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  亀谷 音一 さん  大正3年(1914)生(99才)

  満州事変から4度 中国戦線に従軍した99歳の元 分隊長

 満州事変が始まって3年後の昭和9年に召集され、12月1日現役の歩兵二等兵として第38聯隊留守隊第1中隊へ入営した。
 それから10日も経たぬ12月9日に満州派遣のため宇品港を出発、同月11日釜山港に上陸、朝鮮国境を通過してチチハルの歩兵第38聯隊に編入、そこで半年間の訓練を受けた後、匪賊(ひぞく)討伐のため吉林省へ向かった。
 満州では、匪賊が物を盗りに来るので部落はみな土塀で囲んである。吉林省の山の中に住んでいて馬に乗って部落を荒らしにくるので、殆どそれを討伐する任務やったね。たまに蒙古のほうへも行ったけどね。
 ところで私は、別紙に記録してある通り、入隊した翌年(昭和10年)6月1日付で歩兵一等兵、その年12月19日付で歩兵上等兵に昇級、翌昭和11年6月1日、1年半の勤務を終えて内地帰還のためチチハルを出発、関東州を通過、大連を経て7月5日大阪港に帰着し復員した。(上の写真右は、大東亜戦争にも従軍した亀谷曹長の軍服姿)


(昭和9年の第1回召集より昭和20年最後の内地勤務まで4回にわたる従軍の詳細な記録)

 当時は秋季演習というて、38聯隊や33聯隊が帰休兵を召集して内地で演習したもので、私も復員して2ヵ月ほどで約1ヵ月演習に参加したが、その時が最後で、翌年8月からは支那事変が勃発して、充員召集として歩兵第38聯隊に応召し、第4中隊に編入された。それから北支(那)戦線から中支(那)に移動して昭和12年11月14日から翌年1月24日まで南京攻略に参加、さらに同年5月6日から20日まで徐州会戦に参加、6月中旬には急性胃腸炎により第一野戦病院に入院、8月には歩兵伍長に任ぜられ、のち11月13日天津兵站病院を退院後原隊に復帰、翌昭和14年5月23日以後は安陸戦線に従軍した。
 2回目の召集から丸2年経った昭和14年7月11日復員命令を受けて内地帰還のため揚子江を出発、7月30日宇品港着、同年10月19日に歩兵軍曹に昇格、同年10月20日に召集解除となった。
 当時の階級は、伍長の下に軍曹までが下士官、その下に新しく兵長の位ができて、次は伍長勤務上等兵、普通の上等兵、一等兵、一番下が二等兵になっていた。
 翌昭和15年4月29日、北支戦線での功労(くわしくは後述)により功七級金鵄勲章ならびに勲七等青色桐葉章を賜う。

  
      (今も記念に保存されている金鵄勲章)

 北支の戦闘中の功績によって私は金鵄勲章をもらった。どんな功績があったのかというたら、ちょうど38聯隊が敵と交戦していた時であった。1個中隊には3個小隊あって、その1個小隊の中で、1〜3分隊は小銃分隊、4分隊は小銃と擲弾筒を装備している。短い筒から砲弾が100発ほど炸裂する武器で、背のうの上に乗せて歩ける軽い筒や。5、6分隊は軽機関銃隊で、一度引き金を引いたら30発いっぺんに発射できる。
 つまり1個中隊には3個小隊あって、そのうち1個小隊は予備隊、2、3小隊が第一線で交戦する。1個小隊は6分隊あって、1個分隊はおよそ20名で編成されているのや。私は第3小隊の第6分隊長をしていて、マンよく一番左端にいた。そこにちょうど部落があったので、部落に入って攻撃した。敵は部落の中から銃弾が飛んでくるとは思っていない。そこへ横から攻撃したんでびっくりして、後ろに廻られたら大変と思うたのか一目散に退却した。そうしたら、他の2個小隊が容易に前進できた。その功績で金鵄勲章と賞金千参百円を賜った。ざらに勲章は戴けるものではない。

 敵と撃ち合いするのは命がけやで。一番難儀したのは徐州戦やった。麦畑ばかりで4列で行軍したが道はない。前の人だけは見えるけれども、周りはにこ土で全然見えない。兵隊が飲む水がないのはもちろん、馬に飲ませる水もない。川はないし、井戸も付近にはないけれども、馬の係をしている兵隊がどこかでやっと汲んできた水を馬が飲んでいるのに、こっちが水筒に入れて横取りした。怒られても兵隊も命がけで、水には苦労したものだ。
 中支の南京戦では、城壁に開けた銃眼から撃ってくる。敵弾の中を城壁の手前まで近づくのに苦労した。1ヵ月で到達できるつもりが、ほとんど田んぼで前進が出来ない。近づくにつれて一日100メートルしか前進できん。ゴソゴソ這うて進んでいくと、銃弾がピチュピチュと土煙が上がるので頭を上げることもできない。頭を下げていると、たまに反れた弾があってピューピュー頭の上を飛んでいくのが気味悪い。中には迫撃砲にやられて足の皮だけ残して脚を引きずっていた兵隊もあった。こんな具合で、南京戦では一日100メートルも前進できないくらい苦労した。
 南京占領後に捕虜を虐殺した事件は、人数は別として確かに事実はあったな。白旗立てて降伏してくると、揚子江の岸辺に並べて銃撃したので揚子江の水が血で染まったと、私は現場にいて聞いている。増えつづける大量の捕虜を食べさせる余裕がなかったための処置と聞いたこともある。

 北支の山岳戦で、谷を越えて山頂で撃ち合いしている時、鉄かぶとに敵の銃弾が命中したが、運よく九死に一生を得たのや。というのは、軽機関銃の射手が一番前へ出て、弾薬手は後ろから弾薬を送り出すので安全やけど、下士官で分隊長の私は、射手の右側前方で射撃の方向を指示していたら、正面から飛んできた弾がまともに鉄カブトに命中して、首が腹の中へのめり込んだくらいの衝撃だった。やられたと頭を抱えたら、射手が「手を取ってみなはれ」と言うので手を外したら、あ、大丈夫や、と分かった。まともに当たれば鉄カブトに穴が開いて頭が割れてしまう。角度がちょっと下から当たったので、鉄カブトに穴が開かずに弾がハネたので助かった。鉄カブトはペコンと凹んでしもうていたし。それを内地まで記念に持って帰りたいと思うて持ち歩いていたけれど、ヒビが入ってしもうていたので新品と交換してもらったが、もうちょっとでも下の角度から弾が命中していたら、その場でこの世に居なくなったやろう。
 他の兵隊でも弾にやられたとたん「天皇陛下バンザイ」とは言わへん。やっぱり「オカァちゃん」と叫ぶのや。育ててもろうたのは母親に違いないからな。

 その年(昭和13年)の正月は南京で過ごし、それから徐州戦線に参加した。徐州戦が終わって安陸作戦に向かう途中、黄河の堤防が破壊されて1ヵ月ほど毎日下半身が水に漬かったまま行進したがために、6月13日に急性胃腸炎を発病して第一野戦病院に入院し、さらに天津兵站病院に転院の後満州の旅養病院に転院、その病院を11月13日に退院したが、その前に軍医さんからえらい剣幕で叱られた。私は一日も早く第一線に帰りたかったので、早く病院を出たくてたまらんかった。中には病気が治っても野球して遊んでいる病院ゴロのような兵隊もいたが、私はこんな犬や猫の餌みたいなものばかり食わされている病院は早く退院させてくれと軍医さんに言うたら、そんなに言うのなら出て行けと怒られた。これ幸いと戦場へ行くためにトラックの上へ乗ろうとしても両側から引っ張ってもらっても乗れんくらい力がなかった。
 あっちこっちの兵站(装備品供給所)で靴や剣や銃および軍服・水筒・背のうをそろえて、ようやく12月9日には安陸で原隊に復帰した。その間に体力も回復して治っていた。8月15日に歩兵伍長に昇級の報に接した。とにかく私は、今でも病院と注射が大嫌いや。
 翌昭和14年になって2月から7月まで安陸付近の戦闘ならびに警備についたが、7月11日には復員命令に接し、内地帰還のため揚子江を出発、宇品港に帰着、8月13日に復員した。同年10月19日付で歩兵軍曹に昇格、翌日召集解除となった。

 除隊からちょうど2年を経た昭和16年7月11日、3回目の召集令状を受け取った。大東亜戦争開戦前の緊迫した情勢の中での臨時召集であった。同月15日中部第31部隊補充隊に入隊、24日には釜山港上陸、月末には満州第2640部隊に編入された。
 しかしその年の12月始めに両側上顎窩蓄膿症により孫呉第一陸軍病院に入院、翌昭和17年1月末に治癒退院、昭和18年9月に至り中部第31部隊に転属のため黒河省、朝鮮―満州の国境を通過し、釜山から博多港に上陸して大阪に帰着した。同昭和18年10月6日召集解除になった。

 2年後の昭和20年4月、4回目の召集で護阪第22304部隊に応召。
 同年8月1日陸軍曹長に昇級。その半月後の15日、降伏終戦、9月には最終的に召集解除になった。最後に中国や南方の戦場に参加せずに内地で勤務していたことも運がよかったと言えるやろな。 私が召集を受けて聯隊に入隊するたびに、親しい戦友の顔は少なくなっていき、終いには1個小隊しか編成できんほどしか残っていなかった。それだけたくさんの戦友が戦死したことになるのや。

 昭和9年第1回の召集より昭和20年まで4回にわたり約2年ごとに召集と解除を繰り返した合計7年半の軍隊生活は、軍隊は「運隊」と言われる通り、命運がよかったとしかいえない歴戦の日々やったな。 高齢者になるまでは単車に乗っていて事故に遇うたりしたが、今は仲間と一緒に毎日ほどグランドゴルフなど運動を楽しんでいる。どんなゲームでも参加者はみんな私を99才の最高齢者と知っていて大事にしてくれている。
 支那(今の中国)の戦線に従軍した目的は、まあ言うたら日本の国は狭くて人間が多かったから、一つ支那の国を分捕って日本人を送り込もうという国策やった。そのため満州の他に北支(那)に建国して、日本人を移住させるという厚かましい考えで、そのためにわしらは満州に上陸して中国戦線に従軍したのや。もうこんな戦争の繰り返しは二度としないように願いたいものや。
                                          (2012.10.4 自宅での談話記録)


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