンのモンテンルパについては、戦犯釈放へ向けて大きな力となったいま1人の女性がいた。歌手の渡辺はま子である。

 蝿が凄かったという。調理場のキャベツが真っ黒に見えるぐらい凄かったそうだ。渡辺はま子がフィリピンはモンテンルパのニュービリビット刑務所へようやくの思いで到着したのが昭和27年12/25の事だった。戦前より著名なスター歌手として知られた渡辺はま子とモンテンルパに抑留されたいわゆるB、C級戦犯たちとの交流はこの年の1月にさかのぼる。時のフィリピン下院議員だったピオ・デュランから戦後7年も経ってなお獄舎につながれた日本人たちがいる事、そして彼らの中には刑死を待つのみの人が数多くいる事などを聞かされた渡辺はま子はいても立ってもいられなくなり、銀座の鳩居堂から現地へと香を送った。すでに日本国内は戦争の傷跡も薄まり、朝鮮戦争による特需、経済復興へと大きく舵を切り始めた時代、そんな時期、いまだに異国の獄舎で死と対峙している多くの同胞がいる、しかもその事実を日本国内の人々は誰も知らないでいるという事は大変な衝撃であった。

 昭和26年1/19、モンテンルパの死刑囚14人の処刑が突如、行われた。昭和20年の敗戦と共に米軍に投降、昭和24年に判決、しかし多くの受刑者たちはこの処刑を全く予期していなかったという。釈放とばかり思い込んで出て行った者がいた、碁をやりかけにして「そのままに」と出て行った者がいた。教戒師として日本からやって来て受刑者たちと生活を共にしていた加賀尾秀忍だけが蒼白な顔をして戻ってきた。そしてそれぞれの最後を語ったという。受刑者たちが衝撃を受けたのは、実際には現地人殺害などの罪状が全く身に覚えのない人間が多く、よもやと内心思っていたためという。事実、一斉処刑された14人のうち6人は完全に無実であった事が後日、証明されている。
 
 当時の戦犯指定はかなりいい加減な理由によるものが多く、被疑者と同姓同名という誤認逮捕や上官や同僚の罪逃れのための偽証で死刑に処せられたり、報復的な意味合いから捕虜へのビンタ一つで終身刑といった無茶苦茶な判決も多かった。映画「私は貝になりたい」のように上官の絶対的な命令でやむなく捕虜を刺殺したなどの場合でも、軍隊内の苛烈な上下関係は無視されて実行者も罪科を問われたり、戦地から日本に復員して家族らと生活をしているところを突然、呼び出しを受けて逮捕されそのまま現地へ移送されて二度と還らない者もいた。なお「私は貝になりたい」のモデルの加藤哲太郎本人は無期に減刑され釈放、運良く社会復帰を果たしている。

 「私は貝になりたい」に限らずB、C級戦犯とされ、処刑された者の多くは捕虜虐待の罪状によるものであった。中には遠藤周作の「海と毒薬」のモデルとなった九州大学での米軍パイロットの捕虜8人を生体解剖した罪という言語道断なものもあり、しかもこの九州大学の関係者は後に自責の余り自ら命を絶った者を除き全員、釈放され社会復帰している。一方では先のモンテンルパのように無実の人間の処刑も数多く行われた。片や生体解剖という歴とした証拠があるのに釈放、片や何もしていなくても処刑というこの落差こそB、C級戦犯裁判の実態を如実に表しているといえよう。

 ここに一つの歌がある。「ああモンテンルパの夜は更けて」、昭和27年のヒット曲である。懐かしい針音の前奏に出だしの1番は宇都美清という男性歌手のソフトな歌唱、2番を渡辺はま子が歌っている。哀切極まりないメロディのこの曲はモンテンルパの獄中で死刑判決を受けていた代田銀太郎が作詞、伊藤正康が作曲したもので、同年の6月に譜面が渡辺はま子の元に送られてきた。同月には渡辺はま子自身の持ち込みでビクターでレコード吹き込み、スター歌手の流行歌の持つ力は馬鹿にならない、それまでも復員局の植木信良が受刑者減刑に打ち込んできていたが一個人の力には限界がある、渡辺はま子の「ああモンテンルパの夜は更けて」はすでに戦争の記憶が遠くなりかけていた日本人に大変な反響を巻き起こしたのだった。
 
 そこで渡辺はま子はある決断を下す。それは現地のモンテンルパを渡辺はま子自身が訪れて受刑者たちを直接、慰問する事だった。しかしフィリピン政府のビザはなかなか下りない。やむなく通過査証を使って見切り発車でフィリピン行きを決めた渡辺はま子。出発ぎりぎりになってフィリピン政府からビザが下りる。これで晴れて戦犯慰問の名目でモンテンルパへと向かう事が出来たのである。「ああモンテンルパの夜は更けて」には心ない人からの売名との中傷もあった。しかし海外渡航、それも戦犯の収容されている刑務所訪問など困難極まりない話を最後まで諦めずに実現させた渡辺はま子の熱意、これを本物と言わずして何と言おう。

 モンテンルパの受刑者たちとの感激の対面を果たし、懐かしい日本の歌の数々を披露した渡辺はま子。明けて昭和28年、「ああモンテンルパの夜は更けて」のメロディーを刻んだオルゴールがある人の元に贈られた。フィリピンのキリノ大統領である。ようやくの思いで大統領との面会を果たした加賀尾秀忍は卑屈な泣き落としでの戦犯減刑などは頼まず、ただキリノ大統領にオルゴールを渡した。静かにオルゴールの音色に耳を傾けたキリノ大統領は「この哀しい歌は何という曲か」と加賀尾に問うた。「モンテンルパの死刑囚が作った曲である」との加賀尾の答えにキリノ大統領はしばし沈思した。その後、1時間、キリノ大統領は自身の戦争中の思い出を静かに加賀尾に語ったという。それは昭和20年、日米のマニラ市街戦の最中、日本軍の攻撃に巻き込まれて最愛の妻と娘を失った話であった。

 加賀尾とキリノ大統領との面会から1ヶ月、昭和28年6/27、モンテンルパの全受刑囚の日本送還と全死刑囚59人の無期への減刑がフィリピン政府によって発表されたのだった。7/22午前8時40分、白山丸にて一行は横浜大桟橋に帰国した。

 「ああモンテンルパの夜は更けて」の作詞に先立ち、代田銀太郎が記した一片の詩篇がある。後に渡辺はま子に感謝のしるしとして贈られたものだ。
 
 暑い一日も暮れんとして、佇めば黄昏の空を雲がゆく。北へ、北へ雲が燃えてとぶ。
 あの雲に想いを載せて、故郷の山河に馳せる。虜囚六年の苦悩が、懐かしい思い出や、思慕と共に、海原を越えて遙かなる故国の岸に打ち寄せる。
 ああ、あの雲の彼方のわが魂の聖地、故郷へ帰り行く日はいつぞ。悲哀も憂愁も、虹の余光に溶けて、妻よ、子よ、父、母よ、はらからよ、健やかに在れと、一人静に目を挙ぐれば、北斗星が燦く。そして夜が郷愁に疼く胸をしめつける。ああ遠き祖国よ、


参考
朝日新聞東京版各記事など 1949〜1951
飯塚浩二「あれから七年」 1953
岩川隆「孤島の土となるとも」 1995
遠藤周作「海と毒薬」(新潮文庫版) 1960
長田暁二「歌謡曲おもしろこぼれ話」 2002
加賀尾秀忍「モンテンルパに祈る」 1953
上坂冬子「歴史はねじまげられない」 1997
産経新聞社「あの戦争 太平洋戦争全記録」 2001
中田整一「モンテンルパの夜はふけて」 2004
樋口茂子「非情の庭」 2000
辺見庸「もの食う人びと」 1994
読売新聞社文化部「この歌この歌手」 1997
<映像>橋本忍「私は貝になりたい」 1959
<音楽>渡辺はま子/宇都美清「ああモンテンルパの夜は更けて」 1952



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