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 戦争を語りつぐプロジェクト60>の活動

私どもはボランティア・グループとして、昨年(2004年)8月から<市民の証言集>の取材を始め、戦後60年目を迎える今年に向けてHPを開設しました。

その後、男女を問わず高齢者から<60年目の証言>を取材・募集し、かけがえのない体験記録をHPを通して提供しています。

とくに、今まで発言や発表の機会をもたなかった数多くの市民の体験を記録し、戦争を知らない世代へ伝えたいと願っています。

私どもは政治的な党派に属するのではなく、あくまで市民として戦争の実態を再確認し、個々の体験を通して平和の大切さを伝えようとするものです。

<60年目の証言>HP開設の趣意


 来年(平成17年)は、昭和20年から数えて60年、還暦の年に当たります。
昭和20年8月15日、その日を境に日本は大きく変りました。
戦後日本の繁栄は、日本人だけで310万人といわれる犠牲の上に築かれたものであることを
忘れてはならないと思います。

 現在70歳以上になる高齢者は、戦前と戦後の歴史を身を以て体験してきた
貴重な生き証人です。
戦争体験に限らず、戦争中の生活(衣食住)や社会環境(人権・自由・思想)は、
戦後に生まれた世代が想像もつかない状況でありました。
その苦難を生き抜いて戦後の日本を支えてきた高齢者の方々に、波瀾の多い過去の
体験を語り継いで頂くことは、戦争と平和に関連して未来の日本人の生き方を考える上で
貴重なデータベースとなるに違いありません。

 戦後の日本は、衣食足りて礼節を知らず、より豊かな消費生活と福祉政策を求めて
現在に至りました。その一方で、大量生産のかげに資源の浪費と
環境汚染が止まるところを知らず、
未だに基本的人権が無視されている現実がないとは申せません。

 また、政府による国債発行残高は700兆円を超え、貨幣価値が紙屑となった
60年前の再現を危惧する声も囁かれています。
まさに日本は、60年前と等しい大転換の岐路に立たされているのです。

 この時に当たって、戦前・戦後の歴史から教訓を学びとるために、
有名無名を問わず広く高齢者の方々の〈60年目の証言〉を記録し、
Homepageを通して公開する意義は大きいと信じるものです。

 このプロジェクトが多くの人々の共感と支援を得て、より充実した情報を提供できますよう、
ご理解とご協力をお願い申し上げる次第です。

   ['2004] 平成16年 8月 15日       
              <戦争を語り継ぐ プロジェクト60>



 <東京大空襲から60年>

  (3/6NHKスペシャルの画面より、言問橋の悲惨な情景を描いた狩野光男氏の絵)

 3月10日は東京大空襲から60年に当たり、東京では追悼行事や慰霊祭が執り行われました。墨田区の都慰霊堂には、遺骨の殆どが身元不明のまま納められています。同区の区役所ロビーでは、15万羽の折り鶴を使ったオブジェの制作が進んでいます。
 東京都は「平和記念館」の建設を6年前に凍結したままですが、3年前に民間の募金による「東京大空襲・戦災資料センター」が江東区北砂に建設され、都民の戦禍を保存し語り継いでゆくための重要な場所となっています。
 六本木ヒルズのテレビ朝日1階では、空襲を体験した画家が描いた絵などの展示会も開かれました。
 前日9日には、慰霊碑「哀しみの東京大空襲」の除幕式が上野で行われ、出席した遺族らが哀しみを新たにしました。
 次に、NHKスペシャルの放映をはじめ各種新聞が出したコメントからのメモを、事実の一端にすぎませんが記録しておきたいと思います。マスコミの報道は、翌日には忘れられてしまうのが常ですから。
 
 その運命の日、早朝5時07分から約2時間30分にわたって、マリアナ基地から出撃した300機を超えるB29が、隅田川沿いの人口密集した下町に焼夷弾32万7千発(1800トン)を集中投下し、東京の1/4に当たる41Iが焼失した。一夜の間に26万戸が焼失し、死者は10万人に上ったという。当時の深川区だけで3万人の死者が出ている。
 安全なはずの防空壕の中で全員が焼死した家族たち、国民学校に逃れたものの鉄筋の校舎の窓から火が吹き出す勢いで火の海に包まれた人びと、言問橋の上にも河川敷にも積み重なった累々たる死体の山。………
 
 その日投下されたM69型の小型焼夷弾は、燃焼実験を繰り返し、最も効果的に日本の木造家屋を焼失させるために製造された。焼夷弾にはゼリー状ガソリンを38本も詰めこみ、空中で分解して着弾してから数秒後に屋内で炸裂するように設計されていた。
 一般市民を大量殺戮することによって、軍需工場の労働力に打撃を与え、国民の戦意を喪失させることが作戦の目的であった。
 作戦を指揮したルメイ司令官は、「多くの女性・子供が犠牲になるのは分かっていたが、戦争に勝つためには必要だった」と語っている。(以上、NHKスペシャルより)

 翌日の大本営発表では、襲来した120機(実際の1/3)のB29のうち15機を撃墜し、宮内庁は午前7時、その他も8時には消火したとして、生きながら焼かれた10万人の犠牲者には何ひとつ触れなかった。
 
 2005.3.10の各紙社説の一部を引用すると、
「当時の記録では、遺体のうち65%は男女の別も分からなかった。身元不明のまま合葬されたのは、7万体とされる。この人たちは、他の戦災の犠牲者とともに450個の大きな白磁のつぼに納められ、墨田区の東京都慰霊堂に安置されている。」(朝日)
「東京大空襲は、初めから一般市民を主目標とした大量虐殺作戦だった。明らかな国際法違反である。」「東京大空襲で“成功”した米国は、3月12日に名古屋、13、14日には大阪へと軍民無差別爆撃の対象を広げて行く。終戦までに150前後の都市が空襲され、犠牲者は50万人に上った。」(以上読売)
「犠牲を防ぐには、戦争を起こさないこと以外にない。政府も政治家もそのことをあらためて認識し、最大限の努力をしてほしい。後世に対する責任だ。私たちも目をこらしていく必要がある。」(東京新聞)
 
 最後に一例として、NHKスペシャルの中で語っていた鎌田十六(とむ)さん(92才)の場合。
 高齢の十六さんは、逃げこんだ川の中で亡くした一人娘の唯一の形見となったネンネコを広げている。赤ん坊だった娘が足で引っかけて破けた跡があちこちにある。
 60年前のその朝、娘を背負って夫とともに隅田川の冷たい水の中へ逃げた彼女は、腰まで水に浸かったが、娘を水に浸けないようネンネコの上から手を添えるだけで精一杯だった。その朝の気温は2.6℃であった。
 彼女のからだは芯まで冷え、猛烈な眠気に襲われた。川のなかに置いてあった大八車に、あと1人ぐらいなら乗れると引っ張り上げてもらったまま意識を失った。夫が乗る余裕はなく、何も言わずジッと川のなかに立ちつくしていた。それが最後に見た夫の姿だった。
 彼女が意識をとり戻すと夜が明けていた。助けたと信じていた背中の娘は動かなくなっていた。首をだらんと垂れて、顔に火傷の跡がついていた。ネンネコはビショビショに濡れていた。自分が助かったのは、背中が濡れなかったからで、娘が代わりに犠牲になって亡くなったと思うと、子供を守るのが親なのに守れなかったことが、いつまでも糸を引くように残っています──と、92才になった十六さんは語っている。
 戦後、彼女は戦災孤児を預かる施設で70才になるまで働いた。その子供たちが亡き娘だと思って世話しつづけた、という。(U)
 


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