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S・Fさん 大正13年(1924)生(81才)
乳呑み児を背に満州から帰国するまで
私はずっとハルピンにいてデパートに勤めていまして、同じ職場で主人と知り合って結婚したのが昭和19年でした。
それから主人が自営で食糧配給所を始めるというので、2人ともデパートを辞めました。
昭和20年の3月に女の子が生まれて、その7月に主人が軍隊に召集され、終戦と同時に捕虜としてソ連に連れて行かれました。商売がどうにか軌道に乗りかけたところでした。
おかげさまで倉庫に食料品が貯蔵してありましたので食糧には事欠きませんでしたが、終戦と同時に大変なことになりました。
日本人とロシア人の街が高台にあって、正規のソ連兵が着くまでに刺青のある囚人を解放して送り込んだために、その街の住民全部が略奪・暴行を受けて殺されてしまったんです。ロシア人同士の殺し合いもありました。
私の家は高台から少し離れた所で中国人の家と同じ屋根になっていましたので、中国人と区別がつかなかったので助かりました。
隣が飯店だったので、そこへロシア軍のサーベルをさげた軍人が来るので、家から出ないように中国人が注意してくれました。
家に一緒にいた姑さんがとても怖がりました。
家の戸をドンドンドンと叩いて脅されたりして大変でしたが、ずっとその家に住んでいました。
怖くて子どもを抱いてはだしで裏から飛び出したこともありました。
主人は兵隊に行っていませんでしたが、お年寄りの男の人などは見つかると連れて行かれるので、屋根裏に隠れて食事を運んでもらっていました。
日系の人たちはみんなお金がないので、帯や着物など何でも市場へ持って行って売っていました。
日本に引き揚げるまでそんな状態が続きました。
向こうでは日本が戦争に負けることは前から分かっていました。というのは中国人が、日本はもうダメだよ、飛行機から雨のように爆弾を落とされているよ、と毎日の新聞を見せて教えてくれましたから。
昭和21年に帰国する時は班ごとに連絡がありました。
お祖母さんと子どもと私と3人で、松花江の橋が壊されていたので船で渡らないといけなかったのですが、船に乗るまでに河岸で荷物の検査があって、珍しい物品は全部没収されてしまいました。
うちの近所の人は一足先に船に乗ったのですが、途中で嵐のため船が転覆して全滅した班に入っていて、お気の毒なことでした。
持てるだけ持って帰ってもよいというので、衣類なら売れると思ったのですが、お祖母さんはアルミのお釜と重い鉄瓶を持って帰ると言ってきかないのです。これは記念の大事なものだからと。家財道具はみんな置いたまま着のみ着のままで、子どもを負ぶったら下着しか持てませんでしたよ。
子どもが何人もある人は、現地へ幼い子どもを置いてきた人が多いのですよ。
いつ列車が来るか分からないし、お金がないでしょ、ですから食べさせられないのですよ。
みなさん中国人に預けたりして、その子どもたちが残留孤児になったのです。
子どもが多い人は、手足まといになるので、本当に皆さん預ける他なかったのでしょう。私は乳呑み児が1人だったからおんぶして帰れたのですが。
ハルピンはまだましでしたが、チチハルあたりはもっとひどかったようです。
私が帰国する前ハルピンにいた時に、宮城県の女性の方と中国のお巡りさんが家へ来ましてね、私は帰らずにこの中国の警察官と結婚してこちらに残りますということでした。
その女性は特務機関に勤めていた方で、拳銃を持ってチチハルから逃げてきて、途中でそのお巡りさんに命を助けられたそうです。
いよいよ帰国が決まって船が来るまでに荷物検査があるんですよ。ここでもドレスとか綺麗な衣類はみな没収されました。
ですから、持って帰った衣類はおしめと下着ぐらいです。
船で松花江を渡ったあと、こんどは列車を中国に頼まないといけないのです。そのためお金の代わりに宝石とか金目の物を出し合って頼むのですけど、いつ列車が来るか分からない。
それまでは野宿して、外側を男性が守って、内側に女性や子どもが入って夜を過ごしました。
やっと着いた列車は無蓋車で、その中に腰掛けるのですけど、なかなかスムーズに走らないので、長時間かかって新彊、奉天を通ってコロ島へ着きました。
捕虜になってシベリアへ連れて行かれた主人は炊事班に回されて、マラリアで体が弱っていたので朝鮮に移動したのです。それで命拾いしたのです。シベリアではお腹が空いて、レンガがパンに見えたそうですよ。お年の方は寒さと飢えで次々と命を落とされましたが、なんとか若いので助かったようです。
私たち3人は九州の佐世保に着きました。父のいる大阪へ行くべしでしたが、大阪は焼け野原、それ以前に青森の姉から便りをもらっていたので、姉一家のいる青森県の弘前へ、南から北の端まで行きました。その青森に大阪の父も一緒に疎開していました。
お祖母さんだけ先に主人の里になる仙台に、独りでごめんねと謝りながら降ろしました。
弘前では久しぶりに真っ白い御飯やお魚やリンゴを口にしました。
一年後に主人が帰ってきたのは突然で、何の連絡もありませんでした。
父親の顔に見覚えのない3才の子どもは私の後に隠れました。
お祖母さんだけ独り置いておくわけにいかないので、その後一家揃って仙台へ帰りました。
当座のお金と食糧は準備していましたが、仙台の街は焼け野原でした。
今の若い世代に言いたいことはいっぱいありますが、一言では言いようがないのですが、とにかくもっと頑張って、執着心というか、忍耐力を養ってほしいですね。
私たちの経験からしますと、やはり戦争はいけません。何もかも失ってしまうからです。
平和な世の中が一番ですが……
平和ボケの中の若者は、飽食の中で夢もなく(全員ではないと思いますが)……やはり国を愛する気持ち、それは親、子供、そして近隣の人たちを愛することだと思います。
新聞をにぎわす事件を見聞きするにつけても、家庭教育が大事だと思います。
(取材者のひとこと)
遠く満州のハルビンから帰国されるまでの多事多難な体験をお聞きしながら、それにしても本当に運の良い方だなあ、と感じ入りました。ご本人も先祖様か神様のたすけとしか思えないとのことです。
傍らには当時の乳呑み児、今は隣にお住まいの一家の主婦が、記憶はないながら母と共にした苦労話をじっと聴いておられました。(2004.12.07)
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