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  芳本 一雄 さん  大正13年(1924)生(88才)

  重爆「飛龍」を操縦して大空へ出撃

 私は19歳で空軍を志願し、昭和18年10月1日、宇都宮陸軍飛行学校へ入校した。2年後に徴兵検査を受けて入営するよりも、先に志願すれば、自分の望み通り大空を飛ぶ夢を叶えることができると思ったからだ。
 入校して半年は、金丸原教育隊で“赤トンボ”とあだ名されていた双翼の練習機で訓練を受けた。私は、赤トンボの他に双発高等練習機にも乗った。
 卒業する時には飛行機の機種を選ぶことになり、戦闘機、偵察機、重爆・軽爆(爆撃機)などに分かれる。私は重爆へ行くことになった。同じ重爆でも大きさは違っているが、後に私は日本で一番大きい四式重爆「飛龍」を操縦して出撃した。
 以下、戦後復員して以来、戦友会関係の記録や雑誌の画像をもとに、前線から前線へ大空を飛んだ2年半の実録を話すことにしよう。

 昭和19年3月、宇都宮飛行学校より浜松第五教育飛行連隊に転属、同年7月には浜松陸軍飛行学校教導飛行隊に転属し、そこで初めて双発機の操縦訓練を受けた。同期生の中には、離着陸の訓練中に失速して墜落死亡した事故も何度か目撃した。
 同年11月には第61戦隊へ転属となった。私は昭和19年10月に少尉に任官した。
 試験を受けても不合格の場合は、操縦見習士官不適格とされる。飛行機を見ただけで怖がったり、操縦席に乗ったとたん震え出したりする者は落第にされて、別の地上勤務などの兵科に廻される。

 以下、参考資料によれば、戦争末期に「特攻」の主戦力となった特別操縦見習士官(略して特操)制度では、昭和18年度の採用数は第1、第2期を合わせて3千名と定められていた。応募者は採用予定の6倍という厳しい競争率であった。その制度の条文には、入営期日より1年6カ月までに訓練を終わると同時に少尉に任官する定めとなっている。
 少年飛行兵も拡充され、昭和18年には年間8千人が教育を受けることになった。その年齢制限は14歳以上17歳未満であったから、戦場に出陣した最年少操縦士は17歳の少年が特攻隊として突入自爆したこととなる。
 特操の教育はさらに厳しく、1年間の飛行訓練の後に戦場へ出撃した。特攻隊として散った最後のクラスは第3期生であった。こうして年間2万名の操縦士を養成する計画は、昭和20年秋には軌道に乗る予定であったが、その拡充が1年遅れたことが、後に特攻作戦を取らざるを得なくなり、多数の犠牲者を出す結果となった。

 昭和20年2月、私の配属部隊は昭南島(今のシンガポール)チャンギー基地へ転進が決定し、浜松を出発、九州の太刀洗飛行場着。翌日台湾へ向かったが、天候不良のため数回にわたり沖縄の手前より引き返した。同月14日も台湾を経由したが途中天候不良のため上海飛行場に着陸、同17日には杭州、21日に広東、25日に海南島から仏印(フランス領インドシナ)のプノンペンを通って27日にようやく昭南島チャンギー飛行場に着陸した。浜松を出発してから目的地まで、悪天候のため約1ヵ月を要した。(当時シンガポールは日本が統治していた。チャンギー飛行場は現在、民間の国際空港になっている)
 
 重爆部隊30機(うち3機は特別攻撃機)の編隊飛行は勇壮なものであったが、その反面、移動には困難を伴った。途中、海南島沖において未帰還機が1機、行方不明となる事故もあった。
 重爆「飛龍」の構造について図面を説明すると、乗員は全部で8人。操縦席に2人(機長と操縦士)、その両側に整備兵が1人ずつ、後方には通信士、砲手1名など4名で、乗員は合計8人となる。
 私はチャンギー基地に駐屯して以降、南方方面の作戦に重爆「飛龍」の操縦桿を握って出撃した。

      
                 (重爆「飛龍」の操縦席)
 例えば昭和20年6月25日未明、ボルネオ島東海岸にあるパリックパパン沖の30数隻からなる敵機動艦隊の攻撃作戦には、わが61戦隊の特攻雷撃隊がチャンギー飛行場を発進し、同日昼頃ジャワ島のスラバヤ飛行場へ前進、夕刻18時に出撃した。その編成は、第一から第四編隊まで各々2機ずつ計8機の他に触接機1機が加わり、合計9機で編成されていた。各機 約1トンの魚雷を搭載していた。私はこの作戦には参加しなかったが、記録によれば壮絶な戦いであったことが理解できる。
 雷撃隊は敵レーダーの補足を避けながら飛行したが、哨戒機に見つかって撃墜された爆撃機もあった。やがて敵艦隊を発見して突撃を開始、編隊を組んだまま高度を下げつつ右に旋回し、海上3mから30mを這うようにして、先陣を争って襲撃した。敵艦隊からの迎撃により燃料タンクから発火し、そのまま機首を下げて敵艦に突入し壮烈な自爆を遂げた友軍機もあった。
 わが軍の被害は、結局9機編隊のうち3機が撃墜され、1機に8人の乗員だから合計24名がこの特攻で戦死したことになる。しかし、この作戦の戦果は大きく、巡洋艦もしくは大型駆逐艦、2万トン級油槽船、掃海艇など多数を撃沈した。肉を切らせて骨を切る覚悟がなければ戦争は出来ない。

 同じ時期の昭和20年6月24日、沖縄の組織的な戦いは司令官や参謀長の自決によって終わり、沖縄周辺の海上には未曾有の敵艦船が集結していた。これらの艦船から台湾を防衛するため、戦争終結直前の昭和20年7月、私たちの第61戦隊は台湾防衛のため嘉義飛行場に転進することになった。保有していた飛行機18機に、搭乗可能な各種乗務員など約350名余と共に出発した。ガソリンや食糧は最後まで確保されていた。私は6月中頃にマラリアで高熱を発したので、病後の体であった。
 当時、第61戦隊の人員は約1千名余あったので、嘉義への転進に洩れた約600名余はチャンギー飛行場に残留となった。
 わが第61戦隊は、シンガポールよりプノンペン(カンボジア)を経由して台湾へ転進した。
 8月15日の終戦直後のこと、広東飛行場に残留していた故障機1機と乗員数人を救出のため、私は戦友とともに広東飛行場に向かった。米軍のP51哨戒機のスキをついて早朝に、残留人員を私たちの2機に分乗させて台湾の嘉義に無事帰還した。
 
 終戦後、中国軍の上陸によって武器を接収されるまで、明治製糖会社の農場(約3町歩)を借り受けて、隊員の一部24名と共に農業で自活した。
 中国軍による重爆機体の引き渡し後、マークを塗り替え、青天白日マークをつけたまま、20年12月頃、数回にわたり嘉義上空で試験飛行したのが操縦桿を握る最後となった。
 翌昭和21年2月、各地に散在して自活している部隊が集結し、2月20日台北より出港、和歌山県田辺港に上陸、復員した。
 兄弟は4人とも軍隊に入隊していたが、長兄は内地勤務、次兄は中国で輜徴兵に、3番目は私、弟は予科練(海軍航空予科練習生)にいたが、幸い4人とも無事復員することができた。


    (双発高等練習機上に立つ若き日の芳本さんの勇姿)

 戦争末期の2年半、20歳前後の若かった頃に重爆の操縦桿を握って東南アジアの空を飛んだ体験は、その後の私にとって何ものにも代え難い思い出になっている。戦地に出れば戦死は覚悟の上だから、先の不安はなくケセラセラの毎日であった。
 戦友の中には、国内から出撃した特攻隊に配属された者もいて、鹿児島の知覧へ行けば涙なしでは帰れない。しかし私の操縦していた重爆は、爆弾を落とすのが目的なので、敵機を見れば闘わずに逃げるが勝ちで、また特攻機と違って大型で高価なので、自爆を目的として出撃することは殆どなかった。
 同期の戦友の中には、戦後に民間航空機の操縦士に転任した者もあったが、私は公務員になって奈良県吉野郡の税務署に勤務し、定年後は大淀町で税理士事務所を自営してきた。 
 2つあった戦友会は、戦後ずっと活動を続けてきたが、他界する会員が過半数になり、最近は機関誌の発行や会合の案内も途絶えて淋しくなった。私自身も家内を2年半前に亡くして今は独り暮らしになった。が、息子夫婦や孫たちが時々帰って来てくれるので、まだまだ元気を出して余生を楽しみたいと思っている。(2011.2.6取材)

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