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  N・Yさん 大正15年(1926)生(79才)

  航空廠に徴用された2年間

 特別訓練
 昭和18年11月1日に徴用令により、海軍第11航空廠へ入りました。この第11航空廠は、呉海軍工廠から分かれた広海軍工廠(呉から一山越えた東の広町にあった)が、戦争に航空機が重要となり、広海軍工廠〔広廠と通称された)の飛行機部が独立して航空機専門の工廠として充実して出来たものです。
 広廠と空廠(第11航空廠のこと)の仕事開始の時刻が同じ6時であったので、交通が混雑するし、この時刻に空襲でも受けたら大変ですから、30分ずらしたほどですが、1万人位の従業員がいたのでしょう。
 11月1日に入廠すると、特訓の寮に集められ、1ヵ月間特訓を受けました。係官の牧野少尉が来られ教練や行軍、駆け足などを行い、最後の日は寮から3キロくらい北の「広の大瀧」を見に行き、隊伍を組んで軍歌を唄いつつ行軍して、現地の谷口にかかると瀧がこだまする響きが耳に入って来ました。ここも要塞地帯で海軍の歩哨が立って見張りをしていました。瀧を見上げると絶壁の上から一直線に落下していました。
 この大瀧の脇にも増水期には別に瀧ができると聞きましたが、そこには絶壁の肌がありました。その反対には松林の間からも幾筋もの細い瀧が落ちていました。そして脇には軍専用の電力確保の水力発電所もありましたが、この瀧の上流はどんなになっているか、噂では水源池があると聞きました。
 特訓中、一番辛かったのは点呼の時しぼられたことで、それも吾々一番若かったからです。
 朝は起床ラッパを合図に舎前に整列して点呼です。起床と同時に寝具(毛布)を畳んで舎前に出ますが、皆が出た後で各室を巡回し、畳み方などを検査し、悪いと罰に頬を平手打ちされたり、腕立て伏せ、または駆け足をやらされます。
 寮生活をしていると、叱られるのは平気になり、あまり苦痛とは思わなくなるものです。むしろ面白い位の感情でした。そして不思議なもので、体内時計によって必ず起床ラッパの鳴る直前に計ったように目が覚めるものです。また日々気に掛けていると、毛布を畳む要領も自然と身につくものです。
 特訓中、特に厳しかったのは夜の点呼の後です。部屋の前の寒い廊下で長い長い時間にわたって説教したあげく、何か言い掛かりをつくり制裁を加えられました。
 
 島の養成工場
 能美島の大柿町大君という所に紡績工場がありました。この工場を軍が徴発して養成工場にしたものです。特訓が終わると、ここに送られて3ヵ月間、午前・午後を交互に機械作業と教練をしました。教練は小さい峠を越えた柿の浦という所の小学校の校庭で行い、往復の道中は隊伍を組んで軍歌を唄いながら行軍しました。
 あの頃は食べるおやつなどはない時でしたが、幸い農家で温州ミカンを作っていたので、毎日のように求めてきては同室の人と食べておりました。ミカンの皮が見る見るうちに山積みとなりました。
 作業時間の定時は水曜日で午後4時まで、他の曜日は2時間残業で6時まででした。定時の日には外出して大柿町の周辺を散歩してみると、浜にカマドを立て、広く敷物を拡げてカタイワシを煎って乾かしてありました。外出すると時々兵学校の見習士官が短剣を腰に吊して自転車で2,3人遊びに来ているのに出会いました。大君工員宿舎は木造二階建てで3棟位あり、女工さんの宿舎だったから日本間で畳敷きでした。窓辺は低く、棟と棟の間は広く、その庭は芝生で、中央に桜の大木の並木がありました。一番端の棟は事務所と講堂でした。
 紡績工場によくあった男女の三角関係がもとで2寮の中程の二階の押入れで女性が首吊り自殺をしたと言われ、その室は空っぽで自殺した押入れは戸が開かないよう大きな材木でクギ付けにしてありました。
 私達の次に入る人の用意に寮の大掃除があり、私も行ってみました。そのためか講堂には仏壇が祀られ、霊的な噂も伝えられていました。気持ち悪い所でした。
 能美島は江田島と地続きの島で、兵学校のあった江田島は安芸郡、能美島は佐伯郡です。昔は二つ島だったが人工的に海峡を埋めたのです。今は呉から音戸大橋を渡り、倉橋島を南に行き、早瀬大橋を渡ると、大柿町大君に至ります。
 
 現場配属
 3ヵ月間の養成の課程を終えて元の寮に帰ると、いよいよ現場へ配属です。私は発動機部の第一工場でした。三階建ての二階です、夜勤と昼勤と一週間交替です。午後6時頃は冬になると夕闇に包まれ暗いから、これ幸いと夜勤登廠中に工場のコンクリートの塀に向かって立小便をしていたら交通指導員に見つけられ、昼勤になってわざわざ守衛所へ呼び出されたことがありました。
 工廠の工員養成所の青年科へは週に一回行っていました。ここの教練は主に防具を着けて銃剣術を行い、半分の時間は陸軍少佐の教官の講話が楽しみでした。広湾では毎日のように飛行艇による発着訓練が繰り返し行われていました。
 初めは旋盤でした。この機械の先輩の南野氏が暖かく導いて下さり可愛がって下さいました。橋本組長も、非常に善い人でした。
 夜中には係官がよく巡回をします。
 私はターレットの自動送りをかけて目をつむって機械の前に立っていたら、
「寝るのはまだ早いぞ」
と声がするので驚いて見ると、係官が後ろに立っていました。時々夜中に一人で工廠長が廻られることもあり、通り過ぎた後から廠長だったと噂が広がります。廠長は海軍中将でした。
 組が変わると木坂組となり、小野氏と知り合い得難い親友を得て永年付き合いをさせて頂きました。同君は私と同年輩で養成工あがりで仕事は何でも出来、上手でした。私の作業も度々手伝って下さった。又もう一人一緒に入廠した田辺氏とは同じ機械ターレットを昼と夜の勤務で二人が同じ旋盤を使っていた人で、今でも訪問したりしています。
 この組で昭和20年の元旦を迎えました。この年の早々第二工場へ転勤し、高橋組の仕上げになりましたが、間もなく工場疎開が始まり、約1ヵ月間かかりました。この間何も仕事がなく出勤だけしておりましたが、私たちが一番最後でした。
 江田島の北の切串地区の海辺に近い山裾に掘られた大きなトンネル2本が疎開工場でした。このトンネルは呉工廠の火工部の弾薬庫に使う予定だったものです。
 
 疎開工場
 私は一人大雪の積もった道をトランクを担いで2月11日の紀元節の日に広から呉を電車で終点まで乗り、後は歩いて呉の西の吉浦にあった寮に行きました。寮では一室を空けて待って下さっていました。
 吉浦の町の港から徴用船お江田島丸で毎日江田島北端の切串へ機雷の海を通いました。疎開工場のトンネルがある辺りの浜は、二つ小島という風景の美しい所でした。2本のトンネルの内、1本は出入口が両方にあり、中の空気が替わり易かったのですが、他の一本は入口のみでしたので、中の空気が汚れ、その上4月頃からでしたが代用材の軽金属のジュラルミンの部品の工作に変わり(これは体に悪質)、その影響で多くの人が肺を冒され転地療養になりました。あの頃は食糧増産が奨励されトンネルの上の山を開墾して甘藷栽培をしていたので、組長から、
「中山は百姓の経験があるので畑へ行ってくれ」
と指令され、藷づくりに出て軍港をよく眺めたものです。
 空襲が熾烈を極めてくると、江田島丸も空襲の後などは、帰るため波止場に出て船を待っていても機雷を怖れて迎えに来てくれず、皆腹をすかして腰を下ろして待つこともあり、事実、吉浦の寮にいた頃、寮の窓ガラスが大音響と共に激しく振動したので、
「なんだろうか」
 皆が言い合って心配していると、港の沖で船が機雷に触れたのだとわかりました。私達は毎日40人程、江田島丸に乗って機雷の海を通っているが、機雷に触れたら船もろとも全員が死ぬんだと覚悟を決めていたのが私の心境です。又、工員の疎開も奨励されるようになり、トンネル工場のある切串地区へ疎開せよと言われ、私は学徒動員で同じ組に来ていた吹越君のお宅に決めて依頼していたら、先方様も部屋を空けているからと申されたが、間借りを共にしている友達が島へ行くと何かと不便であるから行くなと止めてくれ、態度を決めかねていた矢先に体調を崩して解用になり、吹越君に申し訳なく存じています。
 
 空 襲
 呉の市街地の空襲は夜でした。焼夷弾を沢山投下され、平地部は焼き尽くされてしまいました。吉浦から東の山の稜線をクッキリと浮かべて空を明々と染めていて、吉浦の町にも3個ほど落ちて発火したが消し止めました。昼になって落下弾を解体し中の燃料を見ると、車のチューブを貼るゴム糊そっくりのもので、最初はこれが燃えているが、やがて家屋などへ移ります。警戒警報が出ると、灯火管制が厳重になり、大屋の奥様が外の道から見られ、
「中山さん光が洩れているよ」
 と注意して下さる。電灯を消しているのに不思議だと考えていると、月の光が窓ガラスに反射していたのです。空襲になって町の防空壕に入れて頂いていたが、トランク一つが全財産で、担いで一緒に退避しました。若い頃だったからか壕に入っていてもあまり恐怖がなかったようです。覚悟していたからかも知れません。
 要塞や工廠や軍港の空襲は昼でした。トンネル工場の中にいて外には出られなかった。しかし軍港は轟音と共にあちらこちらがキラッキラッと光り、水柱も立っていて、ちょうど日露戦争の東郷元帥の戦艦三笠の絵のようでした。
 吾々の工場から一山向こうの谷に小用という町があり、その沖に戦艦が停泊していたので、これに集中攻撃があり、爆弾が投下されましたが、戦艦は座礁し、小用の町へも流れ弾が落ち被害が出ました。
 空襲のあげく本廠の片付けに出動命令が下り、私は行かなかったが何人かが出動しました。酷い被害でした。当時は工廠では三分の一が学徒や女子挺身隊、そして三分の一が工作兵でした。
 防空壕に入っていても入口から明かりが届く部分にいた人は空圧でやられ、左右に分かれた所に退避していた人は助かったようです。
 私が終戦1ヵ月前に本廠に行った時に見たのは、鉄骨で組んで周囲がスレート板等の壁の工場は吹き飛んでしまって、私が最初に配属になった発動機部第一工場は事務所と医務部の2棟のみ残り、それも壁に割れが入っていました。驚くべき惨状でした。
 昭和20年の七月の中頃から体調悪く、体がだるく力が抜けたようなので、組長さんに言って本廠の医務部に診察を受けに軍用船で連れて行って頂いたら、受診結果は徴用解除の診断が出て、皆さんが慰めて下さり、
「家へ帰ってゆっくり静養すればじきに良くなる。元気を出して養生が第一じゃ」
 と元気づけて下さった。
 こうして終戦1ヵ月前に心臓衰弱で解除になって家に帰りました。
 それから後に福山市が空襲を受けました。そうした中に入隊通知書が届き、見ると10月1日広島入隊となっていました。
 幸い終戦になり、村役場より返してくれと取りに来ました。
 私はこの2カ年間、その大部分が航空機エンジン「複列星型18気筒 愛称・誉」部品の製作でした。
 


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